西山道(さいさんどう)は西国の大動脈である。副都の焦戸から西に伸びる道は古代から整備され、かつては上華の使節に国家の力を誇示するためにオーバースペックな規模を誇っていた。現在は地域権力がそれぞれにメンテナンスしているために無理のない規模に縮小し、場所によっては荒廃している。 それでも商人や宗教者、国家間や正副将軍の使節、なによりも隼楚からの国土奪回に挑む武家の次男三男や庶子が往来していた。いや、最後の人々については片道になることが多く、西山道(さいさんどう)をもじって「凄惨道(せいさんどう)」と呼ぶ人もいた。 その上、内乱が激化してからは現地の権力者が道中で彼らの足止めをして、自分たちの戦争に参加させる事態がたびたび生じていた。遠征者の側も路銀が尽きたなどの事情で、旅を続けるために傭兵稼業をおこなう必要に迫られることがあった。それはまるでヴェネチアによってコンスタンティノープル攻略に使われ