しょうけんとりひき‐いいんかい〔‐ヰヰンクワイ〕【証券取引委員会】
SEC
米国証券取引委員会
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米国証券取引委員会 U.S. Securities and Exchange Commission | |
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(SEC) | |
![]() 証券取引委員会の印章 | |
組織の概要 | |
設立年月日 | 1934年6月6日 |
管轄 | アメリカ合衆国連邦政府 |
本部所在地 | ![]() 100 F Street, NE, Washington, DC 20549 北緯38度53分53.4秒 西経77度0分15.9秒 / 北緯38.898167度 西経77.004417度 |
人員 | 3,798人 (2007年) |
行政官 |
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ウェブサイト | www.sec.gov |
米国証券取引委員会(しょうけんとりひきいいんかい、英語: U.S. Securities and Exchange Commission、略称: SEC)は、アメリカ合衆国における株式や公社債などの証券取引を監督・監視する連邦政府の機関である。
概要
アメリカ証券取引委員会 (SEC) は日本の証券取引等監視委員会及び公認会計士・監査審査会を併せ持つ組織である。捜査[注 1]、民事制裁金の請求などの権限がアメリカ証券取引委員会に与えられている。5人で構成されるアメリカ証券取引委員会はアメリカ合衆国大統領が任命するが、連邦政府から一定の独立性が保たれている。ミューチュアル・ファンドを監督している。
なお、日本語では「証券取引委員会」と訳されているが、直訳は「証券及び取引所委員会」である。これは、1933年証券法 (Securities Act of 1933) と1934年証券取引所法 (Securities Exchange Act of 1934) の両方を担当していることを示すものである。
歴史
1920年代のアメリカにおける株式ブームは1929年の暗黒の木曜日に始まる世界恐慌によって終焉した。その後、証券業界では多数の不正が行われていたことが発覚した。これを受け、フランクリン・ルーズベルトの大統領任期時代の1934年、証券取引委員会が設立された[1]。2002年7月にはエンロン、ワールドコムなどの上場企業による不正会計に対処するために上場企業会計改革および投資家保護法(サーベンス・オクスリー法)が制定された。
フランクリン・ルーズベルトによって初代証券取引委員会委員長に任命されたのは、後のアメリカ大統領・ジョン・F・ケネディの父親のジョセフ・P・ケネディであった。ジョセフ自身がインサイダー取引など数々の手口を駆使して大富豪に成り上がった人物であったため、この人事には反発が強かった。この人事についてルーズベルトは「オオカミを捕らえるためにオオカミを使う。彼なら取引のからくりを何でも知っている」と発言したという[2]。
これまでにエンロンやワールドコムなどの粉飾決算を暴いた。
歴代委員長
- 初代 ジョセフ・P・ケネディ(1934年 - 1935年)
- 第2代 James M. Landis (1935年 - 1937年)
- 第3代 William O. Douglas (1937年 - 1939年)
- 第4代 ジェローム・フランク (1939年 - 1941年)
- 第5代 Edward C. Eicher (1941年 - 1942年)
- 第6代 Ganson Purcell (1942年 - 1946年)
- 第7代 James J. Caffrey (1946年 - 1947年)
- 第8代 Edmond M. Hanrahan (1948年 - 1949年)
- 第9代 Harry A. McDonald (1949年 - 1952年)
- 第10代 Donald C. Cook (1952年 - 1953年)
- 第11代 Ralph H. Demmler (1953年 - 1955年)
- 第12代 J. Sinclair Armstrong (1955年 - 1957年)
- 第13代 Edward N. Gadsby (1957年 - 1961年)
- 第14代 William L. Cary (1961年 - 1964年)
- 第15代 Manuel F. Cohen (1964年 - 1969年)
- 第16代 Hamer H. Budge (1969年 - 1971年)
- 第17代 William J. Casey (1971年 - 1973年)
- 第18代 G. Bradford Cook (1973年 - 1973年)
- 第19代 Ray Garrett, Jr. (1973年 - 1975年)
- 第20代 Roderick M. Hills (1975年 - 1977年)
- 第21代 Harold M. Williams (1977年 - 1981年)
- 第22代 John S.R. Shad (1981年 - 1987年)
- 第23代 David Sturtevant Ruder (1987年 - 1989年)
- 第24代 Richard C. Breeden (1989年 - 1993年)
- 第25代 Arthur Levitt (1993年 - 2001年)
- 第26代 ハーヴェイ・ピット (2001年 - 2003年)
- 第27代 William H. Donaldson (2003年 - 2005年)
- 第28代 Christopher Cox (2005年 - 2009年)
- 第29代 Mary Schapiro (2009年 - 2012年)
- 第30代 Elisse Walter (2012年 - 2013年)
- 第31代 Mary Jo White (2013年 - 2017年)
- 第32代 ジェイ・クレイトン(2017年 - 2021年)
- 第33代 Gary Gensler (2021年)
脚注
注釈
- ^ 実際には1934年証券取引法21条に基づき司法の許可が必要。
出典
- ^ ASCII.jpデジタル用語辞典. “米国証券取引委員会”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2022年2月10日閲覧。
- ^ 産経抄2008年9月12日
関連項目
- 証券取引等監視委員会(日本)
外部リンク
証券取引委員会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 15:24 UTC 版)
「ハマー・H・バッジ」の記事における「証券取引委員会」の解説
バッジは下院議員引退後、アイダホ州第3司法地区の判事になった。1964年、リンドン・B・ジョンソン大統領により米国証券取引委員会(SEC)の委員に任命され、1969年から1971年に辞任するまで、ニクソン政権下でSECの委員長を務めた。 その後、ミネアポリスの投資信託グループの社長を務め、1978年に引退した。
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「証券取引委員会」の例文・使い方・用例・文例
- 彼はその1次データを証券取引委員会の報告書から得た。
- 書面による正式な提案で、(米証券取引委員会に届け出た)証券を売却し、(提案された)事業の計画を発表するもの
- 米国の証券取引委員会に登録されていない株券ないしは債券で公けの市場では売ることができないもの
- 証券取引委員会に登録されていない株券で、一般大衆には売ることができないもの
- 米国の証券取引委員会に登録されていない債券で一般の大衆には売ることができないもの
- 2月1日,世界最大のSNS会社であるフェイスブックが米国証券取引委員会に株式を公開するための書類を提出した。
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