最近、ある会に行くのをもう止めることに決めた。
そこの代表に、みんなといっしょに生きるようにと説教されたのがきっかけだった。とても悲しくて泣き崩れてしまった。おまけに、「人は一人では生きてゆけない。だから地域に密着しろ。弱者ならそうしろ。」と、イヤガラセとも脅しともとれる意味不明の言辞を吐かれた。さらに、地域や仲間はいらないと言っている人を雇う企業はないとも言われた。
その後、帰宅して2日ほど虚脱状態が続いた。その人の言葉の毒が体中にまわったのだと思う。食欲もうせ、吐き気がおさまらず、夜もよく眠れない。
どうして、それほど地域に密着しなければならないのだろう。そのうち、江戸時代のように、町に木戸が作られ、有事の際には閉じられるようにされるのだろうか。その人の言う抵抗とやらのために。憲法22条の移動する自由は保障されなくてもいいのだろうか。
わたしには定着はできない相談だ。いつ・どこに仕事があるのかわからないフリーターは、大阪だろうが東京だろうが、仕事があれば稼ぎにいくほかない。また、そうしたい。それを通じて見聞を広めたいという願いもある。それの何が悪いのか。
彼は漂流することがいけないのだと言う。
かたや、わたしは違うと思う。漂流は必ずしも悪ではない。漂流しても排除されなければいい。
仲間というものに、これまでわたしたちは縛られてきた。選べない人づきあいは、いじめ・いやがらせの温床だ。そうでなくとも社交を嫌いにさせられる。
常に自由に移動できる可能性に向かって開かれていることによって、人は世間知らずにならない。視野を広め、いろいろな人々とのつきあいが寛容の精神をつちかう。互いに違ったバックグラウンドを認め合い、上手につきあう術を向上させてくれる。ひどいいじめの地域から脱出して、別の街で人生をやり直す機会を提供してくれる。その移動の自由を、抵抗のためにつぶさねばならないとしたら、とてもついてゆかれない。
一人では人は生きてゆかれない。人間が有性生殖を行い、群れを作る生き物である以上、当然だ。他者を他の動植物や地球という惑星にも広めれば、なおさら当たり前だ。そんな当然の前提をなぜ再確認する必要があるのだろう。
確認しておこう。地域から地域へと移るからといって、他人や他の生き物や環境と切れているわけではない。むしろ、いろいろな地域とそのつど関係を作りながら生きてゆくのだ。土地の水があうこともあればあわないこともあるだろう。そうするうちに自分が何にあうのかあわないのか分かってくる。人間の一生は関係と学習だとも言える。
関係があるからこそ、水のあわない土地には長居しないほうがいい。肌合いの悪い人や組織とは縁を切ったほうがいい。苦痛な人間関係ならやめたほうがいい。一度や二度の移動では自分にあった地域がみつからないのなら、さまざまな地域をまわってみるほかない。
組合の仲間主義または共同体主義に生理的嫌悪感があることが、どうしてそれほどいけないことなのか。正社員中心主義、男性中心主義という偏狭な共同体主義によって、数多の労働法無視が起こり、明確に違法とはいえないいやがらせも発生してきた。それが嫌でも何も悪くない。
人は一人では生きてゆけない。だからこそ、ちゃんとつきあえる人がいる別の土地に渡ってゆく必要がある場合もある。それをつぶすのは、やはり憲法22条への蔑視だろう。
そうした論理では、地元の慣習によって横暴をふるう地域ボスに抵抗できるわけがない。地元の人たちがしがらみによって反対できない無謀な開発計画に外部から反対できるわけがない。
オンライン上のコミュニティは、リアル世界のコミュニティよりも劣っていると彼は言った。ばかばかしい。というのは、両者はつながっているからだ。オンラインがリアル世界での絆を深め、オンラインはオフラインのつながりを生み出すこともある。
顔をあわせる地域が大事だとその人は言った。ならば、徒歩か自転車で移動できる範囲に生活を閉じ込めざるをえない。交通費の工面もむつかしい貧乏人にとってはそういうことになる。ムリだ。できっこない。
「人は一人では生きられない」この殺し文句によって、心中という名の殺人も、ストーカーも正当化できる。ひどいいじめがあっても転校や登校拒否や転職や引越しによって逃れることもだ。人権意識を疑う。
そもそも、顔をあわせなければならないのなら、印刷技術によってつながれた国家とか国連といったものも無視することになる。しかし、憲法、労働基準法、ILOの条約などをまったく使わないで市場原理主義に抵抗することは困難ではないのか。
その方は会のキーパーソンらしい。明確なルールはなくとも、今後そこの会のイベント等に出入りするのなら、当然従わねばならないだろう。何よりも、フリーターとしての自分の生き方、自分が志向しながらも共同体主義によって阻まれてきた学習や人生のルートをばかにしている。フリーターという存在も、いまどきの若者も彼は下に見ているのだ。
だったら、もうやめよう。死にたいほどつらい地域。とても理解できない密着。暑苦しいプレッシャーをかけてくる仲間。特に、仲間以外の存在も権利もいっさい認めない排除の機動力としての仲間主義。
もしもわたしが所属するコミュニティがあるとしても、それはもっと世界に開かれていたり、定着を正義のように押し売りしたりしないところだ。定着しろとする圧力こそが、不幸の元だ。幸福になるために抵抗をはじめたのに、抵抗のために不幸になるのだとしたら、本末転倒だ。
わたしはこれまで少なくとも1万社を面接のためにまわった。80社以上で働いた。そこに顔をあわせる関係がないと言いたいのなら言っていればいい。そんな言説には客観性のかけらもないのだから。
「コミュニタリアンの社会は息苦しく、神聖政治もしくはナショナリストの独裁政治に変容する可能性がある。 --アラン・トゥレーヌ」
抵抗運動を地域ナショナリズムの枠内に閉じ込める必要はない。その人の指示とはうらはらに、わたしが大阪という街に定着しない権利はあるし、実際にしていない。
地域で痛い目にあったものにとっては、地域から地域へと移動している間だけが自由で安全だ。あるいは、いつかそういう地域に行くと考えるだけで自殺を回避できる。そのルートをふせぐ地域密着主義には賛成できない。
わたしは地域よりも定着よりも自分の命と人権のほうが何倍も大事だ。息苦しくないこと、独裁的な地域ボスに自分の人生を売り渡さないこと。そちらのほうがより重要だ。
経済的にも精神的にも、地域からの自由を手放す気はない。
もちろん、定着する人はすればいい。そういう役割も世の中には必要だ。ただし、移動を選ぶ自由だって尊重されてしかるべきだ。
それが尊重されない会だからこそ、やめる決心がついた。
そこの代表に、みんなといっしょに生きるようにと説教されたのがきっかけだった。とても悲しくて泣き崩れてしまった。おまけに、「人は一人では生きてゆけない。だから地域に密着しろ。弱者ならそうしろ。」と、イヤガラセとも脅しともとれる意味不明の言辞を吐かれた。さらに、地域や仲間はいらないと言っている人を雇う企業はないとも言われた。
その後、帰宅して2日ほど虚脱状態が続いた。その人の言葉の毒が体中にまわったのだと思う。食欲もうせ、吐き気がおさまらず、夜もよく眠れない。
どうして、それほど地域に密着しなければならないのだろう。そのうち、江戸時代のように、町に木戸が作られ、有事の際には閉じられるようにされるのだろうか。その人の言う抵抗とやらのために。憲法22条の移動する自由は保障されなくてもいいのだろうか。
わたしには定着はできない相談だ。いつ・どこに仕事があるのかわからないフリーターは、大阪だろうが東京だろうが、仕事があれば稼ぎにいくほかない。また、そうしたい。それを通じて見聞を広めたいという願いもある。それの何が悪いのか。
彼は漂流することがいけないのだと言う。
かたや、わたしは違うと思う。漂流は必ずしも悪ではない。漂流しても排除されなければいい。
仲間というものに、これまでわたしたちは縛られてきた。選べない人づきあいは、いじめ・いやがらせの温床だ。そうでなくとも社交を嫌いにさせられる。
常に自由に移動できる可能性に向かって開かれていることによって、人は世間知らずにならない。視野を広め、いろいろな人々とのつきあいが寛容の精神をつちかう。互いに違ったバックグラウンドを認め合い、上手につきあう術を向上させてくれる。ひどいいじめの地域から脱出して、別の街で人生をやり直す機会を提供してくれる。その移動の自由を、抵抗のためにつぶさねばならないとしたら、とてもついてゆかれない。
一人では人は生きてゆかれない。人間が有性生殖を行い、群れを作る生き物である以上、当然だ。他者を他の動植物や地球という惑星にも広めれば、なおさら当たり前だ。そんな当然の前提をなぜ再確認する必要があるのだろう。
確認しておこう。地域から地域へと移るからといって、他人や他の生き物や環境と切れているわけではない。むしろ、いろいろな地域とそのつど関係を作りながら生きてゆくのだ。土地の水があうこともあればあわないこともあるだろう。そうするうちに自分が何にあうのかあわないのか分かってくる。人間の一生は関係と学習だとも言える。
関係があるからこそ、水のあわない土地には長居しないほうがいい。肌合いの悪い人や組織とは縁を切ったほうがいい。苦痛な人間関係ならやめたほうがいい。一度や二度の移動では自分にあった地域がみつからないのなら、さまざまな地域をまわってみるほかない。
組合の仲間主義または共同体主義に生理的嫌悪感があることが、どうしてそれほどいけないことなのか。正社員中心主義、男性中心主義という偏狭な共同体主義によって、数多の労働法無視が起こり、明確に違法とはいえないいやがらせも発生してきた。それが嫌でも何も悪くない。
人は一人では生きてゆけない。だからこそ、ちゃんとつきあえる人がいる別の土地に渡ってゆく必要がある場合もある。それをつぶすのは、やはり憲法22条への蔑視だろう。
そうした論理では、地元の慣習によって横暴をふるう地域ボスに抵抗できるわけがない。地元の人たちがしがらみによって反対できない無謀な開発計画に外部から反対できるわけがない。
オンライン上のコミュニティは、リアル世界のコミュニティよりも劣っていると彼は言った。ばかばかしい。というのは、両者はつながっているからだ。オンラインがリアル世界での絆を深め、オンラインはオフラインのつながりを生み出すこともある。
顔をあわせる地域が大事だとその人は言った。ならば、徒歩か自転車で移動できる範囲に生活を閉じ込めざるをえない。交通費の工面もむつかしい貧乏人にとってはそういうことになる。ムリだ。できっこない。
「人は一人では生きられない」この殺し文句によって、心中という名の殺人も、ストーカーも正当化できる。ひどいいじめがあっても転校や登校拒否や転職や引越しによって逃れることもだ。人権意識を疑う。
そもそも、顔をあわせなければならないのなら、印刷技術によってつながれた国家とか国連といったものも無視することになる。しかし、憲法、労働基準法、ILOの条約などをまったく使わないで市場原理主義に抵抗することは困難ではないのか。
その方は会のキーパーソンらしい。明確なルールはなくとも、今後そこの会のイベント等に出入りするのなら、当然従わねばならないだろう。何よりも、フリーターとしての自分の生き方、自分が志向しながらも共同体主義によって阻まれてきた学習や人生のルートをばかにしている。フリーターという存在も、いまどきの若者も彼は下に見ているのだ。
だったら、もうやめよう。死にたいほどつらい地域。とても理解できない密着。暑苦しいプレッシャーをかけてくる仲間。特に、仲間以外の存在も権利もいっさい認めない排除の機動力としての仲間主義。
もしもわたしが所属するコミュニティがあるとしても、それはもっと世界に開かれていたり、定着を正義のように押し売りしたりしないところだ。定着しろとする圧力こそが、不幸の元だ。幸福になるために抵抗をはじめたのに、抵抗のために不幸になるのだとしたら、本末転倒だ。
わたしはこれまで少なくとも1万社を面接のためにまわった。80社以上で働いた。そこに顔をあわせる関係がないと言いたいのなら言っていればいい。そんな言説には客観性のかけらもないのだから。
「コミュニタリアンの社会は息苦しく、神聖政治もしくはナショナリストの独裁政治に変容する可能性がある。 --アラン・トゥレーヌ」
抵抗運動を地域ナショナリズムの枠内に閉じ込める必要はない。その人の指示とはうらはらに、わたしが大阪という街に定着しない権利はあるし、実際にしていない。
地域で痛い目にあったものにとっては、地域から地域へと移動している間だけが自由で安全だ。あるいは、いつかそういう地域に行くと考えるだけで自殺を回避できる。そのルートをふせぐ地域密着主義には賛成できない。
わたしは地域よりも定着よりも自分の命と人権のほうが何倍も大事だ。息苦しくないこと、独裁的な地域ボスに自分の人生を売り渡さないこと。そちらのほうがより重要だ。
経済的にも精神的にも、地域からの自由を手放す気はない。
もちろん、定着する人はすればいい。そういう役割も世の中には必要だ。ただし、移動を選ぶ自由だって尊重されてしかるべきだ。
それが尊重されない会だからこそ、やめる決心がついた。