長享の乱 単語

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長享の乱とは、長享元年(1487年)から永正2年(1505年)にかけて、山内上杉氏の上杉顕定関東管領)と扇上杉氏の上杉定正・上杉朝良との間で繰り広げられた戦いである。

ここまでのあらすじ

とりあえず享徳の乱の記事をまずは読んでほしい。

文明14年(1482年)の足利成氏足利義政の都鄙間和でついに30年近くにわたる享徳の乱が終結した。しかし関東方としてついに認められた足利成氏関東全体にその権力を行使できる存在ではなく、古河を中心とした一政治権力へと変容してしまった。ただし、方としての権威は高く、関東の諸勢力にはいまだに無視できない存在だったのである。

一方関東管領だった山内上杉氏も、乱の最中で山内上杉忠、山内上杉房顕といった当を若くして失い、さらに乱の途中で臣の長尾景春が反乱を起こしたため、その権力基盤は大きく揺らいでいたのである。

その一方でそれまで傍流に甘んじてきた扇上杉氏は太田道灌の活躍もあり大きく躍進した。ところが、である。文明18年(1486年)7月26日に扇上杉定正は太田道灌に対して、上下、つまり誅殺を実行したのだ、をしのぐほどの太田道灌の飛躍ぶりを警したともいわれているが、理由は今のところはっきりしない。ところがこれがまずかったのである。

両上杉氏の争い

太田道灌の非業の死は関東の諸将に衝撃を与えた。そしてその機を逃さなかったのは、傍流である扇上杉氏の台頭を苦々しく思っていた、嫡流の山内上杉顕定であった。彼は太田道灌の遺児の太田資康が助けをめて鉢形にやってきたこともあり、扇上杉定正との対決姿勢に踏み切ったのである。越後守護である上杉房定の名代である実上杉と協力し、上野武士たちを味方につけていく。

一方扇上杉定正はこの姿勢に当然対抗。足利成氏支援を受けることに成功したのである。そしてその援軍にはかつて上杉氏に謀反を仕掛けた長尾景春もいた。

そして長享元年(1487年)11月白井上杉が勧農長尾房清を攻撃。いよいよ戦闘に移る。これが長享の乱の始まりであった。

長享2年(1488年)には実原、須賀原、高見原と各地で戦が繰り広げられていったが、扇上杉氏に足利成氏息子足利政氏が味方していたにもかかわらず、戦線は着状態へと移っていった。しかし、かつての享徳の乱と同様、両営の対立とは別の場所から着状態を打ち消す存在が現れてしまったのだ。

そう、北条早雲こと伊勢盛時である。

明応の政変と伊勢盛時の伊豆侵攻

長享3年(1489年)、かつての応仁の乱は何だったのかと思うくらい、時の将軍足利義尚は25歳若さであっけなく亡くなった。彼は京都から離れていった守護に代えて、奉公衆の側近たちを重用することで幕府の再建を図っていったが、それもすべて白紙に戻ったのである。

この後継者選びに二人の人物が選ばれた。かつて足利義政の後継者補とされ今出川殿と呼ばれた足利義視息子足利義材伊豆拠点とした堀越足利政知息子・香厳院清(のちの足利義澄)、つまり足利義尚のいとこたちである。

細川政元はこの事態に清将軍位につけようとしたが、結局日野富子支援もあり、足利義材将軍位についた。しかし日野富子足利義視足利義材子とは次第に険悪な状態となり、また将軍征で権威の回復をもくろみ、各地の不穏分子を守護とともに征伐を繰り返す足利義材への反発ムードが守護に漂ってきていたのであった。

さらにお家騒動関東でも起こる。自分の息子・清将軍になれなかったの悲嘆したまま足利政知が死。当初後継者補であった息子の潤童子とその・円満院殿を異茶々丸が殺したのである。この後も堀越の内紛は止まらず、「豆州騒動」と呼ばれる混乱が続いていった。

その結果この二つの案件一気に解決する方策が京都を中心に巻き起こされた。明応2年(1493年)の明応の政変である。畠山を討伐するために河内将軍征が行われているさなか、細川政元日野富子伊勢貞宗らによって京都で清将軍位につけるクーデターが起こされ、足利義澄が擁立。諸大名や奉公衆の大半は足利義材から離反し、義材側の畠山政長自害。義材は閉されたのであった。

そして新将軍の同とそのを討ち取った足利茶々丸の立場は非常に悪くなる。そこに隣駿河の守護・今川氏親の客将であった伊勢盛時が侵攻。彼らは足利義澄であったのだ。そして長い戦いの末茶々丸は討ち取られるのだが、その間山内上杉氏に茶々丸は協力をめる。この結果今川伊勢氏は扇上杉氏方につき、ついに小康状態が打ち破られる。

扇谷上杉定正の死と山内上杉顕定の勝利

伊勢盛時、もとい出した伊勢宗瑞は扇上杉氏方として長享の乱に参戦。山内上杉氏と扇上杉氏の戦いが再燃するのである。明応3年(1494年)には関戸玉縄で合戦が繰り広げられ、伊豆を制圧した伊勢宗瑞も出し、扇上杉定正の軍勢と合流した。扇上杉定正と山内上杉顕定荒川を挟んで布したのである。

ところが10月3日、意外な事態が発生する。扇上杉定正が落して亡くなってしまったのである。この跡を甥の扇上杉朝良が受け継いだ。しかし扇上杉軍・今川軍・伊勢軍は撤退。決着をつけることはなかったのであった。

さらに不幸は続く。これまで扇上杉氏を支援してきた方の足利成氏足利政氏子が山内上杉氏についたのだ。この結果、明応5年(1496年)に山内上杉軍は相模に侵攻。小田原城を開させる。さらに明応6年(1497年)に山内上杉軍は河越城を攻撃。これに足利成氏も加わった。この戦いは決着がつかなかったものの、明応7年(1498年)についに足利成氏が亡くなる。戦いに明け暮れた人生だった。

3年(1503年)に山内上杉顕定足利政氏と再度河越城を攻める。そして永正元年(1504年)に扇上杉朝良今川氏親伊勢宗瑞らが出多摩川をはさんで対峙した。この戦いは扇上杉方が勝利したものの、越後守護・上杉、越後守護代・長尾の援軍が山内上杉方に合流。今川伊勢軍が帰してしまっており、扇上杉方は劣勢に立つ。

こうしていよいよ永正2年(1505年)2月に扇上杉朝良は降。甥の扇上杉督を譲ることとなった。こうして長享の乱は終結したのであった。

その後…

長享の乱は山内上杉顕定足利政氏方の勝利で終結した。ところが永享の乱以来長引く戦乱が各地の大名混乱を招いており、方・関東管領ともにこ混乱とは縁でなかったのである。

さらに不幸は続く。越後で長尾為景下克上が起き、守護・上杉自害。かたき討ちに向かった山内上杉顕定も戦死してしまったのである。この結果方・関東管領・各地の大名で同時多発的にお家騒動が生じる永正の乱が生じ、さらに南からは伊勢宗瑞北条氏綱の介入も引き続き行われていく。こうして関東は戦乱がやまなくなっていくのだが、それは別の物語である。

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