斎藤利三(さいとう・としみつ 1534 ~ 1582)とは、日本の戦国武将である。明智光秀の家臣。のちに徳川家光の乳母となった春日局は娘。
美濃斎藤氏の出自だが、若き日については諸説ありよく分からない。織田信長が美濃を制圧する頃、稲葉一鉄の家臣となったが、やがて明智光秀に仕官先を変える。以後は家老として光秀を支えた。通称は内蔵助。
義妹は長宗我部元親の正室。この縁もあって、光秀は長宗我部家との取次役を担当していた。やがて四国情勢の変化から織田家と長宗我部家は敵対関係となり四国征伐が計画されるが、これを本能寺の一因と推測する向きもある。
利三自身が謀反に積極的だったのか反対だったのかは意見が分かれるが、光秀に従い本能寺の変に加担。その後、山崎の戦いで明智軍の先鋒を務めたが、敗れて捕縛され、六条河原で処刑された。
美濃斎藤氏は元々土岐氏に仕える美濃守護代だったが、下剋上で家中の実権を握っていた。が、そこを更に下剋上されて斎藤道三によって乗っ取られてしまう。利三はこの乗っ取られた側の斎藤氏の一族である。
ただ、この斎藤氏の家系図がひどく混乱していて、よく分からない部分も多い。
父は斎藤利賢(としかた)。この人の母(つまり利三の祖母)は稲葉氏の出身。利賢の最初の妻は幕府重臣・蜷川親世[1]の姉妹であったが、後に理由あって離縁し、明智光継(光秀祖父)の娘が後妻となった。利三の母がどちらなのかは意見が分かれる。ともかく、稲葉氏や明智氏とは親戚関係にあった。
父の前妻・蜷川氏はその後、幕臣・石谷光政と再婚して、娘を二人産んだ。姉の方は利三の兄・石谷頼辰を婿養子とする形で結婚。妹の方は長宗我部元親の正室となった。こうして石谷氏を経由する形ではあるが長宗我部氏とも義兄弟関係となる。
父が蜷川夫人と離縁した経緯はよく分からないが、蜷川親世の子を養子(利三の義兄弟)[2]に迎えていたりするので、子に恵まれなかったのか政略的な都合か。とりあえず斎藤家と蜷川家の友好関係はその後も続いていて、利三の妹が蜷川親長の妻になっている。(こうして生まれた縁を頼って、石谷頼辰も蜷川親長も後々長宗我部氏の下へ亡命していく)
いろいろややこしいが、美濃の有力層(斎藤・明智・稲葉)だけでなく、幕臣(蜷川・石谷)とも父の代から関係を持っている人物である。
利三自身も、稲葉一鉄の娘(安)を妻とした。二人の間に生まれた子の中に、福…のちの春日局がいる。
織田信長とは同い年である。
利三や明智光秀の若き日の動向については諸説あるが、当初は幕府の奉公衆だったとも言われる。利三が生まれた頃の美濃は土岐氏も斎藤氏も分裂抗争にあけくれており、没落・逃亡の憂き目にあう者も多くいた。父の婚姻関係などから見るに、そうした事情で京都に流れ、初め幕府に仕えた後、美濃が落ち着いてきたところで戻ってきたのかもしれない。
少なくとも斎藤義龍が当主の頃(1556~1561)には美濃にいた。義龍の死後、一鉄たち西美濃三人衆は織田信長の調略に応じて寝返るが、利三もこれに従って一鉄の家臣となった。一鉄の娘と結婚したのもこの頃だろうか。
だが一鉄との関係は上手くいかず、1570年に出奔し、明智光秀の下に転身した。「有能な利三に目をかけた光秀が引き抜いた」と説明されることもあるが、実際には親戚関係にあった光秀の庇護を求めて自分から駆け込んだようだ。
この後は光秀の家老となって各地を転戦。室町幕府滅亡後は兄・石谷頼辰も光秀家臣に加わった。1579年の丹波平定後には黒井城主に任命される(かつての赤井直正の居城)。この年、娘・福(春日局)が誕生。
1582年、光秀は突如として信長に反旗を翻し、本能寺の変を起こす。光秀が「敵は本能寺にあり!」と謀反を公にするより前に、極秘に計画を打ち明けられていた重臣数名の中に利三もいた。
この背景に、利三・石谷頼辰を介した長宗我部氏との関係維持に腐心する光秀と、三好氏と和睦し長宗我部氏との対立に転じた信長の、四国対策に関する意見の相違があるのではないか、という研究も進められているが、細かい部分は割愛。
変の直後は近江・佐和山城に入って北・東の抑えを任されたが、逆に西から怒涛の勢いで羽柴秀吉が戻ってきたことで事態は一転、明智軍は山崎の戦いで大敗北を喫する。利三は明智軍の先鋒を務めたが敗走し、4日後に近江・堅田に潜んでいたところを捕縛され、六条河原で斬首された。49歳。
辞世の句
消えてゆく 露のいのちは 短夜の あすをも待たず 日の岡の峰
風流な一面もあり、絵師・海北友松(海北綱親の子)と親しかった。友松は利三の遺児たちを保護していたといわれる。
この後、家族たちはそれぞれ数奇な運命をたどる。父・利賢の晩年は不明だが、利三の死の時点ではまだ存命で、1586年に死去した。
兄・石谷頼辰は生き延び、義妹の嫁いだ長宗我部家へと逃れた。以降は長宗我部家臣となったが戸次川の戦いで甥・長宗我部信親と共に討死した。
三男・斎藤利宗も山崎の戦いに参加したが、降伏・出家したため許された。やがて加藤清正の家臣となり、加藤十六将のひとりに数えられている。清正死後は加藤家を出奔するが、春日局の口利きもあって江戸幕府旗本となった。(1567~1647)
五男・斎藤三存は本能寺の時点ではまだ幼児だった。その後、春日局の夫・稲葉正成が仕えていた小早川秀秋の家臣になる。彼も後に旗本に取り立てられた。(1580~1625)
そして娘・福は稲葉家に引き取られて養女となり、やがて稲葉正成と結婚。1604年に正成と離縁して徳川家光の乳母となると、のち『春日局』の号を賜り、江戸城大奥の最大実力者に上り詰めた。
作品によっては彼の存在も本能寺の変イベントの条件だったりする。能力的にはそこそこの武官。最近は知略も良くなってきた。本能寺明智プレイでは数少ないまともな能力の家臣となる。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S2) | 戦闘 | 80 | 政治 | 44 | 魅力 | 59 | 野望 | 42 | ||||||||
武将風雲録(S3) | 戦闘 | 74 | 政治 | 75 | 魅力 | 70 | 野望 | 66 | 教養 | 63 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 72 | 戦闘 | 76 | 智謀 | 41 | 政治 | 44 | 野望 | 69 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 142(A) | 智才 | 86(B) | 政才 | 64(C) | 魅力 | 62 | 野望 | 69 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 69 | 智謀 | 53 | 政治 | 40 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 62 | 戦闘 | 64 | 智謀 | 48 | 政治 | 33 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 62 | 智謀 | 40 | 政治 | 28 | 野望 | 44 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 65 | 知略 | 70 | 政治 | 32 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 65 | 知略 | 67 | 政治 | 33 | 教養 | 39 | ||||||||
革新 | 統率 | 76 | 武勇 | 77 | 知略 | 73 | 政治 | 37 | ||||||||
天道 | 統率 | 79 | 武勇 | 68 | 知略 | 74 | 政治 | 47 | ||||||||
創造 | 統率 | 79 | 武勇 | 76 | 知略 | 73 | 政治 | 50 | ||||||||
戦国立志伝 | 統率 | 79 | 武勇 | 76 | 知略 | 73 | 政治 | 50 | ||||||||
大志 | 統率 | 81 | 武勇 | 78 | 知略 | 86 | 内政 | 50 | 外政 | 61 |
掲示板
5 ななしのよっしん
2023/06/19(月) 21:12:52 ID: yMYPK5tj5O
本能寺で光秀に計画打ち明けられる重臣(というか一番有名だろう配下)として出てくるから古参だと思いがちだけど数年しか経ってない新参なのよね
6 ななしのよっしん
2023/07/07(金) 17:38:37 ID: LCG16Una0w
明智家でもそうだが美濃斎藤家の中でもかなり有能な存在なんだけど、
なぜかやたらと討ち死にするからあまり登用できないんだよなあ。
寿命が病死設定じゃないから死亡しやすいのかねえ。
7 ななしのよっしん
2024/08/22(木) 17:35:38 ID: 7EJ4lq7oVS
元々美濃衆の中でも良い所の出だし人脈も凄いしな
あと丹波平定後から光秀は信長側近としての仕事が更に増えたので、丹波支配は斎藤や三宅にほとんど丸投げだったかもしれない
山崎合戦で負けるまで明智軍が理社んしゃを出さず1万越えを維持できたのは、丹波の新領主になった利三や三宅たちが丹波衆を上手く統制したということかもしれん
逆に利三の明智家中での発言力や影響力は極めて大きいものだった?
山科が謀反の首謀として利三の名を記したのは、当時都ではそういう噂が流れていて、都人がそう考えるほど利三は別格の存在だった?
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最終更新:2025/01/02(木) 15:00
最終更新:2025/01/02(木) 14:00
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