馬陵の戦いとは? わかりやすく解説

馬陵の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/18 14:26 UTC 版)

馬陵の戦い

戦争:戦国時代(中国)
年月日:紀元前342年
場所:馬陵(現在の山東省聊城市莘県
結果:斉の勝利
交戦勢力
指導者・指揮官
田忌中国語版
孫臏
田盼中国語版
田嬰
太子申中国語版 
龐涓 
戦力
兵力 120000 兵力 100000
損害
損失 2100 損失 100000
春秋戦国時代
春秋時代
戦国時代
秦の統一戦争
†はその国の滅亡 表示

馬陵の戦い(ばりょうのたたかい、中国語: 馬陵之戰, Mǎlíng zhī zhàn)は、中国戦国時代にあたる紀元前342年が激突した戦い。斉の圧勝に終わりの後継者として天下の覇国たらんとした魏はこの戦いをさかいに衰微してゆき、斉はと並び大陸を二分する大勢力へと成長してゆく。

事前の経緯

魏の将軍の龐涓は、若いころは孫臏と机を並べ兵法を学んでいた同門であった。孫臏が龐涓の招きを受けて食客として魏にやってきたとき、以前から自分の才が孫臏に及ばないことを知っていた龐涓は、地位を脅かされることをおそれ、孫臏を罠にかけて冤罪に陥れた。そのため孫臏はあしきりの刑(両足を切断する刑)に処された上、面にいれずみを入れられて獄中に幽閉された。その後、斉の使者が魏に来たとき、孫臏は計略を用いひそかに使者と面会し、共に魏から斉に脱出した。こうして孫臏は斉国の軍師となり、龐涓に復讐する機会を待った。

桂陵の戦い囲魏救趙)で魏が敗退したのをみて、斉と結び魏と戦うことにしたが魏軍は想像以上の底力をみせ、韓は魏と五度戦って五度負けた。逆に魏に滅ぼされそうになった韓は斉に援軍を求め、斉の威王は信頼する孫臏を師将として派遣しようとしたが、孫臏はこれを断って田忌中国語版を推薦した。田忌を将とする斉軍は臨淄を発して魏に攻め込んだ。このため韓にいた魏軍は慌てて魏に引き返したため韓は救われた。

孫臏の計略

孫臏は魏の領内に侵攻した斉軍に撤退を命じた。退却に際し、初日は露営地に十万人分のを作らせ、翌日は五万人分の竈を、その次の日は二万人分の竈を作るように命じた。斉軍を追撃する魏軍を指揮する龐涓は、竈の数が減っているとの報告を受け「戦意の低い斉軍は、脱走兵が続出しているのだろう」と考えた。そこで龐涓は一刻も早く斉軍を捕捉して撃破しようと考え、歩兵部隊を残して騎兵隊のみを率い、昼夜兼行で急行した。

孫臏は魏軍の進行速度から、夕方ごろに狭隘な馬陵(現在の山東省臨沂市郯城県)の地に至るだろうと予測した。そこで馬陵の街道脇の大樹の木肌を削り、白木に墨で「龐涓この樹下に死す」と大書し、周囲にを持たせた一万の兵を伏せた。伏兵には、夕闇の中で火がともるのが見えたら、その火めがけて一斉に箭を放つように命令した。果たして魏軍は日没後に馬陵に到達し、指揮官の龐涓は道端の大木になにやら字が記されているのを見つけたが、すでにあたりは暗くてよく見えない。そこで松明を持ってこさせ、火をつけて字を読もうとした瞬間、周りから一斉に矢が飛んできた。龐涓は満身に無数の矢を受け「遂に豎子の名を成せり(あの小僧に、名を挙げさせてしまったか)」と叫んで絶命した。将を討たれた魏軍は混乱に陥って大敗し、太子申中国語版は捕虜となった[1]

事後

斉軍の司令官として戦功を上げて凱旋した田忌であったが、宰相鄒忌の讒言によって威王に叛意を疑われてそのままに亡命することとなった。

名将の龐涓を失った魏はこの戦いをさかいに国力が衰微し始め、秦の侵略を防ぎきれなくなってのちに魏の恵王は韓の昭侯とともに斉に従属することになる。

孫臏もこの戦いで復讐を終え、歴史上から姿を消した。一説によると彼は兵法書を残したとされている。

脚註

  1. ^ 戦国策』「巻23魏2斉魏戦于馬陵」によると、龐涓は斉軍に捕虜とされ太子申は戦死したと記されている。「龐涓戦于馬陵 魏師大敗 殺太子申 虜龐涓」(原文)。また、『孟子』によると、魏の恵王が晩年に孟子と会見した時に「私は先年、可愛い息子を陣没させ失ってしまった」と嘆いていたことが伝えられている。

参考文献

『人物 中国の歴史2 -諸子百家の時代-』集英社、1987年、pp.114-119


馬陵の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 16:15 UTC 版)

孫臏」の記事における「馬陵の戦い」の解説

詳細は「馬陵の戦い」を参照 13年歳月流れ、魏が龐涓将軍として韓を攻めると、韓より斉へ救援依頼が来た。斉王は、孫臏主将田忌副将にして軍を派遣しようとしたが、孫臏田忌推挙し田忌主将孫臏副将実質的に軍師となって韓へ向かった田忌前回同様魏の都を攻めようとし、孫臏は「龐涓は同じ過ち二度繰り返すではなく、何かの備えはしているでしょう。しかし様子を伺わなければ分かりませんので、魏の都に向かいましょう」と答えた孫臏予測通り龐涓も流石これに備えて本国にも精強な兵を残しており、斉軍足止めする一方韓攻略軍も引き返させた。防衛軍攻略軍で挟撃しようというのである。これを知った斉軍撤退するが、龐涓打撃与えるべく追撃する。撤退戦であれば追撃する側が圧倒的に有利だからである。 しかし、孫臏撤退する振りをしつつ、龐涓の「魏の兵は命知らず猛者だが、斉の兵は臆病者だ」という驕り逆手取り斉軍陣営の竈の数を前の日の半分次の日は更に半分という具合減らしていき、あたかも斉軍連日脱走兵相次いでいるかのように偽装した。追撃する龐涓はこの無様な様子見て半ば呆れつつも勝利を確信し、あえて歩兵を後にし自ら足の速い精鋭騎兵率いて一刻も早く斉軍捕捉しようと図った一方孫臏は、その先隘路である馬陵(現在の山東省臨沂市郯城県)の地で、仕込み始める。龐涓部隊日暮れ到達するであろう場所に木で障害物をつくり、側の木の枝に板を吊るして龐涓死於此之下(龐涓このの下にて死せん)」と書き記させた。そしてその道両側1万の兵を伏し、兵たちに「日没のあと此処に火がともるであろうから、それに向かって矢を射よ」と命じた果たし計算通り夜半になって当地龐涓到着障害物止めさせられた際、なにやら書かれている板があると兵が言ったため、自らこれを読もう松明の火をかかげた。これに斉軍伏兵一斉に矢を放ち暗中魏軍大混乱陥った。自らが負けたことを悟った龐涓は「遂成豎子之名(遂に豎子の名を成さしむ→これで奴の名声世に成さしてしまったか)」と言い残して自刎若しくは矢によりハリネズミとなり戦死。魏の太子申は捕虜にされた。司令官失った魏軍斉軍に蹴散らされることになった。 この馬陵の戦いの大勝利により、兵家孫臏の名は天下響いた伝えられる。しかし孫臏その後付いて史書記述がない。一説には兵法書記していたとも言われている。 また、太史公記述によると世間軍学について引用する場合『孫子』十三編の書物述べないものはないと言われている。「能く之を行う者は未だ必ずしも能く言わず能く之を言う者は未だ必ずしも能く行わず」という言葉があり、これは孫子龐涓計略落としたのは明察である。だが刑罰のうきめきにあうときの処置を、あらかじめできなかったのは悲しいことであると評価している。

※この「馬陵の戦い」の解説は、「孫臏」の解説の一部です。
「馬陵の戦い」を含む「孫臏」の記事については、「孫臏」の概要を参照ください。

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