さて、GIS NEXTの記事中には、「名古屋の人は(Googleの地図ではなくて)名古屋に本社のあるこの会社の地図を見慣れている」という趣旨のコメントが書かれてあった。確かにその通りである。84年7月に東海地方で発売された地図帳は、情報量の多さと色彩の斬新さで地図としては異例のベストセラーとなり、クルマ社会の名古屋を支える必需品と呼んで良いほどの普及を見た。今、昭文社の地図で普通に目にする色づかいは、実はこの時の色づかいの模倣である。そのオリジナルの色づかいはどの様にして出来上がったのか、その過程を知っている人は、もうその会社にはほとんどいないのではないだろうか。
当時の地図作りは手作業であり、情報表現の豊かさを求めようにも、製版作業の繁雑さと作業コストの限界があり、コンピュータ化は時代の要請であった。PC9801から始まった手探りのシステム化がその会社の将来を変えていった。当時はPC画面上に線を引くような1つ1つのライブラリ自体を書いていかなければならないような時代で、今から思えば、よく商品発売までこぎ着けられたと思う。とは言え、当初見込みよりも倍以上の歳月がかかり、当時の社長が「(借金が増えるばかりで)夜も眠れない...」とよくぼやいていたのを思い出す。その当時私は、”何をそんなことで眠れないのだろうか”とよくわからなかったのだが、今その立場になって、眠れない夜にしみじみと思う。事業経営者とは、かくもしんどいものなのかと...
完全にデジタル化された地図帳が商品化されたのは、忘れもしない90年9月7日である。そしてその日から、会社は「名古屋ご当地」から、全国展開への一歩を踏み出した。デジタル化は地図表現の多様さを実現し、手作業から解放され、コストや工期面でのメリットも計り知れなかった。私はそこでも印刷会社に色味の立ち会いに出かけたり、広告宣伝の企画を練ったり、関西地区の書店を回って商品導入の依頼をしたり、とにかく一所懸命だった。関西での成果を持って、今度は東京進出のプロジェクトが始まり、94年にそれが実現した。
当時、地図といえば、出版物くらいしかリアルなマーケットはなく、まだカーナビは一部の限られた企業が参入している”ニッチ”だった。私にとっても、どれだけ実用性あふれる魅力的な地図帳を市場に投入するかが最大の課題だった。一方、趣味でPCを組み立てたりしているうちに、この地図をPCで扱えるようになったら、全然違った可能性が開けるのでは、と自然に思うようになった。ただ、CD-ROMドライブ自体が珍しい時代でもあり、市場としてどのくらい期待して良いのか、誰も期待はすれども見当がつかない状況だった。そんな時代に電子地図プロジェクトをやらせてくれた当時の社長の器の大きさを今になって思う。(きっとさらに眠れなくなったのだろう)
あれから十数年が経った。
当時その会社を支えた企業、人材は大幅に入れ替わった。そして事業内容も様変わりした。出版分野は地元の名古屋以外からは撤退し、自社コンテンツの比重はどんどん低下し、地図サービス事業を主として行っていて、もはや「地図会社」の範疇には入らなくなりつつある。
例を挙げよう。既にお気づきの人も多いと思うが、Yahooの地図のうち、少なくとも詳細図はGoogleマップと同一である。つまり、ゼンリンはGoogleにもYahooにも地図を提供している。そして色だけをYahoo調に変えているだけである。また、情報量にこだわっていた昔の勤務先とは違い、地物情報が妙にスカスカしている。
面白いことに、色づかいだけがその時代のままである(逆にそれ以外は全部替わってしまっている)。事業としてみた場合、その会社が今に残せる資産は地図のデザインだけだったのか.... しかし、その唯一かもしれないデザイン資産も、これほどまでに「GoogleMaps調」が普及してしまうと、その色にしないと、ネットではかえって不利になる。おそらく、早晩に色調も「パッと見Google」になっていくだろう(名古屋の人にはそれには抵抗があるだろうが)。となると、一体何が残されるのか?何もないではないか。
地図がインターネットのコモディティ(日用品)になる時代は、ポータルサイトにおいては、地図自体でこれ以上差別化しても余り意味が無い。そうすると日本には地図コンテンツを自力で提供できる企業はせいぜいゼンリンと、カーナビ市場に基盤を置くもう1社くらいに絞られ、出版系をルーツにする会社はネットではたぶん生き残れないだろう。
十数年前、地図のデジタル化による夢の実現に心湧き躍った結果が、こんな感じに結末を迎えつつあるのは残念だ。”地図=Googleマップ”と思っている人が徐々にまわりに増える一方で、地図業界に身を置いた者としては正直面白いわけがない。
ただ、私は少なくとも99年には「地図コンテンツだけではそのうちに行き詰まる」と気がついていていた。だから違うアプローチをする立ち位置に変わった。そして、紆余曲折があって今の会社を始めた。自分で会社をやるというのは、自由さも手にはいるが、それ以上に自由にやれる範囲が少ないのだ、ということを思い知る。特に、日本ではスタートアップフェーズの企業への直接金融システムが発達していないので、良い技術やアイデアがあっても、日銭を稼げないことにはサバイバルできない。一方で、同じことをやっていても、大企業の関連会社や事業部門ならば、何年も実態が赤字となっていても支援がされたりする。そんな事始めからわかっているよ、という人も多いはずだが、実際にこの立場になってみないと、それはしみじみとはわからない。今にして反省する、あの社長の気持ちをこれっぽちもわかろうとしなかった自分の恥ずかしさを。