跡目相続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 01:37 UTC 版)
慶長3年(1598年)、秀吉の死去により豊臣政権が混乱の様相を呈し始めると、翌慶長4年(1599年)、勝成は妻子を残して上洛し徳川家康の幕下に加わった。そして、家康の要請を受けた山岡景友の仲介により父・忠重と15年ぶりに和解する。同年4月22日、勝成の妹・かな姫(のちの清浄院)が家康の養女となって、加藤清正と結婚。慶長5年(1600年)に家康に従って会津征伐のため下野小山に宿陣している。7月18日、三河国池鯉鮒にて、忠重は加賀井重望から西軍に誘われるも断ったので殺害された。その場で殺害された重望の懐から、石田三成より家康関係者を殺害することによって領地恩賞を与えるとの書状がでてきた。7月25日、家康に従軍していた勝成は、一旦、刈谷城に帰り、三河国刈谷3万石の跡目相続を命じられた。以後、家康の側近になる。
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