45歳
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サッカー国際審判員の定年。 高年齢者雇用安定法における「中高年齢者」下限。
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4 - 5歳
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ダンツシアトルが復帰したのは1993年の9月だった。初戦の苗場特別(900万下)は4着だったが、続く浦安特別(900万下)を快勝。この後、ウェルカムステークス(1500万下)も勝ち、オープン入りを果たした。 重賞に初挑戦したのは年が明けて古馬になった1994年1月の日経新春杯だった。4番人気に推されたが、直線で失速し7着に敗れた。その後、すばるステークス8着、バレンタインステークス3着とオープン特別を2戦した後、左前脚に屈腱炎を発症し、ふたたび長期休養を強いられた。その間にクラスも準オープンに降級した。
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4 - 5歳(1971 - 1972年)
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「ナスノカオリ」の記事における「4 - 5歳(1971 - 1972年)」の解説
4歳となる1971年1月、新春4歳牝馬ステークスで始動したが、初の重馬場ということもあり6着に敗退した。その後一休みして、2月28日に阪神競馬場に移動した。この頃より、抱えていた消化の悪さや熱発が見られなくなった。3月28日の桜花賞のトライアル競走である阪神4歳牝馬特別に出走した。9番人気の評価を受け、好位から直線で逃げ馬を捕らえて先頭に立ったが、ソラをつかうなどして伸びず、追い上げた人気薄のエリモジェニーにクビ差かわされた2着となった。嶋田は「良馬場なら楽しみ」と桜花賞に期待した。 4月18日の桜花賞は、雨が降り不良馬場となった。稲葉は、重馬場が苦手だとして桜花賞を「七分あきらめている」というほどであり、出走前日まで9番人気であった。ナスノカオリは、調教内容、体調の両方が評価されたこともあり、当日直前には1番人気に支持された。稲葉は、嶋田に「スタートで出遅れるな。それに負けてもいいから外を回ってこい」と指示した。嶋田は出遅れないように右足に拍車を装着し、良いスタートを切った。逃げ馬を臨む好位に位置した。最終コーナーで大外から逃げ馬に迫り、残り100メートルで先頭となるとソラなどを使わずに伸び、後方に2馬身つけて勝利した。嶋田にとって初のクラシック勝利となった。 東京に戻り、優駿牝馬(オークス)のトライアル競走である東京4歳牝馬特別に2番人気で出走した。3番手から直線コースの坂で先頭となり、後方に1馬身半離して勝利。連勝の身で、6月5日の優駿牝馬(オークス)に参戦し1枠1番に収まった。これまでサルビア賞、桜花賞、東京4歳牝馬特別など4回1枠1番となり、そのすべてで勝利しているジンクスもあり1番人気に推された。スタートから馬場の内側の好位につけていたが、最終コーナーではすでに後退。直線に入っても巻き返すことができず10着に敗退した。嶋田は敗因を重い馬場に求めていた。 夏を休養して、牝馬東京タイムズ杯で復帰し、トウメイに差をつけられて5着。それ以降定期的に出走したが、1年4か月間勝利することができなかった。5歳秋に新潟競馬場と福島競馬場のオープンを3勝し、有馬記念の推薦馬に選出されて出走。最低人気ながらタケデンバードに先着するなど9着となり、このレースを最後に競走馬を引退した。
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4 - 5歳(2003 - 04年)
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「ファインモーション」の記事における「4 - 5歳(2003 - 04年)」の解説
有馬記念以後、放牧に出され、福島県いわき市の競走馬総合研究所常磐支所「馬の温泉」での休養を経て、2003年5月に帰厩した。8月17日、札幌競馬場・芝1800mコースのクイーンステークス(GIII)で復帰し、単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持されるも、オースミハルカの逃げ切りに遭い2着敗退。秋は、武のお手馬の関係で連覇がかかるエリザベス女王杯ではなく、天皇賞(秋)を目標に据え、前哨戦の毎日王冠(GII)に臨むも7着に敗れた。外国産馬の天皇賞(秋)出走は、2頭までに制限されており、2頭を過去1年間の獲得賞金によって決定する方式が採用されていたが、ファインモーションは毎日王冠を敗れたことで落選し、天皇賞(秋)出走を断念した。 代わりに、11月23日のマイルチャンピオンシップ(GI)に出走。大外枠から発走し、直線では逃げるギャラントアローを外から捕らえたが、さらに外側の大外から強襲したデュランダルが上回り、4分の3馬身差の2着敗退。武は直線半ばの時点で勝利を確信していたと回顧している。続いて12月21日の阪神牝馬ステークス(GII)では、ハッピーパスの追い上げをクビ差退けて1年振りの勝利を果たした。 5歳となった2004年も現役を続行。安田記念(GI)で始動するが、武が制御することができず13着敗退。夏の北海道に渡り、7月25日の函館記念(GIII)では馬群を避けることで制御が可能となったが、その反面大外を回ることとなった。直線で伸びたが、内を通ったクラフトワークにクビ差及ばず2着に敗れた。続いて8月22日の札幌記念(GII)では、最後方待機することで折り合い、好位で直線を迎えて抜け出した。2番手を進んだバランスオブゲームを半馬身かわして、後続を離し重賞5勝目を果たした。秋は、前年2着のマイルチャンピオンシップに出走するも、制御不可能となり直線で全く伸びず9着に敗退。その後のローテーションも計画されていたが、引退が決定した。
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4-5歳(2013年-2014年)
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「スピルバーグ (競走馬)」の記事における「4-5歳(2013年-2014年)」の解説
東京優駿から1年余ののちの2013年8月に戦列に1000万下クラスで復帰し、復帰初戦の日高特別は馬場が合わず6着に終わるが、秋に入って神奈川新聞杯を勝って3勝目を挙げ、11月の1600万下戦ノベンバーステークスも勝って2連勝。この後は再び休養に入り、2014年のメイステークスで復帰して5勝目を挙げる。続けてエプソムカップに出走予定も骨瘤を発症して回避し、秋まで待機を余儀なくされる。秋初戦の毎日王冠3着のあと天皇賞(秋)に駒を進め、レースでは後方から進めて直線で外から差し切り、ジェンティルドンナを4分の3馬身差下してG1競走初制覇を遂げた。馬主の山本英俊にとっても、所有馬初のGI勝利となった。11月のジャパンカップでも3着に入った。
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4-5歳(1980-1981年)
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「アンバーシャダイ」の記事における「4-5歳(1980-1981年)」の解説
デビューは4歳になった1980年1月5日の新馬戦と遅れ、二本柳厩舎の主戦騎手である加藤和宏を鞍上に据え、中山のダート1700mを3着。折り返しの芝1600mの新馬戦を勝った。その後は400万下と若草賞(400万下)を11着、12着と大敗し、皐月賞への道を絶たれた。 皐月賞当日の400万下を勝ち、東京での4歳中距離S(800万下)を3着としたので、日本ダービーへの出走権は得たものの、当日は27頭中19番人気であり、オペックホースとモンテプリンスの叩き合いの遥か後方となる9着であった。このダービーが4歳時に唯一出走した重賞となり、秋は菊花賞には出走せずに条件特別のみを走った。 5歳となった1981年は香取特別(1200万下)5着、ブラッドストーンS(1200万下)3着、卯月賞(1200万下)1着とした後、4月のダイヤモンドSにダービー以来となる東信二を鞍上に出走。2度目の重賞挑戦で9頭中7番人気ながら3着と好走すると、その後は加藤に手綱が戻り、6月のみなづき賞(1700万下)をレコードタイムで快勝。休養を経て秋緒戦の初秋S(1200万下)も快勝し、連勝でオープンクラスに昇格。続く毎日王冠は日本レコードで駆けた牝馬・ジュウジアローにクビ差の2着となり、4番人気で第84回天皇賞に挑戦。二本柳厩舎からは本馬とホウヨウボーイの2頭出しとなり、両馬の主戦であった加藤はホウヨウボーイを選択し、アンバーシャダイには初コンビとなる郷原洋行が鞍上に据えられた。この天皇賞はホウヨウボーイとモンテプリンスの歴史的な叩き合いになり、ホウヨウボーイがハナの差で勝利。アンバーシャダイは2頭との力の差があり、人気通りの4着に沈んだ。 その後は鞍上に加藤が戻り、通算21戦目となる目黒記念・秋で1番人気に応えて重賞初制覇。続いて出走した有馬記念では、アンバーシャダイはホウヨウボーイ、モンテプリンスに次ぐ3番人気であったとはいえ、ファン投票は12位であった。 レースはモンテプリンスが先行し、ホウヨウボーイがやや後方、アンバーシャダイはこの2頭を前後ろに見ながら中団に位置した。直線を迎えてホウヨウボーイが早めに抜け出すと、アンバーシャダイはラチ沿いを駆けていたモンテプリンスの横を出し抜く様に一気に伸び、ホウヨウボーイに2馬身半の差を付けて快勝。人馬共にGI級レース&八大競走初制覇を果たした。戦前、「ホウヨウボーイが横綱ならアンバーシャダイは関脇か小結」と語っていた二本柳は表彰式で複雑な表情を浮かべ、後に「ホウヨウボーイに花道を飾らせてやりたかったが、そうは行かなかった」と語った。馬主の善哉は「いよいよノーザンテーストの時代だ」と予感するような喜びの表情を浮かべたが、東は後に2着狙いのレースをしたと明かしており、「交わした瞬間は『ウワァ、どうしよう勝っちゃった』って感じ」「ホウヨウボーイに悪かった」と回想している。
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4-5歳(1988-89年)
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「サッカーボーイ」の記事における「4-5歳(1988-89年)」の解説
3月6日の弥生賞(GII)で始動、単勝オッズ1.6倍の1番人気に推され、単枠指定制度の対象となった。関東の2歳チャンピオンであるサクラチヨノオーが、始動戦の共同通信杯4歳ステークス(GIII)4着から参戦し、5.5倍の2番人気となり、東西の2歳チャンピオンが顔合わせた。スタートからサクラチヨノオーが逃げる中、中団に位置。直線では外に持ち出して、差し切りを図ったが、逃げるサクラチヨノオーを捕らえることができず、サクラチヨノオーに2馬身以上離される3着。皐月賞の優先出走権を獲得し、出走を予定していたが、蹄の状態が悪化して飛節炎を発症したために回避した。 皐月賞を逃した陣営は、目標を東京優駿(日本ダービー)に切り替え、5月4日、トライアル競走であるNHK杯(GII)に出走。河内洋に乗り替わり、単勝オッズ3.5倍の1番人気に推された。中団内側の9番手に位置し、直線で追い上げるも、メジロアルダンやマイネルグラウベンの末脚に敵わず、それらに2馬身以上遅れる4着。東京優駿の優先出走権を獲得し、続いて5月29日の東京優駿(日本ダービー)(GI)に出走。8枠22番の大外枠が割り当てられ、3歳となってからは連敗していたにもかかわらず、皐月賞優勝馬ヤエノムテキなどを押しのけ、単勝オッズ5.8倍の1番人気に推された。後方に位置したが、直線で全く伸びずに15着。河内は敗因を距離に求めている。 その後は、夏休みに入らず続戦し、7月3日の中日スポーツ賞4歳ステークス(GIII)に出走。皐月賞優勝馬のヤエノムテキも同じく続戦しており、ヤエノムテキが単勝オッズ1.8倍の1番人気、サッカーボーイはそれに次ぐ3.4倍の2番人気となり、初めて1番人気を他に明け渡した。また、両者はともに単枠指定制度の対象となった。サッカーボーイは後方に位置し、先行馬有利のスローペースの中で追走。直線では大外に持ち出して追い上げ、ヤエノムテキが2番手先行から先に抜け出していた。サッカーボーイが末脚を見せてヤエノムテキに迫り、ゴール手前で半馬身差し切って先頭で入線。重賞2勝目となり、4歳になってから初めて勝利を挙げた。後に、河内はこの一戦をきっかけに「小細工は不要。少々外を回ることになっても気分良く走らせてあげればはじける馬だと分かりました」としており、その後は「他馬の騎乗依頼も来たけど“100%勝てる馬がいるから”と言って全てお断りしました」と述懐している。 続いて、8月21日の函館記念(GIII)に出走。古馬と初めての顔合わせとなったが、相手は、メリーナイス、シリウスシンボリという2頭の東京優駿優勝馬や、牝馬クラシック二冠馬のマックスビューティが出走する「夏のローカルとは思えない超豪華メンバーによる一戦」(辻谷秋人)であった。そんな中、古馬を押しのけて単勝オッズ2.2倍の1番人気。以下、人気はシリウスシンボリ、メリーナイスと続いた。後方に位置し、第3コーナーあたりで外から追い上げると、最終コーナーでは先頭のトウショウサミットに並びかけた。直線で先頭に立つと、好位のメリーナイスやシリウスシンボリを寄せ付けずに独走。その差を5馬身まで広げて先頭で入線、重賞2連勝となった。走破タイム1分57秒8は、ニッポーテイオーが1986年8月の函館記念で樹立したコースレコード・1分58秒6を0.8秒更新。さらに、サクラユタカオーが1986年10月の天皇賞(秋)で樹立した日本レコード・1分58秒3を0.5秒更新した。 その後については、小野の菊花賞出走、社台ファーム牧場長の吉田勝己や社台ファーム空港牧場長の大沢は天皇賞(秋)出走をそれぞれ指向していたが、その前哨戦に選んだ京都新聞杯出走前に左前脚の球節を捻挫し、結局すべて断念。代わりに、11月20日のマイルチャンピオンシップ(GI)に出走し、単勝オッズ2.2倍の1番人気に推された。スタートから後方に位置。第3コーナーあたりで外から追い上げると、最終コーナーを4、5番手で通過。直線では、逃げ粘る先頭のミスターボーイに5馬身のリードを許していたが、大外から末脚を見せて追い上げると、残り200メートル地点でかわして、後続を突き放した。その差を4馬身まで広げて先頭で入線し、重賞3連勝、GI2勝目を挙げた。また河内にとっては、この年のJRA重賞13勝目であり、自身が1986年に12勝を挙げて樹立した年間最多重賞勝利記録を更新した。レースについて河内は「(前略)坂の下りからの行きっぷりがよかったので、4コーナーで勝てると思った」と述懐している。 続いて、12月25日の有馬記念(GI)に出走。天皇賞(秋)でワンツー、ジャパンカップでツースリーとなったタマモクロス、オグリキャップという芦毛の2頭が参戦し、その2頭にサッカーボーイを加えた3頭が、単枠指定制度の対象となった。人気はタマモクロスが単勝オッズ2.4倍の1番人気、オグリキャップ3.7倍の2番人気、そしてサッカーボーイは4.8倍の3番人気であった。枠入り後、サッカーボーイは発馬機内で暴れて、歯を折り、鼻血を出した。それからスタートは出遅れ、最後方に位置。直線では大外に持ち出して追い上げるも、先に抜け出したオグリキャップやタマモクロスには届かず、その2頭に2馬身離された4位で入線。2頭に半馬身差離されて3位入線のスーパークリークが、メジロデュレンの進路を妨害したため失格となり、サッカーボーイは繰り上がって3着となった。(競走に関する詳細は、第33回有馬記念を参照。) 1988年の「フリーハンデ」では、有馬記念を制したオグリキャップが世代首位の「65」、東京優駿を制したサクラチヨノオーが「63」で次点となり、サッカーボーイはそれらに次ぐ「62」で世代3位の評価が与えられた。また、4歳以上の馬を対象に、1600メートル以下の短距離に限定した「フリーハンデ」では、安田記念を制したニッポーテイオーと並んで全体首位の「63」。「63」は、函館記念を日本レコードで制し、マイルチャンピオンシップ2着となって「62」に評価された、ニッポーテイオー4歳時(1986年)を上回るものであり、ハンデキャッパーは、2頭の4歳時を比べたとき、サッカーボーイの方が優れているとの結論に至った。また1988年のJRA賞表彰では、全172票中104票を集めて、JRA賞最優秀スプリンターに選出。以下、次点のニッポーテイオーは36票、ダイナアクトレスが14票、シンウインドが7票で続いた。 5歳となった1989年には、マイラーズカップから始動する予定であったが骨折。その後は「砂のぼり」と呼ばれる蹄の病気が右後脚を襲ったが、8月には函館競馬場に入厩し、UHB賞や毎日王冠で復帰する予定だった。さらに、天皇賞(秋)を目標としていたが、再び脚部不安となり、結局復帰することなく競走馬を引退した。
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4-5歳(2011-12年)
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「ヒルノダムール」の記事における「4-5歳(2011-12年)」の解説
古馬となった2011年、1月16日の日経新春杯(GII)で始動。好位から抜け出したルーラーシップに2馬身及ばなかったが、ジャパンカップ優勝馬の1番人気ローズキングダムをハナ差下して2着。続いて2月13日の京都記念(GII)では後方待機から追い込み、直線で早めに抜け出したが、トゥザグローリーとメイショウベルーガにかわされ3着に敗れた。若駒ステークス以降1年間勝利から遠ざかっており、かつ重賞やGIで2着3着を続けていたことから「シルバーコレクター」と形容されるまでになっていた。 4月3日の産経大阪杯(GII)では、エイシンフラッシュなどGI優勝馬4頭を上回る1番人気に支持されて出走。中団の位置から抜け出し、逃げるキャプテントゥーレをかわすとともに追い込むダークシャドウなどを退けて優勝、重賞初勝利となった。2着のダークシャドウとはハナ差の決着であった。走破タイムの1分57秒8は、タップダンスシチーが保持していたコースレコードを0.3秒更新した。 5月1日の天皇賞(春)に出走、前哨戦を制したものの豪華メンバーに7番人気という評価であった。先頭が次々と替わる中、中団に位置して最終コーナーに達し、逃げるナムラクレセントをかわして抜け出した。同じく中団から追い上げたエイシンフラッシュを半馬身退けて決勝線を通過し、GI初勝利を果たした。藤田は「自分のことは後でいいです。自分のことよりも、この馬でGIを勝てたこと、この馬をGI馬にできたことが本当にうれしいですね」と振り返った。 秋は、フォワ賞から凱旋門賞に出走するためにフランスに遠征。当地で厩舎を営む日本人の小林智厩舎に入り、留学中の田中博康が調教を担当した。遠征に際して、帯同する現役競走馬を当地で購入し、水の浄化装置まで持ち込むなど対策した。9月11日のフォワ賞(G2)ではサラフィナに次ぐ2着となったが、10月2日の凱旋門賞(G1)では出走直前の猛暑と、競馬場までの移動で渋滞により体調がすぐれず、10着に敗れた。 日本帰国後は、年末の有馬記念(GI)に出走したが6着敗退。5歳となった2012年も現役を続行し、4戦に出走するもGII3着2回が最高で勝利を挙げることはできなかった。札幌記念3着後に右前脚浅屈腱炎を発症し、11月21日付けで競走馬登録を抹消、引退した。
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4-5歳(1991-1992年)
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「フジヤマケンザン」の記事における「4-5歳(1991-1992年)」の解説
1991年1月6日、京都開催の新馬戦でデビュー。戸山厩舎所属の小島貞博を鞍上に、初戦は5着となった。2週間後の2戦目、550kgと未だ絞りきれていない身体ながら、2着に2馬身差を付けて初勝利を挙げる。その後右前脚に骨膜炎を発症して休養に入り、春のクラシック競走には出走できなかった。 8カ月半後の10月に復帰し、格上挑戦で嵯峨野特別(900万下条件)に出走し、7頭立ての6番人気ながら逃げきりで勝利。さらに翌週、クラシック三冠最終戦・菊花賞への出走を目指して嵐山ステークスに臨んだが2着と敗れる。菊花賞は収得賞金不足で除外対象となったが、直前に回避馬が出て滑り込みでの出走が叶った。春二冠を制したトウカイテイオーが故障により不在で混戦模様といわれるなか、フジヤマケンザンは調教で好タイムを記録するなど好調で、当日は8番人気であった。レースはスローペースで推移するなか4~5番手を追走、最後の直線ではいったん先頭に立ち逃げこみを図ったが、レオダーバン、イブキマイカグラにかわされての3着となった。小島は「放牧から帰ってきて3走目。それでこれだけ走ってくれるんだから、今後良くなってくると思うよ」と先々への期待を述べた。 フジヤマケンザンはさらにジャパンカップ、年末の有馬記念と大競走に連続して挑んだが、それぞれ8着、10着に終わる。翌1992年1月には自己条件の準オープン戦・ジャニュアリーステークスで3勝目を挙げ、あらためてオープンクラスに昇格した。2月には長距離3200メートルの重賞競走・ダイヤモンドステークスに出走。やはり長距離競走である菊花賞3着の実績もあり1番人気に推されたが、8着と敗れた。3月には中距離1800メートルの中日新聞杯に出走。当日は2番人気に支持されると、最終コーナーで進路を失いながらも内埒沿いをついて抜けだし、通算10戦目での重賞初勝利を挙げた。競走後、小島は「もともと中距離タイプの馬だと思っていましたからね。このくらいの距離が合うのでしょう」と語り、また戸山為夫は「この馬は体が大きすぎて長距離は合わんかも。2000メートルぐらいがベスト」との見解を示した。 この直後、左前脚の球節を痛めて再び長期休養に入る。12月にディセンバーステークスで復帰し逃げきり勝利を挙げると、年末には有馬記念に出走。調教で一番時計を出し好調を窺わせたが、レースでは中団から全く伸びず、14着と敗れた。このあと、鍛え直しが図られフジヤマケンザンは三度めの長期休養に入った。
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4-5歳(2014-15年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:47 UTC 版)
「コパノリチャード」の記事における「4-5歳(2014-15年)」の解説
2014年3月2日、阪急杯(GIII)から始動。マイルチャンピオンシップ3着から参戦するダノンシャークが2.8倍の1番人気、コパノリチャードはそれに次ぐ2番人気、4.8倍であった。1枠1番からスタートしてハナを奪って逃げた。最終コーナーでは3番人気ガルボが迫ってきたが、直線で突き放して独走となった。追い込む後続は、ガルボをかわしたのみ、それらに4馬身差をつけて入線した。重賞3勝目、高松宮記念の優先出走権を獲得。逃げ切りによる阪急杯制覇は、2008年のローレルゲレイロ以来6年ぶりであった。前の週に行われたフェブラリーステークス(GI)は、コパノリチャードと同期で同じヤナガワ牧場生産、小林所有のコパノリッキーが優勝しており、ヤナガワ牧場と小林にとっては2週連続のJRA重賞優勝であった。 続いて3月30日、高松宮記念(GI)に出走、コパノリチャードにとって初めての1200メートル参戦であった。近5戦は浜中が騎乗し、重賞2勝を挙げていたが、ドバイに遠征したために騎乗不能となり、代わりに短期騎手免許で騎乗していたミルコ・デムーロに乗り替わった。当日はレース史上初となる不良馬場、加えて強風が吹く中での開催であった。前年の函館開催で出世し9戦連続2着以内、前走のシルクロードステークス(GIII)で重賞初勝利を挙げたストレイトガールが単勝オッズ2.6倍の1番人気、前年の高松宮記念3着、スプリンターズステークス2着のハクサンムーンが5.9倍の2番人気、コパノリチャードは、それに次ぐ7.7倍の3番人気であった。 スタートから15番人気エーシントップが逃げる中、コパノリチャードは先行し、3番手の好位、馬場の最も内側を進んだ。戦前にハクサンムーンが逃げ宣言をしていたが、出遅れており後方からとなっていた。最終コーナーのコパノリチャードは、馬場の最も内側から外側に持ち出して、馬場の中央から追い上げを開始。後方の馬も外に持ち出し、コパノリチャードより外側から追い上げを開始した。 コパノリチャードは伸びて、残り200メートル地点でエーシントップを捉えて先頭となり、以後、他の接近なく、独走状態となった。ゴール寸前にてデムーロは、両手を手綱から離して水平(左右)に伸ばす行為「飛行機ポーズ」を繰り出し、そのまま入線。大外から追い込んだスノードラゴンに、3馬身差をつけてGI初優勝となった。 3馬身差の決着は、レース史上2位の着差。1分12秒2での決着はレース史上最も遅かった。4歳馬による勝利は、1996年フラワーパーク、2002年ショウナンカンプに続き3例目。1200メートル初体験の馬による勝利は、2006年オレハマッテルゼ以来2例目であった。またヤナガワ牧場と小林は、コパノリッキーで制したフェブラリーステークスに続いてJRAGIを連勝。GI競走が整備された1984年以降、開幕から同一馬主が連勝することは史上初めてのことであった。 またデムーロは、「決勝線手前での御法(騎乗ぶり)」が指摘され、過怠金が課された。デムーロにとって「飛行機ポーズ」の発動は、2007年中日新聞杯(JpnIII)、サンライズマックスで制して以来であり、2007年の過怠金は5万だったが、今回は10万円が課された。デムーロは「純粋なファンへの感謝のメッセージと、うれしい気持ちだけだった。それを理解してほしい」と語っている。 その後、短期放牧を挟んで臨んだ、5月17日の京王杯スプリングカップ(GII)は7着。安田記念(GI)は回避した。その後は、6月22日の函館スプリントステークス(GIII)か7月6日のCBC賞(GIII)、または休養の三択から、函館スプリントステークスを選択したが、右トモに筋肉痛の症状が見られたために回避。小国スティーブルで夏休みとなった。 秋は、9月10日に帰厩した。秋の目標を10月5日、新潟競馬場のスプリンターズステークス(GI)とし、前哨戦を用いずに直行。宮は「前哨戦を使うとなると、暑い時期から本格的な調教を始めなければなりませんし、鉄砲の利く馬なので」と理由を述べている。そのスプリンターズステークスでは、スタートで後手を踏み12着。11月3日のJBCスプリント(JpnI)では初めてダートに出走し、3番人気最下位となった。続いて12月27日の阪神カップでは、先行して直線で抜け出したが、外から追い上げたリアルインパクトに並ばれ、さらにダイワマッジョーレも加わって3頭での競り合いとなった。その3頭からコパノリチャードとリアルインパクトが勝り、2頭は馬体を併せたまま入線。リアルインパクトがハナ差先着しており、コパノリチャードは2着に敗れた。 5歳となった2015年は、前年と同様に阪急杯から高松宮記念に進み、6着、5着。それから11月29日までに4戦し、いずれも二桁着順。小林は「なかなか結果を出せなくなってしまったのは精神的なものである可能性が高いため、『これ以上、嫌な思いをさせてレースを走らせてはリチャードのためによくない』」と判断し、コパノリチャードの引退を決意。12月4日付けでJRAの競走馬登録を抹消した。
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4-5歳(1982-83年)
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「リーゼングロス」の記事における「4-5歳(1982-83年)」の解説
4歳となる1982年の初戦には、桜花賞のトライアル競走である阪神4歳牝馬特別を選択。脚への不安から満足に調教できず飼葉を加減し、馬体重はマイナス14キログラム、さらに鞍上が初騎乗となる清水英次だったことから、人気を落とし7番人気の支持であった。担当厩務員の長谷部謙司は、この時の状態を「6分ぐらいの出来」と評している。不良馬場の中後方待機を選択し、直線では内側に持ち出して伸び、2着を確保した。逃げたツキマリーがそのまま優勝し、その1馬身4分の1遅れての入線であった。清水は、不良馬場で35秒台の末脚を見せたことを高く評価し「最後の100メートルでは勝てるかなと思ったほどだ」とも話した。 続いて4月11日の桜花賞に出走。3歳牝馬ステークス勝利後、さらにクイーンカップも制したビクトリアクラウンが桜花賞直前に左膝骨折、出走を回避したことから、本命不在となる「混戦ムード」(横尾一彦)の状態が生まれた。そんな中、リーゼングロスは前走負かしたマンジュデンレディに1番人気を譲った2番人気に支持された。 スタートからツキマリーが逃げる中、リーゼングロスはその7,8馬身後ろの7番手くらいに位置した。残り600メートル地点で3番手まで進出し、最終コーナーで逃げるツキマリーに、外から並びかけると、まもなくかわして先頭となった。独走して後方との差を広げ、先頭で入線。外から追い込んだメジロカーラに5馬身差の勝利は、1975年のテスコガビーが記録した大差に次ぐ史上2番目 の着差を記録した。清水は、クラシック競走初優勝となり、最終コーナー時点で勝利を確信していたと明かしている。 二冠目の優駿牝馬(オークス)に向けて、トライアル競走の東京4歳牝馬特別に1番人気の支持で出走。第2コーナーで両隣に挟まれて失速する不利を受け、一時最後方に位置した。しかし、直線で位置を上げ、半馬身差で先頭で入線した。この勝利に、横尾一彦は「まるで調教をつけているように馬なりのままの楽勝」と表している。清水は、前哨戦のため全力で追うことを避けたが、追えば桜花賞並みの着差が期待できたとしており「オークスも自信がありますよ」と話した。 4月23日の優駿牝馬(オークス)に参戦。リーゼングロスに人気が集まり、優駿牝馬史上初めてとなる単枠指定制度の対象となった。ところが、馬場入場後の返し馬にて、通路の切れ目に驚いて飛んでしまい、騎手を落として放馬。向こう正面の通路から正反対の直線コース坂上まで1200メートルを空馬状態で走ってしまった。やがて捕獲されて馬体検査が行われたが異状なく、落馬した清水も軽い脳震盪に留まり、人馬とも出走することとなった。 スタートから先行して4番手に位置し、直線では先に抜け出していたシャダイアイバー目がけて追い上げた。馬体を併せて200メートル以上競り合ったが、半馬身届かず2着敗退、二冠を逃した。清水は敗因を、直前の放馬というより短距離血統の父アローエクスプレスに求めていた。 3か月間の休養を挟んで、函館記念で復帰したものの12着。その直後に、右前脚に屈腱炎をきたして9か月間の長期離脱となった。療養中に古馬となり、1983年5月21日のエメラルドステークスで復帰を果たすも9着敗退。それから秋まで出走し続けたが、勝利を挙げることができなかった。年末の有馬記念出走前に脚部不安をきたして回避し、競走馬を引退した。
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4・5歳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/09 00:12 UTC 版)
登録名をイチカントーへと変え、当初は下級条件に格付けされたが途端に連戦連勝を記録するようになる。川崎の開設記念を直前に脚部不安で取り消すアクシデントもあったが、大井記念で前年の秋の鞍馬ケンチカラに半馬身差の2着に敗れるまで転入以来9連勝を記録。7月には川崎記念で重賞初制覇を達成した。ここまでの南関東での戦績は、12戦11勝2着1回というものであった。 その後は船橋のNTV盃で3着に敗れ、初めて連を外したが、充実ぶりは変わることなく秋には金盃と秋の鞍を制している。
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