BRM
第2次世界大戦前にERAの誕生にかかわったレイモンド・メイズが、イギリスの自動車関連産業から資金援助を得て、1947年に設立したイギリスのコンストラクター。当時最強のV16エンジンを搭載したマシンで、50年からF1に参戦したが意欲作すぎて失敗に終わった。その後アルフレッド・オーウェンがチームを買収して活動を継続し、62年には初のタイトルを獲得、以後65年までトップチームとして活躍した。しかし66年からの3L時代は、最初のH型16気筒エンジンの失敗が響いて低迷、V型12気筒エンジンで一時盛り返したものの結局、74年末に撤退へと追いやられた(77年に新たなパトロンであるスタンレーBRMの名で一時的にカムバックするが、すぐ撤退)。なお、F1のほかにもローバーと組んでガスタービンを搭載したマシンでルマンに出場したり、70年代の初めにはCan-Amシリーズにも挑戦した。また、90年代にスポーツカーレースでその名が復活したが、これも短期間で姿を消した。
BRM
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/03 00:44 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動BRM
- ブリティッシュ・レーシング・モータース (British Racing Motors) - 1950年代から1970年代に存在したイギリスのレーシングカーメーカー。
- ブルベ・ド・ランドヌール・モンディオ (Brevets de Ranndonneurs Mondiaux) - フランスのオダックス・クラブ・パリジャン (Audax Club Parisien, ACP) が規定する長距離自転車走の認定イベント(ブルベ)。
![]() |
このページは曖昧さ回避のためのページです。一つの語句が複数の意味・職能を有する場合の水先案内のために、異なる用法を一覧にしてあります。お探しの用語に一番近い記事を選んで下さい。このページへリンクしているページを見つけたら、リンクを適切な項目に張り替えて下さい。 |
BRM
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 00:55 UTC 版)
「トニー・サウスゲート」の記事における「BRM」の解説
1969年、イギリスに戻ったサウスゲートはBRMのチーフデザイナーとなり、自身が中心となって手掛けた最初のF1カーとなるP153を完成させる。 P153は1970年のF1世界選手権に投入され、4戦目で優勝を飾るなど好走し、翌1971年に投入されたP160も高い競争力を発揮したため、この両車両の成功はサウスゲートの名を大いに高めることとなる。 しかしながら、1971年の選手権後に行われた非選手権レース中の事故でエースドライバーのジョー・シフェールを失ったことや、1972年の新車P180の失敗により、チームは退潮傾向となり、サウスゲートは1972年限りでチームを離れることとなる。結果として、シフェールの代役として加入したジャン=ピエール・ベルトワーズがこの年のモナコグランプリで旧型のP160で挙げた勝利が、BRMにとってはF1での最後の勝利となった。 サウスゲートがBRMに移籍した当時、入れ替わりでBRMから去ったトニー・ラッド(英語版)とピーター・ライトはチーム在籍時にグランド・エフェクトの研究をしており、サウスゲートはそれを一部引き継いだ。二人が試作し残していったウィングカーのコンセプトは未完成だったため役立つものではなかったが、サウスゲートは二人が利用していたインペリアル・カレッジの風洞施設はBRMから去った後も引き続き使い続けることになる。
※この「BRM」の解説は、「トニー・サウスゲート」の解説の一部です。
「BRM」を含む「トニー・サウスゲート」の記事については、「トニー・サウスゲート」の概要を参照ください。
- BRMのページへのリンク