秘境感たっぷり! 知られざる昔の道
日本でいちばん人気がある山域といって過言ではないのが、北アルプスでしょう。日本百名山が15座も集まっている場所だけに、何度も通っている人も多いのではないでしょうか?
しかし、そんな人でも「伊藤新道」という名前の登山道を知っている人は少ないはず。ましてや実際に通ったことがある人は、あまりないと思います。いや、年配の方であれば、記憶に残っているかもしれませんが……。
じつはこの伊藤新道、北アルプスのど真ん中にあるのですが、現在は通行困難。”新道”という名称ながら、いまや古道の扱いで、登山道としては事実上、使われていないのです。
憧れの雲ノ平へと向かう「谷と森」の道
伊藤新道は、北アルプスの鷲羽岳の南斜面と湯俣川沿いに付けられた道で、雲ノ平への玄関口にあたる稜線上の三俣山荘(伊藤新道開削当時の名称は、三俣蓮華小屋)と、高瀬渓谷の湯俣を結んでいます。
以前は吊り橋が5つ架けられており、湯俣に近いほうが「第一吊り橋」で、三俣に近いほうが「第五吊り橋」。湯俣を起点にして、北アルプスの稜線や雲ノ平に登山者をいざなうことを目的として作られました。
現在の伊藤新道は通行困難ではありますが、槍ヶ岳のすばらしい姿を眺められる”展望台”までは誰もが歩けるように、深い森の一部区間は毎年整備されています。
その区間を遠くから眺めると、三俣から鷲羽岳の山腹にかけて一本の道らしきものがあるのがわかることでしょう。
しかし、展望台から先はあまり手を入れていないため、よほど山慣れしていない人以外は危険。
山腹の道は次第に標高を下げ、湯俣川まで下りた後、水の流れる方向とともに深い谷間を下流へ向かいますが、すぐ近くには火山ガスを噴き出す硫黄尾根があり、温泉の成分が流れ込む水流は白濁しています。
緊急時に逃げ場はなく、とても荒々しい雰囲気です。
湯俣川はそのまま険しい谷を流れ続け、槍ヶ岳から流れてくる水俣川と合流します。そのあたりの地名が、湯俣となります。
北アルプスの先駆者が行なった伊藤新道の開拓
ところで、伊藤新道の”伊藤”とは、三俣山荘のご主人であった故・伊藤正一さんのこと。
この道は伊藤さんの強い情熱と信念なくしては生まれませんでした。
『黒部の山賊』も書いた伊藤正一さん
伊藤さんは山岳書のベストセラー『黒部の山賊』(山と溪谷社)の著者でもあり、伊藤新道のことは知らなくても、この本ならば読んだことがある登山者も多いに違いありません。
伊藤さんが伊藤新道を作ろうとした理由は、”日本最後の秘境”や”山上の桃源郷”などという言葉で知られる雲ノ平や黒部源流部へ、登山者ができるだけ楽にアプローチできるようにしたかったから。
そのために7年もかけて鷲羽岳山腹の沢や尾根、湯俣川付近をくまなく歩きまわり、可能な限り傾斜が一定で、スムーズに歩けるルートを熟考したそうです。
山中の登山者の流れを変える”新しい道”の登場
伊藤新道の本格的な着工は1953年。
1年を通して工事をすることはできない山奥でしたが、4年後の1956年には湯俣から三俣までの登山道が開通しました。
時間と工費をふんだんにかけ、理想の登山道を追求
開通の翌年には、湯俣の右岸側で湯俣山荘が営業を開始。
これで伊藤新道は伊藤さんが所有する2つの山小屋の間を結び、北アルプス最深部へどんどん登山者を送り込めるようになりました。
先ほど、ルート決定までの下調べに7年、実際の開削に4年と書きましたが、費やしたのは時間だけではありません。
当時33歳だった伊藤さんは600~700万円の私費を投じたそうですが、そのころの大学卒業者の初任給が7~8000円程度。今でいえばおそらく2億円以上もかかっていることになります。
登山者が激増! なんと1日に1000人以上
やっと開通した伊藤新道はたちまち登山者の人気を集め、最盛期は1日に1000人以上の登山者が利用。登山口の高瀬までは定期バスも走っていたそうです。
現在、高瀬にはダムができて道路は以前よりも立派ですが、裏銀座コースの起点とはいえ、登山者がそれほど多いわけではありません。そんなことを考えると、当時の伊藤新道が登山者を集めた力には驚くものがありました。
なにしろ伊藤新道ができる前は、最寄りの登山口から三俣まで2日間かけて歩き続けなければなりませんでしたが、伊藤新道を使えば湯俣と三俣の間は登りで6時間、下りで4時間ほど。湯俣から日帰りで稜線への往復すら可能になったのです。
ちなみに、伊藤さんが山小屋のオーナーになる前の仕事は、航空機エンジンのエンジニア。
”体力をできるだけ使わない”、”安全で快適”、”早く移動できる”といった合理的なルート取りや開削の方法には、技術者の発想が生かされていました。
吊り橋がすべて崩壊。再び人影少ない秘境へ
しかし残念なことに、北アルプス最深部への画期的なアプローチ道であった伊藤新道は、使用されていた期間がそれほど長くはありませんでした。
1979年に湯俣川の下流に高瀬ダムが完成すると、地下水位が上昇したために伊藤新道が通る谷の岩盤が緩み始め、要所にかけられていた吊り橋が次々に崩落。
何度も補修を行うものの、再び岩盤が崩落するため、高巻きする道などへもルートを変更しましたが、1983年くらいには通行困難となってしまったのでした。
よく目を凝らさないと見落としてしまうほどですが、現在の伊藤新道には当時の痕跡や面影が残されています。
錆びたワイヤーや人工的に穿たれた岩のくぼみなどを見つけられれば、そこには昔、登山道がたしかに存在していたことがわかることでしょう。
”通行困難”でも”通行不能”ではない、現在の伊藤新道
繰り返しますが、今はすべての吊り橋が落ちてしまった伊藤新道は、”通行困難”です。
しかし”通行不能”なのではありません。
急峻な狭い谷間を駆け下りていく湯俣川は水量が多く、とくに雪解け水が加わる春から、台風の影響が大きい夏まではいつも急流。沢登りに慣れた人が入渓しても、激流に流されて死亡する事故も起きています。
しかし晩秋になると水量も落ち着き、”通行困難”ではあっても、”歩けないことはない”タイミングも出てきます。もちろん吊り橋はないので、ずぶ濡れで渡渉を繰り返す必要はありますが、頑張れば古道・伊藤新道のすばらしさを味わえるのです!
その話は、また次回にお話ししましょう。
ヤマケイ文庫 定本 黒部の山賊
北アルプスの最奥部・黒部原流域のフロンティアとして、長く山小屋(三俣山荘、雲ノ平山荘、水晶小屋、湯俣山荘)の経営に携わってきた伊藤正一と、遠山富士弥、遠山林平、鬼窪善一郎、倉繁勝太郎ら「山賊」と称された仲間たちによる、北アルプス登山黎明期、驚天動地の昔話。