まぬままおま

もういちど愛してのまぬままおまのレビュー・感想・評価

もういちど愛して(1971年製作の映画)
5.0
柵を通り抜ける風。

アラン・ドロンとナタリー・ドロンの元夫婦による共演が公開当時大いに話題になった本作。死んだ妻が夫にもういちど愛されるために生き返ってくるという物語も相まって、かなりゴシップ的な評価がされてきたと思うが、私は作品としてかなり擁護したい。

以下、ネタバレを含みます。

本作で印象的に残るのは、柵のショットである。

夫で神父のシモンと妻のリタが再会する場所は、懺悔室の中であり二人は「柵」で隔たれている。この柵は生死の境と夫婦関係の断絶を表現しているように思える。だから本作の主題となるのは、この柵をどうやって乗り越えられるかである。

シモンはかなり葛藤する。妻が死んだから神父になったのに、妻はなぜだか戻ってくる。さらに妻は別の男とも結婚している。なのにヨリを戻したいといってくる。意味が分からない。でもリタのことを思って、内心に問いかける。司教に相談しに行く。彼女のいる酒場に行って大喧嘩をする。彼は考えを巡らせ、バイクに乗って縦横無尽に駆け巡る。そう柵の乗り越え方とは、風のように颯爽と動き回ることなのだ。

風は柵を通り抜けられる。彼の行動が決定的にいい結果をもたらしたかは、正直分からない。というか、本作はやはりコメディだから大喧嘩のシーンなんてかなり笑ってしまう。しかしシモンの「風」はパイプオルガンの管を破裂させるように強烈で、修道院に行ってしまったリタだって救い出すことができてしまう。この時も、シモンはリタとの間にある柵を力で曲げて、隔たりを飛び越える。それならシモンとリタが再び夫婦関係になれるのは言うまでもないことだ。

ラストシーンで二人は颯爽と修道会を抜け駆ける。さらに他の修道女も(勝手に)引き連れて外を駆け走る。このあまりに開放的な結末に、途中の物語の不出来さが赦されてしまうし、愛もまた柵を乗り越えられるというベタな言説を信じてみたくなってしまうのだ。

追記 宗教とジェンダー
本作では途中、シモンと司祭が「女性に魂が存在するか否か」という議論をする場面がある。それは宗教の歴史があるとは言え、なかなかにアウトな議論だとは思うが、本作をみていると、理性を欠いて葛藤するのはシモンであるし、酒場の男たちはアホみたいに大喧嘩をしており「動物」であることがよく分かる。さらにラストシーンで修道会に侵入したシモンを修道女は「ケダモノ」と言う。だから本作では逆説的に男の方が色欲に溺れ、理性的な判断ができない動物であることがアイロニーを込めて描かれているように思える。