長井貞広
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/30 03:39 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動長井 貞広(ながい さだひろ)は、大江姓長井氏の人物。鎌倉時代と南北朝時代に一人ずついる。
長井貞広 (鎌倉時代)
時代 | 鎌倉時代 |
---|---|
生誕 | 文永8年(1271年) |
死没 | 元亨3年(1323年)6月13日 |
改名 | 貞広、道衍?(法名については特記事項を参照) |
官位 | 左近将監[1] 従五位下[1] |
幕府 | 鎌倉幕府、評定衆[1]、政所執事補佐、東使 |
主君 | 北条貞時、北条高時 |
氏族 | 大江氏姓長井氏 |
父母 | 父:長井時秀[1] 母:未詳 |
兄弟 | 宗秀、貞広、女、斯波宗氏妻、女 |
妻 | 不詳 |
子 | 広泰(甲斐守・従五位下)[1] |
特記 事項 | ※法名については、当時の史料で「道衍」、「道衙」、「道潤」、「道漸」、「洞淵」など表記が一定していない。 |
長井 貞広(ながい さだひろ)は、鎌倉時代後期の武将。長井時秀の子で長井宗秀の弟[1]。
文永8年(1271年)に生まれ[2]、のち元服時に執権の北条貞時より偏諱を受けて貞広と名乗る。延慶元年(1308年)9月[3]、同3年(1310年)10月[4]に東使として上洛、この段階では既に出家していたようである。正和3年(1314年)には政所執事の補佐となる[5]。元亨3年(1323年)6月13日、53歳で死去[6]。
『尊卑分脉』に「玉葉風雅等作者」とあり、歌人でもあったようである。
脚注
- ^ a b c d e f 『尊卑分脉』、『系図纂要』。
- ^ 没年齢からの逆算による。
- ^ 『歴代皇紀』徳治3年(同年)9月3日条「東使長井備前左近大夫入道洞淵」、『続史愚抄』延慶元年9月2日条「関東使左近大夫入道道潤」。法名に違いはあるが、細川重男はいずれも左近将監であった貞広としている(細川、2000年、巻末基礎表P.93-94)。
- ^ 『鎌倉大日記』(生田美喜蔵氏所蔵本)裏書・延慶3年条「長井左近大夫入道」、『元徳二年三月日吉社並叡山行幸記』(所収:『群書類従』帝王部)「長井左近大夫入道々漸」。法名が異なっているが、細川重男はその通称から貞広に比定している(細川、2000年、巻末基礎表P.93-94)。
- ^ 『武家年代記』正和3年条「長井備前左近大夫将監入道道衙被相副行暁」。法名が異なっているが、細川重男はその通称から貞広に比定している(細川、2000年、巻末基礎表P.93-94)。
- ^ 『常楽記』同日条に「長井将監入道他界五十三。道衍」とあり、細川重男はこれを貞広に比定している(細川、2000年、巻末基礎表P.93-94)。
参考文献
長井貞広 (南北朝時代)
時代 | 南北朝時代 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 天授元年/永和元年8月29日(1375年10月3日) |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 大江姓長井氏 |
父母 | 父:長井貞頼 |
兄弟 | 貞広、頼元 |
子 | 養子:広世 |
長井 貞広(ながい さだひろ)は、南北朝時代の武将。備後国人長井氏5代目当主。長井貞頼の子。
北朝の九州探題今川了俊に従い九州へ下向、九州を転戦して南朝勢力と戦ったが、水島の変で今川軍が撤退した最中に南朝の反撃を受け、筑後山崎で戦死した。建徳2年/応安4年(1371年)に安芸国人毛利元春の五男広世を養子に迎えていたため、長井氏の家督は広世が継承した。
参考文献
- 広島県編『広島県史 中世 通史II』広島県、1984年。
長井貞広 (鎌倉時代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/30 03:39 UTC 版)
長井 貞広(ながい さだひろ)は、鎌倉時代後期の武将。長井時秀の子で長井宗秀の弟。 文永8年(1271年)に生まれ、のち元服時に執権の北条貞時より偏諱を受けて貞広と名乗る。延慶元年(1308年)9月、同3年(1310年)10月に東使として上洛、この段階では既に出家していたようである。正和3年(1314年)には政所執事の補佐となる。元亨3年(1323年)6月13日、53歳で死去。 『尊卑分脉』に「玉葉風雅等作者」とあり、歌人でもあったようである。
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