享保8年 (みずのとう 癸卯)
年(年号) | |
●1703年 (元禄16年) | ■江戸開府100年 |
●1705年 (宝永2年) | ■御蔭参り流行 |
●1707年 (宝永4年) | ■富士山噴火 |
●1718年 (享保3年) | ■御蔭参り流行 |
●1719年 (享保4年) | ■相対済し令 |
●1720年 (享保5年) | ■江戸大火 |
●1720年 (享保5年) | ■江戸町火消しいろは組を設置 |
●1722年 (享保7年) | ■小石川養病所設置 |
●1732年 (享保17年) | ■西日本に蝗害 |
●1742年 (寛保2年) | ■公事方御定書制定 |
・ 林 鳳岡 | 1644年〜1732年(正保元年〜享保17年) | 79才 |
・ 西川 如見 | 1648年〜1724年(慶安元年〜享保9年) | 75才 |
・ 新井 白石 | 1657年〜1725年(明暦3年〜享保10年) | 66才 |
・ 室 鳩巣 | 1658年〜1734年(万治元年〜享保19年) | 65才 |
・ 尾形 乾山 | 1663年〜1743年(寛文3年〜寛保3年) | 60才 |
・ 鳥居 清信 | 1664年〜1729年(寛文4年〜享保14年) | 59才 |
・ 荻生 徂徠 | 1666年〜1728年(寛文6年〜享保13年) | 57才 |
・ 小川 笙船 | 1672年〜1760年(寛文12年〜宝暦10年) | 51才 |
・ 大岡 忠相 | 1677年〜1751年(延宝5年〜宝暦元年) | 46才 |
・ 太宰 春台 | 1680年〜1747年(延宝8年〜延享4年) | 43才 |
・ 絵島 | 1681年〜1741年(天和元年〜寛保元年) | 42才 |
・ 徳川 吉宗 | 1684年〜1751年(貞享元年〜宝暦元年) | 39才 |
・ 神尾 春央 | 1687年〜1753年(貞享4年〜宝暦3年) | 36才 |
・ 野呂 元丈 | 1693年〜1761年(元禄6年〜宝暦11年) | 30才 |
・ 青木 昆陽 | 1698年〜1769年(元禄11年〜明和6年) | 25才 |
・ 与謝 蕪村 | 1716年〜1783年(享保元年〜天明3年) | 7才 |
・ 田沼 意次 | 1720年〜1788年(享保5年〜天明8年) | 3才 |
・ 紀伊国屋 文左衛門 | ????年〜1734年(??年〜享保19年) | ?才 |
1723年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 14:52 UTC 版)
千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 17世紀 - 18世紀 - 19世紀 |
十年紀: | 1700年代 1710年代 1720年代 1730年代 1740年代 |
年: | 1720年 1721年 1722年 1723年 1724年 1725年 1726年 |
1723年(1723 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
他の紀年法
- 干支 : 癸卯
- 日本
- 中国
- 朝鮮
- ベトナム
- 仏滅紀元 : 2265年 - 2266年
- イスラム暦 : 1135年 - 1136年
- ユダヤ暦 : 5483年 - 5484年
- ユリウス暦 : 1722年12月21日 - 1723年12月20日
カレンダー
できごと
誕生
- 2月23日 - ウィリアム・チェンバーズ、建築家(+ 1796年)
- 6月3日 - アダム・スミス、哲学者、経済学者(+ 1790年)
- 6月6日(享保8年5月4日) - 池大雅、文人画家・書家(+ 1776年)
- 7月16日 - ジョシュア・レノルズ、画家(+ 1792年)
- 9月1日(享保8年8月2日) - 三浦梅園、思想家・自然哲学者(+ 1789年)
死去
関連項目
1723年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/24 05:46 UTC 版)
1723年1月25日、ローの艦隊は「ノストラ・シニョーラ・デ・ヴィクトリア号」というポルトガルの船を拿捕した。ローが乗組員を拷問して金の在り処を聞き出したところ、船長が海賊に拿捕される前に11,000モイドールもの金貨を詰めた袋を海に投下してしまったと白状した。烈火のごとく激怒したローは船長の唇を切り取り、それを目の前で焼肉にしてまだ熱いうちに食わせたという。ローの怒りはそれでも収まらず、船長と32人の乗組員全員を殺してしまった。これはローの最も残酷なエピソードだとされる。 ポルトガル船での虐殺の後、一味は西インド諸島を1か月にもわたって荒らしまわった。多数の船を掠奪し、ニューイングランド出身の船長の船は焼き払ってしまった。ローはニューイングランド人に憎しみを持っていたとされる。 3月、ホンジュラス湾にてスペインのスループ船を攻撃した。ところがこの船はスペインの海賊船であり、ホンジュラス湾でイギリス籍の船を襲っていたのである。ローたちは船倉に捕らわれていた6人のイギリス人船長を解放し、70人ものスペイン人の海賊を皆殺しにした。この時、ローと部下たちは命乞いをする者の口に銃口を突っ込み、脅迫してから殺害した。スループ船には火を放ったとされる。 その後数か月の間、ローは多数の船を拿捕して砲10門のスループ船フォーチュン号を旗艦とし、僚船であったレンジャー号は元操舵長のチャールズ・ハリスに任せた。5月8日、ローはキューバ西端の沖合でジョン・ウェランド船長のアムステルダム号を拿捕し、彼を短剣で散々斬り付けた挙句に耳を削ぎ落すという手ひどい虐待を加えた。ウェランドはローの部下が連れてきた船医によって治療されたが、150ポンド相当の金銀と食料、奴隷を奪われた上、アムステルダム号は沈められてしまった。ウェランド自身は別の船に乗せられて解放された。 同月、サウスカロライナ沖にていくつかの船を攻撃した後、ニューイングランド出身の船長の船を拿捕した。ローはこの土地の出身者に対しては容赦がなく、耳と鼻を削ぎ落として虐待した。また別の船では乗組員たちの指に火の付いた縄を結び付け、肉が落ち骨が剥き出しになるまで焼くという拷問を加えた。挙句生き残った者たちからは食糧を全て奪い、無人の島に置き去りにしてしまったという。 これらの狼藉行為はついにイギリス軍艦「グレイハウンド号」の耳にまで及ぶ事となった。6月10日、ピーター・ソルガード艦長の指揮のもと海賊討伐に乗り出したグレイハウンド号はローの艦隊を攻撃した。ローは僚船であるハリス船長のレンジャー号を犠牲にして海域から離脱した。ハリスや船医を含む25名はロードアイランドのニューポート に連行され、裁判で有罪を宣告されて縛り首となった。ハリスだけはロンドンのワッピングまで移送されて死刑になったという説がある。 グレイハウンド号から逃れたローはありとあらゆる呪いの言葉を吐き、今後拿捕した船はことごとく復讐の対象にすると誓った。北に航海し、捕鯨船から食糧を奪って船長を射殺した。さらにマサチューセッツ州ナンタケットで小型の捕鯨スループ船を襲い、まだ若い船長を鞭で打ちながら甲板中を引きずり回し、耳を削ぎ落としてから撃ち殺した。ローたちは残った捕鯨船の乗組員たちが餓死するように海に放したが、ナンタケットの乗組員たちは天候に恵まれ、港に辿り着くことができた。その後、ブロック島で拿捕した船では船長を断頭する以外は残虐行為に及ばなかったものの、ロードアイランド近くで拿捕した2隻の捕鯨船ではそうはいかなかった。ローは1人の船長の腹部を切り裂いて内臓を引きずり出し、もう1人の船長は耳を削ぎ落とし、目の前でそれを調理すると、船長自身にそれを食べるよう強要したという。船長は言葉もなくこの野蛮な命令に従った。この時ローは乗組員たちを皆殺しにしてしまおうと考えていたが、部下たちはこの野蛮な命令を拒んだ。 ローの残虐行為はノバスコシア沿岸でも報告され、多数の者が鼻や耳を削ぎ落されて不具になった。ローがある船からワインとブランデーを奪った時、その船の船長は荷主から着服を疑われないようにローが酒を奪ったことを一筆書いてほしいと頼んだ。ローは喜んで同意し、両手に銃を持つと「一つはワインの分だ」と言って船長の腹部を撃ち、さらに「これはブランデーの分だ」と言って頭を撃って殺した。 7月、ローはヴァージニアの大型商船「メリークリスマス号」を拿捕し、三十四門の砲を積んで旗艦とした。この海域で拿捕した船にイギリス船があったが、その船はポルトガル人が買い取った物であった。ローは乗船していたポルトガル人を全員吊るした上で船に火を放った。さらにセントミカエル島で拿捕した船の船長は両耳を付け根から切り取った。ローはこの土地で多数の船を焼き払ってしまったとされる。 その後、一味はギニア沖にて「デライト号」を拿捕し、操舵手のフランシス・スプリッグスに与えるも、スプリッグスはローとのいさかいが原因でローを見捨てて行ってしまった。
※この「1723年」の解説は、「エドワード・ロー」の解説の一部です。
「1723年」を含む「エドワード・ロー」の記事については、「エドワード・ロー」の概要を参照ください。
「1723年」の例文・使い方・用例・文例
- 英国の建築家(1723年−1796年)
- オランダ人の先駆的な顕微鏡使用者で、動物おける細胞を認めた最初の人物の1人であり、初めて微生物、精子、血球に対する正確な説明を与えた(1632年−1723年)
- 英国の似顔絵画家でロイヤルアカデミーの最初の校長(1723年−1792年)
- スコットランドの経済学者で、民間企業と自由貿易を主唱した(1723年−1790年)
- アメリカ人革命主導者、教育者(スコットランド生まれ)で、独立宣言に署名し、プリンストン大学の前身の大学の学長になった(1723年−1794年)
- 英国の建築家で、50以上のロンドンの教会を設計した(1632年−1723年)
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