赤松義則の子で満祐の実弟。満祐とは仲が良く、赤松一族で屈指の武勇を誇る猛将だった。 そのため性格が大変粗暴で、応永31年(1424年)3月14日には細川持之屋敷の花見の席で家臣の安藤某を殺害するという暴挙を行なった。これに激怒した第4代将軍の足利義持は則繁に切腹を命じたが、則繁は逐電したためその命令は実行されなかった。そして応永35年(1428年)1月に義持が死去するまでは姿を隠していた[2]。 嘉吉元年(1441年)6月24日に第6代将軍・足利義教が赤松屋敷を訪問した際、甥の教康と共にその接待(介添)を勤め、若い甥に代わって諸般の指図をした。そして義教を暗殺する嘉吉の乱に主導的役割を果たすと[注釈 1]、自らの屋敷や一族の屋敷を焼き払って播磨に帰国した。そして兄が足利直冬の孫・義尊を擁立すると50騎ほどを率いて迎えにいったという。やがて山名宗全を主力とした討伐軍が播磨に迫ると、則繁は美作