MO作戦の準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:18 UTC 版)
詳細は「MO作戦」を参照 1942年(昭和17年)1月29日、軍令部は大海指47号で連合艦隊に対し「聯合艦隊司令長官ハ別紙中央協定ニ準拠シ英領「ニューギニア」及「ソロモン」群島ニ対スル作戦ヲ実施スベシ」と、ラエ、サラモア、ツラギ、ポートモレスビーなどの攻略を指示し、さらに2月27日、ナウル、オーシャン両島の攻略が大海指第59号で指示された。 南洋部隊(指揮官井上成美海軍中将/第四艦隊司令長官)はこれに基づき、3月にラエ、サラモア、4月にツラギ、ポートモレスビーを攻略するように計画した。計画は、まず日本陸軍と海軍が協同でニューギニア島東部(パプアニューギニア)のラエとサラモアを攻略し、ラエとサラモア占領後、オーストラリアをアメリカから遮断し孤立させる戦略構想(「米豪遮断作戦」)の一環として、ニューギニア島南東岸にあるポートモレスビーを奇襲攻略することを決定した(「MO作戦」あるいは「モ号作戦」)。ニューギニア島は中央部を東西に山脈が走っているため、北岸からの陸路での攻略には困難が予想され、海路から攻略を行う方針が決まった。同時に日本海軍単独でソロモン諸島のツラギ島を占領し、同島に水上機基地を設営して珊瑚海の警戒を行うことが決定された。この作戦における海軍の主任務は、陸軍歩兵第一四四連隊、海軍呉特別陸戦隊をのせた11隻の輸送船の護衛である。 3月8日、南洋部隊は第六水雷戦隊(旗艦夕張)を主力とする攻略部隊で、ラエとサラモアを攻略・占領する。直後の3月10日朝、空母レキシントンとヨークタウンを基幹とする米軍機動部隊がラエとサラモアに航空攻撃を敢行、日本軍は所在艦船18隻中、艦船4隻沈没、中破小破14隻、戦死130名という損害を出した。この攻撃による損害に不安を感じた陸軍南海支隊長堀井富太郎陸軍少将は軽空母祥鳳が輸送船団護衛につくだけではアメリカ軍機動部隊出現時に対処できないと判断し、3月20日の電文で有力な日本軍機動部隊の増派を求めた。 ラエ、サラモアの攻略に成功した直後、反撃を受け艦船に大きな損害を出したため、南洋部隊は損傷艦艇修理と整備のため、ポートモレスビー攻略作戦を一ヶ月延期して5月下旬実施予定とした。ポートモレスビー作戦実施にむけ準備を進める南洋部隊に対し、連合艦隊はミッドウェー島攻略作戦を検討し、4月5日には軍令部もミッドウェー作戦(MI作戦)の採用に至った。連合艦隊は5月上旬にポートモレスビーを攻略し、6月上旬にミッドウェーを攻略、7月上旬にFS作戦(フィジー、ニューカレドニア作戦)を実施、10月を目途にハワイ攻略作戦の準備を進めることにした。 4月10日、連合艦隊は麾下艦隊・部隊に対し、第二段作戦第一期兵力部署への転換を命じた。当初案では、南洋部隊に編入されポートモレスビー攻略作戦に参加するのは空母加賀(当時、内地で整備中)であった。しかし現地指揮官から空母増勢の要求があり、連合艦隊と第四艦隊の交渉の結果、加賀から第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)に差し替えられた。発令された兵力部署により、南洋部隊(指揮官は井上成美第四艦隊司令長官)は第四艦隊(鹿島、第十九戦隊など)、第六戦隊(第1小隊〈青葉、加古〉、第2小隊〈衣笠、古鷹〉)、第五戦隊(妙高、羽黒)、第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)、駆逐隊2(第7駆逐隊〈潮、曙、漣〉、第27駆逐隊〈時雨、白露、有明、夕暮〉)、空母祥鳳(第四航空戦隊)、水上機母艦瑞穂等となる。このうち、第五戦隊、五航戦、第7駆逐隊・第27駆逐隊がポートモレスビー作戦にともなう増強戦力である。五航戦は1941年(昭和16年)9月に編制されたばかりで練度も劣っていたため、実戦経験を積ませる目的があったという。当時、第五航空戦隊(司令官原忠一少将:空母瑞鶴〈旗艦〉、翔鶴)は南雲機動部隊(指揮官南雲忠一第一航空艦隊司令長官)に所属してセイロン沖海戦参加、作戦を終えて日本へ帰還中だった。 連合艦隊と大本営海軍部は「ポートモレスビーは5月10日までに攻略する」方針を固めていた。そのため、ミッドウェー、アリューシャン作戦(AL作戦)に同部隊の戦力が転用されることからツラギ、ポートモレスビー攻略は5月上旬とさらに変更された。 第五航空戦隊は4月25日にトラック島に到着した。井上成美第四艦隊司令長官は「MO機動部隊は、有力なる敵海上部隊の所在判明せざる場合は、なるべく速やかに、タウンズビル方面の敵飛行場を急襲、所在航空兵力を撃滅すべし」と命令した。これはMO機動部隊が制海権のない珊瑚海に10日もとどまり、敵艦隊攻撃から敵航空基地撃滅まであらゆる任務に投入されることを意味し、連合艦隊司令部は「MO機動部隊の作戦に関し、同隊は敵の機動部隊に対する作戦を第一義とし、豪州要地の空襲については、同隊の兵力並びに豪州北方海域の情況等に鑑み、とくに慎重を用されたし。なお敵陸上基地航空兵力の撃滅には、所要の基地航空隊を集中作戦する如く取り計らわれたし」と第四艦隊の命令を取り消している。井上中将は「第五航空戦隊は、珊瑚海方面に敵が出現した場合にのみこれを撃滅せよ」と命令を訂正した。 南洋部隊の作戦計画では、まず第十九戦隊がソロモン諸島のツラギ島を占領後して水上機基地を設置、ポートモレスビー攻略船団は水上機の掩護下に進撃する。第十九戦隊はナウルとオーシャン攻略に参加、MO主隊は第十九戦隊を支援したあと西進して南海支隊を支援、MO機動部隊はアメリカ軍攻撃に備えて待機、5月10日にポートモレスビーを攻略するという複雑な予定であった。また連合艦隊はラバウル方面の第二十五航空戦隊に対し、南洋部隊の作戦に協力するよう命じた。第二十五航空戦隊は第11航空艦隊(司令長官塚原二四三海軍中将)の麾下にあり、南洋部隊(井上第四艦隊司令長官)とは指揮系統が違う。日本軍の戦力分散と作戦の複雑さについては、戦闘詳報や米海軍大学校も、日本軍苦戦の一因になったと指摘している。また軽空母祥鳳は4月18日のドーリットル日本本土空襲でアメリカ軍機動部隊迎撃に出動し、それから急遽南下してトラック泊地に進出している。MO攻略部隊・MO機動部隊ともに「間に合わせ部隊」であり、事前の打ち合わせ・訓練もほとんど行っていなかった。
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