軍閥時代とは? わかりやすく解説

軍閥時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/29 16:19 UTC 版)

1925年の中国。赤が主要な軍閥の勢力圏。青が孫文の革命派の軍閥の勢力圏。

軍閥時代(ぐんばつじだい、: Warlord Era)は、1916年から1928年にかけて中華民国内戦状態となっていた時期を指す。袁世凱の死を契機に北京政府の統制が失われ、各地の軍閥が集合離散を繰り返す軍閥割拠の時代となった[1]。その後、蔣介石の北伐によって各軍閥が国民政府の統制下に入る形で一応は平定された。

特徴

これら軍閥は、列強の後ろ盾を持ち、地主階級と結びつき、自勢力拡大を最優先する個人の首領に従う私兵集団であり、中央の統制を受けず、各地に自己の王国を形成していた。このような大小軍閥によって中国全土は割拠され、省単位の大軍閥から小都市を支配するだけの小軍閥も多く、これも多くいた兵力数千しか抱えていない流動的軍閥のなかには、自己を召し抱えてくれる大軍閥を求めて流浪する軍隊もいた。

その戦争も絶えず行われていたが実際は、大演習程度のものでまず声明を述べて自己の優位を述べて相手の非を鳴らし威嚇する。次に電報を打って公に戦況を知らせ同時に敵方を買収する。万が一戦闘になれば火力が優勢なほうが勝利し兵士たちは士気が低いから決して白兵戦には持ち込まない。兵士と将軍同士の死傷者はめったに出ずなるべく損害の少ない戦争の仕方をしていた。これは、敵を撃破したとしても指導者はすぐ介入不可能で経済的価値が高くとも占領できない租界に逃げ込み再起を図るからである。占領地も経済的価値は低く、いつまでたっても決着がつけず、相対的な勝利で満足するしかなかった。この際限のない戦争の費用捻出に支配域の住民に対して租税の先取りを行った。省内だけで通用する不換紙幣を発行し穀物の強制的な買い上げをして、終わったころにはその価値は下落している。それを年々と繰り返した。別の軍閥に入れ替わったとしてもさらに先の租税の先取りをした。また兵士たちの質は低く、待遇は悪く、給料未払いが多いため軍紀は乱れていた。戦地での略奪暴行を約束させることによって士気を保ちその被害にあった住民は苦しんだ。

国際的には、北京政府が正統政府として承認されていたが、それを支配していたのは軍閥混戦を勝利した大軍閥であり数年ごとに交代していた。各国は必要に応じて個別に各地の軍閥と交渉していた。列強は、影響力拡大のために利用していたものの、これら軍閥は支配地域で勝手に輸入品に通過税をかけるために流通を阻害し経済的に不利益を被っていた。

北洋軍閥分派
派閥 勢力範囲 代表的人物 背景勢力
直系(直隷派) 揚子江中下流域及び直隷 馮国璋曹錕呉佩孚斉燮元孫伝芳 アメリカ合衆国イギリス
皖系(安徽派) 安徽省浙江省山東省福建省陝西省 段祺瑞倪嗣沖徐樹錚段芝貴盧永祥 日本
奉系(奉天派) 満州:奉天黒竜江省吉林省 張作霖張学良張宗昌 日本
晋系(山西派) 山西省 閻錫山傅作義 日本
馮系(西北派、国民軍) 西北地区:河北省内モンゴル綏遠省 馮玉祥韓復榘宋哲元楊虎城 ソビエト連邦
地方軍閥
派閥 勢力範囲 代表的人物 背景勢力
滇系(雲南派) 雲南省貴州省 蔡鍔唐継尭竜雲盧漢 アメリカ合衆国イギリス
旧桂系(旧広西派) 広西省広東省湖南省 陸栄廷譚浩明沈鴻英陳炳焜 アメリカ合衆国イギリス
新桂系(新広西派) 広西省広東省湖南省 李宗仁白崇禧黄紹竑 アメリカ合衆国イギリス
粤系(広東派、西南派)中国語版 広東省 陳炯明陳銘枢張発奎陳済棠余漢謀 国民党新桂系
川系(四川派)中国語版英語版 四川省 熊克武劉湘劉文輝楊森鄧錫侯 国民党
黔系(貴州派) 貴州省 袁祖銘王家烈王天培周西成劉顕世彭漢章 北京政府国民党
湘系(湖南派) 湖南省 譚延闓趙恒惕唐生智何鍵 北京政府国民党
馬家軍 甘粛省寧夏省青海省 馬鴻逵馬鴻賓馬歩芳馬歩青馬繼援英語版馬安良英語版 国民党
新系(新疆派) 新疆省 楊増新金樹仁盛世才 ソ連共産党

歴史

1925年の中国各地の軍閥の割拠。図の上の西語の凡例を日本語で下に示す。
凡例右列は直隷派への対抗勢力。
  馮玉祥の西北派の国民軍
凡例中列は直隷派
  四川派中国語版英語版
  呉佩孚の直隷派
  孫伝芳の直隷派
凡例左列は中国国民党広州国民政府)とその同盟関係にある軍閥。
  中国国民党の広州国民政府[* 1]
蔣介石

清朝の正規軍は腐敗堕落し、太平天国の乱では連戦連敗をした。これを平定したのは李鴻章淮軍といった私兵部隊でありその後も清仏戦争などで活躍した。しかし、主力となった日清戦争で淮軍は打撃を受け敗北、艦隊も失った。

淮軍を引き継いだ袁世凱は、淮軍とは別に西洋式の新しい北洋軍を設立し、董福祥の甘軍、聶士成の武毅軍と並びたった。間もなく勃発した義和団の乱では、北洋軍は山東省に赴き鎮圧に尽力する一方、淮軍は、他の地方と同じく政府命令を無視して列強との戦争に参加せず他の二軍とは異なり存続した。

義和団の乱後、清朝は従来の正規軍である「防軍」「練軍」「緑営」を大幅に削減して、代わって清国軍の中核を担う近代的正規軍である新軍を作った。新軍は軍制や訓練、装備に至るまで完全に西洋式に切り替えられた。袁世凱は、自身の管轄する北洋新軍を中央の軍、各省の新軍を地方軍とすることを意図し、清朝が滅亡した時点までに、全国に新軍を十六鎮と十六個混成協(鎮・協は作戦単位)設置した。袁世凱が管轄する北洋六鎮(直隷、山東、満州を管轄)は錬度・装備共にもっとも優れていた。

1911年から1912年にかけて起こった辛亥革命では、新軍は革命派に同調して多くの地方を落とした。袁世凱は当初敵対していたが革命軍に寝返り、清朝を打倒し、中華民国の樹立に協力した。そのため、彼は中華民国の大総統に就任した。しかし、反乱が勃発し1916年に袁世凱が死ぬと中国は北の北洋軍閥中心の北京政府と南の孫文の革命派との間の長期にわたる内戦時代を迎える。

北洋軍閥と革命派軍閥は根拠地とする地方と背景勢力の違いにより、分派間あるいは同一派内の有力者間で抗争を繰り返し、中国を混乱させた。北京政府の政権を争ったのは孫文の革命派に対する武力討伐を主張する安徽派と話し合いの直隷派だが最初に北京政府の実権を握ったは安徽派だった。しかし、講和会議と武力討伐の失敗し1920年安直戦争で直隷派と中央に乗り出してきた奉天派の連合軍に敗れ勢力を失った。安直戦争により段祺瑞の政権は崩壊し、天津攻撃を恐れた大日本帝国は鉄道沿線各地に軍兵を配置した[2]

直・奉の連合も長くは続かず、1922年奉直戦争が勃発、奉天派は大敗して東北三省に帰り態勢を整えた。奉天派は南の孫文の革命派と安徽派残党と軍事同盟を結び1924年に第2次奉直戦争では直隷派から寝返った馮玉祥の協力で張作霖が率いる奉天派が勝利を収めた。こうして張作霖は長江流域まで進出して1924年に北京政府の実権を握った。

しかし、直隷派は徐州周辺では勝利して依然勢力を保った。1924年9月18日、第二次奉天戦争が起こると、日本は内政不干渉を表明する一方、日本陸軍による張作霖への支援は続け、1925年に馮玉祥と密約を結んだ郭松齢が奉天に迫ると、満州出兵を行い、張作霖への軍事支援を実施し[3]、鎮圧した。1926年にはその隙をついて直隷省周辺に侵攻していた馮玉祥を山西派と直隷派と同盟して破り西北地域に追い払い再び奉天派、直隷派の連立政権が誕生した。

南方の革命派も内紛が絶えなかった。袁世凱の死後、孫文は支持基盤である広東省で統一を目指す新政府を立ち上げたがまもなく旧広西派に追い出され同派が支配したが腐敗がひどかったことから陳炯明率いる広東派が奪回し孫文たちを呼び戻した。そのまま広西省に攻め込み旧広西派を壊滅させた。しかし、陳炯明は、あくまで武力による中国統一を主張する孫文と対立し追放した。だが新広西派と雲南派が連合して攻め込み陳炯明は連戦連敗して逃亡、雲南派が孫文を迎え入れ再び軍政府を立ち上げた。

ソ連の支援を受け軍を養成するようになり、1926年、蔣介石を中心とする国民革命軍は広東省から北伐を開始した。

これに対抗するため直隷派と軍事同盟し迎え撃ったが、新広西派、雲南派と同盟した蔣介石はまず直隷派を滅ぼし山西派、西北派と組みさらに北進した国民革命軍は1928年に張作霖を破り北京を占領する。張作霖は奉天へ向かう途中関東軍により爆殺された。その結果、後継者の張学良は蔣介石国民政府に服従(易幟)して、一応軍閥時代は終焉する。ただ、各地の軍閥はそれぞれの支配地域で一定の影響力を保持し続けており、国民政府が直接的に影響力を持つ地域は第二次国共内戦中国大陸の支配地域を喪失するまで限定的なままであった。

参考文献

  • 『中国文明の歴史11:中国のめざめ』(中公文庫、2000年、ISBN 4122037638

脚注

注釈

  1. ^ 広東国民政府とも呼ばれた第4次の広東政府汪兆銘が主席委員を務めた。

出典

  1. ^ 太平洋戦争研究会編、森山康平著『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年1月25日初版発行、ISBN 978-4-309-72629-8、6頁。
  2. ^ 櫻井良樹「近代日中関係の担い手に関する研究(中清派遣隊) ―漢口駐屯の日本陸軍派遣隊と国際政治―」『経済社会総合研究センター』第29巻、麗澤大学経済社会総合研究センター、2008年12月、1-41頁、doi:10.18901/00000407NAID 120005397534 
  3. ^ 江口圭一「1910-30年代の日本 アジア支配への途」『岩波講座 日本通史 第18巻 近代3』岩波書店、1994年7月28日、ISBN 4-00-010568-X、41~43頁。

関連項目


軍閥時代

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崔用徳」の記事における「軍閥時代」の解説

1898年漢城府崇仁面(朝鮮語版城北里(現:ソウル特別市城北区城北洞(朝鮮語版))にて2等軍医官・崔益煥と泰安李氏の母の三男として生まれる。1908年に美洞鳳鳴学校入学15歳時に北京匯文大学校(中国語版)へ留学するが、のちに中退平壌崇実中学校朝鮮語版)を卒業するその後中国亡命1916年段祺瑞軍閥安徽派傘下南苑にある軍官学校教導隊か?)を卒業参戦軍軍士教導団青年教練官を経て参戦軍第2師(師長馬良済南)に配属。崔の志願により航空部隊送られ飛行技術学び、のちに保定航空教練所(後に保定航空学校改称)が設立される学生として編入される航空学校同期には第一次上海事変日本軍交戦した戦闘機搭乗員一人であり、日中戦争期中国空軍総指揮参謀長となる石邦藩がいた。 また、三・一運動起こった1919年ごろから独立運動にも積極的に参加するようになり、当初安東の「怡隆洋行朝鮮語版)」を通じて大韓民国臨時政府交通部総長文昌範(朝鮮語版))の業務参加した思われる同年6月臨時政府支援団体である大韓独立青年団安東市内で結成された時、崔は徐曰甫林基盤、金思益らに自宅拠点として貸し出すほどだったという。これ以降、崔は徐曰甫行動共にするうになる。しかし翌年3月1919年3月結成11月解散とも)、日本圧力大韓独立青年団解散となる。その後朴容萬朝鮮語版)、申采浩創造派(反臨時政府武力闘争派)と接近1921年4月申采浩らが李承晩委任統治請願糾弾したとき、崔と徐らはこれを支持臨時政府外交独立論・準備論への反発独立戦争論を主張した1922年二人金元鳳義烈団加入して爆弾運搬、金相玉朝鮮語版)の支援等を行った。翌1923年義烈団政治的対立発生する二人とも離脱、宋虎などと共に申義団を結成した。また同年、韓僑同志会設立したが、創造派でありながらその半数占め共産主義アナーキスト系を排除していた。 1924年呉佩孚軍閥航空隊所属して第2次奉直戦争参加1924年11月16日東亜日報戦死した報道されるが、後に生還した事が確認された。11月保定航空学校孫岳率い国民軍第3軍接収される。 1925年秋、保定航空学校卒業同学校の卒業生航空隊編成され、第1隊隊長楊鶴霄、第2隊隊長に崔が就いた国民軍第3軍の対奉軍(奉天軍、直軍)作戦従事1926年3月孫岳が病に倒れ国民第3軍航空隊呉佩孚率いる討賊聯軍に再度接収されると、今度直隷派側として国民軍対峙することになる。4月、呉は国民軍楊虎城李虎臣の部隊拠点としていた西安城を攻略すべく、鎮嵩軍統領劉鎮華を討賊聯軍陝甘軍総司令命じた同年夏、陝甘軍支援のため援陝航空支隊隊長:鄒慶雲)が編成されると、崔も部隊加わり西安包囲していた劉の支援向かった。冬に入り西北軍援助で陝甘軍が瓦解すると、器材保全のため崔は深夜に東に向けて飛行することになった。夜が明けはじめ華陰上空入ったところで覆われ燃料尽きた態となったが、崔はかかった中着陸を試み無事に成功させた。その時飛行機飛行場には夜間飛行用の計器施設無く、また夜間の離陸この頃中国ではあまり無かったその頃呉佩孚北伐開始した国民革命軍攻撃を受け、各地敗退重ねていた。崔は孫伝芳五省連軍に身を寄せ1926年11月には上海・虹五省連軍航空司令部司令官:願栄昌航空隊飛行となった

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