鳥取藩主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 10:04 UTC 版)
鳥取藩主となった光政の内情は苦しかったという。因幡は戦国時代は毛利氏の影響力などが強かったとはいえ、小領主が割拠して係争していた地域だったところから藩主の思うように任せることができず、生産力も年貢収納量もかなり低かった。しかも10万石を減封されたのに姫路時代の42万石の家臣を抱えていたため、財政難や領地の分配にも苦慮した。このため、家臣の俸禄は姫路時代の6割に減らされ、下級武士は城下に住む場所が無いので土着して半農半士として生活するようになった。光政は鳥取城の増築、城下町の拡張に努めた。元和6年(1620年)、幕府より大坂城城壁の修築を命じられた。 元和9年(1623年)6月、2代将軍徳川秀忠の上洛に従って京都に入るが、未だ無位無官であったため、同月25日の秀忠の参内には供奉し得なかった。続いて7月に入ると遅れて上洛してきた世子家光も入京し、7月27日に家光が将軍宣下を受けて第3代将軍になると、8月3日に15歳で元服し、このとき当時名乗っていた幸隆(よしたか)を、3代将軍徳川家光の偏諱を拝受し光政と名乗った。同月6日、家光の参内に先立って従四位下・侍従に叙任され、供奉の一員に選ばれた。その後、寛永3年(1626年)8月の家光上洛にも従い、左近衛少将に叙任された。寛永5年(1628年)1月26日に本多忠刻の娘勝子(円盛院)を大御所の秀忠の養女として正室に迎えた。 寛永9年(1632年)4月3日に叔父の岡山藩主池田忠雄が死去し、従弟で忠雄の嫡男光仲が3歳の幼少のため山陽道の要所である岡山を治め難いとし、5月に光政は江戸に召しだされて、6月に岡山31万5,000石へ移封となり、光仲が鳥取32万5,000石に国替えとなった。以後「西国将軍」と呼ばれた池田輝政の嫡孫である光政の家系が明治まで岡山藩を治めることとなった。
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