隠居謹慎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:23 UTC 版)
享保年間の後期から元文当時の幕府は、朝廷と対立しつつあった。朝廷内では親幕府派の近衛家と、反幕府の霊元法皇が激しく対立していた。近衛家熙が薨去した後は、桜町天皇側近で霊元法皇の強い影響下にあった一条兼香を中心に朝廷は動き始めていた。 幕府は、水戸藩から上程された『大日本史』の出版許可を朝廷に求めた際に、有職故実の大家でもあった霊元法皇門下の一条兼香(当時大納言)に裁可を仰いだ。10年間放っておかれたが、再度許可願を出した。南北朝問題があり、一条兼香(当時は右大臣)は不許可とする。ところが、幕府は朝廷の許可を得ないまま、その3年後に『大日本史』を出版をしてしまい、朝廷と幕府の間は緊張関係に陥った。尾張藩は代々朝廷と深いつながり(五摂家の九条家・近衛家・清華家の広幡家・羽林家の正親町家と縁戚)を持っていた。 当時の幕府の緊縮規制強化の経済政策は、蝗害などにより失敗しており、一方で宗春の規制緩和の経済政策は大成功を収めていた。さらに宗春は、遊興禁止令等、幕府の政策を先取りして尾張藩で徹底させていった。こうした先手を打つ宗春によって幕府の威信が揺らぐと判断していた幕閣と、尾張藩を持ち上げる朝廷との間で、宗春と尾張藩は徐々に政略的に板挟みとなる。 そのような状況で、実弟の石河政朝が幕府中枢にいた御附家老・竹腰正武をはじめとする国元の藩重臣は、宗春の失脚を画策する。竹腰正武は吉宗と計画したと言われるが、実際は吉宗本人ではなく、老中・松平乗邑との連携であった。宗春に引き続き、もう一人の御附家老・成瀬正泰(当時は正太)が参勤交代で江戸に移った直後の元文3年6月9日(1738年7月25日)、竹腰正武たちが尾張領内で実権を奪い、宗春の藩主時代の命令をすべて無効とし、宗春藩主就任前の状態に戻すとの宣言を発した。そのために尾張藩領は混乱を起こしてしまう。 この混乱に対し、宗春は琉球畳の祈祷所を建設し、毎日祈りを捧げたという。元文4年(1739年)正月過ぎから、将軍吉宗は恒例の行事を代理に任せて奥に引き篭ってしまう。 そして正月11日(1739年2月18日)、尾張藩の家老たちを江戸城に呼び出し、松平乗邑から蟄居謹慎の内命を受ける。翌12日に吉宗からの隠居謹慎命令を広島藩主・浅野吉長(宗春の従兄)、水戸藩御連枝守山藩主・松平頼貞(宗春の異母兄松平義孝の娘の茂登姫は頼貞嫡男松平頼寛正妻)、同じく水戸藩御連枝常陸府中藩主・松平頼幸により伝えられ、宗春は江戸の中屋敷麹町邸に、そして名古屋城三の丸の屋敷に隠居謹慎させられる。
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