「気になる」ことから生まれる前向きな感情があるとするならば - 好意と敬意を分けるもの
「気になる」ことがきっかけで前向きな感情が自分の中に生まれるとするならば、それぞれの違いはどこにあるのか。
思いついたことを忘れないうちに書き留めておきたいと思います。
好意 - 「好きです」
- 惹きつけられるのは、その人の持っているものというより、「その人」そのもの。
- いつの間にか心に棲んでいる人がいる。
- 知りたい。僕を立ち止まらせて世界に引き込んだものは何であったかを。
- その人が考えていること、関心のあること。その人を作ってきたものは、いったい何なのだろう。
- たとえそれが僕には直接かかわりのないことだったとしても、それらも含めてすべてを受け入れることができる。
- 興味のあることを聞かせてほしい。そして流れる時間をともにすることができるならば、心は静かに満たされていくはずだ。
- なぜなら、僕はその人が好きだから。
敬意 - 「尊敬しています」
- 惹きつけられるきっかけは、人そのものというより「考え方」であったり「身につけているもの」。
- 自分にないものを持っている人がいる。未来の自分のかくありたい姿を示してくれる人がいる。
- もっと深く知りたいのかもしれない。いや、知りたくてしかたがない。僕の関心を烈しく揺さぶったものが何であったのかを。
- でも、自分の見たいものだけが見えれば、それでいい。
- なぜなら、その人は自分にとって目指すべきものを持っているかもしれないから。その人の持つものは自分のアイデンティティを形作るかもしれない、神聖なものだから。
- その人に望むのは、イメージを厚く重ねていくような、「自分にとって前向きな変化」だけ。
- だから、感じるところがあればいつでも退くつもりで、薄皮を1枚ずつ剥がしていくように遠巻きにねめ回す。
- 自分の中のその人を傷つけてしまわないように。その人を自分が見定めたその人でいつまでもあり続けさせるために。
- どこかで「裏切られる」のが、きっと僕は怖いのだろう。
- 自分が共鳴した部分なんて、その人を形づくるほんのかけらに過ぎないかもしれないのに。
- いつの間にか、その人は自分の知るその人ではなくなっているかもしれない。
- だからこそ記憶に残すのは、自分が「尊敬する」と決めた、あのときのあの人のままで。
- たとえ距離が近づいたとしても、近づきすぎてはいけない。
- なぜなら尊敬することを通して、僕はその人を「利用」しているから。
「気になる」感情のその先を分けるものって、なんだろう?
- 惹きつけられる対象が全体的なものなのか部分的なものなのか、それが「好き」と「尊敬」を分けるのだろうか?
- 「好き」が互いの作用を経て満たされる感情であるとするならば、「尊敬」は自分の中で高い純度で完結しうる感情といえるのだろうか?
- あるいは「好き」が可変性や柔軟性に富む感情だとするならば、「尊敬」は崇高であるがゆえに脆弱さをはらんだ感情といえるのだろうか?
わかったからといってどうなるものでもない、とりとめのないことではあるのですが。
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- //b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20070628234748">:見定めた対象に変わらずにいることを望むことは「対象を消極的に支配する」とでも呼べばよいのでしょうか?