初陣とは、
本稿では、1について解説する。
特に日本における幕末以前の合戦に武士階級の者が初めて参加することを指す。
転じて野球日本代表(侍ジャパン)に所属する選手や監督がチームの一員として初めて試合に参加する場合など、スポーツ競技でも用いられる表現である。また、2018年には、ミュージカル『刀剣乱舞』に出演するユニット『刀剣男士』がNHK紅白歌合戦に初めて出場することを報道するニュースでも同様の表現がみられた。その他、未経験の事柄に初挑戦すること全般に用いられる表現である。
北海道テレビ制作のバラエティ番組『水曜どうでしょう』では、リヤカーで喜界島を一周する企画の際、出演者の大泉洋が「常に初陣」の心意気だと力強い言葉を吐いたことがある。
本来の意味の初陣としては、一般的に元服前後の年齢で経験することが多く、その多くは敵軍よりも圧倒的な兵力を持っているときなど楽勝とみられる合戦でのことであるが、いわゆる河越夜戦で山内上杉家、扇谷上杉家、足利古河公方の連合軍側として初陣を飾った小田氏治のようにまさかの大敗北を経験した例もある。
長宗我部元親、石田三成、島津義久は数え年で22歳という遅い年齢で初陣を飾ったとされている。元親の初陣が遅れた原因としては、若い頃は「姫若子」と呼ばれるほど華奢で病弱であったためだと言われている。初陣となる永禄3年(1560年)の長浜の戦いでは槍の扱いすらも知らず家臣の秦泉寺豊後に扱い方を訊ねたと言われるが、敵となる2500の本山軍に対し1000の長宗我部軍という不利な状況下で自ら先頭に立って槍を振るい、見事勝利を収めたことから「土佐の出来人」「鬼若子」などと称賛されることとなったとされる。
また、天文11年(1543年)に生まれた、のちの天下人・徳川家康も初陣を飾ったのは永禄元年(1558年)のことであり、年齢的には遅い方であった。逆に初陣が早かった例としては毛利元就の次男である吉川元春がいるが、数え年で11歳という元服前のことであった。生年に諸説あるが、幼年で当主となり合戦に参加した例としては、数え年で5歳で七尾城に籠城したとされる畠山春王丸がいる。
織田信長の初陣の場合は数え年で14歳の頃、吉良大浜の戦いで当時敵対していた今川方の館を焼いたとされる程度で大きな戦闘があったと思わせる文献がなく、翌日には那古野城に帰陣しているためセレモニー的な出陣だったとも言われるが、老臣の反対を押し切り800の手勢で2、3000の敵勢に奇襲を仕掛けたとして評価する向きもある。
本多忠勝は信長と今川義元による桶狭間の戦いの前哨戦として松平元康(のちの徳川家康)に従い、大高城の兵糧入れにて初陣を飾った。その翌年の鳥屋根城攻めのこととなるが、叔父の忠真が忠勝に武功をあげさせるために敵を押さえつけ首を取らせようとしたとき、忠勝は「何故人の力を借りて武功をあげなければならないのか」とこれを拒否すると自ら敵陣で奮戦し首をあげた。
一方で、立花宗茂は初陣にて敵を組み伏せる活躍を見せたが、自分の武功として誇ることはなく家臣に手柄を譲ってしまったという。のちにふたりは「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と謳われる名将となるが、忠勝の実直さと、宗茂の人柄の良さがそれぞれ若い頃から備わっていたことがうかがえる逸話である。
徳川家康・秀忠父子が大坂の陣にて豊臣家を滅ぼすと泰平の時代を迎えたが、寛永14年(1637年)には島原・天草一揆(島原の乱)が勃発し、幕府軍は22年ぶりの大戦に挑むこととなったが、立花宗茂、水野勝成などの大将格を除けば、当然この戦が初陣であるという兵士も多かった。
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最終更新:2024/12/23(月) 00:00
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