伊東祐安

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伊東 祐安(いとう すけやす、生年不詳 - 永享6年3月5日1434年4月14日))は日向伊東氏三代当主。伊東祐重の嫡男。六郎。正室は木脇長永の娘。長女は島津久豊の夫人となった。

1378年、氏祐(祐重)の死去に伴い家督を相続。国富庄諸県庄など周辺の掌握に取り組み、日向国で着実に地歩を固めていった。

島津氏の討伐に当たっていた九州探題今川貞世が日向を去ると、島津氏は伊東領への進出を試みるようになる。薩隅を席巻する島津氏と比べ遥かに小身の伊東氏だったが、祐安は島津元久島津久豊の対立を利用するなどして、巧妙にその侵攻を食い止め続けた。

1434年に病没。享年不詳。

祐重・祐安の時代、伊豆における伊東本宗家の所領は、伊東祐持の弟・祐藤によって横領されていた。祐安はこれを取り戻そうと、1393年に書類を用意して訴訟を起こしたが、当時の京都は南北朝合一をめぐる繁劇多忙のさなかで判決は得られず、その後伊東庄は数代を経て幕府に召し上げられ、石堂氏に宛がわれたという。こうして日向に下向した伊東本宗家と伊東庄との関わりは完全に断たれたのである。


伊東 祐安(いとう すけやす、生年不詳 - 元亀3年5月4日1572年6月14日))は戦国時代の武将。伊東祐武の次男。加賀守。

天文2年(1533年)、父・祐武が伊東義祐との家督争いに敗れると義祐の傘下に入った。一門の武将として飫肥攻めで活躍し、天文18年(1549年)の堰ノ尾の戦い、永禄9年(1567年)の耳田の戦いが記録に残っている。

元亀3年(1572年)、飯野城攻めの大将として出陣。伊東軍は緒戦では優勢であったが、兵の疲れが見られ、木崎原に引き上げてきたところを寡兵の島津軍に挟撃され戦況が逆転、伊東方は総崩れになった(木崎原の戦い)。祐安は敗走する伊東兵のしんがりを務めていたが、息子の伊東祐次(源四郎)が戦死したと聞くと、敵の大将・島津義弘を討って仇をとると言って引き返していき、そこで戦死したという。

祐安の子孫

薩摩藩士で伊東加賀守祐安の養子で弟という右衛門を祖とする伊東氏がいる。右衛門も木崎原の戦いで戦死するという。薩摩藩の史料である「旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」に『伊東才蔵家』として右衛門の子孫の略系図が記載されている。右衛門の子の次左衛門(金法師)は佐土原陥落で浪人となったのちに伊集院忠真や島津義弘に仕える。次左衛門の子は島津光久守役の仙右衛門(志磨助)と続き、子孫は幕末の伊東才蔵であるとしている。また、小笠原長生の「元帥伊東祐亨」では仙右衛門(藤五郎)の諱を祐正とし、その娘松井は薩摩藩奥女中で分家し、甥が松井の養子となるが、この子孫が伊東祐麿伊東祐亨兄弟であるという。


なお「本藩人物誌」によると薩摩藩にはもう一家、伊東加賀の次男の平右衛門祐氏の養子伊東駿河祐豊(実は河崎祐長長男)を祖とする伊東氏があるが、こちらの加賀守は六郎左衛門祐国の子であるといい、この加賀守が加賀守祐安を指すかは定かではない。

参考文献

  • 「旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」
  • 小笠原長生「元帥伊東祐亨」