法衣姿でギターを抱えた僧侶がステージ上で合掌し、「摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみったしんぎょう)」と唱える。それを合図に鳴り響くギターの音色やコーラスに合わせ、歌い始めたのは「般若心経」だ。「曲」の盛り上がりに合わせて、聴衆は手拍子をしたり口ずさんだり。癒やしの時間を共有する。愛媛県今治市にある海禅寺の現役の副住職でありながら音楽家としても活動し、般若心経をハーモニーに乗せたライブを
法衣姿でギターを抱えた僧侶がステージ上で合掌し、「摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみったしんぎょう)」と唱える。それを合図に鳴り響くギターの音色やコーラスに合わせ、歌い始めたのは「般若心経」だ。「曲」の盛り上がりに合わせて、聴衆は手拍子をしたり口ずさんだり。癒やしの時間を共有する。愛媛県今治市にある海禅寺の現役の副住職でありながら音楽家としても活動し、般若心経をハーモニーに乗せたライブを
『カフカ――マイナー文学のために〈新訳〉』ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ著、宇野邦一訳、法政大学出版局、2017年10月、本体2,700円、四六判上製218頁、ISBN978-4-588-01068-2 『哲学のプラグマティズム的転回』リチャード・J・バーンスタイン著、廣瀬覚/佐藤駿訳、岩波書店、2017年10月、本体3,600円、四六判上製408頁、ISBN978-4-00-024057-4 『科学の本質と多様性』ジル=ガストン・グランジェ著、松田克進/三宅岳史/中村大介訳、文庫クセジュ:白水社、2017年10月、本体1,200円、新書判並製176頁、ISBN978-4-560-51016-2 ★新訳『カフカ』は、1978年に叢書ウニベルシタスの第85番として刊行された旧訳(宇波彰/岩田行一訳)以来の、待望の新訳。原著は『Kafka: Pour une littérature m
「異様な、半ば病的な悪戦苦闘を続けた」と著者は、生誕百年を迎えた「文人学者」橋川文三の生涯を要約している。橋川にラブコールを送り続けた三島由紀夫は、「貴兄の文体の冴(さ)えや頭脳の犀利(さいり)には、どこか、悪魔的なものがある」とかつて評した。 『橋川文三とその浪曼』は、大正十一(一九二二)年生まれの「戦中派」で、近代日本の精神史に最も肉薄した、この異貌(いぼう)の思想史家の肖像を、四つの「対決」を通して描いた大著だ。「対決」の相手は保田與重郎、丸山眞男、柳田国男、三島由紀夫とヘビー級の巨人ばかりで、相手に不足はない。『日本浪曼派批判序説』でデビューする橋川が、三島の死に遭遇するまでの思想的「対決」の遍歴が本書のテーマである。 なかでは、大恩人であり「師」でもあった丸山の日本ファシズム論を批判する第二章と、生涯に一度も会うことはなかったが、世代的に共感し、相互に影響を与え合った三島の美的革
近代思想の萌芽はオッカムに始まると言ってよい。個を離れて普遍はない。教会のカトリシスムという普遍性から個を解放するなかで、近代的な自由が開花する。本書はデカルト、スピノザらいわゆる異端思想家たちが目指したものが、個としての人間の自由に結実し、やがて政治思想、経済思想へと発展する過程を、独自の史観のもとに描く。 大津 真作(おおつ しんさく) 1945年大阪府に生まれる。 甲南大学名誉教授。 専門はヨーロッパ社会思想史。 主な著訳書 『啓蒙主義の辺境への旅』(世界思想社、1986)、『倫理の大転換』(行路社、2012)、『思考の自由とはなにか』(晃洋書房、2012)、『異端思想の500年』(学術選書、京都大学学術出版会、2016)など。 ジャルダン『トクヴィル伝』(晶文社、1994)、フュレ『フランス革命を考える』(岩波書店、1989)、レーナル『両インド史 東インド篇』上下巻(法政大学出版
没後千四百年の節目を迎えた聖徳太子。その実像を巡る議論がかまびすしい。<推古天皇の摂政として国造りを進めた><いや実際は平凡な皇子だった>−。駒沢大名誉教授の石井公成さん(71)は、仏教学を代表する学者の一人。両極端の説とは距離を置き、地道に文献を分析してきた。「太子像の探究を通じ、現代に生きるわれわれの在り方を問いたい」と語る。 太子は、奈良時代の日本書紀などの書物であがめられてきた。功績として示されているのは、役人の道徳規範を示した十七条憲法のほか、冠位十二階の制定、遣隋使の派遣…。大王(天皇)中心の政治制度を築き、仏教も深く理解して広めた人物とされる。「後世には観音菩薩(ぼさつ)の化身、浄土への導き手として、信仰の対象にもなってきました」。仏教の経典や事典が並ぶ駒沢大(東京都)の一室で、石井さんが力説する。 こうした聖人説を覆すのが、二十年ほど前から提唱されている「聖徳太子虚構説」だ
その思想は、グローバル資本主義を読み解き、現代世界の諸問題と対峙するためにある── 〈帝国〉の時代を予見した先駆的思想家、フェリックス・ガタリ。没後30年、再評価されつつあるその思想を国内外の論者により捉え直し、資本主義世界における問題を理解し克服する視座を得るための、日本初の論文集。巻末にはガタリに関する文献リストを収録。 寄稿者 村澤真保呂、ギャリー・ジェノスコ、ラリッサ・ドリゴ・アゴスティーノ、増田靖彦、廣瀬純、アンヌ・ソヴァニャルグ、フランコ・ベラルディ(ビフォ)、ジャン=セバスティアン・ラベルジュ、粉川哲夫、平井玄、境毅、松田正貴、立本秀洋、香川祐葵、杉村昌昭 「ガタリの著作が時代の制約を受けていることは事実である。それでもガタリの著作の読者ならわかるように、現代の世界をほぼ予見していたと言えるほど、ガタリは三〇年以上前にそれらの問題を洞察し、議論していた。つまりガタリが考察した
パクス・ロマーナ期、ローマ帝国で弁護士、元老院議員、財務官、法務官、そして皇帝ネロの顧問官を歴任したセネカ(前1年頃~65年)は、思想家として人生、死、貧困、徳、欲望と快楽、真の自由という、誰の人生にも関わるテーマについて普遍的なメッセージを遺している。「どうしてこんな面白いものが今まで日本ではほとんど読まれなかったのだ」――特定の他者にあてた書簡の形で著した十数篇の文章を、『清貧の思想』『ハラスのいた日々』の作家・中野孝次が晩年自らの翻訳で読み解く。道徳的退廃に陥った21世紀の日本を憂え、人として生きる術を説くいきいきとした箴言として提示した、現代人のためのセネカ入門。(原本:2003年岩波書店刊)
ペトラルカ 無知について (岩波文庫) 作者: ペトラルカ,近藤恒一出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2010/03/17メディア: 文庫 クリック: 8回この商品を含むブログ (15件) を見る ペトラルカ『無知について』近藤恒一訳、岩波文庫、2010年。 ペトラルカの著作を読みました。『無知について』はペトラルカと親交を持った4人のアリストテレス派知識人が、彼を善良であるが無知であると決めつけたことへの反論として書かれています。執筆時期は1367年の夏。公表は71年初めでした。74年にペトラルカは没するので最晩年の作品ということになります。 この書ではアリストテレス、およびアリストテレス主義者への批判が頻出します。神は世界を無から創造したのに、アリストテレス主義者たちは世界は永遠であるという考え方にしがみついている。彼らは何ものも無からは生じないという格率を不敬にも神自身に帰してい
ラカンによれば、男児は母の欲望の秘密を、ファルスの欠如ゆえに父のファルスを求める欲望と解釈する。これは、すべてのシニフィアンをファルスの欠如から解釈する一元的意味論である。男児が、原理的一元的説明原理が与えられると期待するのは、もちろん早とちりの幻想による。あまりにも鮮やかな解釈が得られたと思い込むことから、彼らは意味一般の解釈原理を手にできたと思うのである。これがそれ以後の彼らの意味論の基本形を形成するのだ。 しかしそれなら、男は皆そのような愚かさを宿命づけられているのか? そうではない。そもそも鏡像段階のデッドロックを突破できたのは、男女を問わず母の欠如(母の欲望)から、言語への道が開いていたからである。 男児は、それを大文字の他者A への母の欲望と見なし、自らもAを求める。そして、Aの中に己れのセリフを見出す。しかし、このAが完全でもすべてでもないことを見出さなくてはならない。さもな
なぜ、本を読むのか? Why do we need to read books なぜ、本を読むのか?本書『読書人カレッジ2022』の執筆者の一人である明石健五は、それを「考えるため」であると言います。 ある未知のものに出会ったとき、そこに驚きと感動が生まれる。そうして、初めて自分なりに思考することができ、それを人に伝えることができるようにもなる。 そういう過程を生きられる人のことを、「知性ある人」というのではないか。では、「知性」を自らのものにするためにはどうすればいいのか。繰り返しになりますが、「読み」「考え」「書く」ことを通してしか感得できないのではないか。 新しい出来事や局面に出会い、答えのない問題を考えることで鍛えられていくものが、確かにある。そういう問題は、すぐれた本の中にいくつも見つけることができます。 繰り返し考えることによって、自分の思考を鍛えていく。それによって、今の世の
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