「日本の男はどうして背広を着るのか」ということについて、まるまる一冊かけて考察した、とてつもない書物だった。以下、要約する。
1. 日本のオフィスでは、「我慢をしている男が偉い」ということになっている。
2. 熱帯モンスーン気候の蒸し暑い夏を持つこの国の男たちが、職場の平服として、北海道より緯度の高い国の正装である西洋式の背広を選択したのは、「我慢」が社会参加への唯一の道筋である旨を確信しているからだ。
3. 我慢をするのが大人、半ズボンで涼しそうにしているヤツは子供、と、うちの国の社会はそういう基準で動いている。
4. だから、日本の大人の男たちは、無駄な我慢をする。しかもその無駄な我慢を崇高な達成だと思っている。暑苦しいだけなのに。
5. 実はこの「やせ我慢」の文化は、はるか昔の武家の時代から連綿と続いている社会的な伝統であり、民族的なオブセッションでもある。城勤めのサムライは、何の役にも立たない、重くて邪魔なだけの日本刀という形骸化した武器様の工芸品を、大小二本、腰に差してして出仕することを「武士のたしなみ」としていた。なんという事大主義。なんというやせ我慢。
6. 以上の状況から、半ズボンで楽をしている大人は公式のビジネス社会に参加できない。竹光(竹製の偽刀)帯刀の武士が城内で蔑みの視線を浴びるみたいに。なんとなれば、わが国において「有能さ」とは、「衆に抜きん出ること」ではなくて、むしろ逆の、「周囲に同調する能力=突出しない能力」を意味しているからだ。
“ライブハウスのオーナーが撤収後に毎回アドバイスをくれるのだが、 その日は僕のことだけを呼び出して、こういったのだ。 「誰も君のことなんか見てない。」 なんだか僕は衝撃的な一言を言われた気がして、何も言葉を返せなかった。 お客さんは僕らバンドを見てくれている、フロントマンである僕も同様に見てくれている。 でも、君のことなんて見てないってどういう意味だろう。 頭がぐるんぐるんと回り出して、数日間そのことだけを考え続けた。 で、答えも出ぬまま、次のライブが迫った前日にこう思った。 (誰も僕のことを見ていないなら、もう自由にやってしまおう) ライブではもう誰も見ていない、いつもとは違う等身大な自分でライブをした。 MCも別にしゃべらない。曲名もいわずに始める。なんだか物凄い解放された気分だった。 何よりお客さん一人一人が僕らの目を見て体を動かしてくれていた。 そのときの皆の表情を今でも僕は覚えている。100の目が僕らと通じている感じ。 これが初めて自分たちの表現が繋がった瞬間だと思った。 今まで「見られてる」なんていうどうでもいい意識が何かを演じさせていたのだと気付いた瞬間だった。 それを踏まえて、僕にアドバイスをくれた一言は、本当の表現ってものが何かを教えてくれる大きな一言だった。 この言葉を今でも大事に持ち歩いている。 後輩やインターンで来てくれた子には、まず最初に伝えている。 アイデアを出すのが恥ずかしいとか、自分のデザインを見せるのが恥ずかしいとか、 自分の夢を語ることが億劫だとか、何かにつけて自分という存在の見られ方を強く意識してる子が多い。 だから、僕は最初にこういう「誰も君のことなんか見てない。」 君が失敗しようが、へまをここうが、チャックが開いていようが、誰も君のことなんか見てないし、覚えてない。 自分の言葉や表現を素直に出すことは別に怖く何かない。どうせ失敗しても忘れられるし、そもそも見てないから。 忘却と無視の繰り返しだ。だったら何したって怖くはない。 ただ自分の素直な表現や言葉を出せたとき、必ずそれを評価してくれる人がいる。通じる人がいる。 100回勝負して1回でも目を向けてもらえたら、君の勝ちだ。 1回も勝負しないでビビる必要はない。誰も君のことなんか見てないから、今のうちに自由に踊るべきだ。”
— 誰も君のことなんか見てない。 – CNTR (via ishizue)