指導したりされたりという関係は、とても難しい。少なくとも、これこれのことをやってくれ、と指示するのに比べれば。指導するという行為には、相手が望んでしたいと思うことを、相手の望む方向に改善し伸ばすためのものという意味合いがあるけれど、それが実際のところ、指導する側の願望でしかないケースもままあるし、何より、指導する側もされる側も、それがどちらの願望なのかをうまく理解できていないということがほとんどじゃないだろうか。 『セッション』という日本語タイトルのついた、しかし作中どこにもジャムセッションの出てこない映画を見て感じたのは、その混濁した願望が導く先のどうしようもなさであり、音楽においてすらそれが起きるという虚しさだった。もちろん興奮しなかったわけではない。そのことについては後で書くのだけど、まずは作中における指導関係について確認しておこう。 聴くべきところのない演奏 舞台は名門音楽大学、そ