5歳時(2016年)
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1月、テピンは前年のBCマイルなどの活躍により、2015年のエクリプス賞最優秀芝牝馬に選出された。 5歳になると、サウスエンデヴァーステークス(G3)、ヒルズボローステークス(G2)、ジェニーワイリーステークス(G1)、ディスタフターフマイルステークス(G2)と4連勝し、初の欧州遠征となったクイーンアンステークス(G1)でもベラルドやエルヴェディヤなどの人気馬を退けて勝利した。3ヶ月の休み明けで挑んだウッドバインマイルステークス(G1)も勝利し、前年秋から続く連勝を8に伸ばし、G1は6勝目となったが、次走のファーストレディステークス(G1)は大逃げを打ったフォトコールを捉えきれず2着に敗れ、連勝はストップした。次走は連覇を狙うブリーダーズカップ・マイル(G1)に出走したが、再び2着に敗れた。
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5歳時(2013/2014年)
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「バラエティクラブ」の記事における「5歳時(2013/2014年)」の解説
2014年のはじめ、バラエティクラブはUAEで3回レースに出た。出走したのはドバイのメイダン競馬場で、当時は「タペタ」という人工馬場(オールウェザー走路)だった。2月13日のグループ3のファイアブレイクステークス(Firebreak Stakes、1600メートル)に8頭中1番人気で出走した。スタートからまもなく先頭にたつと、2番手以降との差を広げ、 そのまま「楽勝」で逃げ切った。2着には2馬身差でハアテク(Haatheq)が入った。 3月8日のブルジュナハール(Burj Nahaar、1600メートル)では、いったん直線で抜けだしたが、そのあと差されてしまい、ゴドルフィン所属の牝馬Shuruqに1馬身3/4差の2着に敗れた。3週間後の第21回ゴドルフィンマイルには21頭の出走馬が揃った。バラエティクラブと同じ南アフリカ出身のソフトフォーリングレイン(Soft Falling Rain)は前年の優勝馬で、1番人気になった。2番人気がShuruqで、バラエティクラブは11対2(6.5倍)の3番人気だった。バラエティクラブは向こう正面で先頭に立つと、最後の直線でもよくねばって、ソフトフォーリングレインに1馬身差をつけて逃げ切った。3着に入ったフロティラ(Flotilla)は、アメリカのブリーダーズカップ・ジュヴェナイルフィリーズターフやフランスのプール・デッセ・デ・プーリッシュの優勝馬である。レース後、ラムスデン調教師は「ファンタスティックだ。南アフリカから遠征してきて勝つというのは感無量だ。素晴らしい。騎手のアントンは最高の騎乗をした。後続から突っつかれずに、楽に逃げられたのが大きい。」と述べた。アントン・マーカス騎手は「今日はバラエティクラブのスタミナを証明したかったんだ。芝コースでもいけるよ。今日は僕が乗ったけど、この馬には南アフリカ国民みんなの期待が乗っかっているのさ。」と答えた。 ゴドルフィンマイルの勝利のあと、バラエティクラブはマイク・デコック(Mike de Kock)厩舎に移った。馬主のマネージャーを務めるデレク・ブラグマン(Derek Brugman)の説明によると、「別に、なにかでもめて移籍したわけではないんだよ。ジョーイ・ラムスデン調教師が地元の南アフリカでの調教に専念できるようにしたかったんだ。今までどおり、今後もバラエティクラブが稼いだ賞金の一部はラムスデン調教師に支払われることになっている。」とのことである。 バラエティクラブは香港へ遠征し、5月4日の沙田競馬場でのチャンピオンズマイルに向かった。14頭の出走馬の中には、エイブルフレンド(Able Friend)、ゴールドファン(Gold-Fun)、カリフォルニアメモリー(California Memory)、グロリアスデイズ(Glorious Days)、香港スチュワーズカップ優勝馬のブレイジングスピード(Blazing Speed)、前年の覇者ダンエクセル(Dan Excel)、アイルランドからの遠征馬でフォレ賞、スプリントカップ、ジョージライダーステークスの優勝馬ゴードンロードバイロン(Gordon Lord Byron)がいた。バラエティクラブの単勝倍率は11.6対1(12.6倍)だった。バラエティクラブは外枠から素早く発馬すると、最初の400メートルで先頭にたち、その後ろにヘレンスピリット(Helene Spirit)がつけた。バラエティクラブは直線にはいるとリードを広げ、最後は2着のエイブルフレンドに4馬身差をつけて優勝した。さらに1馬身1/4遅れた3着にはダンエクセルが入り、4着にはグロリアスデイズ、5着にゴールドファンが入った。 レース後の会見で、デコック調教師は次のように述べた。「これはでかい。南アフリカにとってでかい。南アフリカの競馬界にとってとてつもないことだ。」 マーカス騎手はこう言った。「バラエティクラブは本物さ。僕はただ乗ってるだけだ。」 香港での勝利からヨーロッパへ帰る機上、バラエティクラブは大暴れして、何度も鎮静剤が必要になった。イギリスの調教地についた後も、バラエティクラブの気性面の問題はどんどんひどくなり、10月にロンシャン競馬場のフォレ賞に挑戦する計画は取り止めになった。バラエティクラブは引退し、南アフリカに戻ってクラウェルヴレイスタッド(Klawervlei Stud)で種牡馬として再出発することになった。
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5歳時(1991年)
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「メジロマックイーン」の記事における「5歳時(1991年)」の解説
休養明け初戦は阪神大賞典から始動。ここから内田浩一に替わり、鞍上に武豊を迎えた。休み明けということ、また前半がスローペースとなったため掛かり気味となったが、武が中団の馬群に入れて折り合いをつけ、最後の直線のゴール前でゴーサインをかわして復帰初戦を勝利した。そして、目標としていた天皇賞(春)に向かう。メジロライアン、ホワイトストーンとの「3強」の争いという前評判であったが、当日は単勝1.7倍の圧倒的1番人気に支持された。レースでは菊花賞と同様に先行、直線で抜け出して、2着のミスターアダムスに2馬身半差をつけて優勝。1984年に死去したメジログループ前総帥・北野豊吉の宿願であった父子3代天皇賞制覇を達成し、口取り撮影(競走後に行われる記念撮影)では、武が馬上で豊吉の写真を掲げた。続く宝塚記念 も単勝1.4倍の1番人気に支持されたが、直線で先に抜け出したメジロライアンを捉えきれず、2着に敗れた。 休養を経ての秋初戦は京都大賞典に出走、2着に3馬身半の差を付け勝利する。しかし、タマモクロス以来の天皇賞春秋連覇を目指した天皇賞(秋)では、プレクラスニーに6馬身差をつけて1位入線するも、スタート直後に内側に斜行、プレジデントシチー(18位入線)の進路を妨害したことで、18着に降着となる。GI競走での1位入線馬の降着処分は日本競馬史上初めてのことであった他、この年から発売された馬番連勝式が最初に行われたG1レースであったこともあり一般紙でもレースや武豊の騎乗が大きく取り上げられた。(レースの詳細については第104回天皇賞を参照) その後はジャパンカップでゴールデンフェザントの4着に敗れ、年末の有馬記念では先行押し切りを図るも、15頭中14番人気のダイユウサクにゴール前で差し切られ、2着に終わった。秋はやや精彩を欠いたものの、通年の安定した走りが評価され、翌1月には当年の最優秀5歳以上牡馬に選出された。
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5(6)歳時(2003年)
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「ビリーヴ (競走馬)」の記事における「5(6)歳時(2003年)」の解説
5歳初戦の阪急杯では逃げ切り勝ちを収めたショウナンカンプに後れを取る9着に敗れる。この時も体調が戻らない状態での出走であったが、武はレース後に「香港の時よりいい状態だったし、叩いてよくなるタイプ。次に期待したい」とコメントした。 3月30日、高松宮記念に出走。武がゴールドアリュールと共にドバイワールドカップへ挑戦する予定から、鞍上には当時中央競馬へ移籍したばかりの安藤勝己を迎え、安藤はビリーヴの引退までの間全てのレースで鞍上を務める。当日はショウナンカンプが単勝1.5倍で一番人気に支持され、ビリーヴは10.1倍の3番人気となる。しかし、ビリーヴは最内枠から好スタートを切ると6番手につけ、4コーナーを前にして前方へ進出し始めたショウナンカンプの外目に安藤はビリーヴを誘導すると、残り200メートルの地点で2頭は後続を突き放して2頭の競り合いとなったが、残り100メートル地点でショウナンカンプが失速し、代わって外から追い込んできた福永が騎乗するサニングデールを退け、1着でゴールした。安藤はこれが中央競馬でのGI初勝利となった。 その後は京王杯スプリングカップ、安田記念に出走したが8着、12着に敗れた。1200メートルの函館スプリントステークスを優勝し、連覇を狙うスプリンターズステークスが引退レースとなった。この時関係者の間では、前年ビリーヴは最優秀短距離馬及び最優秀4歳以上牝馬を逃していたことで「タイトルと共に繁殖生活に送り出してあげたい」という思いで一致していた。迎えたスプリンターズステークスでは好スタートを切り、4コーナーに向けて徐々に前方へ進出し直線で先頭に立ったが、大外から一気の追い込みを見せたデュランダルと横一線の状態でゴールし、デュランダルが約15cm前に出ていたことで2着に敗れた。翌年発表されたJRA賞では同年の最優秀4歳以上牝馬に選出された。 2003年10月19日には京都競馬場で引退式が行われ、岩田康誠、武豊、安藤勝己も出席した。
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5歳時(2015年)
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「ラキシス (競走馬)」の記事における「5歳時(2015年)」の解説
初戦の産経大阪杯に優勝するも、その後は勝ちきれないレースが続きエリザベス女王杯を最後に現役を引退した。 2013年GI格上挑戦で2着に入る 2014年エリザベス女王杯 2015年産経大阪杯 表彰式
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5歳時(2015年)
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「ビホルダー (競走馬)」の記事における「5歳時(2015年)」の解説
シーズン初戦となったサンタルチアステークス、続くアドレーションステークスを連勝して挑んだクレメント・L・ハーシュステークスでは後続馬に7馬身差つけG1競走7勝目を挙げる。 パシフィッククラシックステークスで牡馬相手に8馬身1/4差の圧勝劇を演じる。続くゼニヤッタステークスも3馬身1/4差の完勝で3連覇を達成する。ブリーダーズカップ・ディスタフは外傷のため2年連続の回避を余儀なくされたが、年間5戦無敗の成績でエクリプス賞最優秀古馬牝馬の座に輝いた。なお、2歳時から5歳時まで4年連続でG1勝利を果たした馬は米国史上初であった。
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5歳時(1975年)
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「アレフランス」の記事における「5歳時(1975年)」の解説
ヴィルデンシュタインは凱旋門賞連覇を夢見、1975年も競走生活を続行させることにした。5月にG1ガネー賞に出走し、連覇を達成。続くG2ドラール賞でも勝利したが連覇をかけて臨んだG1イスパーン賞では3着に敗れた。この後前年と同様キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスへの出走が持ち上がったが前年と同じ理由で断念された。その後凱旋門賞を目標に据え、休養を経てフォア賞に出走したのも前年と同様で、フォア賞を連覇して1番人気で凱旋門賞に臨んだ。しかしレース中に他の馬と接触し左後脚の蹄鉄を落鉄するアクシデントに見舞われ、直線で伸びを欠いて5着に敗れた。優勝したのは最低人気のスターアピールであった。 凱旋門賞の後、ヴィルデンシュタインの意向により2年ぶりにイギリスへ遠征しチャンピオンステークスに出走することになった。アレフランスはスターアピールには先着したもののローズボウルに1馬身半差及ばず2着に敗れた。その後アメリカ合衆国へ遠征することになり、11月1日にサンタアニタ競馬場で行われたナショナルサラブレッドチャンピオンシップに出走した。ダートコース、小回り、左回りと未経験の条件が重なったこのレースでアレフランスは先行して失速し、最下位の11着に敗れた。
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5歳時(1994年)
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「ノースフライト」の記事における「5歳時(1994年)」の解説
5歳となった1994年は京都牝馬特別から始動し、2着に6馬身差をつけて勝利した。このとき武、加藤はいずれもノースフライトがマイラーであるとの印象を語り、以後はマイル路線を進んでいくことになる。続くマイラーズカップでは牡馬との初対戦となったが、当年秋にジャパンカップを制するマーベラスクラウンをクビ差退け、レコードタイムで勝利。武は「着差以上に強い内容でした。危なげない勝ち方だったと思いますよ」と称えた。競走後、陣営は春のマイル王決定戦・安田記念への出走を明言したが、武は加藤に対し、別の前哨戦である京王杯スプリングカップ終了まで、安田記念におけるノースフライト騎乗の判断を保留させて欲しいと願い出た。京王杯スプリングカップでは武が騎乗したフランス調教馬・スキーパラダイスが、他に出走した外国馬3頭を2~4着に従えて優勝した。 5月15日、前年より国際競走となったGI・安田記念に出走。外国勢にはスキーパラダイスのほか、1000ギニーやジャック・ル・マロワ賞などの優勝馬サイエダティ(イギリス)、フォレ賞の優勝馬ドルフィンストリート(イギリス)、ミドルパークステークス優勝馬ザイーテン(UAE)といったGI級の実績馬が揃い、「ジャパンカップにも見劣りしないほどのメンバー」となった。武は当日1番人気となったスキーパラダイスに騎乗し、5番人気となったノースフライトの騎手はエリザベス女王杯でも騎乗した角田晃一が務めた。スタートが切られるとノースフライトは出遅れて後方からのレース運びとなったが、先行勢が競り合いながら進んだ結果、1000メートル通過は日本レコードから0.5秒差の56秒9という非常に速いペースで推移。ノースフライトは後方から最終コーナーで先団に取り付くと、最後の直線の残り200メートル付近で先頭に立ち、そのまま2着トーワダーリンに2馬身半差をつけてGI初制覇を果たした。走破タイム1分33秒2は競走史上2番目の記録(当時)。これは調教師の加藤にとっても初めてのGI制覇だった。加藤は「会心の競馬」と語り、角田は「世界の強豪馬を相手にこれだけ強い競馬をするんだから、本当に凄い馬ですよね」とノースフライトを称えた。 「ギリギリの仕上げ」で臨んだことから春はこれをもって休養に入り、北海道のノーザンファーム空港牧場で夏を過ごした。帰厩後の秋は11月のマイルチャンピオンシップへ直行の予定だったが、状態の向上が早かったことから前哨戦のスワンステークスより始動。ここには前年のスプリンターズステークス優勝馬で、安田記念で4着と敗れていたサクラバクシンオーも出走し、「スプリント王」と「マイル女王」が、それぞれの最適距離から長短やや異なる1400メートルで対戦することになった。生涯最短の距離に臨んだノースフライトは道中でやや追走に苦労する様子を見せると、最終コーナーでもスムーズに馬群から抜け出せず、直線で追い込んだもののサクラバクシンオーから1馬身1/4差の2着と敗れた。なお、同馬の走破タイム1分19秒9は1400メートルで初めて1分20秒を切る日本レコードタイム(当時)であり、2017年にイスラボニータに破られるまで阪神競馬場のレコードタイムであった。 11月20日、目標のマイルチャンピオンシップに出走。戦前にはこの競走を最後としての引退が発表された。サクラバクシンオーとの再戦となったが、マイルの距離ではノースフライトが優位と見られ、単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持された。サクラバクシンオーが3.3倍で続き、3番人気のフジノマッケンオーは11倍超と大きく離されていた。スタートが切られると、サクラバクシンオーは3番手、ノースフライトはその後ろにつけた。第3コーナーからペースが上がり、最後の直線入口でサクラバクシンオーが先頭に立つが、ノースフライトが直線半ばでこれを捉え、1馬身半差で勝利した。走破タイム1分33秒0は、従来の記録を0秒3更新するコースレコード。同一年度に安田記念とマイルチャンピオンシップを連覇したのは1985年のニホンピロウイナー以来9年ぶり2頭目の記録だった。 加藤は「引退させるには惜しいとの声も聞きますが、今後の厳しい状況を考えると、ちょうどいい時期かとも思います」と語り、また大北牧場の斎藤も「惜しいとはみなさんに言っていただきますけど、彼女にはこれからも仕事がありますから、これがベストだろうと思っています」と語った。11月30日、ノースフライトは競走登録を抹消され、繁殖入りのため大北牧場へ戻った。 翌1995年1月、当年のJRA賞最優秀5歳以上牝馬に選出。またJRAのフリーハンデでは短距離部門の牝馬として歴代最高評価となる60キログラムを与えられた。安田記念とマイルチャンピオンシップを制したものの、JRA賞最優秀短距離馬はサクラバクシンオーが選出された。大川慶次郎は、前年最優秀短距離馬に選出されたヤマニンゼファーは同年のスプリンターズステークスでサクラバクシンオーに敗れており、その理論で言うとこの年はサクラバクシンオーを退けてGIを2勝したノースフライトが選出されなかったことはおかしいと述べ、「評価の基準が一定でないのに、記者が勝手な判断で票を入れているということになります」と不満を露わにし、当時大川自身もJRAに「1600mを勝った馬を"短距離馬"というカテゴリーに入れるのか入れないのか、記者にきちんと説明しないと迷うよ」と伝えていたことを後年に明かしている。当年は中央競馬史上5頭目のクラシック三冠を達成したナリタブライアンが年度代表馬に選定されたが、投票では1票のみノースフライトに投じられていたため、満票選出とならなかった。
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5歳時(1855年)
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「レキシントン (競走馬)」の記事における「5歳時(1855年)」の解説
4月2日、レキシントンはニューオーリンズのメテリー競馬場において、100ポンド(=約46.7kg)の斤量を背負って4マイルを走り、ジョッキークラブパースの1回目のヒートでルコントが記録した7分26秒0の世界レコード更新に挑むという内容のレースに出走した。このレースでレキシントンは落鉄しながら7分19秒3/4の走破タイムを記録し、ルコントのレコードを6秒1/4更新することに成功した。このあと、レキシントンとルコントの3度目の対決が実現した。レキシントンは1回目のヒートを圧勝し、2回目のヒートは前日に疝痛を起こし体調面に不安を抱えていたルコントが棄権したため単走で勝利した。
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5歳時(1999年)
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「コナゴールド」の記事における「5歳時(1999年)」の解説
年初の1月3日、コナゴールドはサンタアニタパークのエルコネホハンデキャップ(L・5.5ハロン)に出走し、2馬身1/4差でこれに優勝、初のステークス競走勝ちを収めた。 しかし、この年はそれが最後の勝利となってしまった。続くパロスベルデスハンデキャップ(G2・1月30日・サンタアニタパーク・6ハロン)で2着、その次のサンカルロスハンデキャップ(G2・3月6日・サンタアニタパーク・7ハロン)でも2着、休養を挟んで10月17日に迎えたアンシェントタイトルブリーダーズカップハンデキャップ(G2)でもまた2着と惜敗が続いた。年内最後に挑んだブリーダーズカップ・スプリント(G1・11月6日・ガルフストリームパーク)ではアータックス(英語版)相手に半馬身差でまたもや2着と敗れ、その年を終えた。
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5歳時(2003年)
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「エクストラヒート」の記事における「5歳時(2003年)」の解説
クラシックスターはエクストラヒートの競走生活をこの年も継続したが、1月のワットアサマーステークス(L・6ハロン)と2月のバーバラフリッチーハンデキャップ(G2・7ハロン)で連勝したのちに引退させている。
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5歳時(2018年)
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「マインドユアビスケッツ」の記事における「5歳時(2018年)」の解説
5歳シーズンもドバイゴールデンシャヒーンを目指して調整され、年初はガルフストリームパーク競馬場のオプショナルクレーミング競走(ダート7ハロン)で使われた。しかし、単勝オッズ1.4倍の圧倒的支持を受けながらも、逃げたコンクエストウィンディシティ(Conquest Windycity)をアタマ差捉えきれずに2着に敗れている。 サマーズ陣営はその後予定通りにドバイ遠征を敢行、3月31日のドバイゴールデンシャヒーン(G1)に登録された。同年のゴールデンシャヒーンには、アメリカからはマインドユアビスケッツのほかにも、前年のBCスプリント覇者ロイエイチ、および2016年のゴールデンシャヒーン2着馬エックスワイジェット(X Y Jet)の3頭が出走していた。当日の取り消しもあって8頭立てで行われる中、マインドユアビスケッツは1番枠から発走した。ゲートが開くとまず飛び出したのはエックスワイジェットと、地元ドバイのジョーダンスポート(Jordan Sport)で、結果ジョーダンスポートが先手を奪って進む展開になった。一方でマインドユアビスケッツは外に持ち出して最後方でつけ、ロイエイチは中団につけていた。3コーナーを過ぎるとロイエイチや日本のマテラスカイが先頭集団との差を詰めていくなか、マインドユアビスケッツは依然最後方にいたが、鞍上のロサリオはのちに「彼(マインドユアビスケッツ)の最後の脚に全てを賭けていた。残り3/16のポールが見えたとき、まだ先は遠いながら、彼を先頭に立たせられると見ていた」と語っている。残り300メートルでジョーダンスポートが失速していくと、先頭に立つエックスワイジェットにロイエイチが追い上げる姿勢をとると、マインドユアビスケッツも大外から猛然と追い上げていった。エックスワイジェットは最後までロイエイチの追い上げを凌いだものの、マインドユアビスケッツはそれをアタマ差かわしてゴール、ゴールデンシャヒーン連覇を達成した。2着にエックスワイジェット、3着にロイエイチと、同年のゴールデンシャヒーンは上位をアメリカ調教馬がすべて占める結果となった。 ゴールデンシャヒーンの勝利後、陣営は以後のプランについて翌年のペガサスワールドカップへの出走も考慮に入れていたが、5月になり日本の社台ファームのオーナーである吉田照哉がマインドユアビスケッツの所有権50%を獲得、同氏の方針で年内の現役続行と、年末での引退および種牡馬入りが決定した。 国内復帰初戦は6月9日のメトロポリタンハンデキャップ(G1・ベルモントパーク・ダート8ハロン)で、マインドユアビスケッツはトップハンデの122ポンドを課せられていた。この競走でマインドユアビスケッツはいつも通りに中団につけ、早めに前へと襲い掛かったものの、逃げ続けたビージャージー(Bee Jersey)をハナ差捉えきれずに2着に敗れている。 以後もマイルを超える距離での競走が続き、翌戦8月4日のホイットニーステークス(G1・サラトガ・ダート9ハロン)では不良馬場のなか追い上げるものの、逃げたディヴァーシフィ(Diversify)から3馬身半離された2着に終わっている。しかし9月29日のルーカスクラシックステークス(G3・チャーチルダウンズ・9ハロン)では早めに先頭に立ってどんどん差を開き、2着トーストオブニューヨークに4馬身3/4差をつけて圧勝、マイル以上でも勝てる実力を証明した。 距離適性に幅ができたことで、同年のブリーダーズカップはスプリントのほかダートマイル・クラシックへの参戦も視野に入るようになり、陣営はどれに登録するかを検討し続けた。最終的にブリーダーズカップ・クラシック(G1・チャーチルダウンズ・ダート10ハロン)が選ばれたが、この選択は功を奏せず、終始後方のまま留まりアクセラレートの11着と大敗した。その後、予備登録されている日本のチャンピオンズカップや、シガーマイルハンデやクラークハンデキャップへの出走も検討されていたが、11月14日に引退が発表された。サマーズ調教師は「100%を発揮できなかった、あのBCクラシックを最後のレースにはしたくなかった」と語った。
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5歳時(1879年)
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5歳時も現役を続けたキンチェムは、この年も12戦で全て完勝した。ブラチスラヴァのアラームディーユで5歳初戦に勝利すると、続けてブダペストで5月4日から5月8日の5日間でカロイー伯爵ステークスとアラームディーユ2レースの計3レースに出走し3連勝。特に5月8日のアラームディーユでは斤量が76.5kgだったにもかかわらず勝った。この後ウィーンでシュタット賞を連勝。さらにドイツに渡り、シルバナーシルトとエーレン賞に勝利し、さらにバーデン大賞に勝ち同レースの3連覇を果たす。ドイツから帰国した後、前年と同様にショプロンのアラームディーユ、ブダペストのリターディーユとカンツァディーユに勝利した。なお、カンツァディーユは3連覇であった。このレースの後、同厩舎の馬との喧嘩により脚を怪我したため、この年を最後にキンチェムは54戦54勝で引退した。
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5歳時(2015年)
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「フリントシャー (競走馬)」の記事における「5歳時(2015年)」の解説
5歳になったフリントシャーはオールウェザーのダルシャーン賞を叩き台にドバイシーマクラシック(G1)に出走したが、前走の勝ち馬ドルニヤ(Dolniya)に2馬身1/4差をつけられて2着に敗れた。ヨーロッパに戻った後、コロネーションカップ(G1)に出走したが、3着に敗れた。 その後、これまで騎乗していたマキシム・ギュイヨン騎手からヴァンサン・シュミノー騎手に乗り替わり、サンクルー大賞(G1)とソードダンサーステークス(G1)に出走。サンクルー大賞(G1)はトレヴから1馬身1/4差の2着となったが、ソードダンサーステークス(G1)では直線に入る前に先頭に立ち、そのまま突き放して勝利した。レース後、ジュドモントファームのレーシングマネージャーはフリントシャーが国外遠征を繰り返しながらも勝利してきたことを受けて「彼は驚くべき馬だ」と述べた。 次走は3年連続出走となる凱旋門賞(G1)であった。M.ギュイヨン騎手が騎乗し、前年の勝ち馬トレヴには先着するも、勝ち馬ゴールデンホーンに2馬身差届かず2着に敗れた。続く香港ヴァーズ(G1)は再びV.シュミノー騎手に乗り替わるも、ハイランドリールの2着に敗れた。
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5歳時(1973年)
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「タニノチカラ」の記事における「5歳時(1973年)」の解説
牧場スタッフによる献身的な看護が奏功し、1973年3月頃からは運動を再開。そして野菊賞から約1年8カ月が経った同年7月、札幌開催で復帰した。それまで騎乗していた安田伊佐夫が小倉開催へ回っていたため、新たな騎手に田島日出雄を迎えた。3歳時には兄ムーティエと同様の追い込み戦法をとっていたが、「10頭乗ったら8頭は逃げる」田島が騎乗を始めてからは先行策をとるようになり、復帰から3連勝を遂げる。4戦目のオホーツクハンデキャップは4着となったが、ゴール前では鋭い伸び脚を見せた。秋に入っての初戦には、54キログラムという恵まれた負担重量もあり、格上挑戦で重賞・朝日チャレンジカップへ出走。2番手追走から最終コーナーで先頭に立ち、2着に2馬身半差をつけて重賞初勝利を挙げた。続くハリウッドターフクラブ賞では、ヤマニンウエーブ、メジロムサシという2頭の天皇賞優勝馬を抑えて1番人気に支持されると、肩に軽くムチを入れられたのみでメジロムサシに2馬身半差をつけ、重賞2連勝を遂げた。天皇賞(秋)への前哨戦として臨んだ目黒記念(秋)ではスタートでの出遅れもあって3着となったが、評価を落とすことはなかった。 11月25日の天皇賞(秋)では、同世代で前年4歳クラシックを賑わせていた「関西三強」ことランドプリンス、ロングエース、タイテエムは全馬リタイアしており、当年春から三重賞を制していた関東のハクホオショウとタニノチカラの対決とみられた。当日はハクホオショウ1番人気、タニノチカラ2番人気であったが、ハクホオショウはスタート直後に故障で競走を中止。タニノチカラは残り1000メートルの地点から先頭に立つと、そのままゴールまで押し切っての優勝を果たした。これは田島にとっても初めての八大競走制覇であった。前走の敗戦もあり、「負けたら降板」を覚悟していた田島は、2着ミリオンパラ騎乗の戌亥信昭に「お前の馬に負けとったら俺、帰りの新幹線で飛び降りて死ななきゃならんかった」と話し掛けたという。 年末にはグランプリ競走・有馬記念にファン投票第7位で出走。当日は、当時空前の競馬ブームを牽引していた4歳馬・ハイセイコーに次ぐ2番人気に推された。レースはスローペースで推移するなか、田島タニノチカラは後方でハイセイコーをマークしながら進んだが、ハイセイコーが仕掛けないため動くことができず、結果として先行したストロングエイトとニットウチドリ、さらにハイセイコーも交わせずの4着に終わった。競走後、消極的に過ぎる騎乗だったとして田島は激しい非難の声に晒されたが、田島によればハイセイコーをマークする作戦は調教師の島崎宏の指示であったため、島崎からは何らの叱言もなかった。 最後は敗れたものの、タニノチカラは当年、最優秀5歳以上牡馬に選出された。また、父・信夫が死去してから競馬事業の撤収も考えていた谷水雄三は、その活躍に触発されて父同様に競馬へのめりこんでいくことになる。
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5歳時(1974年)
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「ハイセイコー」の記事における「5歳時(1974年)」の解説
陣営は1974年(昭和49年)の初戦として1月20日のアメリカジョッキークラブカップを選んだ。ハイセイコーは1番人気に支持されたが、レースではタケホープに2秒1引き離され、9着に敗れた。レース後、増沢は気合が不足していたとコメントし、その理由について激戦が続いたことによる疲れが出たのではないかと述べた。鈴木康弘によるとハイセイコーはレース後に微量ではあったものの鼻血が出始めていて、後にこれが肺から出ていたことが判明したため、当初は敗因を冬の稽古で絞れなかったことと考えていたが、「とにかく出るレース全部全力投球なんで、目に見えない疲労が少しづつ、体の内部に広がっていったんでしょう」と分析している。 3月10日、中山記念に出走。ハイセイコーは1番人気に支持され、不良馬場のなか、2番手から第4コーナーで先頭に並びかけるレース運びを見せ大差勝ちし、前年のNHK杯以来10か月ぶりとなる勝利を挙げた。タケホープもこのレースに出走しており、増沢は直線で後続馬との差を広げ独走態勢に入ってからも「またタケホープに迫られるんじゃないか」と思い、ハイセイコーに全力で走るよう促し続けた。鈴木康弘によると、3月を過ぎ気温が上昇するとともに、ハイセイコーの体調は上向いていったという。 中山記念の後、ハイセイコーは天皇賞(春)に備えて4月初頭に栗東トレーニングセンターへ輸送された。5月5日に行われたレースで、ハイセイコーは前方へ進出しようとする素振りを見せて増沢の制御になかなか従わおうとせず、2番手でレースを進めた。ハイセイコーは「仕掛けるには、まだ早すぎる」という増沢の思いとは裏腹に第3コーナーで先頭に立ったものの粘りきれず、タケホープから1秒0差の6着に敗れた。前年の11月20日に報道された、ハイセイコーが5月から翌1975年までアメリカへ遠征し、ワシントンDCインターナショナルなどに出走するという計画は、この敗戦により中止された。また、この頃からハイセイコーは従来の呼称であった「怪物」ではなく、「怪物くん」という愛嬌のある呼称で呼ばれるようにもなっていた。 6月2日、宝塚記念(第15回)に出走。このレースで単勝1番人気に支持されたのはストロングエイトであり、ハイセイコーはデビュー以来初めて単勝1番人気に支持されなかった。増沢によると天皇賞(春)に敗れた後、自身のもとに「あれで怪物か。普通の馬じゃないか」という声が届くなど、ハイセイコーに対するファンの見方には変化が生じていたという。しかしこのレースでハイセイコーはレコードタイム(2分12秒9)で走破し、2着のクリオンワードに5馬身の着差をつけて勝利を収めた。レース後、鈴木勝太郎は勝利を喜びながらも「タケホープに出てきてほしかった。きょうは絶対に負けなかっただろう。タケホープはあれだけの速いタイムでは走れないよ」とタケホープへの対抗心を露わにした。タケホープは天皇賞(春)出走後に屈腱炎を発症し、休養に入っていた。増沢は後に、この勝利で失いかけていた人気が急に復活したと振り返っている。 さらに同月23日、高松宮杯に出走。レース当日、中京競馬場には同競馬場史上最多の6万8469人の観客が入場した。増沢によるとこの時ハイセイコーは夏負けの症状を見せ始めており、体調は宝塚記念の時ほどよくはなかった。増沢は逃げることも視野に入れていたが思っていたほどスピードに乗れず、3番手からの競馬となった。スタート後ずっと前進を促されていたハイセイコーは第3コーナーに差し掛かったところでスピードに乗り始め、第4コーナーで先頭に並びかけ、直線半ばで先頭に立ちそのまま優勝した。高松宮杯を勝ったことでハイセイコーの獲得賞金は1億9364万5400円になり、メジロアサマの記録(1億8625万8600円)を抜いて当時の中央競馬史上最高額となった。レース後、増沢はハイセイコーの年内一杯での競走馬引退を示唆した。 6月27日にハイセイコーは東京競馬場へ戻り、夏場は前年と同様に東京競馬場で調整を続け、秋になって10月13日の京都大賞典に出走。2番人気に支持されたが、休養明けで体調が万全でなかったことと、62kgという負担重量が響く形で4着に終わった。4着の賞金270万円を加算したハイセイコーの獲得賞金額は2億116万5400円となり、中央競馬史上初めて2億円を超えた。 京都大賞典の後、「目標はあくまでも天皇賞、有馬記念」と語った陣営は、天皇賞(秋)へのステップレースとして11月9日のオープン戦を選び、タケホープも出走したこのレースでハイセイコーは2着となった。しかしレース後に鼻出血が確認され、「競走中に外傷性のものではない鼻出血を起こした競走馬は、当該競走から起算して発症1回目は1ヵ月間競走に出走できない」というルールの適用を受けることとなり、天皇賞(秋)への出走は断念せざるを得なくなった。鈴木康弘は「ハイセイコーにとって天皇賞はよほど運のないレースとなってしまった」と嘆いた。増沢も天皇賞(秋)が行われた後、「使いたかった。あのレースの結果からみて、今でも残念だ」と出走できなかったことを悔いた。 12月15日、引退レースの有馬記念に出走。レース前に行われたファン投票では、前年に続き1位に選ばれた。レースではタニノチカラが逃げ、ハイセイコーは3番手につけた。向こう正面で馬群の中ほどに位置していたタケホープが前方へ進出を開始し、第4コーナーではタニノチカラをハイセイコーとタケホープが追う形となった。直線に入ってもタニノチカラとハイセイコー、タケホープとの差は縮まらず、タニノチカラが優勝した。ハイセイコーはタケホープとの競り合いを制し5馬身差の2着に入った。 2頭の競り合いに観客は優勝馬がすでに決まっていたにもかかわらず湧き上がり、ハイセイコーが2着でゴールした瞬間にスタンドからは一斉に拍手が沸き起こり、テレビ中継のカメラは勝ったタニノチカラではなくハイセイコーを大映しにした。増沢はこのレースを、体調がいま一つであったため2着に敗れたものの悔いはないと振り返っている。厩務員の大場はレース前、天皇賞(秋)に出走できずレース間隔が予定より開いた影響から馬体重が絞り切れていないと感じていた。 ハイセイコーがゴールした後、テレビの中継番組は増沢が11月に吹き込みを済ませていた楽曲『さらばハイセイコー』を流し、勝ったタニノチカラへの言及もそこそこに、ハイセイコーが引退レースでタケホープに先着したことを繰り返し伝えた。タニノチカラに騎乗していた田島日出雄によると、『さらばハイセイコー』は現地の観客スタンドにも流されていたという。 『さらばハイセイコー』は1974年のある時、競馬評論家の小坂巖が書いた「増沢がハイセイコーの歌を歌ったらヒット間違いなし」という文章をポリドール・レコード関係者が目にしたのをきっかけに制作された楽曲で、小坂が作詞を、猪俣公章が作曲を担当した。1975年(昭和50年)1月に発売されるや『さらばハイセイコー』はラジオのヒットチャートで1位を、オリコンのヒットチャートで最高4位を獲得し、50万枚を売り上げた。同年4月には同じく増沢の吹き込みで『ハイセイコーよ元気かい』が発売され、14万枚を売り上げた。
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5歳時(2020年)
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「モノモイガール」の記事における「5歳時(2020年)」の解説
2020年5月16日、1年半ぶりのレースとなる一般戦を快勝。7月11日にはG2ラフィアンSで久々の重賞勝利。続く9月4日のG1ラトロワンヌSも勝利し、2018年11月のブリーダーズカップ・ディスタフ以来のG1勝利を果たした。 11月7日、G1ブリーダーズカップ・ディスタフに出走。直線入口で先頭に立つと、2着に1馬身3/4馬身差をつけて快勝した。2018年に続き、同レース2勝目となった。 ブリーダーズカップ・ディスタフを勝利した翌日11月8日、キーンランドで行われた繁殖牝馬セールの目玉として本馬が出され、当セールにおける史上三番目の高額レコードとなる950万ドル(約10億4500万円)で地元アメリカのスペンドスリフトファームに落札された。そして、この年のエクリプス賞最優秀古牝馬を受賞した。
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5歳時(2016年)
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「ストップチャージングマリア」の記事における「5歳時(2016年)」の解説
5歳時も始動は遅く、この年も4月9日のマディソンステークスから始動、シアードラマ相手にクビ差2着に敗れた。その後6月11日のオグデンフィップスステークス(G1・ベルモントパーク・8.5ハロン)で6着に敗れ、9月7日にタウン・アンド・カントリーレーシングの代表であるシャノン・ポッターにより引退が発表された。 11月、ストップチャージングマリアはファシグ・ティプトンのノベンバーセールに再び上場され、同セールでの牝馬としては初の200万ドル越えとなる280万ドルでスリーチムニーファームに落札された。
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5歳時 (2019年)
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「サンダースノー」の記事における「5歳時 (2019年)」の解説
前年に引き続いてドバイに遠征し、3月9日のマクトゥームチャレンジラウンド3では惜しくも2着。3月30日のドバイワールドカップでは道中3番手で追走すると直線で早めに抜け出したグロンコウスキーとの壮絶な叩き合いをハナ差制し、史上初の連覇を達成した。帰国後、6月8日のメトロポリタンハンデキャップに出走したが3着に終わる。11月5日、ゴドルフィンのホームページで現役引退が発表された。引退後はダーレー・ジャパン・スタリオン・コンプレックスで種牡馬となる。
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5歳時(2017年)
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「オーダーオブセントジョージ」の記事における「5歳時(2017年)」の解説
5歳初戦のヴィンテージクロップステークス(G3)で2着、続くリステッドレースで1着となったオーダーオブセントジョージは、連覇を目指してゴールドカップ(G1)に出走。直線では外から追い込んで先頭のビッグオレンジ(Big Orange)に並ぶも、競り負けて短頭差2着に敗れた。次走のアイリッシュセントレジャーステークス(G3)を勝利して同レース3連覇を達成すると、アイリッシュセントレジャー(G1)に出走し、直線手前で逃げ馬を交わした後も後続との差を広げ、2着馬に9馬身差をつけて圧勝した。その後、前年と同様に凱旋門賞(G1)に出走し、先行して勝ち馬エネイブルをマークするも、エネイブルから5馬身1/4差の4着に敗れた。続くブリティッシュ・チャンピオンズ・ロングディスタンスカップ(G2)を勝利し、この年を終えている。 この年のカルティエ賞最優秀ステイヤーに選出され、2年連続での受賞となった。
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5歳時(2019年)
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初戦は7月のエクリプスステークスになり、前年のBCターフで2着だったマジカルに3/4馬身差を付けて優勝した。 7月27日のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(G1、1マイル3ハロン211ヤード)では序盤から後方を進み、最後の直線に入ると外から一気にスパート、先行していた世界ランク1位のクリスタルオーシャンをクビ差退けて優勝した。最後の直線では2頭がまったく並んでの「一騎打ち」「火の出るような叩き合い」「ヘビー級ボクサーの足を止めての殴り合い」「大接戦の対決(head-to-head confrontations)」となり、これが最後の直線いっぱいに4、500メートルあまり続いた。残り1ハロンほど(約201メートル)でわずかにエネイブルの勢いが勝り、残り数完歩でエネイブルが前に出て、最後はクビ差でエネイブルが勝利した。 この模様は、「世紀の一戦」と評された1975年のグランディとバスティノのレースを様々なメディアが引き合いにだしつつ、「巨星と巨星の決闘(duel de titans)」、「ゴールの瞬間、毛が逆立つような興奮(at the line it made your hair tingle)」(タイムズ、Brough Scott)、「何十年も語り草になる(be talked of for decades)」「伝説的死闘(epic duel)」(BBC)、「史上最高かつ最も興奮したレースの一つ(one of the greatest and most pulsating races ever seen)」(レーシング・ポスト誌Peter Scargill、レーシング・ポスト誌Robbie Wilders)、「永久に語り継がれる(always linger longest in the memory)」(Racint TV)、「おそらく競馬史上最高の一戦(Perhaps it even was the finest race ever run.)」(ブラッドホース誌)、などと評した。 続くヨークシャーオークスでは好スタートからハナを切るとそのままゴールまで逃げる形になり、前走2着のマジカルに2馬身半差をつけて優勝した。また、この勝利によって当馬は2017年に続く同レース2勝目となった。 そして迎えたフランス凱旋門賞(G1)では史上初の3連覇が期待され、欧州の主要ブックメーカーは軒並み2倍を切るオッズをつけた。当年の凱旋門賞は出走頭数は12頭と数こそ少なかったものの当年のアイリッシュチャンピオンステークス勝ち馬マジカルや前年の凱旋門賞4着で地元フランスのヴァルトガイストなどのこれまでに対戦したG1馬、当年のパリ大賞典を勝ったアイルランドのジャパンや当年のフランスダービー馬ソットサスなどの初対戦となるG1馬、キセキらの日本から参戦したGI馬、チェコから参戦した馬など非常に濃いメンバーとなった。迎えた当日、パリロンシャン競馬場は午前中に雨が降り続き、午後こそ降り止んだもののレースは重の馬場状態で行われる事となった。不確定要素が出てきたものの、やはり2倍を切る圧倒的な単勝1番人気に支持された。そして迎えたレース、まずまずのスタートを見せるとそのまま先団につけて前目を追走、そのままコーナーを通過するとフォルスストレートで日本馬フィエールマンに並ぶ3番手辺りに歩を進めると直線途中で先頭に立ち抜け出しを図った。しかし残り100m付近で外から猛追してきたヴァルトガイストに差し切られて2着に敗れた。エネイブル自身はレース連続12勝、G1レース連続10勝の記録が途切れ、史上初の凱旋門賞3連覇とはならなかった。レース後に鞍上のデットーリ騎手は「状態も良かったし、良く走ってくれたけど、あまりにも馬場が悪過ぎたのが響いた」「もし馬場が良ければ、(ヴァルドガイストより)先にゴールできていたと思います」と悔しい表情で語り、レース終了後の夜に涙を流した事を明かした。 凱旋門賞での敗戦後は5歳での引退かこのまま現役を続行するかの選択に注目が集まっていたが、陣営は6歳シーズンも現役を続行する方針を固めた。
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5歳時(1993年)
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「ニシノフラワー」の記事における「5歳時(1993年)」の解説
5歳となった1993年はマイラーズカップから始動、前走で退けたヤマニンゼファーとの再戦となった。レースは先行するニシノフラワーをヤマニンゼファーがマークする形となったが、最終コーナーでニシノフラワーが後続を楽に突き離し、同馬に3馬身半差を付けて圧勝した。 その後、当年より国際競走となった安田記念に向けて調整が続けられ、5月に迎えた同競走では1番人気に支持された。しかし先団でのレース運びから直線で伸びず、10着と大敗を喫した。以後調子を落とし、春のグランプリ・宝塚記念で8着。休養を経た秋緒戦・スワンステークスでは3着と復調の兆しを見せたが、続くGI・マイルチャンピオンシップでは13着と再び大敗した。連覇を目指した年末のスプリンターズステークスでは3着となり、これを最後に競走馬を引退。翌1994年1月9日、阪神競馬場で引退式が行われた。
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5歳時(2018年)
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「ミッキーロケット」の記事における「5歳時(2018年)」の解説
前年と同じく日経新春杯から始動、連覇を狙ったが4着に敗退。京都記念では主戦の和田騎手が騎乗停止で乗れず松若騎手との再コンビで挑んだが結果は出なかった。続く春の天皇賞では9番人気ながら4着に食い込み、地力の高さを見せた。 2018年6月24日、第59回宝塚記念に出走。7番人気ではあったものの、レースを内で進めると最後の直線で先頭に立ち、香港馬ワーザーの強襲をしのいで優勝。鞍上の和田竜二は、2001年の天皇賞(春)をテイエムオペラオーで勝って以来、17年ぶりとなるJRA・G1制覇となった。 秋シーズンは京都大賞典で始動する予定だったが体調が整わず天皇賞(秋)で始動、レイデオロの5着に敗れる。その後、主戦の和田が怪我で戦線離脱し、ジャパンカップには戸崎圭太との新コンビで出走予定だったが右トモの筋肉痛のため回避し有馬記念に直行。有馬記念の数週間前に主戦の和田騎手は復帰していたがここで短期免許で来日していたオイシン・マーフィーを鞍上に迎えるがブラストワンピースの4着に終わった。翌2019年は京都記念から始動する予定だったが、脚部不安を発症し現役を引退することになった。引退後は優駿スタリオンステーションで種牡馬となった。 日経新春杯 宝塚記念
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5歳時(1977年)
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「テンポイント」の記事における「5歳時(1977年)」の解説
菊花賞、有馬記念と続けて2着に敗れたテンポイントは一部から「悲運の貴公子」と呼ばれるようになった。陣営は天皇賞(春)優勝を目標に据え、同レースの前に2回出走させる予定を立てた。 テンポイントは京都記念(春)を59kg、鳴尾記念を61kgの斤量を背負いながらもともに着差はクビ差ながら連勝し、天皇賞(春)では1番人気に支持された。レースでは序盤は5、6番手でレースを進め、第4コーナーで先頭に立つとグリーングラス、ホクトボーイ、クラウンピラードらの猛追を退けてそのままゴールし、初の八大競走制覇を果たした。前年の有馬記念のレース後、鹿戸は「なにかひとつ、テンポイントに大きなレースを勝たせてやりたかった。それが心残りだ。しかし、来年になれば、きっと……」とコメントしたが、この言葉は現実のものとなった。 天皇賞(春)優勝後、陣営は宝塚記念への出走を決めた。同レースには持病の深管骨瘤で天皇賞(春)に出走しなかったトウショウボーイも出走を決めていた。トウショウボーイは前年の有馬記念以来5か月のブランクがあり調教の動きが思わしくなく、厩務員の長沼昭二が「気合いが全然足りない」とコメントしていたことから人気を落とし、テンポイントが1番人気に支持された。しかしレースでは逃げたトウショウボーイを2番手から追走したものの最後まで交わすことができず、2着に敗れた。トウショウボーイがラスト1000メートルで記録した走破タイム57秒6は、当時の芝1000メートルの日本レコードよりも早かった。トウショウボーイに騎乗した武邦彦は、「出走頭数が少なくハイレベルの馬が2、3頭に絞られたレースでは先に行った方が有利」という鉄則に従った騎乗をしたと、鹿戸は「相手をトウショウボーイだけに絞りきれなかった。ずっと後ろの馬がいつ来るか警戒していて、トウショウボーイに逃げきられてしまった」、「ぼくのミスです」とそれぞれこのレースを振り返っている。この敗戦により「テンポイントは永久にトウショウボーイには勝てないだろう」 という声が上がるようになった。 宝塚記念出走後、テンポイントはアメリカで行われるワシントンD.C.インターナショナルへの招待を受けたが陣営はトウショウボーイを倒して日本一の競走馬になるべく、招待を辞退して年末の有馬記念を目標とした。小川と鹿戸は調教時に鞍に5kgの鉛をつけ、それまでよりも強い負荷のかかる方法で鍛錬を行うようになった。この期間は時に80kgを背負って調教を行っていたこともあり、厩務員の山田によるとこれが功を奏し、9月に入ってテンポイントの馬体重は20kg以上増え、500kg近い筋骨隆々の馬体になった。これによりトウショウボーイに劣る部分がなくなり、「これなら勝てる」という感触を得たと山田は振り返っている。また、陣営はトウショウボーイに勝つために逃げる戦法でレースに臨むことを決定した。 夏期休養後の京都大賞典では63kgの馬体で斤量を背負いながら2着に8馬身の差をつけて逃げきり勝ちを収めた。馬主の高田は、後にこの京都大賞典での勝ちっぷりを見て以前からの夢だった海外遠征を実行するときが来たと判断したという。続くオープン戦(東京芝1800メートル)も逃げ切って優勝した。 迎えた第22回有馬記念ではテンポイントとトウショウボーイの一騎打ちとみられ、テンポイントはファン投票において1位の支持を集め、単勝オッズでも1番人気に支持された。レース前、小川は鹿戸からどのように騎乗するか尋ねられると、「勝てるよ」と言い、高田に対しても「私の競馬人生の中で、これほど充実した馬を見たのは初めてです。相手がどんな戦法を取ろうとも、今のこの馬なら100%負けることはありませんよ」と自信を持って語った。レースではスタート直後からテンポイントとトウショウボーイが3番手につけたグリーングラス以下の後続を大きく引き離し、マッチレースのような展開でレースを進めた。鹿戸は宝塚記念の敗北を踏まえて「少しでも前に行かなければ勝てない」という考えに至っていたが、スタート直後に先頭に立ったトウショウボーイを交わそうとレースを進めるうちに引くに引けない展開にはまり込み、途中で鹿戸は「これで負けたら騎手をやめなけりゃいかんな」と覚悟を決めた。抜きつ抜かれつの展開は最後の直線まで続き、激しい競り合いの末テンポイントが優勝。トウショウボーイと対戦したレースで初めて優勝を果たした。このレースは中央競馬史上最高の名勝負のひとつとされている。レース前にはスピリットスワプス陣営が逃げ宣言をしていたもののテンポイントとトウショウボーイは一度も他馬に先頭を譲らなかった。なお、3着にグリーングラスが入ったことについて鹿戸は「『ああ、怖いレースをしたんだな』と思った」と回顧し、武邦彦は記者からこのことを聞かされると「3着?グリーングラス?来てたの。知らなかったよ」と答えた(レースに関する詳細については第22回有馬記念を参照)。 この年、テンポイントは1956年のメイヂヒカリ以来史上2頭目の満票で年度代表馬に選出された。
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5歳時(1965年)
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当初陣営はサンケイ大阪盃を経て天皇賞(春)に出走する計画を立てたが、蹄が炎症を起こした影響から食欲が低下するなど体調が芳しくなく、また腰痛を発症していたため、武田は天皇賞(春)の回避を決定した。武田は計画を立て直し、オープンを経て宝塚記念に出走し、その後は秋まで休養させることにした。 シンザンはオープン競走に二度出走(いずれも優勝)したあと宝塚記念に出走。出走馬選定のファン投票では第1位であった。不良馬場への対応を不安視する声も上がったが、レースでは終始好位につけ、最後の直線コースに入ると外から先行馬を交わし、スタートの出遅れから追い込んだバリモスニセイを退け勝利した。 前年に引き続き夏は京都競馬場で過ごすことになった。この年は前年ほど暑くはならず、また早い段階から氷の柱で馬房を冷やすなど十分な対策を施したため、シンザンは夏負けを起こすことなく過ごすことができた。 秋のローテーションとして、武田は当初阪神競馬場のオープンに出走したあとで関東へ輸送し、オープンを経て天皇賞(秋)に出走する計画を立てた。しかし阪神競馬場のオープンを優勝した直後、東京、中山、阪神で馬インフルエンザが蔓延して競走馬移動禁止令が出され、禁止解除を待つ間に出走を予定していたオープンが行われてしまった。武田はやむなく目黒記念への出走を決めた。シンザンは63キログラムという重い斤量を課されたがこれを克服し、第4コーナーで先頭に立つとそのままゴールし優勝した。 天皇賞(秋)では目黒記念でシンザンに敗れた加賀武見騎乗のミハルカスが大逃げを打ったが、シンザンは直線でミハルカスを交わして先頭に立ち、そのままゴールし優勝した。栗田にとっては初の天皇賞優勝で、レース後の表彰式では涙を見せた。なお、この競走でシンザンの単勝支持率は78.3パーセントで、単勝の配当は100円元返しであった。JRAのGI級競走における単勝の100円元返しはほかに5例しか存在しない。 このあと、平場オープン競走を1戦はさみ、有馬記念に向かった。単勝オッズ1.1倍の圧倒的1番人気で、前年3位だった人気投票も1位となった。この時の獲得票数26,853票はそれまでの記録を40%以上更新するもので、その後もハイセイコーやテンポイントでも破ることはできず、投票方式が変更された1978年まで破られなかった。 シンザンは第4コーナーで逃げたミハルカスに並びかけたが、ミハルカスに騎乗していた加賀はシンザンに馬場状態の悪いインコースを走らせるために外へ進路をとり、外側のラチ近くを走行した。しかし、シンザンはミハルカスのさらに外を通ってミハルカスを躱し、優勝した。このときレースを撮影していたテレビカメラの視野からシンザンが消えてしまい、「シンザンが消えた!」と実況された。(レースの詳細は第10回有馬記念を参照。) レース後、松本善登は「シンザンが外を回れと言った」とコメントした。また松本は、のちにレースを振り返って「3コーナーから4コーナーの中間で、前に居る馬は皆バテていたので、相手は加賀の馬だけだと思いながら、内には入らないつもりで乗った。4コーナーの入口で外に振られたが、内へ持ち直す必要は無い、並べばこっちが強いと信じていたから」とも語っている。俳人であった武田はシンザンの五冠達成に「勝ち戻る手綱(つな)に五冠の年惜しむ」と句を詠んだ。
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5歳時(2016年)
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「サトノアラジン」の記事における「5歳時(2016年)」の解説
4か月の休養明けとなった5歳初戦、ダービー卿チャレンジトロフィーは0.2秒差の3着、続く京王杯スプリングカップでは今後主戦となる川田将雅が騎乗、レースは後方待機から直線で力強く末脚を伸ばしてサンライズメジャーに1馬身半差をつけ重賞初制覇を飾った。勝ちタイム1分19秒6はレースレコードでの勝利となった。次走の安田記念は4着に敗れる。夏は休養に充て5か月ぶりのレースとなったスワンステークスは後方から競馬を進め、直線外から上がり最速の脚で突き抜け、サトノルパンに1馬身1/4差をつけ1着、重賞2勝目を手にした。次走のマイルチャンピオンシップは1番人気での出走となったが今一つ伸びきれず5着に敗れる。その後は前年と同じく香港に遠征し香港マイルに出走、1番人気となるが7着に終わる。
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5歳時(2002年)
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「アグネスデジタル」の記事における「5歳時(2002年)」の解説
2002年はドバイワールドカップへの出走を目標に、前年故障のため回避したフェブラリーステークスに出走。史上最多10頭のGI優勝馬が顔を揃えたなかでアグネスデジタルは1番人気の支持を受け、レースでは6番手追走から先行勢を差し切って優勝した。南部杯、天皇賞、香港カップ、フェブラリーステークスと4戦連続でのGI制覇は史上初の記録となった。既に統一GIのマイルチャンピオンシップ南部杯を制したことにより芝・ダート両GI制覇を達成していたが、この勝利により前年のクロフネに次ぐ史上2例目の中央競馬における芝・ダートの両GI制覇を達成することとなった。 のち香港経由でドバイに入り、3月23日ドバイワールドカップを迎えた。本命と目されていた前年の凱旋門賞優勝馬・サキーに騎乗するランフランコ・デットーリは警戒する相手としてアグネスデジタルを挙げたが、アグネスデジタルは航空機のトラブルにより香港で一時足止めされていたほか、ドバイ到着後も集中豪雨があったため調教不順で、その状態は芳しいものではなかった。レースでは後方待機から最後の直線で追い込みを図ったが、勝ったストリートクライ(UAE)から約16馬身差の6着と敗れた。白井は後に「コースは合っていたと思うんだけど、輸送で足止めくらって熱発したりして、絶好の状態で行ったのにその半分以下になった。立て直すのに日にちがなくて、ついて回るのが精一杯でね。言い訳ではなくて、ドバイは調整が難しいと思った」と回顧している。 その後は香港へ戻り、香港マイル優勝馬エイシンプレストンと共にクイーンエリザベス2世カップに出走。当日はグランデラ(UAE)、エイシンプレストンに次ぐ3番人気となった。レースでは5番手追走から最後の直線で先頭に立ったが、ゴール前でエイシンプレストンに差され、半馬身差の2着となった。日本国外の競走における日本馬の1、2着独占は史上初の出来事であった。なお、今回のアグネスデジタルのような2カ国に跨った転戦の場合、従来は検疫上の理由から一度日本に帰国しなければならなかったが、白井がJRA理事長に訴えてドバイから香港への直接出走を可能とした。評論家の合田直弘は「これも海外遠征史におけるひとつの大きな成果だった」と評価している。
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5歳時(1959年)
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「ラウンドテーブル」の記事における「5歳時(1959年)」の解説
1959年、ラウンドテーブルは生涯獲得賞金額の世界レコードを更新し続けた。2月のワシントンバースデーハンデキャップで右前肢を負傷し16着に敗れた(ちなみにこのレースの優勝馬は日本から遠征していたハクチカラである)が、6月に復帰すると前年と同様にアメリカ各地の競馬場を転戦し芝・ダート両方のレースに出走した。この年のラウンドテーブルの成績は14戦9勝、うち7勝がレコード勝ちであった。
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5歳時(2003年)
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「コンガリー (競走馬)」の記事における「5歳時(2003年)」の解説
この年はコンガリーにとって充実の年となった。年明けまもなくにサンタアニタパーク競馬場から始動し、1月4日のサンパスカルハンデキャップ(G2・8.5ハロン)、2月2日のサンアントニオハンデキャップ(G2・9ハロン)で2連勝を飾るスタートを見せた。春の西海岸の大一番であるサンタアニタハンデキャップ(G1・3月1日・10ハロン)にも出走し、ここではメダグリアドーロとの対決が予期されていたが、メダグリアドーロ側が回避したので対決は実現しなかった。コンガリーは124ポンドのトップハンデを課されながらも単勝1.6倍という断然の1番人気に推されていた。しかしこの競走を制したのは3番人気のミルウォーキーブルー(英語版)で、最後の直線ではコンガリーが先頭に立っていたものの、それをアタマ差差し切って優勝をさらっていった。 続いて4月12日のアケダクト競馬場で出走したカーターハンデキャップ(G1)は7ハロンの短距離戦であったが、トップハンデの122ポンドを背負いながらも、2着馬アルデバランに3馬身半差をつけて優勝、その距離適性の広さを見せた。その後メトロポリタンハンデキャップ(G1・5月26日・ベルモントパーク・8ハロン)では6着と大敗したものの、ハリウッドゴールドカップ(G1・7月13日・ハリウッドパーク・10ハロン)では先行抜け出しの競馬で2着ハーランズホリデーに3馬身差をつけて優勝した。 その後ターフウェイパーク競馬場のケンタッキーカップクラシックハンデキャップ(G2・9月13日・9ハロン)2着を挟んで、10月25日のブリーダーズカップ・クラシック(G1・サンタアニタパーク・10ハロン)に挑戦。一時は先頭に立っていたものの、最後の直線でプレザントリーパーフェクトらに交わされて4着に敗れた。 この年最後に出走したのは前年と同じくシガーマイルハンデキャップ(G1・11月29日・アケダクト・8ハロン)であった。コンガリーは、先行するマイダスアイズという馬の後ろ2番手につけて道中を進めると、残り2ハロンのところで同馬を捕まえてそのまま差を広げ、最後には2着馬に5馬身1/4差をつけて同競走連覇を飾った。
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5歳時(1977年)
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天皇賞(春) 京都記念・鳴尾記念と連勝で波に乗ったテンポイントが、見事1番人気に応え悲願のタイトル獲得。だが、トウショウボーイ長期休養中で不参加と言う不満が残る勝利であった。 なお、当レースにテンポイントと共に出走していたグリーングラスは、体調が思わしくなく4着に敗れる。 宝塚記念 天皇賞(春)を制し打倒トウショウボーイに挑んだ1番人気のテンポイントであったが、有馬記念以来5か月ぶりの出走となるトウショウボーイが武邦彦の絶妙のペース配分で優勝。 なお、 グリーングラスも後続を突き放し3着入線。2度目の上位独占となる。 天皇賞(秋) トウショウボーイとグリーングラスが激しく競り合い共倒れ。優勝馬はホクトボーイ。 なお、当時の天皇賞は勝ち抜け制であった為、既に天皇賞馬となっているテンポイントには出走権が無かった。 有馬記念 トウショウボーイとテンポイントが激戦を繰り広げた末にテンポイントが勝利。グリーングラスも3着に入り、TTGが3度目の上位独占。 なお、KBS京都とカンテレにはこの回のVTRが保存されている。
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5歳時(1963年)
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「リユウフオーレル」の記事における「5歳時(1963年)」の解説
5歳に入り、年初のオープン戦、トップハンデを課された日本経済新春杯(2400メートル)を連勝した。春の大阪杯(1800メートル)では60.5キロのトップハンデを背負い、5着に敗れた。これが4歳秋以降の国内戦では生涯で最も低い着順となった。スワンステークス(1800メートル)でも60キロを負担して3着になったあと、春の天皇賞を迎えた。
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5歳時(1997年)
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「サカモトデュラブ」の記事における「5歳時(1997年)」の解説
適性のあるレースを求め、この頃から遠征に出る事が多くなる。札幌(道営開催)の北海道スプリントカップで5着、大井の東京盃では2着と好走したものの、続くJRAの根岸ステークスで大敗。シーズン未勝利に終わる。この頃になると実績があるレースが右回り短距離に偏りつつあった。
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5歳時(2019年)
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「エアウィンザー」の記事における「5歳時(2019年)」の解説
5歳を迎えた2019年は、鞍上に共同通信杯以来となる武豊を迎えて3月10日中京競馬場の金鯱賞から始動。前日発売の段階で2017年のJRA最優秀2歳牡馬ダノンプレミアムやエリザベス女王杯勝ち馬で香港ヴァーズでも2着に奮闘したリスグラシューなどGI馬5頭を抑えて1番人気に推され、1番人気を保ったまま迎えたレース本番では稍重の馬場に脚をとられてダノンプレミアムの3着に終わったものの、出走メンバー関係から前哨戦の内容としては及第点を与えられた。初のGI出走となった大阪杯もGI馬が8頭居並ぶ中で5着とする。秋はオールカマーからの始動が予定されていたが、京都大賞典からの使い出しに変わり12着。レース後、右前球節の剥離骨折が判明して手術が行われたのち放牧に出され、2019年の残りシーズンは全休することとなった。
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5歳時(1980年)
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「アグネスレディー」の記事における「5歳時(1980年)」の解説
古馬となった1980年は、日経新春杯から始動。生涯最低に並ぶ9番人気と低評価であったが、3着と好走する。続く京都記念(春)では最後の直線入り口からメジロトランザムと一杯に競り合い、同馬をハナ差退けて優勝。オークス以来の勝利を挙げた。次走オープン戦を2着として春季のグランプリ・宝塚記念に出走。しかしここは不良馬場に手間取り、最下位と大敗を喫した。 休養を経て、朝日チャレンジカップに出走。ファインドラゴン、シルクスキーとの競り合いを制し、重賞3勝目を挙げた。当日、馬主の渡辺はイギリスの大種牡馬・ミルリーフとの交配権確保のため渡英しており、表彰式には不在であった。その後交渉が成立し、本競走を以て引退が決定。12月14日、京都競馬場で引退式が行われた。
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