しゅ‐じょう〔‐ジヤウ〕【衆生】
す‐じょう〔‐ジヤウ〕【▽衆生】
しゅじょう 【衆生】
衆生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/01 06:42 UTC 版)
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仏教用語 衆生 | |
---|---|
パーリ語 | satta |
サンスクリット語 | sattva |
中国語 | 有情 |
日本語 |
衆生 (ローマ字: しゅじょう) |
英語 | Sattva |
衆生(しゅじょう、梵: sattva सत्त्व、巴: satta[1])は、一切の生きとし生けるもの(生類)のこと[2]。基本的には迷いの世界にある生類を指すが、広義には仏・菩薩をも含めることがある[2]。
訳語
玄奘訳では有情(うじょう、梵: sattva[3])と表記する。「梵に薩埵(さった)という。ここに有情という。情識あがゆえに」(唯識述記)といわれ、情(心の働き)を持つもの、という意味[3]で、非精神的存在である非情(ひじょう)[4](無情(むじょう)ともいう[4])に対して、一切の生きとし生けるものを含む。多くのものが共に生存しているという意味でバフジャナ(梵: bahujana)ともいわれ、これは衆人とも訳される。
衆生・有情のほか、含識、含霊、含生、含情、群生、群萌、群類などの訳語がある[2][注釈 1]。
意味
衆生の中には、人間だけでなく動物など他の生命も含まれている。したがって、衆生や有情という言葉は広い意味に用いられる。十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏)の中でも前半の六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)ないしは五趣(地獄、餓鬼、畜生、人間、天上)のいずれかに属して生きている[5]。衆生が死ねば、また六道ないしは五趣のいずれかの中に生まれる(天人とても寿命は永遠ではなく、輪廻を離れてはいない)[5]。仏教、少なくとも阿毘達磨倶舎論においては、植物までを含まないが、ジャイナ教では植物を含む[5]。人間は、サンスクリット語でマヌシャ(manuṣya मनुष)といわれ、ヨーロッパでのマン(英: man)やメンシュ(独: Mensch)と同じく「考えるもの」という意味である。サンスクリット語のサットヴァ (sattva)、パーリ語のサッタ (satta) は、「生きているもの、存在するもの」という意味である。なお、涅槃経獅子吼菩薩品には「一切の衆生は悉く仏性を有す」とあるが、この言葉は、仏になれるのは衆生(有情)のみで、非情の存在は除外されるという意味を含む[4]。
漢語を元にした解釈
原義については、衆多の法が仮に和合して生ずるので衆生と名づける(大法鼓経)とする説や、衆多の生死を経るので衆生と名づける(大乗義章)などの説がある[4]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 中村元他『岩波仏教辞典』岩波書店、1989年。ISBN 4-00-080072-8。
- 櫻部建、上山春平『存在の分析<アビダルマ>―仏教の思想〈2〉』角川書店〈角川ソフィア文庫〉、2006年。ISBN 4-04-198502-1。(初出:『仏教の思想』第2巻 角川書店、1969年)
関連項目
衆生
「衆生」の例文・使い方・用例・文例
- 彼は仏教に帰依し, 衆生済度のために身命を抛(なげう)った.
- 釈迦は方便を設けて衆生を済度した
- 一切衆生
- 衆生を済度する
- 縁無き衆生は度し難し
- 衆生の恩
- 衆生界
- 一切衆生を済度する
- 衆生を度す
- 仏が衆生を引き導くこと
- 仏菩薩が衆生を救うためにいろいろに姿を変えて出現すること
- 仏菩薩がいろいろ姿を変え出現し衆生に利益を与えること
- 仏が衆生の願いをすべて満足させること
- 観世音菩薩に備わる衆生を救済する力
- 仏教において,衆生に備わっている心の光が天地にあふれていること
- 衆生救済の誓願を書き記した文
- 衆生を説法により感化し,善に導く
- すべての衆生を救おうとする弘大な誓願
- 仏が衆生を救うため,仮の姿をとってこの世に現れたもの
- 衆生を乗せて悟りに導く三つの教法
衆生と同じ種類の言葉
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