橋脚に関しては一基まで認めるというものであったが、奈良電気鉄道側は回答を待たずに代案に着手することとなる[8]。 ちょうどこの時期、即位したばかりの昭和天皇の御大典が京都御所で執り行われ、式典の終了後、各施設の拝観や御陵の参拝などが国民に認められることとなった。そのため、沿線に伏見桃山陵が存在し、開通の暁には大阪電気軌道奈良線へ乗り入れるだけでなく大和西大寺から橿原線へも直通し、京都と橿原神宮前を直結する計画であった奈良電気鉄道は、大きな旅客需要が期待されるこの絶好のチャンスに、何としてでも全線開業を間に合わせる必要に迫られた。 こうして、路線建設のための時間的猶予を失った奈良電気鉄道は宇治川渡河について経済的なプレートガーダー桁案を放棄し、河中に橋脚を設けずに済む長大な単独トラス桁により本橋梁を架設することを決断[注 3][5]してようやく着工にこぎ着けた。 以上のような経緯で、本橋梁は
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