SSラツィオとは? わかりやすく解説

SSラツィオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/29 15:26 UTC 版)

SSラツィオ
原語表記 Società Sportiva Lazio S.p.A.
愛称 I Biancocelesti (白と水色)
Le Aquile (鷲)
Aquilotti (鷲の雛)
創設年 1900年
所属リーグ セリエA
所属ディビジョン 1部(2024-25
昨季リーグ順位 7位(2023-24
ホームタウン ローマ
ホームスタジアム
スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ
収容人数 72,698
代表者 クラウディオ・ロティート
監督 マルコ・バローニ英語版
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

ソチエタ・スポルティーヴァ・ラツィオSocietà Sportiva Lazio)は、イタリアラツィオ州ローマに拠点を置くプロサッカークラブ。

概要

愛称はBiancocelestiで、チームカラーは白と青(水色)で、これは元々陸上競技をはじめとする複合スポーツクラブとして誕生した経緯から、スポーツの象徴的な存在であるオリンピックに因んで、オリンピック発祥の地であるギリシャ国旗に使用される2色を採用したことに由来する[1][2]。通称はラツィオ。サポーターはラツィアーレと呼ばれる。

ASローマとは同じスタディオ・オリンピコを本拠地とするが、ローマは主としてローマ市内での人気が高いのに対し、ラツィオは広くラツィオ州に支持者を持つ。

この2チームのダービーマッチデルビー・デッラ・カピターレとして盛り上がりをみせ、熱狂的なサポーター同士の暴力沙汰や器物損壊などの騒動も少なくない。

イタリア国内では初めて株式を上場したサッカークラブでもある。

歴史

リベルタ広場にある創立記念プレート

1900年に設立。前身は、イタリア人将校ルイジ・ビビアレッリが創立した「ソチエタ・ポディスティカ・ラツィオ(Società Podistica Lazio=ラツィオ競歩協会)」である。

1940-1941シーズンのラツィオ

1958年にコッパ・イタリアを獲得。これがクラブにとっての初タイトルであった。1973-74に初めてスクデットを獲得して以降は低迷し、セリエBとセリエAを行き来するようになった。また、成績面においてもライバルのローマに大きく水をあけられる状態であった。

ユニフォームにスクデットが付けられた1974-75シーズン

セルジョ・クラニョッティ会長時代

こうした状況を打破するため、1992年に大手食品会社チリオのオーナー、セルジョ・クラニョッティが会長に就任すると、ジュゼッペ・シニョーリポール・ガスコインアーロン・ヴィンターらを獲得した。

ディノ・ゾフが監督を務めて以降は上位に顔を出すようにはなったが、当時はクラニョッティ自身が多忙だったため、1994年には監督だったゾフにフロントを任せて、ゾフの後任にズデネク・ゼーマンを招聘、1994-95シーズンにはリーグ2位に入るなど、以降は優勝争いに加わるようになる。

1997年にスヴェン=ゴラン・エリクソンが監督に就任すると、ロベルト・マンチーニヴラディミル・ユーゴヴィッチらサンプドリアの監督時代に指導した選手を獲得した一方、在籍中に3度リーグ得点王のタイトルを獲得したものの、不満分子となることがあったジュゼッペ・シニョーリをシーズン半ばに放出した[3]

1998年にイタリアのクラブでは初めて株式を上場し、これによって潤沢な資金を得たクラブは、1998-99シーズン開幕を前にシニシャ・ミハイロヴィチイバン・デ・ラ・ペーニャセルジオ・コンセイソンデヤン・スタンコヴィッチクリスチャン・ヴィエリマルセロ・サラスといったスター選手を次々に獲得、終盤までリーグ首位を走っていたものの、ACミランに逆転され、2位に終わったが、UEFAカップウィナーズカップ優勝を果たした[4]。翌1999-00シーズンには26年ぶりのリーグ優勝とコッパ・イタリア制覇とクラブ史上初の2冠を達成するなど大きな成功を手にした。

しかし、サッカーバブル崩壊と共に、株式上場が裏目に出たことやチリオの業績悪化の影響を受けて多くの負債を抱えるようになった。これにより、多くのスター選手が移籍市場に売り出され、ついに、2002年には生え抜きでチームのキャプテンでもあったアレッサンドロ・ネスタACミランに売り出さなければならないほどにまでクラブの財政は悪化した。その後、クラニョッティ一族は2003年にクラブ経営から退き、一族の顧問弁護士であったウーゴ・ロンゴが管財人として会長職に就任した。

クラウディオ・ロティート会長時代

クラニョッティによるラツィオの経営が悪化すると、2004年に清掃・警備会社等を経営する実業家クラウディオ・ロティートが買収に乗り出しクラブを買収。会長に就任する。

極度の財政難のため緊縮財政を実施しており、補強はきわめて限られた財政力で行なわれている。緊縮財政を反映して選手の給与額を制限し、大型補強もほとんど行なわないため、ラツィアーレからの反感を買うことも多いが、ラツィオが多額の負債を抱えながらも生き残っているのはロティートの辣腕に負うところが大きい。2005年には、1億4000万ユーロ(約195億円)と言われる負債の23年の分割払いで税務当局と合意するなど、優れた手腕を発揮した。

ロティートはルチアーノ・モッジとの親交が深かったが、その深さが仇となり、カルチョ・スキャンダルへの関与が疑われた。こうして2006年7月14日、セリエAの八百長問題に関連して「セリエB降格および勝ち点-7点からのリーグ戦開始」との判決が下される。7月25日、控訴審判決においてセリエA残留、2006-07シーズンの勝ち点-11でのシーズン開始と2005-06シーズンの勝ち点-30の判決が下された。後の判決によって、2006-07シーズンのペナルティが勝ち点-3に削減された。この事件についてはカルチョ・スキャンダルの項を参考のこと。

2006-07シーズン、クラブには重いペナルティが課されたが、デリオ・ロッシ監督の下、デルビー・ロマーノで歴史的大勝(ラツィオが3点差以上のスコアをつけて勝利したのは初めて)をするなどして最終的にシーズン3位でUEFAチャンピオンズリーグの出場権を獲得するなど、再生は堅実に進められた。2008-09シーズンはセリエAでは10位に終わるものの、コッパ・イタリアを制し、続くイタリア・スーパーカップも獲得した。

2009-10シーズン、移籍希望を公言したゴラン・パンデフにロティートが激怒し、同様の訴えをしたクリスティアン・レデスマなど主力数選手などと共に戦力外扱いされる出来事があり、その影響などから成績不振が続いた。

2012-13シーズン、リーグ戦では7位に終わるも、コッパ・イタリアでは決勝でASローマとのローマ・ダービーを制し、4年ぶり6度目の優勝を果たした。

2015-16シーズンヴェスレイ・フートや、数年後にFCバルセロナマンチェスターユナイテッドなどから注目を集めることになる[5]セルゲイ・ミリンコヴィッチ=サヴィッチらを獲得。しかし、UEFAチャンピオンズリーグのプレーオフではバイエル・レバークーゼンに敗れ、本選出場を逃す。怪我人の続出もあり成績が伸び悩む中、4月3日に監督のステファノ・ピオリが解任され、シモーネ・インザーギがシーズン終了まで暫定監督を務めることになった[6]。しかし、最終的にはセリエAは8位に留まり、来シーズンの欧州への切符は逃すこととなった。

2016-17シーズンは混乱のスタートとなった。7月6日、マルセロ・ビエルサ監督の就任が公式発表された[7]。しかし、約束した選手の補強が果たされなかったとの理由でわずか2日後に辞任し[8]、後任に再びシモーネ・インザーギが就いた。その中でルイス・アルベルトやトマス・ストラコシャ、元セリエA得点王のチーロ・インモービレ等を獲得。シーズンが始まってみると、ミリンコヴィッチ=サヴィッチのブレイクやインモービレが23得点を挙げるなどの活躍もあり、セリエAは5位でフィニッシュ。ヨーロッパリーグの出場権を獲得した。

ラツィオでも得点王に輝いたインモービレ

タイトル

スタディオ・オリンピコ

国内タイトル

国際タイトル

過去の成績

シーズン リーグ戦 コッパ・イタリア
ディビジョン 順位
1972-73 セリエA 30 16 11 3 33 16 43 3位 準々決勝敗退
1973-74 30 18 7 5 45 23 43 1位 準々決勝敗退
1974-75 30 14 9 7 34 28 37 4位 1回戦敗退
1975-76 30 6 11 13 35 40 23 13位 1回戦敗退
1976-77 30 10 11 9 34 28 31 5位 1回戦敗退
1977-78 30 8 10 12 31 38 26 11位 1回戦敗退
1978-79 30 9 11 10 35 40 29 8位 GS敗退
1979-80 30 5 15 10 21 25 25 13位 準々決勝敗退
1980-81 セリエB 38 13 20 5 50 32 46 4位 2回戦敗退
1981-82 38 11 15 12 38 35 37 10位 2回戦敗退
1982-83 38 14 18 6 44 32 46 2位 2回戦敗退
1983-84 セリエA 30 8 9 13 35 49 25 13位 GS敗退
1984-85 30 2 11 17 16 45 15 15位 GS敗退
1985-86 セリエB 38 11 14 13 38 42 36 11位 GS敗退
1986-87 38 14 14 10 35 28 42 16位 ベスト16
1987-88 38 15 17 6 42 25 47 3位 2回戦敗退
1988-89 セリエA 34 5 19 10 23 32 29 10位 準々決勝敗退
1989-90 34 8 15 11 34 33 31 9位 2回戦敗退
1990-91 34 8 19 7 33 36 35 11位 2回戦敗退
1991-92 34 11 12 11 43 40 34 10位 ベスト16
1992-93 34 13 12 9 65 51 38 5位 準々決勝敗退
1993-94 34 17 10 7 55 40 44 4位 2回戦敗退
1994-95 34 19 6 9 69 34 44 2位 2回戦敗退
1995-96 34 17 8 9 66 38 42 3位 準々決勝敗退
1996-97 34 15 10 9 54 37 55 4位 準々決勝敗退
1997-98 34 16 8 10 53 30 56 7位 優勝
1998-99 34 20 9 5 65 31 69 2位 準々決勝敗退
1999-00 34 21 9 4 64 31 72 1位 優勝
2000-01 34 21 6 7 65 36 69 3位 準々決勝敗退
2001-02 34 14 11 9 50 37 53 6位 準々決勝敗退
2002-03 34 15 15 4 57 32 60 4位 準決勝敗退
2003-04 34 16 8 10 52 38 56 6位 優勝
2004-05 38 11 11 16 48 53 44 10位 ベスト16
2005-06 38 16 14 8 57 47 32 16位 準々決勝敗退
2006-07 38 18 11 9 59 33 62 3位 3回戦敗退
2007-08 38 11 13 14 47 51 46 12位 準決勝敗退
2008-09 38 15 5 18 46 55 50 10位 優勝
2009-10 38 11 13 14 39 43 46 12位 準々決勝敗退
2010-11 38 20 6 12 55 39 66 5位 ベスト16
2011-12 38 18 8 12 56 47 62 4位 準々決勝敗退
2012-13 38 18 7 13 51 42 61 7位 優勝
2013-14 38 15 11 12 54 54 56 9位 準々決勝敗退
2014-15 38 21 6 11 71 38 69 3位 準優勝
2015-16 38 15 9 14 52 52 54 8位 準々決勝敗退
2016-17 38 21 7 10 74 51 70 5位 準優勝
2017-18 38 21 9 8 89 49 72 5位 準決勝敗退
2018-19 38 17 8 13 56 46 59 8位 優勝
2019-20 38 24 6 8 79 42 78 4位 準々決勝敗退
2020-21 38 21 5 12 61 55 68 6位 準々決勝敗退
2021-22 38 18 10 10 77 58 64 5位 準々決勝敗退
2022-23 38 22 8 8 60 30 74 2位 準々決勝敗退
2023-24 38 18 7 13 49 39 61 7位 準決勝敗退

※2005-06シーズンはシーズン終了後勝ち点-30のペナルティ(6位→16位)、2006-07シーズンは勝ち点-3でシーズン開始

欧州の成績

現所属メンバー

セリエA 2024-25シーズン開幕フォーメーション (4-3-3)
2024年12月28日現在[9]

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
2 DF サミュエル・ジゴ英語版
3 DF ルカ・ペッレグリーニ
4 DF パトリック
5 MF マティアス・ベシーノ ()
6 MF ニコロ・ロヴェッラ
7 MF フィサヨ・デレ=バシル英語版 ()
8 MF マテオ・ゲンドゥージ ()
9 FW ペドロ
10 MF マッティア・ザッカーニ
11 FW タティ・カステジャーノス
13 DF アレッシオ・ロマニョーリ
14 FW ティジャニ・ノスリン
18 FW グスタフ・イサクセン
19 FW ブライユ・ディア ()
20 FW ルム・チャウナ ()
22 MF ガエターノ・カストロヴィッリ
23 DF エルセイド・ヒサイ
No. Pos. 選手名
26 MF トマ・バシッチ
28 MF アンドレ・アンデルソン ()
29 MF マヌエル・ラッザリ
30 DF ヌーノ・タヴァレス ()
34 DF マリオ・ヒラ
35 GK フリストス・マンダス英語版
53 MF レオナルド・ディ・トンマーゾ
55 GK アレッシオ・フルラネット
58 DF アレッサンドロ・ミラーニ ()
59 GK ダヴィデ・レンゼッティ
76 DF フィリピ・ボルドン英語版
77 DF アダム・マルシッチ ()★
92 MF ジャン=ダニエル・アクパ=アクプロ ()
94 GK イヴァン・プロヴェデル
-- MF クリストバル・ムニョス英語版
-- FW ディエゴ・ゴンサレス英語版

括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。

ローン移籍選手

in

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
2 DF サミュエル・ジゴ (マルセイユ)
3 DF ルカ・ペッレグリーニ (ユヴェントス)
6 MF ニコロ・ロヴェッラ (ユヴェントス)
No. Pos. 選手名
7 MF フィサヨ・デレ=バシル (ハタイスポル)
19 FW ブライユ・ディア (サレルニターナ)
30 DF ヌーノ・タヴァレス (アーセナル)
out

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
-- DF ニコロ・カザーレ (ボローニャ)
-- DF ファビオ・ルッジェーリ (サレルニターナ)
-- DF モハメド・ファレス (パンセライコス)
-- DF ディミトリイェ・カメノヴィッチ (イヴェルドン)
-- DF ロマーノ・フロリアーニ・ムッソリーニ (ユーヴェ・スタビア)
-- MF マルコス・アントニオ (サンパウロ)
No. Pos. 選手名
-- MF マルコ・ベルティーニ (アスコリ)
-- MF ダニーロ・カタルディ (フィオレンティーナ)
-- FW ガブリエーレ・アルティスティコ (ユーヴェ・スタビア)
-- FW マッテオ・カンチェッリエーリ (パルマ)
-- FW ヴァレーリオ・クレスピ (ズュートティロール)
-- FW サナ・フェルナンデス (NACブレダ)

歴代監督

歴代所属選手

脚注

外部リンク

公式

SSラツィオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 08:50 UTC 版)

ハビエル・ガリード」の記事における「SSラツィオ」の解説

2010年7月30日アレクサンダル・コラロヴ入れ替わる形でイタリアのSSラツィオに移籍した

※この「SSラツィオ」の解説は、「ハビエル・ガリード」の解説の一部です。
「SSラツィオ」を含む「ハビエル・ガリード」の記事については、「ハビエル・ガリード」の概要を参照ください。

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