MNLA
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「マリ北部紛争 (2012年)」の記事における「MNLA」の解説
アザワド解放民族運動(英語版)(MNLA)はアザワド民族運動(MNA)との合併により2011年10月16日に設立された分離独立を目的とした政治的かつ軍事的グループで、若い知識人や政治活動家で構成され、元ニジェール=マリ・トゥアレグ同盟(fr:Alliance Touareg Niger-Mali)のゲリラ活動家で2006年から2009年のトゥアレグ反乱で指導的立場にあったイブラヒム・アグ・バハンガ(fr:Ibrahim ag Bahanga)により活動は推進されていたが、彼は合併前の2011年8月26日に自動車事故で死亡している。1990年の反乱後、マリから逃走しムアンマル・アル=カッザーフィー政権下のリビア軍に参加していたが、政権崩壊後はマリに帰還しトゥアレグのMNLAに加わった。2月4日にMNLAはビラル・アグ・アチェリフ(fr:Bilal Ag Acherif)書記長が率いる執行委員会の7人のメンバーの名簿を公表し、モハメド・アグ・ナジェム(Mohamed Ag Najem)は参謀長に、ハマ・アグ・シディ・モハメド(Hamma Ag Sidi Mohamed)は公式スポークスマンとなる。 モッサ・アグ・アッターMNLA情報責任者(Mossa Ag Attaher)は「植民地主義からマリを解放する」目的があると断言し、マリ共和国の3つある地方行政区画、すなわちトンブクトゥ州、ガオ州およびキダル州の領有権を主張する。2月21日、「ジュウヌ・アフリーク(Jeune Afrique)」でマハムード・アグ・アガリーMNLA政治局委員(Mahmoud Ag Aghaly)とのインタビューで「マリとセネガルがひとつになれなかったのと同様に、マリの北部と南部の人々は同じ国家の枠組みに当てはめるにはあまりに異なっている。我々が独立を訴えマリ政府を説得するために国際社会に求めるのはこのためである」。 アルジェリアの新聞エル・ワタン(fr:El Watan)でモッサ・アグ・アッターとのインタビューで「MNLAは反乱軍や武装勢力ではありません。これは我々がアザワドと呼ぶマリ北部地域を解放する為に活動する革命運動である。運動は自治権、政治的権利、民族自決をもって決定する領土に住む先住民族の権利を主張するのものである。現在に至りてあらゆるフラストレーションとマリ政府との不健全な関係からくるあらゆる失望の後、これらを解決するには民族自決のもと自らを支配する権利を求める」であると示して「MNLAは過去の合意を認めない。主張は明白であり、いずれの合意もアザワドの解放を認めたものでは無い。従って、我々はマリ政府に利する時代遅れの合意には参加しない。とにかく、彼らは自重しなかったので、これらの状況は彼らの負の一面を見事に表しているのである」とした。 MNLAはキダルの北にあるザカケ丘(Zakake)に本拠を置き、千人の規模を誇っている。MNLAは軍用小銃、リビアから持ち込んだ地対地や地対空ミサイル、BM-21多連装ロケット砲および迫撃砲で武装している。
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