跡目相続以降とは? わかりやすく解説

跡目相続以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/08 06:51 UTC 版)

乾正房」の記事における「跡目相続以降」の解説

1689年7月28日元禄2年6月12日)、土佐藩主・山内豊昌より、亡父跡目無相下し置かれる土佐藩上士知行1200石)板坂永吉の娘と結婚する。板坂永吉の父、板坂永政(三右衛門)は、土佐藩家老乾和三山内備後)の二男生まれ、板坂利正(馬左衛門)の養子となった人物であり、土佐藩家老の乾家(本姓土岐氏)と、正房の乾家(本姓板垣氏)は別家であったがこの縁組によって、両家の血が交わることになった。 また乾七郎左衛門という名は、土佐藩祖・山内一豊の時代、一豊が高知城築城視察する際に、身の安全のため仕立てた影武者・同装束六人衆野中玄蕃市川大炊柏原右衛門乾宣光七郎左衛門)・乾和三助))の一人で、乾和三実兄乾宣光」の名を襲名したのである1705年宝永2年)、土佐藩山内豊房時代本山郷での在番仰せ付けられる。同年江戸御留守居番仰せ付けられ江戸土佐藩邸に勤めた1721年11月14日享保6年9月25日病死。 墓は土佐国土佐郡薊野板垣山(現 高知県高知市薊野東町15-12北東付近)の代々墓地建てられた。

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跡目相続以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/07 06:22 UTC 版)

真辺正躬」の記事における「跡目相続以降」の解説

1815年1月1日文化11年11月21日)、 亡養父真辺正久の跡目無相下し置かれる1817年12月13日文化14年11月6日)、当分御火消御用以って、来3月末迄、御家中町方とも火の用心廻り番仰せ付けられる。1821年5月5日文政4年4月4日)、門前において寺村庄兵衛家来五郎生駒八郎対し法外仕業に及び、殺害心得以って斬り付けところを屋敷内外に居あわせたが、趣殊に一度居宅へも踏り込んだ時の行動を、不行届不心得極み咎められて、8月18日旧暦7月21日慎み仰せ付け置き処、8月22日旧暦7月25日)前躰の通り火の用心廻り番仰せ付けられた。1825年8月20日文政8年7月7日)、大御扈従仰せ付けられる。1827年7月21日文政10年6月28日)、この度御趣向きを以って中大扈従の場を差し止め付き右役御免となり御馬廻仰せ付けられた。1831年10月22日天保2年9月17日)、甲浦奉行仰せ付けられる。1832年1月28日天保2年12月26日)、右役を差免れる1837年10月7日天保8年9月8日)、免奉行仰せ付けられる。 1838年6月27日天保9年5月6日)、爾来の勤事そのまま以って当分、御郡奉行御普請奉行加役仰せ付けられる。1838年9月9日天保9年7月21日)、御郡奉行御普請奉行・御使母衣附属の役得とも仰せ付けられ、但し、御趣向きを以って当分異国船打払い御用兼帯仰せ付けられる。1841年5月31日天保12年4月11日)、先達って仰せ国内材を公辺即買い上げ仰せを蒙り、右御用掛り仰せ付け置き候処、御用掛り首尾よく相済ませたことにより御祝儀白銀3枚成し置かれた。1842年4月17日天保13年3月7日)、御留守居組頭仰せ付けられる。

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跡目相続以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 15:29 UTC 版)

乾正清」の記事における「跡目相続以降」の解説

1715年9月15日(同5年8月18日)、土佐藩主・山内豊隆より、亡父跡目300石)を無相下し置かれる1725年享保10年)、江戸勤番命じられる1736年10月18日元文元年9月14日病死。 墓は土佐国土佐郡薊野板垣山(現 高知県高知市薊野東町15-12北東付近)の山頂にある代々墓地建てられた。

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跡目相続以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 02:23 UTC 版)

乾直建」の記事における「跡目相続以降」の解説

1737年1月25日元文元年12月25日)、土佐藩主・山内豊敷より、亡父跡目300石)を下し置かれる1751年7月20日宝暦元年6月28日)、柄弦御指物格式をもって土佐国幡多郡代・中村定詰命じられる1752年3月24日(同2年2月9日)、御留守居物頭命じられ幡多郡代を差免られる。

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跡目相続以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 09:29 UTC 版)

片岡健吉」の記事における「跡目相続以降」の解説

慶応元年1865年10月22日祖父・謙光(繁三郎)の跡目を継ぐ。慶応2年1866年5月11日鉄砲頭を免じ御馬廻再任8月2日外輪物頭六明組郷士隊長となる。慶応3年1867年3月6日文武出精賞され褒詞を受ける。7月17日御侍別撰小隊司令就任11月4日京都奉行御普請奉行外輪物頭附属となる。12月10日京都奉行御普請奉行外輪物頭附属免じられ、御馬廻り転任乾退助と共に勤王論を唱導し、その意を同じくした。

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跡目相続以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 23:25 UTC 版)

乾正方」の記事における「跡目相続以降」の解説

1673年寛文13年)、土佐藩主・山内豊昌より、亡父跡目500石)のうち、役料である足軽知(200石)を除いた、元々の知行高である300石を無相下し置かれ大御小性命じられた。 1679年11月21日延宝7年10月18日)、御持筒支配命じられる1688年1月1日貞享4年11月28日)、外輪足軽知(200石)を下し置かれた。 1689年10月12日元禄2年8月29日)、幡多郡中村への在番命じられる1690年元禄3年)、江戸勤番命じられる1700年10月12日元禄13年9月1日)、土佐藩主・山内豊房初め土佐へ入部し高知城入城するのにあたって幕府への礼のため江戸へ使者命じられ10月28日旧暦9月17日)に江戸へ着いたが、豊房が御遠行となったため、差し返された。 1703年元禄16年)、当分、御馬廻支配命じられる1709年10月24日宝永6年9月22日)、土佐藩主・山内豊隆時代御馬廻組頭役命じられ、役領知200石を下し置かれた。ただしそれまで鉄砲知(200石)は差し戻されたので、総禄高500石である。

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跡目相続以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 04:17 UTC 版)

林政誠」の記事における「跡目相続以降」の解説

安永8年1月21日(1779年3月8日)、養父(兄)跡目知行高150石の内、130石を下し置かれ格式そのまま御馬廻仰せ付けられる。 同年7月28日(太陽暦9月8日)、大御扈従仰せ付けられる。 天明元年5月29日(1781年6月20日)、大御扈従を差除き御馬廻仰せ付けられる。 同7年8月4日(1787年9月15日)、御山奉行材木方を仰せ付けられる。 寛政元年6月29日(1789年7月21日)、土佐藩江戸上屋敷御作事につき、右御用仰せ付けられる。 同年10月21日(太陽暦12月7日)、土佐藩山内豊策時代禁裏御造営につき、御献上材木御用筋につき、阿州撫養差立てられ、大坂において右を御引渡しの節、御用仰せ付けられ、彼地より直に大坂差し立てる旨を仰せ付けられる。 同年11月23日(1790年1月8日)、出足翌年8月1日(1790年9月9日)、帰藩。 同3年1月22日(1791年2月24日)、昨年御献上材木に就き御用仕成方を始め阿州撫養大坂表などへ差し立てられ御渡し方までの心配り宜し相勤め御献上御首尾よく相済ませたことにつき、御祝儀白銀三枚成し遣わされる。 同5年5月28日(1793年7月6日)、土佐藩江戸上屋敷を新御作御用材木仕成を仰せ付けられたが、御成就至り、右御用精出相勤め候につき、白銀成し遣わされる同年10月9日(1793年11月12日)、役方精を出し相勤めていた事を賞せられ役領知20石を下し置かれる。 同6年10月9日(1794年11月1日)、江戸御留守御内用御物頭格を仰せ付けられ、役領知70石を下し置かれ、尤も従来の役領知は除かる。 同7年5月4日(1795年6月20日)、江戸で今般御姫様御誕生につき御用向き滞り無く相勤め候につき、今日御七夜御祝儀として金子300両を成し遣わされた。 同8年10月7日(1796年11月6日)、昨年御先代様の重き召しを以て政事改革仰せ出され当年にて御年満了となったため、一同御意厚く引受け奉り精を出し相勤めたことを、御満足に思召され白銀成し遣わされた。 同9年7月6日(1797年7月29日)、江戸で土佐藩江戸上屋敷の御奥向御用、但し貞明院様御用とも兼勤仰せ付けられる。 同11年(1799年)、二之丸御修の後の御手伝い元締役仰せ付けられ、尤も江戸表罷り在りにつき書附を以て仰せ付けらる。 同12年1月9日(1800年2月2日)、江戸で先般御手伝い首尾よく為し済ませたことにより、御祝儀御料理成し遣わされた。 同年2月13日(1800年3月8日)、江戸で当役を以て柄弦御指物役を仰せ付けられ、増役領知50石を下し置かれた。 享和元年4月27日(1801年6月8日)、江戸で土佐藩江戸上屋敷の御奥向御用兼勤仰せ付けられていたが、右兼勤御免仰せ付けられる。 同2年3月1日(1802年4月3日)、江戸で御供御内用役を仰せ付けられ、柄弦御指物領知とも従来通り、但し江戸御軍御用兼帯仰せ仰せ付けられる。尤も来年まで直詰め仰せ付けられたので、白銀10成し遣わされる文化4年2月11日(1807年3月19日)、江戸で従来の役領知の内、50御加増を引き置かれ70石はそのまま領知として下し置かれる。但し、来春まで詰め越すことを仰せ付けられた。 同年6月22日(太陽暦7月27日)、江戸で先達て上屋敷の新御作御用引受仰せ付けられていたが、精を出し相勤め此の度御成就となり、御祝となったので、御祝儀白銀と御吸い物賜る。 同5年2月6日(1808年3月2日)、土佐藩山内豊興時代江戸で当勤事を以て御隠居附き御側物頭兼帯仰せ付けられ江戸御軍御用は差免れた同年3月4日(太陽暦3月30日)、江戸で今般御願通り御隠居御家督万端御首尾よろしく為し済まされ、右御用引受仰せ付けられたが、滞り無く相勤めたことにより、御祝儀として白銀3枚下し置かれた。 同年6月4日(太陽暦6月27日)、先達て藤並明神御宮を御建立付き厚く存じ入り寸志差出した事に対し御受納あらせられ、御満足に思召され御褒詞賜る同年12月14日(1809年1月29日)、御隠居御内用役、柄弦御指物兼帯役ともに差退役となり、役領知除かれ御馬廻仰せ付けられる。 同10年2月15日(1813年3月17日)、土佐藩山内豊資時代土佐国幡多郡奉行中村定詰、柄弦御指物役を仰せ付けられ、役領知70石を下し置かれる。 同12年7月27日(1815年8月31日)、病障につき、右役を差し免がれ、役領知除かれ御馬廻仰せ付けられる。 同年12月16日(1816年1月14日)病死享年60歳法名音聲院釋自然道脱居士。 墓は高知県高知市薊野東真寺山北側勤労病院駐車場東側上)にあり。 政誠が大黒右衛門清勝から授かった居合伝書は、依田萬蔵敬勝に伝えられた。

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