藩史
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[全画面表示] 関連地図(千葉県中部) 岩富は元は「弥富」と呼ばれ、千葉氏の家老原氏の一族だった弥富原氏の居城だった。原氏は本拠地を生実城(小弓城)に置き、後に里見氏の圧迫により臼井城に移ったが、その後も生実城は対里見氏戦の前線基地だった。岩富は生実と臼井のほぼ中間に位置したため、中継基地として重要な存在だった。 「地黄八幡」として有名な勇将・北条綱成の孫・北条氏勝は、天正18年(1590年)の小田原征伐の際に玉縄城で善戦したが、本多忠勝や榊原康政の説得を受けて徳川家康に降伏し、やがてその家臣となった。この氏勝が小田原征伐後、原氏に替わって下総国岩富に1万石を与えられ、岩富藩を立藩した。氏勝は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで尾張国犬山城を守備する功を挙げた。慶長16年(1611年)3月に氏勝は死去し、跡を養嗣子(保科正直の四男)の北条氏重が継いだ。氏重は慶長18年冬、下野富田藩に移封となったため、岩富藩は廃藩となった。
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藩祖は、細川幽斎の次男・興元である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、兄・忠興と不仲になって出奔する。慶長15年(1610年)7月27日、将軍・徳川秀忠より下野国芳賀郡茂木1万石を与えられて諸侯に列した(茂木藩の立藩)。真偽のほどは定かでないが、幕府は当初豊後国鶴崎10万石を検討したものの、忠興の「興元は10万石の器にあらず」との反対によってわずか1万石に留まったため、細川宗家と不仲になったと伝えられているが、第2代藩主興昌の代には、熊本藩主の息子が鷹狩りの際に谷田部を訪れて歓待されている。 その後、興元は大坂の陣における戦功により、元和2年(1616年)6月26日に常陸国筑波郡・河内郡6200石を加増され、陣屋を谷田部に移した。土地は痩せて凶作が多かったため財政難が慢性化し、頻繁に援助した熊本藩では貸金は返ってこないものと諦めていた。 なお、藩庁を茂木から谷田部に移転して以降も茂木の陣屋は温存され、藩主および藩主一族が住することもあり、『寛政重修諸家譜』の7代藩主・興徳の記載に「茂木あるいは谷田部に住し」とあり、廃嫡となった興誠も茂木にて死去したとある。天保11年(1840年)の藩士は、江戸屋敷58名、茂木陣屋47名、谷田部陣屋43名の計148名。この他、奥女中や足軽、門番人その他となっている。 第3代藩主・興隆の代である万治3年(1660年)、検地が行なわれて藩政の基礎は固められたが、享保年間から、大風雨による洪水や飢饉、旱魃や熱病と天災による凶作が続き、さらに江戸の藩邸が焼失したこともあって財政は急速に悪化する。天保5年(1834年)の負債額は、12万7000両、米2600俵という巨額にのぼっている。生産量も激減し、享保8年には1万3000人を超えた人口も、天保6年(1835年)には6702人と半減し、耕地の4割が荒地と化した。 第4代藩主の興栄は相続者が決まらず、遠縁の公家の姉小路家から興誠を婿養子に迎えた。大名家に養子が入ることはよくあることだが、公家から養子を迎える例はほとんど無く、貴重な例である。 文化5年(1808年)、文化6年(1809年)、天保4年(1833年)、天保7年(1836年)には年貢減免を求める百姓一揆が勃発している。このような藩財政の悪化に対し、第7代藩主・興徳は二宮尊徳の報徳仕法を手本とし、藩医・中村勧農衛(なかむら かのえ)を登用して財政再建を柱とする藩政改革を行なった。しかし、藩内部で仕法の反対を求める保守派の動きや、興徳がわずか3年後に死去した上に晩年は冷害に見舞われたこともあり、凶作と米価上昇に改革は挫折する。それでも家老に就任した中村による耕地回復活動は実を結び、耕地面積は回復した。借金も豪商・釜屋七兵衛からの借金2000両を棒引きにするなどの強引な手段と、年貢収入の回復、熊本藩からの財政援助によってようやく減少に転じた。中村勧農衛は間引きを防ぐため『さとし草』を著し、農業人口の維持に努めようとした。しかし幕末に至るとまた凶作が相次いで一揆が頻発する一方、幕府政治に不満が高まって世直し一揆が発生した。 最後の藩主となった興貫は、戊辰戦争では新政府に与して会津若松城攻めに藩兵を派遣する。翌年の版籍奉還で知藩事(藩知事)に就任、明治4年(1871年)2月8日、陣屋を再度茂木に移した。同年7月の廃藩置県ののち、第一次府県統合で谷田部の茂木藩領は新治県となり、のち茨城県に編入された。
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糸魚川は北陸道と千国街道(塩の道)の結節点で、軍事と交通の要衝であった。このため、糸魚川は松平忠輝(越後少将家)の時には家老の松平信直、松平忠昌(福井松平家)の時には家老の稲葉正成、松平光長(越後中将家)の時には家老の荻田氏(荻田長繁、荻田長磐、荻田本繁の3代)がそれぞれ清崎城(糸魚川城)に入っている。延宝9年(1681年)に光長が越後騒動で改易された後の元禄4年(1691年)、日向延岡藩から有馬清純(肥前有馬家)が5万石で入る。しかし清純は元禄8年(1695年)5月に越前丸岡藩へ移封され、糸魚川藩は廃藩となり、その所領は天領となる。 元禄12年(1699年)、本多助芳が出羽村山藩より1万石で入り糸魚川陣屋を置く。だが、享保2年(1717年)に助芳は信濃飯山藩へ移封。 代わって越前松平家の松平直之が1万石で入った。この糸魚川藩の越前松平家は、福井藩主松平光通の子・直堅を祖とする系統である。松平直堅は光通の唯一の男子であるにもかかわらず側室の子であったために家中の反対があり福井藩を継げず、これを哀れんだ幕府によって賄料1万俵が与えられ、以降代々定府で日向守を名乗っていたが、ここにおいて所領を与えられることになったのである。 糸魚川藩は享保末期から財政悪化が始まる。しかもそれに連鎖するように天災が相次いで財政は火の車となった。このため、藩は新税の設置や増税を行なったが、それが原因でさらなる領民の憤激を買う。 この事態打開のために文化11年(1814年)に重臣による改革が行なわれたが、この改革は農民からの搾取が主という根本的な解決策が無かったために失敗。そして文政2年(1819年)、遂に郡代・黒川九郎治の苛酷な御用金徴収に対して領民の怒りが爆発し、黒川騒動が起こった。おまけにペリー来航による海防問題によってさらに支出が増大し、財政難はいよいよ深刻なものとなった。 第7代藩主・松平直廉は安政の大獄で家督を追われた松平慶永に代わって越前松平家を継ぐこととなる。このため、播磨明石藩から松平直静が第6代藩主・松平直春の養嗣子となって糸魚川藩の家督を継いだ。明治2年(1869年)の版籍奉還で直静は清崎藩知事となる。同年8月、糸魚川藩は正式に清崎藩と改められたが、同年は巳年の困窮とまで言われて林騒動や二歩金騒動が起こった。明治4年(1871年)の廃藩置県で、清崎藩は清崎県となった。
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榎本城は元は戦国時代の小山高朝の隠居城であり、後にその実子である結城晴朝が領有していた。 結城氏移封後の慶長10年(1605年)、本多正信の三男で正純の弟に当たる忠純が榎本城に1万石で入ることで榎本藩が立藩された。大坂の陣で戦功を挙げた忠純は1万8000石を加増され、2万8000石の大名となった。忠純は父や兄のように目立った人物ではなかったが、戦国時代の小山家の旧臣を家臣団として新たに組み込んだり、城下町の整備を行なったりと、藩政の基盤固めに専念した。寛永8年(1631年)12月13日、忠純は46歳で死去し、跡を養嗣子の政遂(加賀藩家老本多政重の子)が継いだ。政遂は寛永15年(1638年)7月29日、26歳で早世する。跡を子の犬千代が継いだが、犬千代は寛永17年(1640年)5月13日に5歳で夭折した。当然、嗣子がいるはずもなく、本多家は無嗣断絶で改易となり、榎本藩も廃藩となった。 その後、この忠純系の名跡は、政遂の弟の政朝が継いで旗本(5000石)に取り立てられて、本多大隅守家として続いた。
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藩主家は堀田家である。第3代将軍・徳川家光の時代に老中となった堀田正盛は、家光から重用されて下総国佐倉藩12万石の大名にまで栄進した。正盛は家光の死去に伴って殉死し、子の堀田正信が跡を継いだ。しかし正信は、万治3年(1660年)に老中・松平信綱と対立したため、所領を没収され改易となった。正信の嫡男・堀田正休は父の罪を許されて天和2年(1682年)3月に1万石の大名として復帰を許され、上野国吉井藩に封じられた。正休は元禄11年(1698年)3月7日に吉井から近江国坂田郡宮川に移封となり、宮川藩が成立した。 第3代藩主・堀田正陳は若年寄となって寛延元年(1748年)10月15日に3000石の加増を受け、1万3000石を領することになった。第5代藩主・堀田正穀の時代には所領のうち3600石が近江国蒲生郡から播磨国に替えられたが、新たな領知は生産性が近江よりも高かったため、実質的な加増であった。この実質加増は文化4年(1807年)2月7日に元に戻された。第6代藩主・堀田正民は絵画に造詣が深かった文化人である。幕末期に入ると、宮川藩は佐幕派として活動したが、やがて近江国内における諸藩が新政府側に与すると、やむなく新政府側に与した。そして第9代藩主・堀田正養の時代に明治維新、次いで版籍奉還により知藩事となった。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で、宮川藩は宮川県となった。その後、長浜県、犬上県を経て、明治5年(1872年)に滋賀県に編入された。また、最後の藩主となった正養はその後子爵に叙せられて逓信大臣を務めている。 歴代藩主の多くが大番頭や奏者番、そして若年寄など幕府の要職を務めているが、藩政における治績はほとんど見られない小藩だった。
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今尾城を領していた市橋長勝は関ヶ原の戦いで東軍に与して功あり、戦後に所領を安堵された。慶長15年(1610年)、中村一忠の改易により長勝は伯耆矢橋藩へ転封され、元和5年(1619年)、竹腰正信が今尾陣屋を築いて入った。 竹腰家は宇多源氏の佐々木信綱を祖とする。竹腰道鎮は斎藤道三に仕え、その孫正信は徳川家康に仕えた。正信の生母はお亀の方で、尾張徳川家の祖となった徳川義直は正信の異父弟である。慶長6年(1601年)、正信は甲斐国内に5000石を与えられ、慶長12年(1607年)に成瀬正成と共に義直の御附家老となった。その後、新たに尾張で5000石を加増され、合計1万石を領した。慶長16年(1611年)に尾張藩の執政を務めていた平岩親吉が死去すると、正信はその後を受けて尾張藩の執政を任された。また、正信は名古屋城築城に尽力し、自らが砲術に長けていたことを家康の前で披露して褒め称えられたことから、1万石を加増された。元和5年(1619年)にはさらに1万石を加増されて3万石の大名となった。以後、竹腰家は尾張藩の御附家老として代々、尾張藩主を補佐した。ただし、幕府時代は正式に藩としては認められず、正式に認められて立藩したのは、明治元年(1868年)1月27日の明治政府の計らいによるものである。このとき、今尾藩は同年10月に義直から下された1万石を返上している。そして明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還を行なった。
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慶応2年(1866年)3月、宇都宮藩の一門重臣戸田忠至は、天狗党の乱で改易の危機に立たされた藩を救い、山陵奉行として功績を挙げたことにより、本家である宇都宮藩戸田家から1万石を分与され大名として菊の間詰となり、高徳藩を立藩した。領地は高徳・藤原・塩原など下野で1735石、河内で若江・丹北など5265石、他に新田3000石である。戊辰戦争で高徳は新政府軍と旧幕府軍の戦場にもなった。 忠至は明治維新後、新政府に招かれて山陵修補奉行や京都裁判所副総督、宮内大丞、御医師支配、権弁事、参与会計事務局判事などを歴任したため、明治2年(1869年)に家督を子の戸田忠綱に譲った。忠綱は明治3年(1870年)に下野と河内の両国における所領を上知されて下総に所領を与えられたため、下総国曽我野に移り、以後は曽我野藩となった。
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藩史
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織田信長に仕え、当時最強と言われた毛利水軍をわずか数隻の鉄甲船で打ち破ったことで有名な織田水軍の将・九鬼嘉隆を藩祖とする。慶長5年(1600年)嘉隆は西軍に、子の九鬼守隆は東軍に与して関ヶ原の戦いを戦った。これは、父子対立というよりはどちらが勝利しても九鬼家が存続できるように嘉隆が図ったものと言われている。しかし守隆は戦後、父の助命を徳川家康に嘆願して認められていたが、それを報せる前に嘉隆は自害した。 守隆は戦後に2万石を加増され、大坂の陣でも戦功により1,000石を加増されて5万6,000石の大名となった。寛永9年(1632年)に守隆が死去すると家督争いが起こり、幕府の介入の結果、家督は守隆の五男の九鬼久隆が継いで摂津三田藩へ移封、三男の九鬼隆季が丹後綾部藩に2万石で移封となり、九鬼氏は分裂させられた上、基盤となる水軍をも失った。 翌年、常陸国内で2万石を領していた内藤忠重が3万5,000石で入る。この内藤氏は内藤清長の一族で、その分家筋である。忠重の後、内藤忠政、そして内藤忠勝と継がれたが、延宝8年(1680年)に忠勝は芝増上寺において第4代将軍徳川家綱の法会の席上で、私情から永井尚長を殺害したために切腹・改易となり、鳥羽藩はその後8か月は幕府直轄地となった。ちなみに忠勝は、後に松の廊下刃傷事件を起こした播磨赤穂藩主浅野長矩の叔父に当たる。 翌天和元年(1681年)、下総古河藩から土井利益が7万石で入る。しかし元禄4年(1691年)、肥前唐津藩へ移封となる。入れ替わりで松平乗邑が6万石で入るが、これも宝永7年(1710年)に伊勢亀山藩へ移封となる。入れ替わりで板倉重治が5万石で入るが、これも享保2年(1717年)、再び亀山へ移封となる。代わって山城国淀藩から松平光慈が7万石で入るが、これも享保10年(1725年)に信濃松本藩へ、というように藩主家が安定しなかった。 稲垣昭賢が下野烏山藩から3万石で入り、ようやく藩主家が定着した。その後稲垣氏は8代にわたって鳥羽を支配した。 幕末には幕府から黒船来航への対策として津藩とともに伊勢神宮と伊雑宮の防衛を命じられ、志摩地方の沿岸部には次々と台場が築かれ大砲が設置された。安乗崎の日和山台場に設置されていた鉄製砲身(全長171㎝、胴回りの最大部118㎝)には、藩主稲垣家の家紋である抱茗荷の浮彫が入れられており、安乗神社に保存され志摩市指定有形文化財になっている。 鳥羽・伏見の戦いの際には藩兵が戦闘に参加し、藩主の稲垣長行江戸滞在中であったため新政府軍による討伐の可能性が浮上するが、長行の謹慎と・部隊長らの永禁錮、軍資金1万5,000両などを引換に宥免された。明治4年(1871年)の廃藩置県で鳥羽藩は廃藩となって鳥羽県、さらに度会県を経て三重県に編入された。
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仁賀保氏は甲斐源氏・小笠原氏流の大井朝光の末裔と伝えられ、戦国時代には出羽国由利郡小国の山根館を拠点とし、国人連合である由利十二頭の中心的存在であった。由利十二頭は状況に応じて大宝寺氏、小野寺氏、安東氏などの戦国大名と同盟を結び保身を図っており、その十二家は明らかではないが、仁賀保氏、赤尾津氏(小助川氏)、滝沢氏(由利氏)、岩屋氏、打越氏、下村氏、石沢氏、禰々井氏(根井氏)、潟保氏、子吉氏、玉米氏、矢島氏(大井氏)などの諸氏であるという。 赤尾津氏から仁賀保挙晴の養子となった仁賀保挙誠は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで東軍に与して西軍の上杉氏の属城を落としたことから、戦後5,000石を安堵された。1602年(慶長7年)に常陸国武田へ移封されたが、大坂の陣などでも徳川方として功績を挙げたことから、1623年(元和9年)10月18日、旧領である仁賀保に1万石を与えられて諸侯に列し、仁賀保藩を立藩した。陣屋はかつての山根館ではなく、塩越城に置いた。なお、挙誠の弟の仁賀保主馬も大砂川500石を与えられている。 寛永元年2月14日(1624年4月1日)に挙誠が死去すると、その所領は長男・仁賀保良俊に7,000石、次男・仁賀保誠政に2,000石、三男・仁賀保誠次に1,000石とそれぞれ分封されて旗本になり、仁賀保藩はわずか1年で廃藩となった。寛永5年に主馬が、同8年に良俊が死去し、両家は無嗣断絶したが、誠政流(仁賀保二千石家)と誠次流(仁賀保千石家)は平沢に共通の仁賀保陣屋を置いて存続し、明治維新を迎えた。
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園部藩参勤交代行列図(南丹市文化博物館蔵, 京都府南丹市園部町小桜町) 園部藩は、元和5年(1619年)12月、但馬国出石藩主であった小出吉親が新たに入部してきたことにより立藩した。所領はおよそ2万9800石ほどである。初代藩主・吉親は園部城築城や検地、城下町の建設や治水事業に励んで藩政の基礎を固めた。吉親は寛文7年(1667年)6月9日に隠居し、家督は子の小出英知が継いだ。このとき、藩領は隠居料として吉親が5000石、英知が新墾田を併せて2万5000石を継ぐこととなった。翌年3月11日に吉親が死去すると、その隠居料であった5000石は英知の弟・小出吉直と小出吉忠がそれぞれ3000石と2000石に分割して相続した。 第4代藩主・小出英貞は奏者番、寺社奉行、若年寄を歴任し、次男の小出英治に1000石を分与している。第5代藩主・小出英持も英貞と同じくその三職を歴任し、第6代藩主・小出英常は奏者番になるなど、幕府の要職を歴任している。しかし第7代藩主・小出英筠の頃から飢饉や旱魃、洪水などの天災によって藩財政の窮乏化が表面化し、天明7年(1787年)には凶作と米価高騰などから百姓一揆が発生する。いわゆる天明の一揆であるが、これを皮切りにしてその後も火事などの災害が相次ぎ、藩内では打ちこわしや強訴が相次いで発生した。このため、藩では煙草の専売制や木材の市場移出制を中心とした藩政改革を実施して効果を挙げている。 幕末期には早くから御所の警備を行なうなどして官軍側に帰順した。明治2年(1869年)の版籍奉還で最後の藩主・小出英尚は藩知事となる。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で園部藩は廃藩となったが、なおも英尚は園部県知事となった。園部県は同年8月に廃され、同年11月には京都府に編入された。なお、藩主家は子爵に叙された。
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天正20年(1592年)に織田信長の嫡孫秀信が、豊臣秀吉の計らいによって13万石で入ることで立藩した。ただし、織田家は豊臣家の家臣であるため、幕藩体制下における藩主家ではない。岐阜は信長の時代から天下布武の重要な拠点であったが、本拠地を安土に移すとその重要性も薄れていった。しかし、依然織田家の重要拠点として機能していた。 関ヶ原の戦い前哨戦で城主の秀信が西軍に与したため、岐阜城は破却されることになった。その後、奥平信昌が加納城を築城し、その完成と共に岐阜藩は廃藩となった。
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藩主家は遠藤家である。遠藤家は美濃郡上藩2万4000石を領していたが、元禄2年(1689年)に第4代藩主遠藤常春が謎の死を遂げると、これが家臣団を二分する家督騒動に発展した。跡目を相続した遠藤常久も元禄6年(1693年)、7歳の時に家臣によって毒殺されるに及び、郡上藩遠藤家は無嗣改易となった。しかし藩祖・遠藤慶隆の功績が特に考慮された結果、時の将軍・徳川綱吉は側室・お伝の方の妹と旗本・白須正休の間の長男を、いったん遠藤家の姻戚にあたる美濃大垣新田藩主・戸田氏成の養子としたうえで、これを改めて遠藤家に入れて遠藤胤親と名乗らせ、この胤親に常陸・下野で都合1万石を与えた。こうして旧郡上藩遠藤家とはまったく無縁ながらも胤親が大名に取り立てられたことで、遠藤家は形ながらも家名存続を果たした。この胤親が元禄11年(1698年)に近江四郡に移封となり、三上藩が立藩した。 若年寄となった第5代藩主・遠藤胤統は、嘉永5年12月(1853年2月)、江戸城西の丸造営の功績を賞されて2000石の加増を受けた。幕末の万延元年(1860年)には城主格に格上げされている。胤統は文久3年(1863年)に隠居し、跡を孫の遠藤胤城が継いだ。胤城は講武所奉行に任じられ、長州征伐などに活躍した。徳川慶喜の代には奏者番に任じられて将軍側近となり、佐幕派としての立場を貫いた。このため、慶応4年(1868年)1月に新政府から朝敵と見なされて領地を召し上げられた。しかし同年5月には罪を許されて領地を戻され、翌年6月に三上藩知事に任じられた。胤城はその後明治3年4月14日(1870年7月31日)に藩庁を和泉国吉見に移したため、以後は吉見藩と呼ばれることとなった。
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藩史
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荻野山中藩は小田原藩大久保家の支藩である。天明3年(1783年)に駿河国松長藩主・大久保教翅が陣屋が山中に移転したことで立藩した。この頃から山中藩では藩財政の窮乏化が進んでおり、教翅の子・教孝は「養蚕要略」を公布して養蚕業の奨励・発展に努めたが、効果は望めなかった。慶応3年(1867年)秋頃から冬にかけ関東では勤王の為と称し薩摩藩士ら中心による集団強盗が横行、愛甲地区でも被害が多数出ていた 12月15日江戸薩摩藩邸に集まった鯉渕四郎ら薩摩藩士中心の倒幕派浪士隊は藩主が甲府城の勤番のために留守であった山中陣屋を夜襲、焼き討ちする。その際即死3人、深手を負った2名の内当代官が3日後死去。更に12月16日早朝に隊は厚木川入村佐野家へ押し入り金品を強奪し津久井方面へ向かうなど藩や領民に衝撃を与える。 陣屋は焼失にもかかわらず、市内王子の福伝寺には遺構として陣屋裏門と伝わる門がある。跡地には稲荷と石灯籠があるにすぎない。 慶応4年(明治元年=1868年)、徳川家達の駿府(静岡)入部にともない、駿河国内の領地に替えて相模国愛甲郡内の旧幕府・旗本領を与えられ、現在の厚木市周辺に領地を集中させた。明治2年(1869年)6月、最後の藩主・教義は版籍奉還により知藩事となった。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で荻野山中藩は廃藩となり荻野山中県が設置されたが、同年11月に足柄県に統合され、明治9年(1876年)に神奈川県に編入された。現在の厚木市荻野新宿の交差点の近くには、参勤交代に使われた道が残り、案内の石碑がある。
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近江国膳所藩主本多康俊の次男本多忠相が、元和2年(1616年)に三河国碧海郡西端で1000石を賜り立領。その後三河国・上総国・下総国・安房国で加増を重ね8000石の大身旗本となる。子の忠将の時さらに加増されて9000石を領す。天明3年(1783年)、忠直の時に西端に陣屋を置いた。 元治元年(1864年)、第10代領主本多忠寛が江戸警備の功績などにより1万500石への高直しを許され、ここに本多氏は諸侯に列して西端藩が立藩した。慶応3年(1867年)5月20日に忠寛は病気を理由に隠居し、嫡男の忠鵬が家督を相続した。忠鵬は明治元年(1868年)に新政府方に与して陣屋を官軍に兵営として貸し与えた。 翌年6月には農民兵を募集して洋式訓練を行い藩政改革を行ない始めたが、間もなく同月23日に版籍奉還となり、忠鵬は藩知事となって華族に列した。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で西端藩は廃藩となり、旧領はその後西端県、額田県を経て、愛知県に編入された。忠鵬は明治17年の華族令で子爵を授爵している。
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藩主有馬家(摂津有馬氏)は、筑後久留米藩主家の分家であり、久留米藩初代藩主・有馬豊氏の三男・有馬頼次を祖とする。頼次は徳川忠長に仕えて1万石を得ていたが、忠長改易に伴って所領を失っている。頼次の継嗣有馬吉政(実父は建部光重・母は豊氏の姪)は徳川頼宣に仕え、子孫は紀州徳川家に代々仕えた。 頼次から4代目の有馬氏倫は紀州時代より徳川吉宗に仕え、享保元年(1716年)に吉宗が将軍に就任すると幕臣に転じて御側御用取次となり、伊勢国三重郡内に1,300石を与えられた。享保2年(1717年)に下野国芳賀郡内で1,000石の加増を受けた後、享保11年(1726年)に伊勢国多気郡・河曲郡・三重郡内、下野国河内郡内、上総国市原郡内において7,700石を加増されて都合1万石となり、享保12年(1727年)閏1月28日に領知の御朱印状を賜った。ここに有馬氏倫は大名となり、伊勢西条藩が立藩した。本家にあたる久留米藩が外様大名であるのに対し、大名取立ての経緯から伊勢西条藩は譜代大名である。 第2代藩主有馬氏久は大番頭を務めた。氏久の時代である元文2年(1737年)、もしくは延享2年(1745年)に、藩庁を西条村から南林崎村に移している。 氏久の後は継嗣に恵まれず、幼少・短命の藩主が続いた。第3代藩主・氏恒、第5代藩主・氏恕は、縁戚(氏久正室の実家)である信濃飯田藩主・堀家からの末期養子で継承している。 歴代藩主は定府が定められていたために実際に領地に赴くことはなく、伊勢・下野・上総にまたがる所領の経営はそれぞれ代官に委ねられていた。藩庁のある伊勢国の所領は、代官の棚瀬氏が管掌している。 天明元年(1781年)、有馬氏恕は陣屋を伊勢国内から上総国市原郡五井に移し(五井藩)、定府を解かれた(参勤交代が命じられた)。なお、有馬家はその後下野吹上藩に移転し廃藩置県を迎えるが、伊勢国内の領地の一部は吹上藩領として残った。
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伊勢長島は戦国時代、織田信長の攻撃を受けて天正2年(1574年)、一向一揆衆2万人が大量虐殺されたことで有名である。その後、領主は滝川一益・織田信雄・豊臣秀次とめまぐるしく変わり、慶長3年(1598年)に福島正則の弟・福島高晴が1万石で入部した。慶長5年(1600年)に高晴は大和宇陀松山藩へ移され、翌年に徳川譜代の菅沼家が上野阿保藩より2万石で入ることにより長島藩が立藩した。第2代藩主となった菅沼定芳は城改修・城下町建設・新田開発などを行なって藩政の基礎を固めたが、元和7年(1621年)に近江膳所藩へ移され、長島藩は一時、廃藩となった。 慶安2年(1649年)、久松松平家の松平康尚が下野那須藩より1万石で入ることで再び立藩する。しかし貞享2年(1685年)に康尚の跡を継いだ次男・松平忠充が元禄15年(1702年)に乱心により重臣を殺害したため、改易された。代わって常陸下館藩から増山正弥が2万石で入る。増山家は第4代将軍・徳川家綱の生母・宝樹院の縁者であったことから取り立てられた大名家である。第6代藩主・増山正寧や第7代藩主・増山正修はいずれも若年寄を務めた。 以後、増山家が8代にわたって支配し、明治4年(1871年)の廃藩置県によって長島藩は廃されて長島県となり、その後安濃津県に編入された。 長島はデルタ地帯のために洪水による水害を受けやすく、田畑を等級化することによる災害対策が行なわれていた。
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天正18年(1590年)5月、小田原征伐で後北条氏や本庄氏が降伏した後、武蔵国江戸に徳川家康が入城し、同年9月、その家臣である小笠原信嶺が児玉郡の北部国境沿いに位置する本庄に1万石で入部した。信嶺は甲斐武田氏の家臣であったが織田信長の甲州征伐で寝返り、本能寺の変による信長の横死を経て、家康の家臣となっていた。こうして信嶺が本庄城の新城主として当地を治めたが、入城してから8年目の慶長3年(1598年)に死去し、その家督を継いだ小笠原信之が本庄藩初代藩主となり、後期本庄城の2代城主となった。信之は徳川四天王の筆頭・酒井忠次の三男であり、家康の命によって信嶺の養嗣子となっていた。慶長17年(1612年)、信之は下総国古河藩2万石に加増移封され、本庄藩は廃藩となり、本庄城も廃城となった。残された城下町は、中山道の宿場町として大きく利用されることとなった。
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藩主家は加納家である。加納家は三河国加茂郡加納村出身で、加納久直のときに徳川家に仕えて紀州藩に属する。その孫・加納久通は紀州藩主・徳川吉宗の将軍就任に従って江戸城に入り、延享2年(1745年)に吉宗が隠居したとき、若年寄に任じられて吉宗直属となった。領地においては吉宗が将軍に就任した享保元年(1716年)に伊勢国内で1000石、翌年に下総国相馬郡内で1000石、享保11年(1726年)に伊勢・上野国内で8000石をそれぞれ与えられ、合計1万石を領する大名となり、東阿倉川に陣屋を構えて立藩した。 寛政8年(1796年)には上野国内でさらに3000石を加増された。第3代藩主・加納久周は若年寄となった。また、領内の南河内山には銀山・銅山があり、藩は鉱山開発に努めることで財政安定化を図ったが、やがて鉱山は産銀・産銅が乏しくなって衰退した。天保4年(1833年)には藩内で騒動も起こったが、何とか鎮定している。ちなみに加納家は、参勤交代を行なわない定府大名であった。 第5代藩主・加納久儔の時代に飛び領である上総国一宮に陣屋を移し、以後は一宮藩として存続した。
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小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、譜代の家臣・菅沼定利に2万石を与えて吉井に入れた。これが吉井藩の起こりである。定利は天正20年(1592年)に領内で検地を行い、さらに六斎市を開いて町割りを行うなどして藩政の基盤を固めた。関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600年)、定利は菩提寺として玄太寺を建立している。関ヶ原では徳川秀忠軍に従軍して真田昌幸と戦った。定利は慶長7年(1602年)10月22日に死去し、跡を養嗣子の忠政が継いだ。忠政は家康の娘婿・奥平信昌の三男で、生母が家康の娘・亀姫であったことから、松平姓を名乗ることを許された。忠政は慶長15年(1610年)7月26日、実父の信昌から家督を譲られて、美濃加納藩に移封となったため、吉井藩は廃藩となり、その所領は幕府直轄領・旗本領となった。 天和2年(1682年)3月29日、大番頭だった堀田正休が1万石で入って吉井藩を再立藩した。正休は元禄11年(1698年)3月7日に近江宮川藩に移され、再び吉井藩は廃藩・幕府領となった。 宝永6年(1709年)4月6日、松平信清は上野国内において3000石を加増されて1万石の大名となり、陣屋を矢田(現在の高崎市吉井町矢田)に置いて吉井藩を再立藩した。このため、松平家時代の吉井藩は矢田藩とも呼ばれる。幕末期の元治元年(1864年)7月21日、第9代藩主・信発が陣屋を吉井に移したため、正式に吉井藩となった。 最後の藩主家となった松平家(鷹司松平家)であるが、この家は五摂家の一つ鷹司家から分かれており、鷹司信平(信清の祖父)が徳川家光の御台所・鷹司孝子の弟という縁で江戸に入ったことから始まった。信平は承応3年(1654年)3月10日、松平姓を与えられて松平信平と名乗った。延宝2年(1674年)には上野と上総国両国内において7000石の知行を与えられた。その後、嫡男の信政、その子の信清に家督が継がれ、信清の時代に1万石の大名となった。最小藩ながらその待遇は国主格、あるいは御三家と同様に遇されていた。歴代当主は従四位下 侍従に就くことを慣例とした。これは津藩・藤堂家や土佐藩・山内家などの国持大名と同等の官位 官職である。 しかし石高自体は小さく、第5代藩主・信成の頃から財政難が始まる。信成は寛政9年(1797年)に倹約令を出したが、効果はなかった。第7代藩主・信敬も倹約令などを出して財政再建を主とした藩政改革を行ったが、やはり効果はほとんど無かった。第9代藩主・信発は安政6年(1859年)、常陸水戸藩主・徳川斉昭蟄居の命を伝える上使を務めた功績から、莫大な恩賞を授かっている。藩政においても農民兵を採用した軍制改革を行っている。最後の藩主・信謹は慶応4年(1868年)2月22日、徳川家との訣別を表すためにか、松平姓を捨てて吉井姓に改めている。その後、戊辰戦争では新政府側に与して戸倉に出兵した。 明治2年(1869年)の版籍奉還は上野国の諸藩に先駆けて行い、信謹は知藩事となる。しかし同年12月25日、信謹は知藩事を辞し、吉井藩は廃藩となった。その後、吉井の地は岩鼻県、群馬県、熊谷県を経て、群馬県に最終的には編入された。
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宮城豊盛は豊臣政権において豊後国日田郡の代官を務めていたが、関ヶ原の戦いで西軍について改易される。しかし、養嗣子の頼久が実兄の山崎家盛から二方郡内に6000石を分知されて徳川家康に仕えたことで再興が許された。同郡芦屋城跡の東麓に芦屋陣屋が設けられた。 頼久の子である宮城豊嗣は、寛永4年(1627年)に加増を受けて二方郡全域と気多郡の4か村合わせて1万3000石を領して大名となり、清富の観音山(相応峰寺城跡)南麓に新たに清富陣屋を設けて移転した。 豊嗣が領国に下った記録がないため、定府大名であった可能性があり、清富に駐在した家臣が実際の支配を行った。検地の実施や岸田川の改修、清富村の城下町としての整備などを行ったが、承応2年(1653年)に豊嗣が跡継ぎのいないまま病死、清富藩は無嗣断絶となり、26年間で改易、所領は収公された。
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藩史
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初代藩主の京極高通は朽木宣綱の次男として生まれたが、母方のおじである京極高知の婿養子となった。丹後国主であった高知は自らの遺領を実子2人と高通に3分割して与え、高通には峰山地方の1万石を相続させた。これによって、元々徳川秀忠から拝領していた3000石と合わせて1万3000石の大名となり、1616年に丹後峰山に陣屋を構えて立藩した。 宗家である宮津藩の京極家はほどなく改易され、田辺藩(舞鶴藩)の京極家も但馬豊岡へ転封となったため、丹後には峰山藩だけが残ることとなった。 江戸中期の享保年間、第5代藩主・高長の時代、峰山に住んでいた絹屋佐平治(森田治郎兵衛)が西陣で学んだちりめんの技法を元に、試行錯誤の末に生み出した丹後ちりめんは、藩の主要な特産品として財政を潤した。 第6代藩主・高久は若年寄となった。この高久は、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』において、鬼平こと長谷川平蔵の良き理解者として登場する人物としても有名である。 幕末の藩主である第11代藩主・高富は、戊辰戦争の際に若年寄であった責任を追及されたが、養子である高陳(後の第12代藩主)がいち早く朝廷に謝罪をした事から許された。
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藩史
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文禄4年(1595年)に和泉国大鳥郡陶器村が岸和田城主小出播磨守秀政の領地に組み入れられる。 慶長8年3月23日(1603年)に、秀政の次男遠江守秀家の死去に伴い、秀家の養子となっていた弟の三尹が大鳥郡の秀家の遺領2千石を継ぐ。 慶長9年3月22日(1604年)に、秀政の死去に伴い、秀政の遺領および小出吉政の領地より一部が三尹に分与され、三尹は計1万石の陶器藩初代藩主となる。 三尹は、陶器北に陣屋を置き、大修恵山高倉寺を再建するなど領内を整備した。 2代藩主有宗(有棟)は、正保元年(1644年)から正保3年(1646年)にかけて新田開発を行い、開発した土地を福田村と名づけている。 福田村の村高は約827石にのぼったが、これは陶器荘の表高約2931石の3割近くに相当する大きなものであった。 林羅山の詩十首「陶器十景」にその当時の風光明媚な地域の様子が謳われており、豊かな土地であったことがうかがわれる。 その後、慶安2年(1649年)、寛文3年(1663年)、延宝4年(1676年)、天和2年(1682年)、貞享5年(1687年)に渡って、藩主は、公卿の江戸や日光参向時における院使の饗応役を務めている。 3代藩主有重の跡を継いだ4代藩主重興は、病となり死に臨んだ元禄9年(1696年)4月2日に弟の重昌を養子にしたが、重昌も病になり、重興の忌が明けた元禄9年(1696年)5月28日に出仕できず、6月12日に遺領1万石を賜る旨の奉書到来するも、翌13日病甚だしく登城できず、16歳にて死去した。 重昌が御目見を果たせず17歳未満で死去したことにより、元禄9年(1696年)8月12日、陶器藩は無嗣子を理由に収公となった。これにより、陶器荘は幕府代官支配地となる。 なお、宝永2年(1705年)に5000石の旗本である小出土佐守有仍(2代藩主有宗(有棟)の4男)が采地替により陶器荘を知行地とする。以降、陶器庄は幕末まで小出主水家の知行地となる。
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戦国時代、この久野には豊臣秀吉がまだ名も知られていない百姓のとき、立身出世を求めて一時期、主君として仕えていた松下之綱が治めていた土地である。之綱は今川家、次いで徳川家に仕えていたが、天正11年(1583年)から秀吉の家臣として仕え、久野に1万6000石の所領を与えられた。 慶長3年(1598年)、之綱が死去し、跡を子の松下重綱が継いだ。重綱は関ヶ原の戦いにおいては東軍に与して大垣城の牽制に務め、所領を安堵された。ところが、久野城の石畳を幕府に許可なく修理したことを咎められて、常陸国に懲罰的な移封を命じられた。これにより久野藩は、一時的に廃藩となる。 その後、久野の元領主であった久野宗能が戻ってきた。宗能は下総国佐倉藩1万3千石であったが、相続させた子の久野宗朝が改易処分となり、宗能に1千石が与えられて再勤することとなった。関ヶ原の戦いの戦功により旧領久野にて8,500石が与えられた。 慶長14年(1609年)に宗能が83歳で死去したため孫の久野宗成が家督を相続し、慶長16年(1611年)に主君徳川家康の十男の駿河駿府城主徳川頼宣付き家臣となる。 元和5年(1619年)頼宣が紀州に転封となると、御附家老として紀州領に同行し、伊勢国田丸城の田丸藩1万石となった。 代わって下野国富田藩から、北条氏重が1万石で入り、再び立藩する。氏重は徳川家に仕えて駿河田中城番や二条城西惣門番などを務めた功績から、寛永17年(1640年)9月28日、1万石をさらに加増された上で下総国関宿藩に加増移封され、久野藩は完全に廃藩となった。
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延享4年(1747年)7月、陸奥桑折藩主であった松平忠恒が、陸奥伊達郡など1万2250石ほどの所領を上野国に移され、邑楽郡篠塚村に陣屋を構えたことから立藩した。表高は2万石である。翌年8月、忠恒は所領を碓氷郡などに移されたため、上里見藩として存続することとなり、篠塚藩は短期間で廃藩となった。
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元和2年とも同3年とも言われているが、伊勢田丸藩4万5700石より移封された稲葉紀通が中島に入ることで、中島藩が立藩した。しかし史料が乏しく、藩政などは明らかではない。寛永元年(1624年)9月に紀通は丹波福知山藩に移封され、中島藩は廃藩となった。
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天和2年(1682年)2月22日、遠江国横須賀藩5万石の藩主であった本多利長は、一族で播磨国明石藩6万石の藩主であった本多政利の改易に連座して改易されてしまった。その後、政利が陸奥国岩瀬藩1万石の藩主として復帰を許されると、利長も新たに1万石を与えられて村山藩を立藩した。 利長は元禄5年(1692年)12月に死去し、跡を養嗣子の本多助芳が継いだ。その助芳は元禄12年(1699年)6月に越後国糸魚川藩に移封され、村山藩は廃藩となった。 村山藩はわずか17年の短期間の藩であるため、藩政や藩庁の場所においては不明な点が多い。
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綾部藩は寛永10年(1633年)3月5日に立藩した2万石の外様の藩である。藩祖は戦国時代に織田信長に仕えて名を馳せた水軍の将・九鬼嘉隆の孫九鬼隆季である。嘉隆の死後、九鬼氏は子の九鬼守隆が家督を継いでいたが、その守隆が寛永9年(1632年)に死去すると、三男の隆季と五男の九鬼久隆との間で家督争いが起こった。これは守隆が生前に五男の久隆を溺愛して嫡男に選んだのが原因であるが、御家騒動の結果、久隆は摂津国三田へ、隆季は綾部へそれぞれ移封され、九鬼氏は嘉隆以来の故地である志摩国鳥羽藩の地を失うに至った。隆季は寛文元年(1661年)3月28日、弟の九鬼隆重に500石を分与し、分家を創設している。また、隆季は城下町の建設や検地などを行なって藩政の基礎を固めた。 しかし第2代藩主・九鬼隆常の代から大洪水や暴風雨による天災が起こって3729人もの死者を出すなど、早くも藩政の衰退が始まる。その後も再三にわたって大洪水や大旱魃、大飢饉などが発生して藩は大被害を受け、第3代藩主・九鬼隆直の時代には藩財政が破綻し、藩札発行や倹約令制定、家臣団の給米減封などを中心とした財政改革が試みられたが、その後も大洪水などによる天災や百姓一揆までもが発生し、藩政はすっかり衰退した。なお、隆直の時代に藩校・進徳館が設立されている。 このような中で第9代藩主・九鬼隆都は佐藤信淵や奥山弘平らを招聘して農業政策を中心とした藩政改革に取り組み、さらに山鹿素水を招いて軍事の改革も行なった。隆都は弘化4年(1847年)に木綿会所を創設して専売制を実施し、藩財政をいくらかは再建することに成功した。幕末期の動乱に入ると、隆都は文久元年(1861年)6月10日に家督を子の九鬼隆備に譲って隠居する。隆備ははじめ佐幕派であったが、禁門の変で御所の警備を務めた頃から次第に官軍側に与するようになり、慶応4年(1868年)1月には西園寺公望を通じていち早く新政府側に帰順した。その後、隆備は版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により綾部藩は廃藩となる。その後、綾部県を経て、京都府に編入されることとなった。 ちなみに隆備も父に劣らず有能で、藩校・進徳館を篤信館と改名し、その翌年には藩内6箇所に郷学校を設立して、庶民教育に尽力した。これは後に、明治政府による近代化教育の先駆けとなったのである。
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藩史
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長浜の地は、元は今浜と呼ばれていたが、羽柴秀吉が織田信長から浅井氏の旧領を与えられた際に、信長の一字を取って地名を長浜と改めた。秀吉の後は柴田勝豊や山内一豊、石田三成らが治めた。 関ヶ原の戦い後の慶長11年(1606年)、豊臣家の動静を監視するために内藤信成が駿河国府中から移封されて長浜藩が立藩した。なお、転封にあたり長浜城の修築費として江戸幕府より白銀5千枚を与えられた。 子の信正の代の元和元年(1615年)、より大坂に近い摂津国高槻へ転封となり、長浜藩は廃藩となった。
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佐久間安政は、織田信長のもとで「鬼玄蕃」の異名をとった武将佐久間盛政の弟である。安政は信長や柴田勝家、そして兄の盛政死後に豊臣秀吉の家臣となり、近江国内において7000石を領していた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して戦功を挙げたため、戦後に8000石を加増されて合計1万5000石を領する大名として諸侯に列した。これが近江高島藩の立藩である。安政は慶長12年(1607年)にはさらに常陸国5000石を加増され、大坂の陣でも徳川方に与して武功を挙げたため、さらに1万を加増の上で信濃国飯山藩3万石に加増移封された。ちなみに近江高島は飯山藩領の飛び地となったが、安政の孫である佐久間安次が寛永15年(1638年)に夭逝して佐久間氏は無嗣改易となった。このため、近江高島は天領となった。
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[全画面表示] 関連地図(千葉県市原市付近) 慶応4年/明治元年(1868年)5月、徳川宗家当主徳川家達は新政府から駿府藩主として認められ、70万石の領主として駿河・遠江に入ることとなった。これにより既存の駿河・遠江の大名は房総に移されることとなった。遠江浜松藩は6万石で、移転対象となった中で最大の石高を有する藩であり、藩主の井上正直は幕末期に老中・外国御用取扱を歴任した人物であった。 9月21日、浜松藩主井上正直に、代地として上総国市原郡・埴生郡・長柄郡のうち6万2000石余が与えられることが沙汰された。浜松藩内には移封に対する不満もあり、208か村領民総代として3人の大庄屋が「永城ノ御処置」を太政官に嘆願する事態も発生した。なお、移転先となる上総国の村でも、11月に房総知県事(安房上総知県事)役所に対して領主支配に戻さないよう嘆願が出されている。 旧浜松藩領の徳川家への引き渡しは、5月に発生した天竜川決壊に対する普請や、明治天皇の東幸によって延期された。12月15日になって中泉代官大竹庫三郎への引き渡しが行われている。 明けて明治2年(1869年)、荷物は掛塚港から船便で送られた。移住者は士族219戸1188人、卒族552戸2136人という。藩主井上正直は1月27日に浜松から出発、2月11日に新領地に到着。埴生郡長南宿(矢貫村。現在の長生郡長南町長南)に入り、今関家に居を構えて「仮本営」とし、長福寿寺を仮の藩庁とした。房総知県事柴山文平から引き渡された領地は、上記3郡に山辺郡を加えた4郡中で6万2000石余であった(仮藩庁は長福寿寺に置かれたあと、房総知県事が県庁として使用していた浄徳寺に移ったともいう)。 長南宿は房総中往還(大多喜往還)の宿場で、江戸時代には在郷町として栄えた町である。当初は長南に藩庁を建設する計画もあったというが、庁舎や家臣の住居を配置するのは手狭であったとされる。このため市原郡内田郷石川村地内の桐木原と呼ばれる荒蕪地の開拓に着手し(明治2年2月12日付で桐木原への庁舎造営願いが聴許されている)、版籍奉還後の明治3年(1870年)4月に藩庁・知事邸(「鶴舞御本営」)や藩士居宅が完成。浜松にあった藩校「克明館」を移転した。「鶴舞」という地名は、鶴が翼を広げたような形から命名されたという。 鶴舞城下町の新設や道路整備などの大土木工事が興されたため、領民の夫役などの負担は大きかったとされる。一方、この地域の多くは江戸時代には旗本知行地であり、産業開発や土木事業は村方に放任されていたため、藩がこれらの事業を意欲的に行ったことには肯定的評価がある。鶴舞藩は短い統治期間中、博奕や奢侈や無断集会の禁止など多くの布達を出すとともに、村々の識見・人格の優れた者を「敷教小助」という役職に任命し、統治の安定を図った。産業振興策としては新田畑の開墾のほか、養豚・養蚕の普及を図ったことが着目される。 明治4年(1871年)に廃藩置県によって鶴舞県となる。7月14日、井上正直は藩知事を罷免されて東京に去った。同年末には第一次府県統合によって木更津県の一部となった。
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田原城は1480年(文明12年)、国人領主である戸田宗光によって築城されたのが始まりといわれる。その後、徳川家康の支配を経て、三河吉田城主となった池田輝政の支配下に入り、輝政は家老の伊木忠次を城代として入れていた。1600年(慶長5年)9月、関ヶ原の戦いで輝政は東軍に与し、岐阜城攻めや関ヶ原本戦で武功を挙げたことから、戦後に播磨姫路藩に加増移封された。 1601年(慶長6年)3月、伊豆下田5000石より徳川氏譜代の家臣で、かつて田原を治めていた戸田宗光の傍系一族に当たる戸田尊次が1万石で入ったことにより、田原藩が立藩した。1664年(寛文4年)5月9日、第3代藩主・戸田忠昌は加増の上で肥後天草郡の富岡藩に移封された。 代わって、三河挙母藩より三宅康勝が1万2000石で入る。三宅家は小大名ながら城持大名であることを許されるほどの名門であったが、知行高に較べて藩士が多く、さらに田原の地も痩地であった上に風水害の被害も多く、常に財政難に苦しんだ。 このため、第11代藩主・三宅康直の時代である1832年(天保3年)、家老に登用された渡辺崋山(登)は有能な人材登用のために各高分合制の給与改革、備蓄制度の義倉制度の整備などを行ない、天保の大飢饉から藩を救った。1841年(天保12年)の崋山の死後には農政家の大蔵永常などによる藩政改革、財政改革が行なわれ、村上範致による軍制改革も行われて、大砲の鋳造や洋式砲術の導入を推進した。 第12代藩主・三宅康保時代の1869年(明治2年)6月、版籍奉還で康保は田原藩知事に任命され、1871年(明治4年)7月の廃藩置県で田原藩は廃藩となり、田原県を経て額田県に編入され、後に愛知県に編入された。 田原藩の江戸藩邸(上屋敷)は隼町の江戸城内堀沿いに城を望む場所に立地していた。明治維新後、藩邸の敷地は東京第一衛戍病院、陸軍航空本部庁舎、在日米軍住宅パレスハイツを経て、現在は最高裁判所や国立劇場となっている。また、藩邸跡地前にある内堀通りの坂で、坂に面して建っている最高裁判所や、かつて坂に面して立地していた陸軍参謀本部、日本社会党・社会民主党の通称でもある三宅坂は田原藩主である三宅家に由来するものである。
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正保2年(1645年)、結城秀康の子で第3代福井藩主の松平忠昌が死去し、その跡を子の松平光通が継いだ。このとき、光通は異母兄の松平昌勝に5万石を分与(松岡藩)した。また同じく異母弟の松平昌親(吉江藩主当時の名乗りは昌明)に2万5000石を分与した。 昌明の2万5000石は越前国内各所に分散していたため、まず本拠地の選定を行わねばならなかった。慶安1年(1648年)、昌明は陣所を吉江に設置することを許可され、吉江藩が成立した。しかし、藩主は正保3年(1646年)から江戸に下向していたため、藩主の吉江入部を前に家臣団は吉江に移って藩政に関わる執務を行っていたとみられている。陣屋や町並みを整備し、明暦1年(1655年)6月、昌明が初入部した。従来の町に新しく整備した町をあわせて「十一口」、これを縦に並べて「吉江」としたとする伝承も残る。また、万治1年(1658年)には江戸鳥越に屋敷を拝領している。福井本藩からの独立性は薄く、完全独立経営に移行する前に廃藩となった。 延宝2年(1674年)に福井藩主であった兄・光通が死去すると、その遺言により昌明が本藩の家督を継いで福井藩主となり、昌親と改名した。これにより藩領は福井本藩に吸収合併され、吉江藩は廃藩となった。藩主所縁の地であることから、以降の吉江一帯は各種税を免除された。 昌親を祭る吉江神社が地元に残る。
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元禄5年(1692年)2月7日、徳川綱吉の寵臣であった安房東条藩主・西郷寿員は、下野国都賀郡・河内郡・芳賀郡に所領を移された。これにより、下野上田藩が立藩した。 だが、寿員の養父で隠居の西郷延員が、不行状の咎を受けて寿員預かりの蟄居の身になると、寿員もその余波を受ける。翌元禄6年(1693年)11月、寿員は養父と同じく不行状・勤務怠慢などの罪を咎められて所領の半分を没収され、下野上田藩は2年足らずで廃藩となった。以後、西郷家は5000石の交替寄合となった。
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関宿は徳川家が関東に移された頃から重要拠点のひとつとして見なされていた。そのため、徳川家が関東に入ったとき、関宿には徳川家康の異父弟・松平康元が2万石で入り、関宿藩が立藩した。康元は天正19年(1591年)に2万石を加増され、4万石となった。康元が死去すると、嫡男の松平忠良が跡を継いだ。忠良は大坂の陣で戦功を挙げたことから、元和2年(1616年)9月、1万石加増の上で美濃大垣藩に加増移封された。翌年12月、越後三条藩から松平重勝が2万6000石で入るが、元和5年(1619年)に遠江横須賀藩に移封となった。同年10月、下総古河藩より小笠原政信が2万2700石で入る。政信は寛永17年(1640年)7月に早世し、養嗣子の小笠原貞信が跡を継いだが、わずか9歳の幼少では重要な関宿にはふさわしくないとして、同年9月に美濃高須藩に移封となった。 その後、遠江久野藩より北条氏重が2万石で入るが、正保元年(1644年)3月に駿河田中藩に移封された。代わって武蔵石戸藩から牧野信成が1万7000石で入る。信成は正保4年(1647年)に隠居し、子の牧野親成が跡を継いだ。親成は承応3年(1654年)に京都所司代となったため河内国内に1万石を加増され、明暦2年(1656年)に摂津・河内国内に加増移封となった。代わって、それまで京都所司代だった板倉重宗が山城・近江国内から関宿に入った。重宗は同年末に関宿にて死去し、跡を子の板倉重郷が継ぐ。重郷は寺社奉行となったときに弟の板倉重形に5000石を分与して、4万5000石を領することとなる。重郷死後は子の板倉重常が継ぐ。重常は寛文9年(1669年)2月、5000石加増の上で伊勢亀山藩に移封された。 板倉氏が去った後、久世広之が5万石で入る。広之は徳川家綱の下で側衆、若年寄、老中を歴任した人物である。広之の死後は子の久世重之が継ぎ、天和3年(1683年)8月に備中庭瀬藩に移された。同年9月、牧野成貞が常陸国内より2万石加増の5万3000石で入る。成貞は徳川綱吉の下で側用人として重用されたことから、元禄元年(1688年)、和泉国や常陸国内に2万石を加増されて7万3000石の大名となった。元禄8年(1695年)に隠居し、家督は養嗣子の牧野成春が継いだ。成春は宝永2年(1705年)に7000石を加増の上で三河吉田藩に移封された。 代わって久世重之が関宿藩主に再任となる。以後、久世家の支配により明治維新を迎えることとなる。重之は関宿藩に戻る前にすでに寺社奉行、若年寄を歴任して5万石を領していたが、関宿藩主となった翌年に老中に栄進したことから、1万石を加増された。久世家3代・暉之は弟に2000石を分与したため、関宿藩は5万8000石となった。 幕末期には様々な混乱があったが、何とか乗り切っている。久世家9代・広業の時代に明治維新を迎え、明治2年(1869年)の版籍奉還で広業は知藩事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県によって関宿藩は廃藩となる。そしてその所領は印旛県に併合された。
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板鼻には、慶長年間に里見忠重が1万石で入部していた。忠重は安房里見氏の一族で、館山藩主里見忠義の叔父にあたる。しかし慶長18年(1613年)10月、忠重は勤務怠慢を理由に改易され、酒井家次預かりの身となった。 その後の寛永2年(1625年)9月2日に、上野厩橋藩主・酒井忠世の長男・忠行が板鼻に2万石の所領を与えられた。忠行は部屋住み身分ながら父とともに徳川秀忠の側近として仕えた人物である。寛永10年(1633年)4月14日には1万石を加増された。寛永13年(1636年)3月、忠行は父の死去により厩橋藩主を継ぐが、忠行の所領であった板鼻3万石はそのまま厩橋藩に吸収され、15万2000石の厩橋藩領の一部となった。しかし忠行は、父の後を追うように寛永13年(1636年)11月17日に死去した(この時、支藩の伊勢崎藩3万石が成立しているため、厩橋藩の石高としては板鼻藩吸収前に戻っている)。その後、寛延2年(1749年)の酒井氏の姫路転封を機に板鼻領は天領に編入された。
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元和8年(1622年)、内藤政長が上総国から磐城平藩7万石の藩主として入部。寛文6年(1666年)、平藩2代藩主・内藤忠興は、次男の政亮に所領の増加分2万石を分与したいと願い出た(新田分知)。4年後の寛文10年(1670年)12月、忠興の隠居に際して、幕府は政亮に対して陸奥磐前郡と菊多郡で1万石を分与することを許す。藩庁は湯本に置かれ、ここに磐城平藩の支藩である湯本藩が立藩した。政亮は本家をはばかり、遠山を姓として遠山政亮と名乗った(第3代藩主・政貞の代になって内藤姓に復している)。 初代藩主となった政亮は、延宝4年(1676年)に湯長谷城を築城し藩庁を移転、城下町の建設に尽力した。延宝8年(1680年)には内藤忠勝乱心事件を食い止めた功績などを賞されて丹波国氷上郡などに新たに2000石を加増される。貞享4年(1687年)には大坂定番を命じられたことから河内国内に新たに3000石を与えられ、合計1万5000石を領することとなる。このように初代藩主・政亮は藩政の基礎を固め、『土芥寇讎記』でも「うまれつき悠にして、行跡よし、家臣を助け育て奢ることしない。誉れの将なり」と高く評価されている。政亮は元禄6年(1693年)に69歳で死去し、跡を遠山政徳が継いだ。 本藩にあたる磐城平藩内藤家は、延享4年(1747年)に日向延岡に転封されるが、湯長谷藩の内藤家はそのまま領地を保ち、幕末まで存続する。歴代藩主には実子が跡を継いだ事例が少なく、ほとんどが養子によるものであった。藩政においては、4代藩主・政醇が忠孝・倹約・扶助を旨とする藩法を定め、10代藩主・政民が藩校・致道館を創設して自ら四書五経を講じたとされるほかは、幕末期まで特筆するような事件も発生していない。地元では「名藩主が多い」とされている。 安政2年(1855年)、商人・片寄平蔵が藩内の磐前郡白水村(現:いわき市内郷白水町)で石炭を発見、後に湯長谷が常磐炭田の一大産業地になる礎が築かれた。 幼少の第13代藩主・政養の時代に幕末の動乱を迎える。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加盟したため、新政府軍に湯長谷を攻略される。政養は仙台に逃れるも降伏、1000石を召し上げられて謹慎処分を受けた。明治2年(1869年)、養子・政憲が跡を継ぐことが認められ、第14代藩主となった。明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県により、湯長谷藩は廃藩となった。
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六郷氏は戦国時代には出羽国山本郡六郷を支配する国人領主で、仙北七人衆の一に数えられていた。六郷政乗のとき豊臣秀吉の小田原征伐に従軍し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して小野寺氏を攻撃した。戦後その功績により六郷4500石から、佐竹義宣が移封された後の常陸国新治郡府中に1万石の大名として加増移封された。 元和9年(1623年)に最上氏が改易された後、その旧領である出羽国本荘に2万石で加増移封され、政乗は本荘藩の藩祖となった。以後六郷氏の藩主は11代続いて明治時代に至った。 文化元年(1804年)に起きた文化の大地震では、それまでは潟湖だった象潟が隆起して陸地化したため蚶満寺との間にその土地をめぐって係争が起きている。
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第5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院の異母兄・本庄道芳の孫・本庄道章が宝永2年(1705年)3月に1万石の大名として高富に入ったことから(正式に高富に陣屋が移ったのは宝永6年(1709年))、高富藩が立藩した。これはもちろん、綱吉と桂昌院の縁故のためである。 元来、本庄家は江戸定府で、その出自や立地から京都の公家衆との付き合いも多く、小藩に見合わない出費が多くあった。そのため第8代藩主・本庄道昌の時代から財政窮乏が始まる。第9代藩主・本庄道貫は厳しい倹約令を出し、百姓に対しては植林を薦める一方で莫大な献納金徴収を図ったが、この藩政改革は失敗した。そのため、今度は年貢増徴政策、藩札の発行から京都の豪商を財政顧問として招いての藩政改革を図ったが、これも年貢増徴に反対する百姓の反対で頓挫する。道貫はその後の安政5年(1858年)にも藩政改革を図ったが、同年8月26日に道貫が死去したため、またも頓挫した。 その跡を継いだ第10代藩主・本庄道美の時代になると藩財政は完全に破綻し、慶応4年(1868年)には藩内で打ちこわし、百姓一揆が起こった。この頃、高富藩は20万7400両もの借財を抱えていた。藩内の庄屋をはじめとする豪農にも多額の借財があったが、その大半は後の版籍奉還で証文のまま終わっている。1万石と言えど、知行地の本領が美濃、分領は遠く関東にあるという事情も、藩財政の窮乏の原因であるようである。 明治2年(1869年)の版籍奉還で道美は藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で高富藩は廃藩・高富県となった。明治5年(1872年)、高富県は岐阜県に編入された。 歴代藩主10人のうち、6人が幼少、もしくは病弱で嗣子がなく、たびたび縁戚関係やあるいは他姓の末期養子を迎えていた。
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斎藤氏や織田信長に仕えた西美濃三人衆の一人・稲葉良通(一鉄)は、嫡男の稲葉貞通に家督を譲っていた。貞通の庶兄に稲葉重通がいたが、父・一鉄の死後、清水を中心に1万2000石の所領を領した。重通は慶長3年(1598年)10月3日に死去し、その跡を子の稲葉通重が継ぐ。通重は関ヶ原の戦いにおいて、当初は西軍に与していたが、後に東軍に寝返ったため、戦後に所領を安堵された。しかし慶長12年(1607年)12月、天野雄光ら数名と京都の祇園で遊んでいたとき、酒乱のために乱行を起こした。これを原因として幕命により改易され、通重は常陸国筑波に流罪となり、清水藩は廃藩となった。
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岩手は岩出とも言われる。豊臣家の家臣で、斎藤道三や織田信長に仕えた西美濃三人衆・稲葉良通の孫で、外祖父である牧村政倫の家督を継いでいた牧村利貞は、小田原征伐後に2万石の所領を与えられて岩出に入った。しかし利貞は文禄2年(1593年)に朝鮮にて陣没した。 利貞には息子(牧村牛之助)がいたが、幼少のため弟の稲葉道通が跡を継いだ。道通は豊臣政権時代から九鬼嘉隆と犬猿の仲であり、関ヶ原の戦いでは東軍に与して西軍に与した嘉隆と戦い、これに勝利した。この功績により、戦後に2万石余を加増されて4万5700石の大名となるが、道通は同時に伊勢田丸藩に移ったため、伊勢岩手藩は廃藩となった。
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坂木藩は天和2年(1682年)2月、板倉重種が蟄居することで成立した藩である。重種は武蔵岩槻藩6万石の藩主で老中を務めていたが、天和元年(1681年)に罷免されて蟄居を命じられたのである。蟄居の翌年、重種は幕府に所領返還を申し出たが、祖父の板倉重昌の功績などから、特別に重種の長男重寛が3万石、甥の板倉重宣が2万石をそれぞれ継ぐことを許された(上総高滝藩)。そして元禄15年(1702年)12月、重寛が陸奥福島藩3万石に移封されたことにより坂木藩は板倉家の支配を最後に廃藩となり、幕府領となった。
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小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人・榊原康政の嫡男・大須賀忠政(松平忠政)に久留里3万石を与えた。これが久留里藩の立藩である。
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藩史
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藩は戸田氏鉄の次男・戸田氏経が旗本として取り立てられたことに始まる。氏経は1619年(元和5年)三河国渥美郡の畠村をはじめとする5か村に1,500石を領することとなった。もともとこの5か村を統治していたのは水軍衆の系譜を持つ間宮氏だったが、これにより所領を失った。この間の事情はよくわかっていない。 次いで同国額田郡内で700石を加増され、明暦元年(1655年)、兄の戸田氏信から美濃国大野郡内の新田4000石を加増されて6200石の知行を得た(その後知行地は新田から従来からの耕作地に切り替えられた)。 その後、戸田氏利が跡を継ぎ、元禄元年(1688年)7月、氏利の跡を継いだ戸田氏成のとき、兄の戸田氏定から美濃国内の新田3000石を分与され、さらに養父の氏利の所領と渥美郡内の新田分を合わせて1万石となったため、ここに大垣新田藩は立藩し、藩庁を三河国渥美郡畑村に置いた。藩領は三河国内に3000石、美濃国内に7000石あった(のちに三河国内に6000石、美濃国内に4000石)。その後氏成は、元禄14年(1701年)に有名な浅野長矩の事件に連座して、出仕を止められている。 氏成の後を継いだ戸田氏房は大番頭・奏者番・西丸若年寄を歴任し、戸田氏之(大番頭)、戸田氏養と代が続いた。明治2年(1869年)、最後の藩主・戸田氏良は版籍奉還した後の同年5月、藩庁を美濃国大野郡野村に移したため、ここに大垣新田藩は野村藩と改名した。近くの民家に総門と役所門がそれぞれ移築されている。
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藩史
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寛文2年(1662年)11月、石川藩と同じく、白河藩主・本多忠義の三男・本多忠以が1万石を父から分与されたことで成立した藩である。忠以の跡を継いだ弟の本多忠晴が天和元年(1681年)9月、三河国伊保藩へ移封となり、浅川藩は廃藩となった。
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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、浅野幸長は東軍に与して戦功を挙げたため、戦後、甲斐国から紀伊国紀州藩37万6500石に加増移封された。その幸長の父・浅野長政は慶長10年(1605年)に隠居して家督を幸長に譲ったが、翌年に隠居料として幕府から常陸真壁などに5万石を与えられた。これが真壁藩の立藩である。 長政は慶長16年(1611年)4月7日、65歳で死去し、その所領は三男の浅野長重が継いだ。長重は大久保忠隣改易のときの小田原城受け取りや大坂の陣で武功を挙げ、さらに本多正純改易後の宇都宮城守備などでも功績を挙げたため、幕府よりこれらの功績を評価されて加増移封の命を受ける。しかし長重は父・長政の菩提寺(真壁郡桜井村の伝正寺)のある所領の支配を望んだため、3500石を加増の上で笠間藩へ加増移封とした。真壁藩は廃され、その所領は笠間藩領として併合された。 赤穂事件で有名な浅野長矩は長重の曾孫である。
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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、松平近正は伏見城攻防戦で戦死した。死後、家督は子の松平一生が継ぎ、父の武功を賞されて5000石を加増され1万石の大名として諸侯に列し、板橋藩が立藩した。一生の死後はその子・松平成重が継ぐ。成重は慶長19年(1614年)の安房国里見氏の改易で城受け取りを務め、翌年の大坂夏の陣でも武功を挙げたことから元和3年(1617年)に三河国西尾藩に2万石で加増移封となり、板橋藩は廃藩となった。
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江戸幕府初期の老中・古河藩主として有名な土井利勝の五男・土井利直は正保元年(1644年)9月、父の遺領から5000石を相続する。万治元年(1658年)9月、兄の土井利隆の子利重が宗家を継ぐにあたり5000石を分与され、常陸国河内郡、下野国足利郡、武蔵国埼玉郡、下総国岡田郡と葛飾郡を領する1万石の大名となり、岡田郡大輪村に大輪藩を立藩した。利直は延宝5年(1677年)3月に死去する。利直は家庭的に不幸な人物で、長男と次男は自分に先立って早世し、残る男児もみな幼少の上に病弱であることから、兄・土井利房の次男の利良を養嗣子として迎えようとした。しかし一族に相談せずに願い出たので、幕府はこれを認めなかったため、大輪藩は廃藩となった。ただし、利勝の功績を考慮されて、所領を半分削減した5000石の旗本として利良の相続を許され、利直の系統は旗本家として存続した。
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正保4年(1647年)、第3代将軍徳川家光の小姓組番頭および若年寄であった朽木稙綱が、鹿沼において5千石を加増され、2万5千石の大名として鹿沼藩を立藩した。 慶安2年(1649年)に稙綱は常陸国土浦藩に移され、代わって同じく家光近臣で相模国・下総国・常陸国などで1万石を領していた内田正信がさらに5千石加増され、1万5千石で鹿沼に転封となった。正信は慶安4年(1651年)の徳川家光の死去に伴って追腹(殉死)したため、跡を内田正衆が継いだ。寛文3年(1663年)、4代将軍徳川家綱の日光東照宮参社に際し、陣屋の敷地に将軍の道中接待のための御成御殿を造営した。この御殿は将軍の道中の帰路、休憩に使われたが、その後は一度も使用されていない。 正衆が元禄12年(1699年)2月4日に死去した後は内田正偏が継いだ。正偏は享保9年(1724年)10月29日、狂気により妻女を傷つけた罪を咎められて蟄居処分となった。江戸で見初めた町人の妻を正偏が鹿沼に連れて帰り、それを追って尋ねてきた父子を無礼と下の者に斬り捨てさせ、それから狂気に走るようになったという伝承がある。 家督は長男の内田正親が継ぎ、1万石に減封の上で下総国小見川藩に移され、鹿沼藩は廃藩となった。
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藩史
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寛文元年(1661年)9月、水戸藩主徳川頼房の四男松平頼元が、兄の徳川光圀から水戸藩領のうち那珂郡内2万石を分与される内分分知で立藩した。当初は領地を与えられず、水戸藩から2万石分の年貢を与えられる形であったが、翌年には地方(じかた)に改められ、年貢を直接徴収できるようになった。また、御三家の分家(連枝)であるため参勤交代の義務がない定府大名であった。元禄6年(1693年)に頼元は死去し、嫡子頼貞が相続した。 元禄13年(1700年)9月、頼貞は幕府から陸奥国田村郡などに2万石を与えられたため、陣屋を田村郡内の守山に移した。旧領は水戸藩に返され、以後は守山藩として存続した。
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藩史
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徳川頼房の四男で、徳川光圀の弟に当たる松平頼元が、光圀から2万石を分与されて額田藩を立藩した。頼元の死後、跡を継いだ松平頼貞のとき、領地を陸奥国守山藩に移されたため、頼貞は旧領を全て水戸藩に返還し、以後は守山藩として存続した。 守山藩は第8代松平頼之のときである明治3年(1870年)、藩庁を守山から常陸国松川に移したため、ここに松川藩が立藩する。知藩事である頼之が江戸定府をやめ、任地に在住するにあたり、陸奥(磐城)と常陸の藩地のうち後者を居住地に選んだことによるが、藩地そのものは守山藩時代と同じである。翌明治4年(1871年)、陣屋の物置から出火し、強い北風に煽られて藩庁など大半を焼失し、十分な復興をみないままに廃藩置県で松川藩は廃藩となり、松川県が置かれた。その後、常陸国内の旧藩領は新治県を経て、明治8年(1875年)に茨城県に編入され、磐城国内の旧藩領は白河県・磐前県を経て福島県に編入された。
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藩史
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藩祖は別所重宗(重棟)である。所領は1万5000石。重棟は織田信長の命を受けて羽柴秀吉率いる中国遠征軍が攻めてきたとき、甥で別所家の当主だった別所長治に、信長に降伏するように進言したが容れられなかったため、甥のもとから去って秀吉の家臣となった。長治は秀吉に居城・三木城を攻められて一族とともに自害したが、重宗は秀吉家臣として存続し、天正13年(1585年)8月に八木城主に任命されたため、ここに八木藩が立藩する。重棟は長男の別所吉治(ただし長治の子という説がある)に家督を譲って隠居した後、天正19年6月に死去した。 後を継いだ二代藩主・吉治は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては西軍に味方して細川幽斎が守る丹後田辺城を攻めたため、戦後に改易され、大坂を流浪した。しかし吉治の伯母が徳川秀忠の乳母であったことから、後に罪を許されて八木藩に復帰した。 吉治は大坂の陣で徳川方として武功を挙げたことから、5000石を加増されて2万石の大名となった。しかし寛永5年(1628年)5月28日、吉治は病を理由に参勤交代を行なわず、狩猟して遊んでいたことが露見し改易された。
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横渚(前原陣屋) 花房 広場 北小町 関連地図 慶応4年(1868年)5月、徳川宗家当主徳川家達は新政府から駿府藩主として認められ、70万石の領主として駿河・遠江に入ることとなった。これに伴い、遠江国横須賀藩主であった西尾忠篤は、安房国・上総国に所替が命じられた。 明治2年(1869年)5月、安房国長狭郡花房村(現在の鴨川市花房)を新城地と選定。6月24日の版籍奉還で忠篤は藩知事となった。8月、横渚村蔵の台(現在の鴨川市横渚字蔵ノ台)にあった元岩槻藩取締出張所(前原陣屋)を仮藩庁とした。また、西尾忠篤は鏡忍寺(現在の鴨川市広場)を仮宿所とした。 明治3年(1870年)2月、新政府から藩役所・知事宅を下賜され、藩士の屋敷地として花房村周辺の村に属していた土地を取り立てた。明治4年(1871年)2月には藩校修道館が建設された。花房村萩原台に花房陣屋(花房城)の造営を開始したが、どの程度進んだかははっきりしていない。 明治4年(1871年)の明治天皇の大嘗祭に際しては、当時藩領であった安房国長狭郡北小町村字仲ノ坪(現在の鴨川市北小町)に主基斎田が定められた。主基斎田には番屋が設けられ、花房藩の役人が警備にあたった。 明治4年(1871年)7月、廃藩置県によって花房藩は廃藩となり、花房県となった。そして木更津県を経て、千葉県に編入されたのである。
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北条氏の祖は、関東地方で勢威を振るった北条早雲である。しかし北条氏は天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐により関東の支配を失ってしまう。戦後の処罰により、北条氏第4代当主・北条氏政と北条氏照は戦争責任を問われ切腹となったが、第5代当主・北条氏直は徳川家康の娘婿であるという所以から、北条氏規(北条氏康の五男で氏政、氏照の弟)は和平に尽力し、秀吉とも会見していたという経緯から特別に許され、高野山での蟄居を命じられた。 天正19年(1591年)、氏直は嗣子の無いまま30歳で死去した。このため、北条氏の嫡流は断絶したが、氏規がその跡を継いで北条家の当主となる。その後、罪を許されて氏規の子・北条氏盛は下野国内で4000石、氏規も河内狭山で7000石を領することになる。慶長5年(1600年)、氏規が没すると氏盛はその家督と遺領を継いで1万1000石の大名となる。これが狭山藩の始まりである。以後、後北条家12代の支配で明治維新にまで至った。 当初、氏規の大坂屋敷があった久宝寺町(大阪市中央区)で政務を執り行っていた。第2代藩主・氏信の元和2年(1616年)、狭山の地に陣屋を営んだ。 第3代藩主・氏宗は、日常の飲酒により病を得て江戸城登城がままならない状態が続いたため、寛文10年(1670年)、藩主の座を退いた。しかし、後継の氏治には老中・稲葉正則の反対により家督相続が認められない状態が続いた。北条一門の運動により前老中・酒井忠清の取り成しで、氏治は新たに藩を立てるという名目で1万石が与えられ、狭山藩が存続することとなった。 第7代藩主・氏彦の宝暦10年(1760年)、下級武士による藩政改革の要求運動、世に言う「狭山騒動」が起こった。しかし、運動にもかかわらず改革は遅々として進まなかった。 第11代藩主・氏燕は嘉永元年(1848年)、藩校「簡修館」を再興し、他藩の子弟にも広く門戸を開放した。また安政5年(1858年)、財源確保のため山間の農民が作る氷豆腐を専売品とした。 江戸時代後期から幕末にかけて、天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱、安政元年(1849年)のプチャーチンの大坂湾進入、文久3年(1863年)の天誅組の鎮圧などに出兵し、軍事費が嵩んだ。慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では新政府軍に加わった。しかし、江戸中期からの財政赤字と度重なる出兵により藩の財政は破綻しており、明治2年(1869年)、最後の藩主である氏恭は他藩に先駆けて版籍奉還を行なった。氏恭は藩知事に任ぜられるも辞任を乞い、同年12月に認められた。軍事費と藩債に潰された狭山藩は、明治4年(1871年)の廃藩置県を待たずして崩壊し、堺県に併合となった。 その後、狭山陣屋上屋敷の大手筋にあった北表門が本願寺堺別院(堺北御坊)に移築され、御成門と呼ばれて現存する。明治14年(1881年)には堺県が大阪府に編入された。 なお、藩主家は明治17年(1884年)、子爵となり華族に列せられている。
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藩史
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藩祖である宗矩の死後、1万2500石の所領は、有名な長男の柳生三厳(十兵衛)に8300石、三男の柳生宗冬に4000石、四男の六丸(列堂義仙)に200石、と分知されたため、柳生家は大名から旗本となった。三巌の死後、宗冬がその家督と遺領を継ぎ(4000石は幕府に返上)、さらに寛文8年(1668年)1700石を加増され、1万石を領する大名に復帰する。藩庁は柳生陣屋。 代々の藩主は将軍家の剣術指南役を務めるため、江戸に定府していた。 以後、柳生家が13代にわたって支配し、明治時代を迎えた。
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藩史
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明和5年(1768年)、信濃国佐久郡に9000石を領していた御側御用取次役の水野忠友が、若年寄そして奥勤兼側衆となって5000石を新たに加増されたため、1万4000石の大名として大浜藩を立藩した。ちなみに水野忠友の系統は、かつて信濃松本藩7万石を領していた大名であったが、水野忠恒の時代に刃傷事件を理由に改易されていた。忠友はその忠恒の跡を継いだ水野忠穀の嫡男である。 安永3年(1774年)7月、忠友は田沼意次の四男を婿養子に迎えたことにより、意次との関係はさらに深まった。そのため安永6年(1777年)4月には側用人となる。その後、忠友は所領を駿河沼津藩に移され、新たに築城することも許されたため、大浜藩は廃藩となった。 ただし、水野家は明治時代まで三河に所領を領しており、陣屋も大浜に構えていた。
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藩史
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水野勝成の弟・水野忠胤は関ヶ原の戦いにおいて戦功を挙げ、なおかつ徳川家康の従弟に当たるということから、戦後に三河国内に1万石を与えられ、諸侯(大名)に列した。その後、忠胤は大番頭となる。 しかし慶長14年(1609年)9月、遠州浜松藩5万石の藩主・松平忠頼(忠胤の従弟)を招いて茶会を開いていたとき、忠胤の与力である久米左平次と服部半八郎の両名が囲碁の勝敗をめぐって口論、そして刃傷事件にまで及んだ。この争いを見て忠頼は両名の仲裁に入ったが、逆にその仲裁に激昂した左平次によって、忠頼は殺害された。 家康はこの忠胤の与力による忠頼殺害事件、並びに以前、忠胤が伏見城で起こしていた不手際などの責任を理由に、同年10月16日に切腹を命じ、三河水野藩は廃藩となった。
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藩史
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慶長元年(1596年)、桑山重晴の次男・桑山元晴は父の4万石の所領のうち1万石を継承。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて元晴は東軍に与し、西軍の大谷吉継隊との戦いで武功を挙げたため、戦後に2000石を与えられ1万2000石の大名として諸侯に列し、御所藩を立藩した。その後、2000石ほどを父の隠居料として分与したため、1万石となる。 慶長11年(1606年)に父が死去すると、その隠居料の内、6000石を与えられた。さらに慶長14年(1609年)には長男の桑山清晴の所領であった和泉谷川藩領も、改易のときにその所領1万石を継ぐことを許されたため、御所藩の所領は2万6000石となった。 元晴は大坂の陣においても徳川方として奮戦し、戦後は高力忠房と共に大坂方の残党狩りを務めた。元晴は元和6年(1620年)に死去し、後を次男の桑山貞晴が継ぐが、貞晴は嗣子の無いまま寛永6年(1629年)に死去する。貞晴は弟の桑山栄晴を末期養子として継がせようとしたが認められず、ここに御所藩は廃藩、その所領は天領となった。 その後、栄晴は500俵扶持の旗本として名跡存続だけは許された。
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藩祖は藤田信吉である。信吉は畠山重忠の子孫と言われ、北条家や武田勝頼の家臣として仕えた。武田家が織田信長によって滅ぼされると、越後の上杉景勝の家臣となった。信吉は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い直前に東軍につくことを主張し孤立すると上杉家から出奔した。そして徳川家臣として、戦後に下野西方1万5000石を与えられ、西方藩が立藩した。 西方には元々は宇都宮泰宗の子とされる西方景泰を祖とする西方氏がいて西方城を居城としていたが、豊臣秀吉の小田原征伐後に西方領は没収されて結城秀康に与えられて西方綱吉は宇都宮氏の家臣として赤坂(現在の市貝町)へ移封することで家名を保てたとされているため、藤田信吉は結城氏の越前国移封後に入ったことになる。なお、信吉は西方城の南東に新たに「二条城」と呼ばれる城を築いて居城にしたと伝えられている。 慶長7年(1602年)、佐竹義宣が常陸水戸から出羽久保田藩へ減移封されたとき、水戸城の接収を担当していた。大坂の陣にも従軍したが、慶長20年(1615年)の夏の陣後に、榊原康勝軍の軍監を務めていたときの失態、戦功に対する不満からの失言など諸々の理由を挙げられて改易され、西方藩は廃藩となった。
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藩史
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関ヶ原の戦い前、美濃国中部(現在の岐阜県中南部)は織田家嫡流である織田秀信(信長の孫)の所領であった。しかし、関ヶ原の戦いで秀信は西軍に与したために改易され、居城だった岐阜城は破却された。 翌慶長6年(1601年)、徳川家康は、娘婿の奥平信昌に10万石を与えたが、岐阜は幕府直轄となる(後に尾張藩へ与えられる)。奥平信昌は加納に入り、岐阜城の遺材などを用いて加納城を築いた。これが加納藩の成立である。 慶長7年(1602年)に隠居して、家督を三男の忠政に譲った信昌だったが、忠政へは10万石のうち6万石しか譲らず、残りの4万石を隠居料として領有、治水工事や城下町の整備など、藩政の実権を握り続けた。ただ跡目の忠政には慶長19年(1614年)に35歳で先立たれて、大坂の陣へは父子ともに不参となる。翌元和元年(1615年)3月14日には信昌も死去し、家督は忠政の子・忠隆が継いだが、忠隆も父と同じく寛永9年(1632年)に25歳で死去した。嗣子が無く、加納藩における奥平家は断絶した。 代わって加納には信昌の外孫である大久保忠職が5万石で入ったが、寛永16年(1639年)に播磨明石藩へ移封となった。入れ替わりで松平光重が7万石で入る。光重は年貢徴収制度の確立のために五人組制度を設立した。光重は厳しい取り立てを行うことで年貢徴収を確実なものとしたが、同時に代官の不正も許さず、不正があった代官は厳しく処罰された。光重の跡は子の光永が、そして孫の光煕が継いだが、正徳元年(1711年)に山城淀藩へ移封された。 代わって備中松山藩から安藤信友が6万5000石で入る。信友は寺社奉行・老中などの要職を歴任した。ところが、その跡を継いだ信尹は無能で、奢侈を好んで藩財政を悪化させた。そのために綱紀も乱れ、家中で宝暦騒動が発生する。さらに百姓も度重なる年貢や御用金要求に耐えかねて強訴に及んだ。江戸藩邸の家老たちは信尹を幽閉して事態打開を図ったが、この一連の騒動が幕府に露見し、信尹は不行跡のために妾腹の嫡男・信成に家督を譲って強制隠居、所領も6万5000石から5万石に減封されることとなった。 宝暦6年(1756年)、陸奥磐城平藩へ移された信成に代わって武蔵岩槻藩主・永井直陳が3万2000石で入る。第4代藩主・尚佐は若年寄に昇進し、第5代藩主・尚典は武家諸法度に倣って「条々」・「定」・「覚」から成る家中制度を制定し、家臣団の統制を強めた。最後の藩主・尚服は大政奉還直前に若年寄に任じられたが、戊辰戦争では岩倉具定に帰順して新政府側に与した。明治2年(1869年)、版籍奉還により尚服は加納藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で加納藩は廃藩となり加納県に替わった。明治5年(1872年)、加納県は岐阜県に編入された。 廃藩置県後、藩主家である永井家は子爵に列せられた。 加納藩では和傘の生産が盛んで、年間50万本も生産されていた。この伝統は、今日にも岐阜和傘として受け継がれている。
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藩史
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この地は元々は刈谷藩の領土だったが、寛政2年(1790年)、土井氏の第3代藩主・土井利制の時代に寛政一揆が発生し、この責任を取らされ1万3000石を陸奥福島藩と村替え(領地替え)の処罰を課せられた。 福島藩主・板倉勝尚は戊辰戦争で新政府に反抗したことから罪に問われ、明治元年(1868年)12月に3万石の所領のうち2000石を削減され、さらに強制的に隠居することを命じられた。 代わって家督を継いだ板倉勝達は、寛政4年(1792年)から三河国内にあった福島藩飛び地に移封され、これに福島藩旧領と上総国内にあった所領を合わせて2万8000石の藩主として、明治2年(1869年)1月に重原藩を立藩する。また、旧幕府直轄地の三河県(府藩県三治制)の一部地域も重原藩に編入される。明治2年(1869年)の版籍奉還で重原藩知事に任命された勝達は、行政機構の改革をはじめ、藩校・教導館を養正館に改称して教育の普及に尽力した。 なお、藩庁の建設も行なわれたが、明治4年(1871年)7月、廃藩置県により重原藩は廃藩となって中止された。そして重原県、額田県を経て、愛知県に編入された。
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戦国時代、茨木の地には織田信長の家臣であった中川清秀が入っていたことで有名である。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで豊臣家が65万石の一大名に転落すると、茨木は豊臣氏の家老・片桐且元が入ったと言われている。且元は関ヶ原後、徳川家康より大和国竜田藩に所領を与えられていたが、茨木にも入っていたことが多く、実質的には且元の領地のようなものであった。 且元は関ヶ原後、衰退する豊臣家を懸命に支え、その存続に尽力した。近年では且元が大坂の陣直前に家康に寝返ったため裏切り者扱いされているが、大坂城にいる豊臣秀頼や淀殿、大野治長などが、家康との交渉に尽力する且元が家康と内通しているのではないかと猜疑し、且元を暗殺しようとしたため、且元はやむなく大坂城を退去し、弟の片桐貞隆とともに茨木城に立て籠もるしかなかったのである。 大坂の陣で豊臣家が滅亡した直後、且元は急死している。また、貞隆も大和国小泉(現在の大和郡山市)に所領を与えられた(小泉藩)ため、茨木は幕府領となった。なお、茨木城は一国一城令で廃城となった。
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「金山城 (美濃国)」および「松平忠頼」も参照 金山は木曽川舟運に大きな役割を果たしたと考えられている土地である。永禄8年(1565年)以後、織田信長の重臣・森可成が金山城主となり、以後森家が3代35年間にわたって当地を治めた。2代目の森長可は金山の城下町建設などに尽力し、豊臣秀吉政権下の大名として存続した。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで長可が戦死すると、弟の森忠政が家督を継いだ。 関ヶ原の戦いの直前となる慶長5年(1600年)2月、忠政は北信濃川中島に13万7500石を与えられて移された。その後、犬山城主石川貞清(石川光吉)の所領となったが、貞清は西軍に属して犬山城で抗戦した上に関ヶ原本戦でも戦い、戦後に改易された。 関ヶ原の戦いののち、桜井松平家の松平忠頼(武蔵松山藩1万石)は、犬山城の城番を務めるとともに、家康からの命を受けて金山城にも在番した。この際、「金山領」1万5000石が忠頼に与えられた。これを金山藩の立藩と捉える見方がある。忠頼は慶長6年(1601年)4月(『寛政譜』によれば2月)に遠江国浜松藩へ移された。 金山城は慶長6年(1601年)頃、犬山城主となった小笠原吉次(清洲藩主松平忠吉御附家老)によって破却された。地域は幕府の代官支配となり、元和元年(1615年)からは尾張藩領となった。
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大宮村(近代には下都賀郡大宮村、現在の栃木市大宮町周辺)には、中世には小山氏の一族によって築かれた大宮城があった。 貞享元年(1684年)、大老堀田正俊(下総古河藩13万石)が江戸城中で稲葉正休に刺殺された。家督を継いだ正仲は、次弟の正虎に2万石を、三弟の堀田正高に1万石(下野佐野藩)を分知した。下野都賀郡内に領地を得た正虎は、中世の大宮城跡に大宮陣屋を営んで居所とし、大宮藩が立藩した。 正虎の兄の正仲は、古河藩から出羽山形藩を経て陸奥福島藩に移封され、元禄7年(1694年)に死去した。正虎が末期養子としてその跡を継ぐこととなったため、正虎は福島藩に移り、大宮藩は廃藩となった。
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織田信長から能登、次いで豊臣秀吉に加賀半国と越中三郡を得て、次代の加賀百万石の基礎を築き上げた前田利家は、長男の前田利長に家督と加賀の所領を、次男の前田利政に能登七尾21万5000石を分与していた。利政は七尾港に近い小丸山城に移り、七尾城は1589年(天正17年)廃城となった。 利家の死の翌年、関ヶ原の戦いが起こると、利長・利政兄弟は東軍として出陣することになったが、利政は大坂で妻子が人質になっていることを知ってその救出を優先すべきと主張して、利長の出兵に従わずに七尾に留まった。これに激怒した利長は戦後に利政が西軍に通じていると訴え出た(『天寛日記』)。このため、利政は所領を没収され、その旧領は全て利長に与えられ加賀藩が成立した。ちなみに利政の子孫は、加賀藩に仕えている(前田土佐守家)。 小丸山城は元和元年(1615年)の一国一城令で廃された。七尾はその後、商工業や港町として発展を遂げた。
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寛永元年(1624年)、常陸国新治郡柿岡をはじめ、上野や下野において5000石の知行を領していた稲葉正勝は、常陸国真壁郡に5000石を加増されて1万石の大名となり、柿岡藩が立藩した。正勝の父は小早川秀秋に仕えた家老・稲葉正成。母は稲葉重通の養女・春日局で、正勝自身も徳川家光に仕えていたことから加増を受けたのである。 正成が寛永5年(1628年)に死去すると、正勝は家督と父の所領であった下野国真岡藩を継ぐこととなって真岡に移ったため、柿岡藩は廃藩となり、その所領は真岡藩に組み込まれた。
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戦国時代、下妻は結城氏に属していた多賀谷氏が治めていた。しかし小田原征伐後、結城秀康が結城晴朝の養嗣子として当主になると、多賀谷重経は徳川氏に反発し、秀康の臣下になることを嫌々ながらも承諾したが、その後も文禄・慶長の役では秀康の出陣命令を病気と称して拒み、さらに佐竹義宣の弟・多賀谷宣家を養嗣子として迎えるなど、反徳川色をますます強めた。このため、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで重経は秀康に従わず上杉景勝に応じ西軍に与したため、戦後に6万石を改易された。 その後の慶長11年(1606年)に秀康の異母弟の鶴千代が10万石で入るが、慶長14年(1609年)12月22日に水戸藩へ移される。代わって元和元年(1615年)に上総姉崎藩より秀康の次男・松平忠昌が3万石で入るが、翌年に信濃松代藩へ移封され、代わって下総山川藩から松平定綱が3万石で入るが、元和5年(1619年)には遠州掛川藩へ移封されるなど、短期間で藩主がめまぐるしく変わった。その後、正徳2年(1712年)までは幕府領となる。 正徳2年12月25日、井上正長が1万石で入ったことから、再び下妻藩が立藩する。正長は美濃郡上藩主・井上正任の三男であったが、父から郡上郡内で3000石を分与されて交代寄合の旗本となり、徳川家宣が甲府藩主の時代からその家老を務め、家宣が将軍後継者となると西の丸御側衆となり、3000石を加増された。そしてその後も順調に加増されて8000石になり、家宣が死去するとその遺命により、正長は2000石を加増されて1万石の大名として下妻藩主となった。井上家は幕末期に浜松藩を領した井上家の分家にあたり、他には上総高岡藩があり、みな明治維新を迎えている。 藩主家である井上家は歴代藩主の多くが短命だったため、14人の藩主のうち、10人が他家から迎えられたという異例の家であり、その点においても藩政は不安定であった。第14代藩主・井上正巳の時に明治維新を迎え、正巳は明治2年(1869年)6月24日の版籍奉還で藩知事となる。そして明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により下妻藩は廃藩となって下妻県となり、同年11月には茨城県に編入された。
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戦国時代の津は安濃津と呼ばれ、長野工藤氏の支配下にあった。永禄11年(1568年)、織田信長の伊勢侵攻で長野工藤氏は信長に降伏し、信長の弟・信包を養子に迎えて当主とした。信長没後、信包は豊臣秀吉に仕え、文禄3年(1594年)に2万石を削減されて近江に移封された。 代わって、富田知信が5万石で入った。知信は慶長4年(1599年)に死去し、跡を子の信高が継いだ。信高は徳川家康に接近し、家康主導による会津征伐に参加し、石田三成ら西軍が挙兵すると本国に戻り、西軍の伊勢侵攻軍である毛利秀元や長束正家と戦い、敗れて高野山に逃れた(安濃津城の戦い)。関ヶ原の戦い後、家康は信高を2万石加増の7万石で安濃津城主として復帰させた。慶長13年(1608年)8月24日、信高は伊予宇和島藩に移封された。 翌日の8月25日、伊予今治藩10万石から藤堂高虎が22万石に加増された上で入った。内訳は伊予越智郡今治2万石、伊賀国内10万石、伊勢安濃郡、一志郡内10万石で計22万石である。 高虎は江戸城の普請などにも功を挙げて家康から絶大な信任を受け、外様でありながら早くから別格譜代の厚遇を受けることとなる。慶長19年(1614年)からの大坂の陣でも家康側に与して戦功を挙げた。伊賀上野藩主・筒井定次の改易もあって伊勢津藩は伊賀国内と伊勢鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・一志郡内で5万石を加増され計27万石となり、更に元和3年(1617年)新たに伊勢度会郡田丸城5万石が加増され、高虎の弟藤堂正高の下総国の所領3千石も津藩領に編入し、最終的に32万3000石を領する大大名となった。 なお、田丸5万石は元和5年(1619年)に和歌山城に徳川頼宣が移封されてくると紀州藩領となり、藤堂家には替地として大和国と山城国に5万石が与えられた。 藩政は初代藩主・高虎の時代に行なわれた城郭普請や家臣団編成、農業制度改革、城下町建設などで確立する。 第2代藩主・藤堂高次は寛文9年(1669年)9月29日に隠居する際、子の第3代藩主・藤堂高久に命じて次男藤堂高通に5万石を分与して、支藩である久居藩を立藩させた。このため、津藩は27万3950石となった。高久も元禄10年(1697年)10月5日に藤堂高堅に3000石を分与して、27万950石となった。高久は藩財政再建のため、地方知行制の廃止と蔵納制の移行、田畑永代売買の禁止、新田開発、商業統制などを行なったが効果はなかった。 第4代藩主・藤堂高睦の在職期には3度にわたる地震などの天災に見舞われた上、藤堂家の嫡流も高睦をもって早くも終焉し、以後は支藩・久居藩から招かれて藩主となった者が多い。第5代藩主・藤堂高敏、第6代藩主・藤堂高治、第7代藩主・藤堂高朗(藤堂高豊)らはいずれも久居藩主を経て、津藩主になった面々である。なお、これら養子藩主時代は幕命による手伝い普請などによる出費や天災・凶作が相次いで藩財政は悪化した。 第9代藩主・藤堂高嶷も久居藩から津藩主となった養子藩主で、藩財政の再建を中心とした藩政改革を行なったが、あまりに急性すぎる改革は周囲の反発を受け、寛政年間に津藩最大の百姓一揆が発生して改革は挫折した。 特筆すべき藩主が、第10代藩主・藤堂高兌である。高兌も久居藩から転任した藩主で高嶷の実子だったが、すでに久居藩主時代からその敏腕をもって藩政の再建に成功していた。このため、津藩の藩政でも綱紀粛正・倹約・植林や養蚕の奨励、福祉政策、文武の奨励などを実行して藩政改革を成功させ、藤堂家中興の英主と讃えられた。また、文武を推奨して藩校「有造館」を創設、伊賀にも藩校「崇広堂」を創設した。各武術の稽古場も整備され、剣術では新陰流、若山流、戸波流などの流儀が修練された。 高兌の跡を継いだ第11代藩主・藤堂高猷の時代には、凶作や地震などの天災が相次ぎ、藩の借金は明治に至るまでに212万両にまで達したといわれる。 幕末には幕府から黒船来航への対策として鳥羽藩とともに伊勢神宮と伊雑宮の防衛を命じられ、志摩地方の沿岸部には次々と台場が築かれ大砲が設置された。 慶応3年に幕命を受けて、山崎関門の守衛の任に就く。その後の王政復古により新政府が誕生した後も、政府命令で引き続き山崎関門の守衛を続けた。1868年(慶応4年)1月に鳥羽・伏見の戦いが始まると、「薩長と会桑の私闘にくみしない」として中立を保っていたが、新政府の四条隆平が津藩陣営に勅使として訪れ、敗退した旧幕府軍への追撃を命じる。津藩守備隊を指揮していた藤堂元施と吉村長兵衛は、勅命が出た以上は官軍に協力することを決意し、対岸の幕軍砲台を砲撃して官軍の勝利に大きく貢献することになった。当初こそ中立を宣言していたものの、旧幕府側からは味方と思われていたため、「藤堂の犬侍」「その行い、藩祖(高虎)に似たり」とそしられた。[要出典] その後、津藩兵は戊辰戦争で東海道の先鋒となって、各地で旧幕府軍と戦った。 1869年(明治2年)の版籍奉還で、高猷は津藩知事に任じられる。しかし1870年(明治3年)には高猷が行なった藩政改革で平民による部隊が編成され、これに不満を持った士族派の長谷部一(藤堂監物)らが反対して処刑されるという庚午事変(監物騒動)が起こるなどしている。また、伊賀4郡で打ちこわし(平高騒動)も起こっているなど、高猷の失政が目立った。 1871年(明治4年)6月28日、高猷は隠居し、第12代藩主と津藩知事には藤堂高潔が就任したが、直後の7月14日に行なわれた廃藩置県で津藩は廃藩となり、安濃津県となった。1872年(明治5年)に三重県と改称され、1876年(明治9年)には度会県が三重県に編入された。
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藩主有馬家は、筑後久留米藩主・有馬家の分家であり、久留米藩初代藩主・有馬豊氏の三男・頼次を祖とする。頼次の子孫は紀州徳川家に代々仕え、頼次から4代目の氏倫が徳川吉宗の将軍就任に伴って幕臣となり、のちに大名として取り立てられた。このため、氏倫系有馬家(伊勢西条藩、のち上総五井藩)は譜代大名として扱われる。吹上藩初代藩主の氏郁は、氏倫から数えて9代目にあたる。 天保13年(1842年)、五井藩主だった有馬氏郁が下野吹上に移封され、吹上藩が立藩された。2代氏弘は天狗党の乱や戊辰戦争への対応を行っており、戊辰戦争では新政府側に与して奥州に出兵している。明治2年(1869年)3月には、家老が若年の氏弘を欺いて軍費や戦死者の手当金を横領しているとして、家臣団の一部が江戸藩邸を襲撃、家老らを殺害するという事件が起こった。この事件を起こした9人の吹上藩藩士と平民1人について、8人を自裁(切腹)、1人を斬首刑(武士の身分でない平民のため)、1人を終身流刑の判決が明治2年(1869年)8月に出ている。また、太政類典によれば、有馬氏弘はこの事件の責任を取る形で明治2年5月12日から同年9月28日まで謹慎と10日間の閉門の刑罰が執行される。 明治4年(1871年)7月の廃藩置県で吹上藩は廃藩となり、栃木県に編入された。 明治17年(1884年)7月8日、旧藩主家当主の頼之(久留米藩主家からの養子)は子爵に叙されている。
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藩史
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慶長7年(1602年)、根津政直(松鴎軒)の子である根津信政は5000石加増により1万石の大名となり、上野豊岡藩を立藩した。 信政の没後、息子政次が2代藩主となるが早世、さらに養子となった弟・信直が家督を継ぐものの、寛永3年(1626年)4月(異説として寛永2年(1625年))に病死した。 信直には嗣子がなく、根津家は無嗣断絶で改易となり、上野豊岡藩は廃藩・幕府領となった。
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藩史
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頼氏は関ヶ原の戦い(1600年)に出陣しなかったが、戦後に徳川家康に戦勝を祝う使者を派遣したことから、1602年(慶長7年)に1000石の加増を受けた。それでも総石高4500石程度に過ぎず、本来ならば大名ではなく藩と呼ぶことはできない。しかし江戸幕府を開き源氏長者となった家康は、かつての将軍家でありかつ源氏長者でもあった足利氏の格式を重んじ、高い尊称である御所号を許して厚遇した。また四品格となり、代々の鎌倉公方が叙任された左兵衛督や左馬頭を称したが、これは幕府から受けた武家官位ではなく自称であった。にもかかわらず、幕府などもこの自称を認めていた。また足利の名字を名乗らず喜連川を称した。 以後の将軍も代々喜連川家を重んじ、享保年間には諸侯扱いとなり、藩庁が喜連川陣屋のままにもかかわらず10万石相当の国主並家格となった。しかし石高が大幅に加増されることはなく、喜連川家は江戸期を通じて表高・実高が1万石に満たなかった唯一の諸侯とされている。1815年(文化12年)に先代藩主であった喜連川恵氏が家臣に充てた書状の中で、喜連川家(喜連川藩)に認められた特例として「国勝手」(参勤交代義務の免除および妻子の在国許可)「諸役御免」(幕府からの諸役賦課の免除)「無高にて五千石」(表高は無高(ゼロ)で、実高は5千石)を挙げている。ただし、参勤交代については毎年12月に自主的に参府していた。また、諸役の負担は表高から計算されるため、表高が無高な喜連川藩は当然、軍役など諸役負担の義務を有さなかった。ちなみに 喜連川氏春の頃までは伺候席が前田家や越前松平家などと同じ大廊下であった(後に柳之間となる)。こうした高い格式を持つ一方で、式日の正装は通常の四品の大名の直垂ではなく、喜連川家だけ六位以下の平士が着用する素襖であった。また、喜連川藩が1万石を満たしていないことから、喜連川家は諸侯(大名)の概念に当てはまらないとして高家や交代寄合とみなす説もあるが、高家のような具体的職掌や朝廷との交渉上必要とした武家官位を持たず、交代寄合のような参勤交代や軍役負担義務も有しないなど、高家や交代寄合の概念からも外れている。 このように、喜連川家が江戸幕府から受けてきた待遇は「大名(諸侯)」「旗本」「交代寄合」のいずれにも当てはまらず、その実態は幕藩体制における武家の身分統制から外れており、徳川将軍家との明確な主従関係すら存在しなかった(喜連川家は自身を「天下ノ客位」「無位ノ天臣」と称していた)。こうした特殊な存在が許されたのは、喜連川家の祖である古河公方が徳川家の関東移封の少し前まで実際に関東地方の支配者としての一定の権威を有していた存在であり、徳川家による関東地方支配および幕藩体制における日本全国支配が確立していない時期には喜連川家に対する一定の配慮がなされたとみられる。『徳川実紀』の「東照宮御実紀附録」(巻17)には慶長20年(1615年)閏6月の記事として、上洛中の家康に拝謁した頼氏が退出時に家康から御送礼を受けたことが記載されている。この記事には喜連川家が室町将軍家の支族で鎌倉幕府(鎌倉府の誤記か?)の末裔であるため、その筋目を重んじたこと、台徳院(徳川秀忠)以後は御送礼の儀は停止されたことが記されており、徳川家の支配の安定化とともに喜連川家の重要性が低下していったことを物語っているが、その特殊な立場は明治まで継続していったとみられている。 鎌倉公方以来の家臣団は、かつての小弓公方方・古河公方方の対立などで複雑であり、1647年(正保4年)には御家騒動(喜連川騒動)が起きている。 1789年(寛政元年)には500石の加増を受けたものの、10万石の格式を保つ出費は莫大であり、藩財政は厳しかった。荒川・内川の氾濫と天保の大飢饉は藩財政をますます窮乏させた。9代藩主喜連川煕氏は1839年(天保10年)から藩政改革に乗り出し、義援米のための倉の設置、厳格な検地の実行、新田開発、藩内の士風刷新などの政策を実行しようとした。しかし家中での上士と下士の対立と、財政基盤の弱さが政策の実行を阻害し、ほとんど成果が上がらなかった。唯一の救いは、喜連川が奥州街道沿いの宿場町であったことで、奥州の大名、わけても仙台藩の参勤交代時には喜連川の宿場は潤った。仙台藩が費用節約のために喜連川を通り過ぎたくても、宿場前にはいつも喜連川藩主(御所様)が待っていたという。一度、仙台藩が喜連川を迂回して参勤交代した時には、御所様は義務もないのに江戸城参勤に赴き、伊達侯に嫌味を言ったと伝えられる。 江戸時代を通じて喜連川家の支配は続いた。明治維新後の1870年(明治3年)、廃藩置県に先立って喜連川藩は封地を新政府に奉還して日光県に組み込まれ、喜連川藩は消滅した。翌1871年(明治4年)には日光県の合併に伴い、宇都宮県の一部となった。喜連川家は足利姓に復し、華族に列して子爵に叙せられた。
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藩祖は牧野信成である。牧野家には同姓同名の人物が同時代にいるために混乱を生じやすいが、この信成は天正6年(1578年)、牧野讃岐守康成の子として生まれ、慶長4年(1599年)に家督を継いだ人物である。この頃の領地は、畔吉村、小敷谷村、藤波村、小泉村(以上 現上尾市)、日出谷村、川田谷村(現桶川市)、石戸宿(現北本市)、馬室村(現鴻巣市)であった。信成は大坂の陣で武功を挙げたため、大番頭に任じられた。その後、5000石から1万1000石にまで加増されて大名に列し、石戸藩を立藩した。寛永10年(1633年)4月23日のことである。 正保元年(1644年)3月18日、信成は下総国関宿藩1万7000石に加増移封され、石戸藩は廃藩となった。正保4年(1647年)、信成が致仕すると石戸領5000石は隠居料となり、死後は庶子の尹成、永成、直成らに分知された。
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藩史
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戦国時代、この地には一宮城が存在していた。ここは北条氏と里見氏の勢力圏の境目にあり、しばしば支配者が変わったが、小田原征伐の際に本多忠勝によって攻め落とされて廃城となり、以後大多喜藩領などを経て、伊勢国八田藩加納家の飛領となった。 加納家は代々紀州徳川家の家臣であったが、徳川吉宗が将軍に就任した際に紀州から随行してそのまま幕臣に転じて大名に取り立てられた家である。1826年(文政9年)3月、伊勢八田藩主であった加納久儔が陣屋を上総国長柄郡一宮本郷村にあった一宮城跡地へ移したことにより、一宮藩が立藩した。初代藩主である久儔は天保期、軍制改革を主とした藩政改革を行なって兵団組織・農民徴兵制を施行するなど、ある程度の成功を収めた。 このため第2代藩主・加納久徴は1855年(安政2年)2月5日、講武所総裁に任じられた。その後、久徴は奏者番、そして若年寄を歴任し、公武合体運動を推進して活躍した。1863年(文久3年)11月、真忠組の乱が起こると、この鎮圧で功を挙げた。 第3代藩主・加納久恒は1867年(慶応3年)7月29日に若くして死去した。 第4代藩主・加納久宜は戊辰戦争のとき、新政府側に与した。1869年(明治2年)の版籍奉還で久宜は知藩事となり、1871年(明治4年)の廃藩置県により一宮藩は一宮県となり、11月には木更津県を経て千葉県に編入された。 なお、最後の藩主となった加納久宜(子爵)は、鹿児島県知事を務めるなど明治維新後も政財界で活躍し、後に入閣要請を蹴って一宮町長となった。その子・加納久朗は、戦後に千葉県知事を務めている。平成時代に内閣総理大臣となった麻生太郎の祖母は加納久朗の妹である。 現在の一宮陣屋跡は大手門の模擬門があるくらいである。
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小泉藩の藩祖は、賤ヶ岳の七本槍の一人として名を馳せた片桐且元の弟・片桐貞隆である。貞隆は兄とともに豊臣秀吉に仕えて小田原征伐や文禄の役で武功を挙げ、播磨国内で1万石の所領を与えられた。貞隆は、豊臣秀頼の傅役となった兄・且元とともに、秀吉没後の豊臣家を支えた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、貞隆は徳川家康によって所領を大和小泉1万石に移された。これが小泉藩の立藩である。慶長19年(1614年)に起こった方広寺鐘銘問題をきっかけに、片桐兄弟は秀頼らから家康と内通していると猜疑され、貞隆は且元とともに大坂城から退去して摂津茨木城へ移った。大坂城からの退去の際、片桐家の兵300人は完全武装の上、鉄砲の火縄に点火するという物々しいものであったと言われている。豊臣家は片桐兄弟という柱石を失い、同年から始まった大坂の陣で、家康により滅ぼされた。 大坂の陣の後、貞隆は家康の家臣となり、6000石の加増を受け、小泉藩は1万6000石となる。 貞隆の子である第2代藩主・片桐貞昌は茶人として高名であり、「片桐石州」の名で知られる。寛文5年(1665年)には将軍・徳川家綱の茶道指南となり、茶道石州流の地位を築き上げた。そのほかにも、建築関係で功績が高い人物である。貞昌は弟の片桐貞晴に3000石を分与したため、小泉藩は1万3000石となる。 貞昌の三男で第3代藩主・片桐貞房のときに庶兄・片桐信隆に1000石を分与したため、1万2000石となる。その後、さらに1000石を収公されて、総石高は1万1000石となった。 第5代藩主・片桐貞音は不手際から幕府に処罰された。第8代藩主・片桐貞信は遜斎と号した茶人で、石州流中興の祖といわれている。 幕末期には藩主の早世が相次いだため、第11代藩主・片桐貞利からは他家の養子が迎えられるに至った。しかしその養子も早世が相次いでいる。最後の藩主となった片桐貞篤の時代に幕末を迎えた。貞篤は水戸徳川家の出身で、天誅組の変鎮圧などに貢献するなどはじめ佐幕派であったが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に協力して京都守備を務めている。 明治2年(1869年)の版籍奉還で小泉藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で藩知事を免官され、小泉藩は廃藩となった。
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成羽藩は元和3年(1617年)、因幡国若桜藩主山崎家治が大坂の陣の戦功により3万5,000石に加増され入部したことに始まる。 家治はそれまでの鶴首城を廃し新たに麓に成羽陣屋を築いた。成羽藩主時代の家治は幕府の御用に忙殺された。まず、元和5年(1619年)の福島正則改易時には義兄の池田長幸と共に備後国三原城を守衛を命じられている。翌元和6年(1620年)の大坂城築城工事において天守・本丸・二の丸の石垣構築に携わり、その才能を評価され「築城の名手」と呼ばれるようになった。現在でも大坂城天守の石垣には山崎家の刻印が施された石垣を見ることができる。尚、この築城工事で出た廃石は、家治のアイデアで中之島の基礎として再利用された。家治が中之島開発のきっかけとなったことから、中之島の東端 (現在の北区中之島1~2丁目)には山崎家の大坂蔵屋敷が所在し、通称「山崎の鼻」と呼ばれた。続いて寛永11年(1634年)、伊予国松山藩主蒲生忠知が死去し無嗣断絶になると松山城の城番を勤めた。そして寛永13年(1636年) 、江戸城外堀普請(丸の内1丁目鍛冶橋付近)において、親戚筋の備前国岡山藩主池田光政を組頭とする石垣方四組に属し普請を行っている。その後その石垣は小石川後楽園に移設され、現在でも山崎家の刻印が掘られた石垣を見ることができる。また、家治は飛領の浅口郡連島の新田開発を積極的に推進し、その技能を幕府より高く評価された。尚この連島は次男山崎豊治が大身旗本(のち交代寄合表向御礼衆)として成羽に戻った際に再び山崎家の所領となり、江戸時代を通じた新田開発が奏功し、成羽領が幕末に維新立藩する契機となった。 寛永15年(1638年)、島原の乱により荒廃した天草の復興を託され、7,000石を加増のうえで肥後国富岡藩4万2,000石を与えれて転封となった。家治は、上述した築城技術や連島の新田開発、それに幕府御用への忠勤などが幕閣より評価され、その能力を買われ転封となった。家治は島原の乱によって疲弊した天草の復興と富岡城の修築に注力し、その功績により寛永18年(1641年)、讃岐国丸亀藩5万3,000石へ加増転封となった。 代わって寛永16年(1639年)、常陸国下館藩より水谷勝隆が5万石で入部した。なお、勝隆の義弟が島原の乱の責任を取らされ天草郡4万2,000石を没収された寺沢堅高である。勝隆は成羽陣屋や城下町の拡張を推進したが、寛永19年(1642年)に在任わずか3年で備中国松山藩へ転封となったため、成羽藩は廃藩となり代官支配の天領となった。 一方、明暦3年(1657年)3月、山崎家治の嫡孫で讃岐国丸亀藩3代藩主山崎治頼は8歳で夭折し、丸亀藩山崎家は嗣子断絶で改易となった。しかし、治頼の後見人として讃岐国三野郡仁尾5,000石を分知されていた家治の次男山崎豊治は、幕府より山崎家の名跡相続を許され所領は安堵された。翌万治元年(1658年)5月、幕府の計らいで所領を備中国川上郡・浅口郡内に移され、旧領で豊治の出生地でもある川上郡成羽村を居所とした。父家治が寛永15年(1638年)に肥後国富岡藩へ転出して以来、山崎家が19年ぶりに成羽に戻ることとなった。豊治は幕府に国元へ赴くことを許可され、万石未満の旗本ながら領地へ赴いた。このお国入りが山崎家代々の習わしとなり、大名と同等の格式を与えれた交代寄合表向御礼衆に加わる契機となった。 その後豊治の子孫は、転封することなく明治4年(1871年)の廃藩置県まで交代寄合表向御礼衆(慶応4年(1868年)から大名)として成羽の地を治めた。交代寄合表向御礼衆時代の動向については、特筆すべき事柄はあまりないが次の3点を挙げておく。 1点目は、宝永元年(1704年)に2代領主義方が、尊崇していた江戸の愛宕神社を成羽の愛宕山頂に勧請し、愛宕神社に白谷提にて花火を奉納したことである。この花火は現在でも「成羽愛宕大花火」として毎年7月に開催されている。 次に2点目は4代領主信盛は嗣子がいなかったため、嫡母の実家である豊後国森藩久留島家より久留島光通の六男通有(のちの5代領主義俊)を養子として迎え家督を相続させたことである。この養子縁組により、家治・豊治父子の血統は信盛をもって途切れることとなった。成羽藩最後の藩主である治敏は、下総国小見川藩内田氏の男系子孫であり、豊後国森藩久留島氏、豊後国日出藩木下氏、大和国田原本藩平野氏、肥後国宇土藩細川氏などの女系子孫に当たる。著名な先祖には治敏の母(肥後国宇土藩9代藩主細川行芬の娘)を通じて細川幽斎、細川忠興、父治正を通じて平野長泰、毛利輝元、加藤嘉明、祖母(山崎義徳の娘)を通じて木下延俊、戸田忠昌、来島長親らがいる。これらの先祖のうち戸田忠昌を取り上げると、忠昌は山崎家治の後任として肥後国富岡藩主となり、家治が再建した富岡城の修築が領民に負担を与えるとして破却した人物である。(忠昌の曾孫が豊後国日出藩10代藩主木下俊胤であり、俊胤の娘が山崎義徳の正室であり、治正の祖母に当たる。) 最後に3点目は、幕末の慶応4年(1868年)、義厚(大名となり治正と改名)の代に浅口郡連島の新田開発分を明治政府に申し立て、1万2,746石に高直しがあり諸侯に列して立藩したことである(維新立藩)。山崎家は家治の代より浅口郡内の新田開発を推進していたが、豊治の時代である延宝6年(1678年)には亀島新田に280町歩が完成しており、さらに幕末には280町歩余りに及ぶ鶴新田の開拓が行なれていた。廃藩置県で成羽県となり、後、深津県・小田県を経て岡山県に編入された。山崎家は明治17年(1884年)の華族令で男爵に叙されている。
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大田原氏は下野国の大名・那須氏に属する豪族衆・那須七党(那須七騎)の一つであった。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐のとき、主家の那須氏は小田原に参陣しなかったが、大田原晴清は小田原に参陣したため、7000余石の所領を安堵された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、晴清は東軍に与して下野国小山に参じた後、帰国して会津の上杉家(西軍)の動きに備えた。この戦功により戦後、徳川家康から5000石を加増され、1万2000石を領する大名となった。 第3代藩主・高清は弟の為清に1000石を分知し、以後の表高は1万1000石となった。大田原家は小藩ながら、外様大名として明治時代まで存続した。 幕末の嘉永3年(1850年)、第12代藩主・広清は、藩校「時習館」を開いた。 最後の藩主・一清は戊辰戦争において新政府軍についた。このため、地理的に東北に近いこの地は旧幕府方の東北諸藩に狙われることとなった。慶応4年(1868年)5月、城下は会津藩の攻撃を受け大田原城も焼失した。 明治4年(1871年)、廃藩置県により大田原県となる。その後、宇都宮県を経て栃木県に編入された。 大田原家は明治2年(1869年)の版籍奉還とともに華族に列し、明治17年(1884年)の華族令により子爵となった。
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尼子氏の遺臣・亀井茲矩が豊臣秀吉に1万3500石を与えられ、天正10年(1582年)より鹿野城主となりこの地を治めたことに始まる。 慶長5年(1600年)茲矩は関ヶ原の戦いに於いて東軍方についたため2万4500石を加増され、3万8000石を領することとなった。2代・政矩はさらに5000石を加え、4万3000石を領した。元和元年(1617年)、政矩は石見津和野藩に国替えとなり、鹿野は鳥取藩の領地となった。 寛永17年(1640年)、播磨山崎藩主池田輝澄はお家騒動(池田騒動)を起こして鳥取藩預けとなったが、堪忍料として1万石を与えられ、ここに鹿野藩が再立藩した。寛文2年(1662年)、輝澄の跡を継いだ政直は播磨福本へ移り、鹿野藩は再び廃藩となって鳥取藩領に戻された。 なお、貞享2年(1685年)に鳥取藩から新田分知を受けて成立した鳥取東館新田藩が、明治元年(1868年)12月10日に鹿奴(鹿野)陣屋を藩庁と定めており、「鹿奴藩」と呼ばれている。
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尾張徳川家の第2代当主徳川光友の次男・松平義行は、天和元年(1681年)8月13日に信濃国伊那郡・高井郡・水内郡内において父より3万石を分与され、高井藩を立藩した。ただし義行は尾張藩の江戸藩邸に住んでおり、藩政は三沢彦兵衛ら代官が天和2年(1682年)に創設した竹佐陣屋(現在の飯田市)に常駐して行なったと言われている。藩政の大半は尾張藩に準拠したものであり、藩法も尾張藩に倣って制定されている。 元禄13年(1700年)3月25日、高井郡・水内郡の領地と美濃国石津郡・海西郡内の領地が交換され、美濃高須藩が立藩し、高井藩は廃藩となった。ただし、伊那郡内における1万5000石の所領は高須藩領として明治維新まで竹佐陣屋で支配されていた。
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藩史
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奥平信昌と徳川家康の長女・亀姫との間に生まれた四男の松平忠明は、外祖父・家康の養子となって松平姓を名乗ることを許され、兄である松平家治の遺領、上野国長根に7,000石を領していた。関ヶ原の戦いの戦勝に伴い、慶長7年(1602年)には1万石加増の1万7,000石で作手に入り、三河作手藩を立藩した。 忠明は、菩提寺・甘泉寺を庇護する一方で、藩政の基礎を固めるべく早くから検地を実施し、さらに家臣団編成に努めている。しかし慶長15年(1610年)、伊勢亀山藩に移封されたため作手藩は廃藩となる一方、所領は忠明が慶長19年に大坂藩へ転封して天領となるまでは、そのまま忠明のものであった。
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1587年(天正15年)讃岐国へ織田信長と豊臣秀吉の下で功のあった生駒親正が封じられる。 1597年(慶長2年)亀山に丸亀城を築き始める。 1602年(慶長7年)丸亀城が完成し、親正の嫡子である生駒一正が居城とする。 1615年(元和元年)播州赤穂の人が塩屋にきて製塩業を始める。一国一城令により丸亀城は破却を命じられる。 1640年(寛永17年)生駒騒動により生駒氏は改易される。 1641年(寛永18年)山崎家治が肥後富岡より西讃に入封し、丸亀城を本城とし丸亀藩となる。生駒氏改易から山崎氏入封まで、讃岐は隣国伊予の西条藩・大洲藩・今治藩の分割統治となっていた。 1642年(寛永19年)丸亀城の改修に着手し、ほぼ現在の縄張りとなる。 1658年(万治元年)山崎氏は3代で断絶し改易となり、代わって京極高和が播磨龍野より入封する。 1660年(万治3年)現在の丸亀城天守が完成する。 1670年(寛文10年)丸亀城大手一の門、二の門を南から北へ移築する。 1688年(貞享5年)下金倉村の中洲に別邸をつくり、万象園と名づける。 1694年(元禄7年)京極高通に多度津1万石を分け多度津藩とする。 1705年(宝永2年)初めての藩札を発行する。 1781~1788年(天明年間)うちわの製造が藩士の内職として盛んに奨励される。 1794年(寛政6年)藩学校正明館を創立する。 1838年(天保9年)金毘羅街道の一つである丸亀街道の起点の目印として、江戸に住む人々の浄財により、太助灯篭が作られる。 1858年(安政5年)西讃府志が完成する。 1871年(明治4年)廃藩置県により丸亀県となる。
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藩史
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四国平定後の天正15年(1587年)、生駒親正が豊臣秀吉から讃岐1国、12万6千200石(のち高直しで17万3000石)を与えられたことに始まる。親正の子一正は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて東軍に加担したため、戦後に所領を安堵された。しかし、第4代藩主高俊の代の寛永17年(1640年)にお家騒動(生駒騒動)により改易され、出羽国矢島藩に転封された。 その後讃岐国は一時、隣国伊予国の3藩、西条藩主一柳直重・大洲藩主加藤泰興・今治藩主松平定房により分割統治された。 寛永18年(1641年)、西讃地域に山崎家治が入り丸亀藩が興った。 寛永19年(1642年)、東讃地域に常陸国下館藩より水戸藩主徳川頼房の庶長子松平頼重が12万石で入封し、東讃地域に高松藩が成立した。頼重は入封にあたり、幕府より西国諸藩の動静を監察する役目を与えられたという。高松松平家は水戸徳川家の分家(御連枝)であるが独立色の高い支藩で水戸藩の指示を受ける立場ではなかった。彦根藩井伊家・会津松平家と共に代々江戸城の伺候席が溜詰(最も将軍の執務空間である「奥」に近い)であった。溜詰とは将軍の政治顧問を務め、大老の政治報告も聞く立場にあり、(徳川御三家は政治への意見や介入は禁止されていた)、徳川幕府の中では政治の最高機関という高い家格を有していた。 水戸藩主徳川頼房は甥である将軍徳川家光や二兄(尾張藩主徳川義直・紀州藩主徳川頼宣)に先だって嫡男をもうけたことを憚って、頼重ではなく三男光圀を水戸藩主に立てた。後に頼重が家光の配慮により初代高松藩主として高松に入る。頼重と家光は従兄弟同士であったが一緒に風呂に入る程の仲で、江戸城に於いて頼重は将軍の私室(奥の間)にも自由に出入りできたという。 また、水戸藩の二代目を継いだ光圀は家督を頼重の次男綱條に譲り、自身の子頼常を高松藩主に据えた。こういった水戸本家と高松藩との子の入れ替えは何度か行われており、最後の将軍徳川慶喜は高松藩初代藩主の松平頼重直系の子孫である。 こうした高い格式だったため、正月には近隣の藩からの挨拶を受けるのが慣例だったと言う。 松平氏は入封当初より、高松城下に水道を引き(地下水を使っての上水道は日本初とされている。)、灌漑用に高松の真ん中を通っていた香東川の流れを西に変えたり溜池を造るなど水利の悪い讃岐の地を整備し、海岸線沿いを埋め立てて新田開発や塩田開発を行った。また、漆芸や陶器などの生産、講道館などの学問を奨励した。 藩からは寛政の三博士の1人とされる柴野栗山や平賀源内などの学者肌の人物が多く出ている。 歴代の藩主もまた学問や歌などに優れ、将軍に朱子学を講義したり天皇に歌を師事された藩主やその一門からも優れた人物が輩出されている。 茶道では千利休を祖とする三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の一つ武者小路千家を庇護し、現代でも武者小路千家の代替わりには高松藩主子孫に挨拶が行われている。 高松市内の名勝「栗林公園」は高松藩主が代々に渡って手を加えて完成付させた広大な敷地に整った松と5つの湖が備わった名園であり三名園よりも優れているとの評価もある。平成にはミシュランガイドも3ツ星を付けている。 また、琴平町の金毘羅大権現は御朱印地として高松藩からの庇護も受け、江戸時代には伊勢神宮、出雲大社と並んで一生のうちに一度は参詣したい神社として全国庶民の崇拝を受けた。 松平氏第5代藩主・頼恭は将軍吉宗の薬や農産物の国内生産の研究を奨励するとの方針に添う形で城下の栗林荘(現在の栗林公園)に薬草園を作らせた。ここには藩内の優秀な学者を招聘したがその中には平賀源内もいた(初代薬坊ではない)。また、この薬園初代薬坊(学長)の医師である池田玄丈に砂糖の研究を指示したがその研究は弟子の向山周慶によって実を結び、白糖の製造を可能にした。これにより塩・綿と並ぶ讃岐三白の一つである讃岐和三盆糖の製造技術が確立し、現在も香川県の名産品の一つとなっている。9代藩主頼恕は久米通賢を登用し、坂出の浜辺に日本最大級の塩田を開発した。江戸時代における高松藩での白砂糖と塩の生産量は全国一となっている。漆芸では玉楮 象谷 による象谷塗り、陶器では紀太里兵衛の里兵衛焼きなどが朝廷や他藩へ輸出される物販として著名となった。 幕末は宗家である水戸藩が尊皇に傾く中、溜詰という幕府の政治指導する立場にあり、しかも同じ溜間詰という関係から井伊直弼の娘弥千代を藩主・頼聰の正室としたため、苦しい立場に立たされた。 加えて13代将軍徳川家定の後継を巡る安政の将軍継嗣問題において、紀州徳川家の徳川慶福(後の14代将軍徳川家茂)を将軍継嗣に推した一派に井伊、会津松平などの溜詰のメンバーとして名を連ねることとなり、一橋派の本家の水戸家とも対立を深めることとなった。一橋派中心の徳川斉昭に蟄居を申し付けた側であるがこの斉昭が初代高松藩主頼重の直系であったことなど皮肉な結果となっている。この件で高松市と水戸市は不仲となっていたが昭和49年に友好都市を結んだ。 結局、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府方に就いたため、朝敵となった。高松藩の庇護を受けていた京都の興正寺は高松に使者を派遣し、責任者の処罰を行って新政府に謝罪することを勧めた。そこで、家老2名を切腹させて恭順の姿勢を示すことになり、藩主・頼聰も浄願寺にて謹慎、同様に前藩主松平頼胤も江戸にて謹慎した。一方、土佐藩を中心とする討伐軍は丸亀藩・多度津藩を従えて高松に向かっていたが、高松藩と縁戚である徳島藩が協力に消極的で、松山藩討伐にも兵力を割く必要があった土佐藩や整備されていない丸亀・多度津両藩では攻略困難と見込まれたところに高松藩が恭順の見通しであることが判明し、1月20日に高松城は無血開城されると、ただちに同城に入って接収を完了させた。興正寺などの取り成しによって2月には藩主・頼聰に上京・謝罪が命じられ、土佐藩も高松城を返還して撤退した。その結果、4月15日に新政府への軍資金12万両の献上と引換に宥免された。 ところが、この一連の動きに対する藩内の不満が高まり、明治2年(1869年)9月に尊王派の松崎渋右衛門が暗殺され、頼聰以下の藩首脳はこの事件を、松崎が新政府への反逆の企てが発覚したことによる自殺として届け出た。だが、松崎と知己である木戸孝允らはこれを疑い、弾正台に再調査を命じる。その結果、藩内保守派による殺害と判明し、藩主頼聰は明治4年(1871年)7月に閉門処分を命じられるなど、多くの藩士が処分された。その後間もなく、同年に廃藩置県により高松藩は高松県となるも幕末から明治初期の政府からの高松に対しての心象からか徳島や愛媛に統合され、独立した県とされることなく、結果として全国で一番最後に香川県として認められたのが1888年12月3日である。
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藩史
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伊勢亀山は戦国時代、織田信長、豊臣秀吉に仕えた関盛信が領していた。盛信の子・関一政は美濃多良に移封され、代わって豊臣家の家臣・岡本良勝が2万2000石で入る。良勝は、亀山城を築き、城下を発展させて検地を行なったことから確立しているといってよい。しかし慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いで西軍に与して改易された。 代わって東軍に与した関一政が、関ヶ原における功績で旧領復帰を許されて3万石で入る。一政は、亀山宿の整備や城郭の修築などに尽力した。しかし慶長15年(1610年)7月19日、伯耆黒坂藩へ移封され、8日後の7月27日に三河国作手藩より松平忠明が5万石で入る。慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣で豊臣家が滅ぼされると、直後の6月10日に忠明は摂津大坂藩に移封され、亀山藩は廃藩となり、その領地は四日市代官の水谷光勝や津藩領として支配された。 元和5年(1619年)9月29日、三河挙母藩より三宅康信が1万石で入る。康信は元和6年(1620年)8月に2000石の加増を受けて1万2000石の藩主となったが、第2代藩主・三宅康盛時代の寛永13年(1636年)5月18日、旧領へ戻された。 約1ヵ月後の6月23日、三河西尾藩より本多俊次が5万石で入る。俊次は、寛永14年(1637年)に領内のほぼ全域で検地を行ない、翌寛永15年(1638年)には代官・大庄屋制度を確立し、亀山城の修築を行なっている。しかし、慶安4年(1651年)4月4日に近江膳所藩へ移封となる。入れ替わりで石川憲之が5万石で入るが、寛文9年(1669年)2月25日に山城淀藩へ移封となる。 代わって下総関宿より板倉重常が5万石で入るが、第3代藩主・板倉重治時代の宝永7年(1710年)1月26日に志摩鳥羽藩へ移封される。入れ替わりで松平乗邑が6万石で入るが、享保2年(1717年)11月1日に山城淀藩へ移封となる。 再び板倉重治が戻ってきて、第2代藩主・板倉勝澄時代に板倉家は石川総慶と交代する形で延享元年(1744年)3月1日、備中松山藩へ移封と、藩主家の交替が激しい土地であり、藩主の長期間における支配が定着しなかったが、石川総慶が6万石で入ってようやく藩主家の支配が定着した。ちなみに、この石川家は徳川家康から豊臣秀吉に主君を替えたことで有名な石川数正系統の石川家ではなく、数正の叔父・石川家成系統の石川家である。ただし、血統としては大久保家から養子にきている。 第4代藩主・石川総純は米の専売や荒地における検地を行なって藩財政再建を目指したが、これに反対する百姓一揆が明和5年(1768年)に起こって改革は失敗した。第5代藩主・石川総博は寛政2年(1790年)に藩校・明倫堂(のち明倫館に改称)を創設した。第10代藩主・石川総禄は洋式軍備の導入や茶の栽培奨励などを行なっている。 明治2年(1869年)の版籍奉還で、最後の藩主・石川成之は藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で伊勢亀山藩は廃藩となり、亀山県、安濃津県を経て三重県に編入された。
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藩史
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下館は下総結城氏の家臣で、結城四天王のひとつ水谷氏が支配していた。水谷氏は正村(幡竜斎)の時代に全盛期を迎えた。宇都宮氏と争って勢力を拡大、豊臣氏の時代には主家をも凌ぐ存在となり、正式に結城氏から独立した。その跡を継いだ勝俊は、関ヶ原の戦いで西軍の石田三成に人質を取られかけるなど圧迫を受けたが、東軍に与したため戦後に所領を安堵された。勝俊の跡を継いだ水谷勝隆は城下町や社寺の建設、検地の実施などを行なって藩政の確立に努めたが、寛永16年(1639年)6月に備中成羽藩に移封となる。 代わって同年7月に水戸藩主徳川頼房の長男松平頼重が5万石で入る。頼重は城下町の整備や水谷氏の旧臣の登用、町年寄の設置などを行なって藩政を確立するが、寛永19年(1642年)2月に讃岐高松藩へ移封となり、下館藩は一時廃藩、幕府領となった。 寛文3年(1663年)7月、三河西尾藩より増山正弥が2万3,000石で入るが、元禄15年(1702年)9月1日に伊勢長島藩へ移封となる。代わって丹波亀山藩より若年寄の井上正岑が5万石で入るが、正岑は城地が狭く若年寄としてふさわしくない土地であるとして下館に入ることもなく、同年9月28日に常陸笠間藩へ移封となる。わずか1か月にも満たない藩治であった。その後、しばらくは再び幕府領となる。翌年1月9日、大名に列した中山氏一族の黒田直邦が1万5,000石で入る。宝永4年(1707年)に5,000石を加増された。享保17年(1732年)3月に上野沼田藩へ移封された。 代わって伊勢神戸藩より石川総茂が2万石で入り、以後、石川家の支配で明治時代を迎えた。 石川家の治世は9代130年の長期にわたって安定したため、下館は綿花・木綿の特産地として栄え、城下町も大いに繁栄した。しかし第4代藩主石川総弾の頃から大洪水・大火・大飢饉などの天災が相次いで藩財政は破綻寸前となり、農村も荒廃した。このため第8代藩主石川総貨は二宮尊徳を招聘し、報徳仕法による藩政改革に着手している。 最後の藩主石川総管は幕末期の幕府の中で若年寄・陸軍奉行を務め、天誅組の反乱鎮圧にも貢献した。しかし総管は新政府寄りの態度を示したため、慶応4年(1868年)4月の戊辰戦争で旧幕府軍に攻撃されて下館の地を追われた。翌年、版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により下館藩は廃藩となり、下館県となった。
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[全画面表示] 関連地図(千葉県館山市付近) 慶応4年(1868年)5月、徳川宗家当主徳川家達は新政府から駿府藩主として認められ、70万石の領主として駿河・遠江に入ることとなった。これに伴い、駿河田中藩4万石の藩主であった本多正訥(まさもり)に対して、7月に新政府より安房国への所替が命じられた。新領地は安房国3郡(安房郡・朝夷郡・平郡)内162ヶ村、上総国天羽郡内15ヶ村の計177ヶ村4万石であった。安房への移転にあたり、兵学者である藩士恩田仰岳の選定によって、軍事的な観点から白浜に近い滝口の要害の地に陣屋(長尾陣屋、あるいは長尾城)を建設し、藩庁を置くこととなった。ここに長尾藩が立藩する。 安房国での仮役所は朝夷郡白浜村(南房総市白浜町白浜)の法界寺に置かれた。急な移転命令であったために移転先の準備は整わず、藩主正訥や藩士の多くはしばらくのあいだ藤枝宿の寺院に止宿した。藩士の安房移住が本格化するのは、翌明治2年(1869年)からである。 明治2年(1869年)6月、正訥は版籍奉還を行なって藩知事となる。この年の夏、台風によって建設中の長尾陣屋が倒壊した。長尾への陣屋建設には土地の狭隘さや交通の不便などの面から当初から反対論も強かったが、陣屋倒壊によって恩田仰岳は譴責を受け、反対論が主導権を握った。明治3年(1870年)1月以降、北条村鶴ヶ谷にあった海防陣屋(鶴ヶ谷陣屋、北条陣屋とも)を改修し、新たな藩庁や藩士居住地の建設が進められた。5月には藩知事正訥が北条陣屋に着任、11月には長尾から北条へ藩庁が完全に移転した。 この間の明治2年(1869年)9月、田中藩時代の藩校「日知館」を引き継ぐ藩立学校を白浜村に設置し、北条村と北朝夷村(現・南房総市千倉町北朝夷)に分校を設けた。長尾藩「日知館」では藩士子弟の就学を義務とするとともに、希望する地元住民にも門戸を開いていた。 明治3年(1870年)12月に正訥は隠居し、後を甥の本多正憲が継いだ。翌明治4年(1871年)7月、廃藩置県により長尾藩は廃藩となって長尾県となる。同年11月、長尾県は木更津県に編入され、のちに千葉県に組み込まれた。なお、北条陣屋は明治7年(1874年)まで県の出張所として使用された。 明治17年(1884年)の華族令公布に伴い、正憲は子爵に叙せられた。
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藩史
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西尾城は、徳川家康が今川氏から自立した永禄4年(1561年)、家臣の酒井正親を城主に任命して治めさせた地である。なお、正親は徳川家臣団の中で家康から初めて城主に任命された人物である。 関ヶ原の戦い後、豊臣氏恩顧の大名は家康によって西国に移封され、慶長6年(1601年)2月に下総小篠から本多康俊が2万石で入った。これが西尾藩の立藩である。元和3年(1617年)10月、康俊は近江膳所藩に移封された。 代わって下野板橋藩から松平成重が2万石で入った。しかし元和7年(1621年)7月に丹波亀山藩に移封される。 そのため、父・康俊の跡を継いで近江膳所藩の第2代藩主となっていた本多俊次が3万5,000石で西尾藩に入ったが、寛永13年(1636年)6月23日に伊勢亀山藩に移封された。これにより西尾は廃藩、幕府領となった。 寛永15年(1638年)4月24日、下野山川藩から太田資宗が3万5,000石で入る。資宗は西尾城と城下町の改築に尽力したが、完成直前の寛永21年(1644年)2月28日に遠江浜松藩に移封された。このため、西尾藩は再び廃藩となった。 正保2年(1646年)6月23日、上野安中藩から井伊直好が3万5,000石で入る。直好は井伊直政の孫に当たり、西尾城の改築を完成させた後の万治2年(1659年)1月28日に遠江掛川藩に移封された。 直後の2月3日、相模国内から増山正利が2万石で入る。正利の姉・お蘭(お楽の方)は第4代将軍徳川家綱の生母で、正利は家綱の教育係を行なった人物であり、その縁から家綱によって大名に取り立てられた。第2代藩主増山正弥は寛文3年(1663年)7月に常陸下館藩に移封された。 代わって、下野国内から土井利長が2万3,000石で入る。利長は江戸幕府の老中・大老として前期幕政を主導した土井利勝の三男である。第2代藩主土井利意は税制改革・農政に尽力した善政を行なった名君といわれる。第4代藩主土井利信時代の延享4年(1747年)2月11日に三河刈谷藩に移封された。入れ替わる形で三浦義理が2万3,000石で入る。しかし第2代藩主三浦明次時代の明和元年(1764年)6月21日に美作勝山藩に移封される。 このように、江戸時代前期の西尾藩は転封が多く、入封しても十数年で再度移封されるという状況であった。出羽山形藩より松平乗祐が6万石で入封して以降、この状況はようやく解消された。乗祐の家は十八松平家の一つ大給松平家の宗家に当たり、6万石の表高であったが、西尾のみでは石高が足らず、越前国内にも飛び地として所領が与えられた。また松平一門の名門として、摂津尼崎藩主桜井松平家と共に諸大夫の筆頭として殿中での拝謁では従五位下の大名の中で最初に拝謁することになっており、以降の歴代藩主は老中として幕政に関与するものが多かった。ただし、幕閣入りしたため、松平家の財政は困窮することが多かった。 第3代藩主松平乗寛は松平定信の寛政の改革に参与し、幕政改革に従って藩政改革も行ない、幕府機構の取り入れを行なっている。第4代藩主松平乗全は井伊直弼の安政の大獄で井伊派として一橋派の処分に務めた。 第5代藩主松平乗秩時代の慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、佐幕派と尊王派による大論争が行なわれて藩が分裂の危機に陥ったが、下級武士層による尊王派が大局を占め、尾張藩に従って新政府に与し、存続に苦慮している。明治2年(1869年)の版籍奉還で乗鉄は西尾藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で藩知事を免官され、西尾藩も廃藩となった。 西尾藩は山本周五郎作『町奉行日記』(市川崑により『どら平太』として映画化された)の舞台となった藩のモデルと言われる。
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[全画面表示] 関連地図(千葉県鴨川市付近) 江戸時代初頭、安房一国は戦国大名に起源を持つ館山藩里見家が治めていたが、慶長19年(1614年)に改易処分を受けた。江戸幕府は安房国の再検地を元和4年(1618年)に終え、以後は安房国を大身旗本や小大名に配分する。 元和6年(1620年)9月、下総国生実で5000石を知行していた旗本西郷正員は、安房国で5000石の加増を受けて1万石の大名となり、東条に陣屋を構えて東条藩を立藩した。東条藩は、館山藩改易以後はじめて安房国に藩庁を置いて成立した藩である。なお、正員は館山藩改易に際して、城地の収公の任を担った一人であった。藩領は朝夷郡19ヵ村6894石、長狭郡4ヵ村3106石の計1万石。 正員は寛永15年(1638年)11月14日に死去し、跡を子の延員が継いだ。延員は名君で、領民にも慕われていたと言われているが、後継には恵まれなかった。元禄3年(1690年)12月25日、家督を養嗣子の寿員に譲って隠居したが、間もなく幕府から不行状を理由に蟄居処分となった。 徳川綱吉の側近として仕えていた寿員は、元禄5年(1692年)2月7日、下野国上田(かみだ)に移封され(下野上田藩)、東条藩は廃藩となった。 なお、下野上田藩も間もなく所領半減の処分を受けて廃藩となっており、寿員は5000石の交代寄合として生涯を閉じている。
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「飯野陣屋#歴史」も参照 慶安元年(1648年)6月26日、7000石を知行していた旗本の保科正貞が大坂定番となって摂津国有馬郡・河辺郡・能勢郡・豊嶋郡などにおいて1万石を加増されたことから、1万7000石の大名として飯野藩を立藩した。正貞は初めは兄である保科正光の養子となっていたが、兄が2代将軍・徳川秀忠の落胤(後の保科正之)を秘かに養子として迎えることになったために一度は廃嫡された。しかし正之が秀忠の子として認められると正貞が改めて保科家の家督を相続することになったのである。正貞は寛文元年(1661年)11月1日に死去し、跡を保科正景が継いだ。このとき、正景は正貞の養子だった保科正英に2000石を分与している。延宝5年(1677年)7月7日、正景は大坂定番になったことから丹波国天田郡内に5000石を加増された。その後も歴代藩主の多くが大坂定番を務めた。特に最後の藩主・保科正益は大坂定番を務めた後の慶応2年(1866年)5月26日に若年寄にまで栄進し、第二次長州征伐では征長軍の指揮を務めた。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、正益は新政府側に与する代わりに徳川慶喜の助命を求めて入京しようとしたが、親戚に当たる会津藩が徹底抗戦の構えを取ったため、正益も連座して謹慎処分となった。これに対して正益は幕府側に与した家臣を処刑して罪を許されている。翌年版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で飯野藩は廃藩、その後飯野県、木更津県を経て、千葉県に編入された。
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藩史
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五井 木更津 千葉 関連地図 藩主有馬家(摂津有馬氏)は、筑後久留米藩主家の分家であり、久留米藩初代藩主有馬豊氏の三男有馬頼次を祖とする。頼次の子孫は紀州徳川家に代々仕え、徳川吉宗の時に側近を務めた有馬氏倫が大名に取り立てられ、伊勢西条藩初代藩主となった。西条藩(南林崎藩とも称する)は、伊勢国・上総国・下野国にまたがって1万石を領する定府の大名であった。 天明元年(1781年)11月28日、西条藩第5代藩主有馬氏恕は上総国市原郡五井に本拠を移し、有馬家は五井藩となった。有馬家は定府が解かれて参勤交代が命じられ、翌天明2年(1782年)2月には初めての藩主領国入りが行われている。しかし間もなく、氏恕は天明3年(1783年)、23歳で死去した。 氏恕の跡は末期養子の有馬氏保(越後長岡藩主牧野忠寛の次男)が継いだが、寛政2年(1790年)に29歳で死去した。嗣子はなく、有馬久保(伊勢八田藩主加納久周の次男)が娘婿として迎えられる形で跡を継いだ。久保以後は嫡男への家督相続が行われるが、幼少で短命の藩主が続く。 第5代藩主有馬氏郁の代、天保13年(1842年)4月17日、下野吹上藩に転封となったため、五井藩は廃藩となった。 現在、五井陣屋跡には、JR内房線・小湊鉄道線五井駅が建てられている。
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藩史
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鶴牧 (椎津) 五井 木更津 千葉 関連地図 安房国北条藩主であった水野忠韶は文政10年(1827年)5月19日、上総国市原・望陀両郡に移封されたことから、鶴牧藩が立藩した。忠韶は市原郡椎津村1万7000坪の城地に陣屋を建設する。城主格の大名であったことから、この陣屋は鶴牧城(鶴牧陣屋)と名づけられた。しかし忠韶は翌年5月27日に68歳で死去し、跡を養嗣子の水野忠実(酒井忠徳の次男)が継いだ。忠実は奏者番・西の丸若年寄などを歴任し、藩政においては藩財政再建のために倹約などの諸政策を講じたが、あまり効果はなかった。天保13年(1842年)1月19日に忠実は死去し、跡を嫡男の水野忠順が継いだ。明治元年(1868年)4月、戊辰戦争のときに鶴牧藩内の市原郡五井村で五井村戦争が起こる。この不手際から同年10月、安房国長狭や上総国夷隅・市原・埴生・長柄・山辺などの所領を上知され、代わって上総国市原・望陀両郡に新たな所領を与えられた。翌年の版籍奉還で忠順は藩知事となった。そして忠順は官制・軍制改革を主とした藩政改革を行なったが、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で鶴牧藩は廃藩となった。
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藩史
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紀伊国は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、甲斐国主であった浅野幸長に与えられ、外様の浅野家の治める紀州藩が成立した。元和5年(1619年)の福島正則改易に伴い浅野家が安芸国・広島藩に移されると、それまで駿府藩主だった徳川家康の十男・徳川頼宣が浅野の旧領に南伊勢を加えた55万5千石で入部、紀州徳川家の治める親藩の紀州藩が成立した。 頼宣は浪人を多く召抱え、慶安4年(1651年)の慶安の変ではその首謀者・由井正雪との関係を幕府に疑われたこともあった。これは将軍家に対する対抗心からともいわれるが詳細は不明。頼宣の孫である第3代藩主の綱教は第5代将軍・徳川綱吉の長女・鶴姫を娶ると、子のない綱吉の後継者に擬せられるようになったが早世した。その後紆余曲折を経て、享保元年(1716年)に綱教の弟で第5代藩主の吉宗が将軍家を相続して第8代将軍となると、200名を超える紀州藩士が吉宗に供奉して江戸に上り幕臣に組み込まれた。 吉宗を出した後に支藩から宗家を相続した第6代藩主の宗直は、石高の57%を損失した享保飢饉による財政難を2万両の公金拝借で切り抜けたが、以後はこの財政赤字を公金で繕うやりくりが踏襲された。和歌山藩は将軍家に近いことから財政的に幕府への依存を深め、これが一方で幕府財政を圧迫する要因となった。 第11代藩主の斉順は天明年間の拝借金が棄損となり、幕府の大坂蔵詰米より新たに2万俵を借用した。拝借金残金は4万5千両に達していた。 第13代藩主の慶福は第11代将軍・徳川家斉の孫で、安政5年(1858年)に子のない第13代将軍・家定の後将軍家を相続して第14代将軍家茂となった。第8代将軍吉宗以後の歴代の将軍はいずれも紀州藩およびその連枝である一橋徳川家に連なる者で占められることになった。 明治期には廃藩置県により和歌山県になるが、紀伊国の東部と伊勢国の紀州藩領は三重県に編入された。
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藩史
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藩主家は織田氏である。明和4年(1767年)8月、上野国小幡藩主織田信邦が明和事件に連座したため、信邦は幕命により強制隠居の上、蟄居を命じられた。家督は弟の信浮が相続し、小幡から高畠への移封を命じられた。封地としては、上述の高畠の六村と天童など村山郡の一部、信夫郡の一部。なお、この時にそれまでの織田氏の国主格などの特権も全て剥奪され無城(陣屋)大名に降格された。信浮をはじめ藩士は陣屋が藩庁として整うまで、役宅などに在住するなど上杉氏の庇護を受けた。 高畠陣屋は、高畠城の縄張り内に置いたが、のち糠野目に移された。旧陣屋は破却はされず米沢藩が管理した。 天明2年(1782年)からの天明の大飢饉で藩財政が悪化し、家臣団ですら食うに困って織田家から辞した者も少なくなく、藩主は幕閣に対し小幡への復帰を嘆願したが、叶えられなかった。文化7年(1810年)には陣屋が焼失し、再び上杉氏の援助を受けた。 文政9年(1826年)には2度目の焼失で、織田氏はまた高畠城内の旧陣屋に戻り、糠野目の陣屋は再建されなかった。 第3代藩主・織田信美は所領の大部分が天童を中心とした村山郡に集中していることを考慮して、居館を高畠陣屋から天童に移そうとした。文政11年(1828年)5月に幕府から移転を許され、天保元年(1830年)に陣屋を天童に移した。このため、以後は「天童藩」となった。
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藩史
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土佐藩の領域は戦国時代末期には長宗我部家が統治していたが、長宗我部盛親は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与して改易となった。この合戦において徳川家に味方した遠江掛川城主・山内一豊が、新たに土佐国20万2600石を与えられた。以降、明治時代初頭まで山内家が治めた。 当初、「一領具足」と呼ばれた半農半兵の長宗我部家旧臣が、山内氏に馴染まずに反乱を繰り返したため、山内家は藩内の要衝に重臣を配して反乱に備えた。中村の山内康豊(2万石)を始め、佐川に深尾重良(1万石)、宿毛に山内可氏(7000石)、窪川に山内一吉(5000石)、本山に山内一照(1300石)、安芸に五藤為重(1100石)を配している。 当初、一豊は長宗我部家(浦戸藩)の旧城である浦戸城に入城したが、城下町を開くには狭かったため、現在の高知市中心部に高知城と城下町の建設を行った。藩政が確立したのは2代山内忠義の時代で、忠義は野中兼山を登用して新田開発など殖産興業に努めたが、兼山の強引な施策は政敵の恨みを買って失脚する。 藩財政は江戸時代中期頃までは比較的安定的に推移したが、宝暦期(1751年 - 1764年)以降、一揆、農民の他領への逃散など藩政には動揺が見られた。9代・山内豊雍による質素倹約を基本とする藩政改革(天明の改革)が行われ、藩政はやや立ち直った。さらに13代・山内豊熈は「おこぜ組」と呼ばれる馬渕嘉平を中心とする改革派を起用して、藩政改革に乗り出したが藩閥派の敵対により失敗した。 幕末には、15代豊信(容堂)が吉田東洋を起用して改革を断行した。東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い、武市瑞山を中心とした土佐勤王党によって暗殺された。後に勤王党は実権を回復した容堂(豊信)の報復を受け、瑞山の切腹や党員が処刑されるなど弾圧解散された。なお、上士勤王派から板垣退助や、東洋の門下より後藤象二郎や岩崎弥太郎ら明治時代を代表する人物を、また、郷士である坂本龍馬や中岡慎太郎など優れた人材が輩出された。坂本や後藤を通じて容堂から15代将軍徳川慶喜へ献策された大政奉還により、江戸幕府の歴史が閉じられた。土佐藩は薩長土肥の一角をなし、時代転換の大きな役割を演じた。 明治4年(1871年)、廃藩置県により高知県となった。山内氏は明治17年(1884年)の華族令により侯爵に列せられた。
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藩史
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戦国時代、津和野は大内氏、毛利氏に仕えていた豪族の吉見氏が支配していた。そのため、関ヶ原の戦いまでは毛利領であった。
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戦国時代、烏山は那須氏の一門である那須資晴が治めていた。天正18年(1590年)、資晴は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、改易となる。子の資景は那須藩を立藩する。天正19年(1591年)、成田氏長が2万石で烏山に入部する。これが烏山藩の立藩である。氏長は後北条氏の家臣で、小田原征伐では小田原城に籠もっていたが、北条氏滅亡後に秀吉から召し出された。氏長の死後、家督は弟の成田泰親(長忠)が継いだ。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで長忠は東軍に与し、在国して上杉景勝に備えた戦功を評されて、1万7000石を加増された。大坂の陣でも徳川方として参戦し、武功を挙げたが、元和2年(1616年)12月18日、長忠が死去した後に家督争いが起こり、2万7000石の減封処分となる。家督は長忠の次男の成田泰之が継いだ。泰之は元和8年(1622年)11月8日に死去し、成田家では再び家督をめぐっての騒動が起こり、改易となる。 元和9年(1623年)3月15日、常陸国小張藩から松下重綱が2万800石で入る。寛永4年(1627年)3月14日に陸奥国二本松藩に移封となる。代わって下野国真岡藩から堀親良が2万5000石で入る。親良は寛永14年(1637年)5月13日に死去し、跡を堀親昌が継いだ。親昌は領内で検地を行い、烏山城の改修を行うなどして藩政の基盤を固めた。 寛文12年(1672年)閏6月1日、親昌は信濃国飯田藩に移封となり、代わって京都所司代や老中職を歴任した板倉重矩が入った。重矩は家臣の地方知行制度を廃止して村請制を制定した。寛文13年(1673年)5月29日に重矩が死去した後、その跡を継いだ板倉重種も烏山城の拡張工事、城下町の区画整備、宗門改めなどを行い、藩政の基礎を固めた。延宝9年(1681年)2月25日、武蔵国岩槻藩に移封となる。 代わって下野国那須藩から那須資弥が2万石で入る。90年ぶりの那須氏の旧領復帰となった。貞享4年(1687年)6月25日、資弥が死去し、その跡を継いだ養子の那須資徳のときに家督争いが起こり、同年10月14日に那須氏は改易となった(烏山騒動)。代わって河内国・摂津国・山城国などに所領を領していた永井直敬が3万石で入った。元禄15年(1702年)9月1日、播磨国赤穂藩の浅野氏が赤穂騒動で取り潰された後を受けて、直敬は赤穂藩に移封となる。 代わって若年寄であり、上総国大多喜藩主であった稲垣重富が2万5000石で入る。宝永7年(1710年)4月17日、重富は死去し、跡を稲垣昭賢が継いだ。享保10年(1725年)10月18日、昭賢は志摩国鳥羽藩へ移封となる。 若年寄で近江国内に1万5000石を領していた大久保常春が2万石で入り、以降は大久保家が定着した。後に常春は老中に栄進したため、役料として1万石を加増された。常春は領民と家臣に対して法律を制定することで藩政を固めた。しかし第3代藩主大久保忠卿の治世末期から農村荒廃化や財政難が深刻化し、第4代藩主大久保忠喜は倹約令、荒地改めなどによる藩政改革を行ったが、効果はなかった。第5代藩主大久保忠成も農村支配の強化、結婚奨励政策などによる「厳法」と言われる藩政改革に着手したが、やはり効果はなかった。第6代藩主大久保忠保は菅谷八郎右衛門を家老に登用し、さらに二宮尊徳から報徳仕法などを学ぶことで藩政改革を目指した。天保10年(1839年)12月17日 復興事業を先導していた菅谷八郎右衛門、辞職願提出、復興事業は中断する。菅谷は同25日に隠居を命ぜられる。翌天保11年(1840年)12月11日、菅谷は復興事業反対派に圧される形で失脚し、領外追放となる。その後、帰藩を許され復興事業再開のため、200石で家老職に復帰する。弘化2年(1845年)3月、菅谷は隠居、復興事業には3年間復帰していたが、結局挫折した(嘉永5年(1852年)1月9日死去)。 幕末期は藩の領内が荒廃して確立していなかったことなどもあり、あまり目立ったことはなかった。明治2年(1869年)に版籍奉還が行われ、明治4年(1871年)7月に廃藩置県で烏山藩は廃藩となる。その後烏山県となり、同年11月に宇都宮県に、また相模国内の管轄区域は神奈川県、足柄県に編入された。
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関ヶ原で東軍に与した有馬豊氏は、本戦で後ろ揃えを務めたことで、遠江横須賀3万石から福知山6万石に加増移封されて福知山藩が立藩した。慶長7年(1602年)に豊氏の父・有馬則頼が死去すると、豊氏は父が摂津三田に知行していた2万石も併せて相続することとなり、福知山で都合8万石の大名となった。 その後、大坂の陣においても徳川方として武功を挙げたため、元和6年(1620年)閏12月に20万石に加増の上で筑後久留米藩に移封された。 その後は伏見奉行の小堀政一がしばらくは統治を行なう。元和7年(1621年)8月、丹波亀山藩から岡部長盛が5万石で入るが、寛永元年(1624年)9月に美濃大垣藩に移される。替わって摂津中島藩から稲葉紀通が4万5700石で入るが、慶安元年(1648年)8月に改易となった。その後、半年ほどは公儀御料として幕府が直轄したが、慶安2年(1649年)2月28日に三河刈谷藩から松平忠房が4万5900石で入る。これも寛文9年(1669年)6月8日には肥前島原藩に7万石で加増移封となり、替わって常陸土浦藩から朽木稙昌が3万2000石で入り、以後は朽木氏13代の支配で藩政が安定した。 明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で福知山藩は廃藩となり、福知山県となる。同年10月2日、豊岡県となり、明治9年(1876年)8月21日には京都府に編入されることとなった。
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島原は戦国時代、有馬氏が治めていた。キリシタン大名の有馬晴信は関ヶ原の戦いで東軍に与して本領を安堵されたが、慶長17年(1612年)、岡本大八事件により、甲斐国都留に幽閉の上、切腹に処された。しかし子の直純は、父の晴信と疎遠で幕府とも親しかったことから、事件の累が及ばず遺領を嗣いだ。直純は慶長19年(1614年)、日向国県藩(延岡藩)に加増の上、転封となった。 その後しばらく幕府領となったが、やがて元和2年(1616年)、松倉重政が大和国五条藩より4万石で入る。松倉氏は戦国時代、筒井順慶の家臣として仕えた。特に重政の父・松倉重信は島清興と共に「右近左近」と称されるほどの名将であったが、重政は父に似ず暗愚で、領民に苛酷な政治を敷き、キリシタンを厳しく弾圧した。また、彼の代に島原城が築かれ、政庁は日野江城からこちらに移った。 そして重政の後を継いだ勝家は父以上の苛酷な政治を敷き、キリシタンを厳しく取り締まった。勝家の残酷さを示すものとして、年貢を払えない者には蓑を着せて生きたまま火あぶりに処すという、いわゆる「蓑踊り」という処刑方法があったという。また、年貢を払えない者の子女を捕らえて処刑したり、幕府の歓心を得るために4万石の取立てを10万石と申告するなど、島原はまさに地獄そのものだったという。この苛酷な勝家の政治に遂に領民の怒りが爆発し、寛永14年(1637年)に天草四郎を総大将として有名な島原の乱が起こる。領民の怒りは凄まじく、松倉軍の中にも領民側に寝返る者が現われたため、松倉軍単独ではとても鎮圧できなかった。ここに至って江戸の幕府も事態を重く見て、板倉重昌を総大将とした鎮定軍を派遣するが、重昌は功にあせって戦死してしまう。代わって「知恵伊豆」で有名な老中・松平信綱が総大将となる。信綱は九州諸大名およそ12万を総動員して、原城を兵糧攻めにした。この中には戦国時代の古強者・立花宗茂らも加わっている。反乱軍も兵糧攻めにはかなわず、3ヵ月後に反乱は鎮圧。四郎をはじめとする反乱軍は皆殺しとされてしまった。その一方、領主の松倉勝家も苛酷な政治を敷いて領民に反乱を引き起こさせた責任を厳しく問われ、乱の鎮圧後に斬首刑に処された。勝家が大名の身分でありながら武士としての名誉の刑である切腹さえも許されず一介の罪人として斬首刑に処された点からも、幕府が勝家の罪をいかに重く見ていたかがうかがえる。 松倉勝家の後、徳川氏譜代の家臣・高力忠房が遠江国浜松藩より4万石で入る。忠房は乱で荒廃した島原地方を復興することに尽力した。そして巧みな農業政策や植民奨励政策などを行なって、島原の復興を成し遂げたのである。ちなみに現在、島原に多くの方言があるのは、忠房が各国の武士の次男・三男や農民などの植民を奨励して、様々な国の人々が島原に土着したためと言われている。しかし忠房の後を継いだ隆長は藩の体制確立に躍起になったためか失政が多く、幕府より咎を受け寛文8年(1668年)に改易となった。 代わって丹波国福知山藩より深溝松平氏の松平忠房が6万5000石で入る。松平氏は5代にわたって島原を支配したが、寛延2年(1747年)に下野国宇都宮藩の戸田忠盈が7万7000石で入り、入れ替わりで松平氏は宇都宮へ移封。戸田氏は2代続いたが、安永3年(1774年)に宇都宮へ移封されていた松平氏が6万5000石で再び戻ってくる。戸田氏も入れ替わりで宇都宮へ戻る。以後、松平氏が8代にわたって支配し、明治4年(1871年)の廃藩置県を迎え島原県となった。その後、長崎県に編入された。 島原の乱の教訓からか、松倉氏の後に入った高力・松平・戸田の3氏はいずれも、徳川氏譜代の家臣である。なお、島原は気候温暖であるが火山地帯で土地がやせており、実際の年貢の収穫高は表高よりも少なかったと言われている。
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藩史
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白河の地は、古代においては白河の関が設けられ、奥羽地方への出入り口として要衝の地となっていた。江戸時代になっても白河藩の締める地位は奥羽地方の外様大名の抑えであり、初代の丹羽氏を除いては有力な親藩・譜代大名が頻繁に入れ替わった。三方領知替えが3度も行われた藩でもある。 戦国時代後期からは一時会津藩領となった。 江戸時代初頭の寛永4年(1627年)、陸奥国棚倉藩(福島県東白川郡棚倉町)より丹羽長重が10万石余で入り、白河藩が成立する。長重は白河城とその城下町を建設した。寛永20年(1643年)、第2代藩主・光重のとき、丹羽氏は陸奥国二本松藩に転封となった。 同年、上野国館林藩より榊原忠次が14万石で入部した。忠次は母が徳川家康の姪にあたることから一代に限って松平姓を許されていた。慶安2年(1649年)、播磨国姫路藩に転封となる。 替わって越後国村上藩より本多忠義が12万石で入部する。忠義は新田開発に力を注いで実高1万5千石を加え、慶安3年から4年(1650年 – 1651年)には検地を行ってさらに実高3万7千石を加えた。さらに付加税の別俵を徴して増収に努めたが、年貢増に喘ぐ領民が反発、減免を求めて幕府への直訴を招いた。第2代藩主の忠平のとき、天和元年(1681年)に下野国宇都宮藩へ転封となった。 入れ替わりに同地より奥平松平家の松平忠弘が15万石で入部する。病に伏した松平忠弘は、家老・奥平金弥と黒屋数馬の対立を治めきれず、元禄5年(1692年)、お家騒動のため藩主閉門の上、出羽国山形藩に転封となった。忠弘は隠居したが、後を継いだ孫の忠雅は減封のみならず程なく備後国福山藩・伊勢国桑名藩へと次々に転封を命じられるなど厳しい処分となった。 入れ替わりに同地より越前松平家の松平直矩が15万石で入部した。苦しい藩財政の中、家臣の禄高を減じるなど財政改革を断行したが、これに反対する土岐派により中断を余儀なくされた。享保5年(1720年)には土岐派が進めた強引な増税が大規模な農民一揆を引き起こした。第3代藩主・義知は目安箱を設置して藩政改革に努めたが、寛保元年(1741年)に姫路藩へ転封となった。 替わって越後国高田藩より久松松平家の松平定賢が、高田藩領だった越後国柏崎の所領と共に都合11万石で入部する。この久松松平家は徳川家康の異父弟久松定勝の三男・定綱の系統であるが、第2代藩主の定邦の跡に御三卿田安徳川家初代当主・徳川宗武の七男が入った。これが後に老中首座に進み寛政の改革を行なった第3代藩主・定信である。文政6年(1823年)、次の定永のときに久松松平家は旧領の伊勢国桑名藩に転封となった。 替わって武蔵国忍藩より阿部正権が10万石で入部する。以後は幕末まで阿部家が8代44年間在封した。幕末に分家の旗本から本家を相続して第7代藩主となった正外は間もなく老中となり、攘夷派の反対を押し切って兵庫開港を決定したが、結果的にこれが仇となって老中を罷免され、4万石を減封された。慶応2年(1866年)、第8代藩主の正静のとき棚倉藩に転封、白河藩領は二本松藩の預かり地となったため、戊辰戦争時は藩主不在で係争の地となり、白河城は戦火によって大半を焼失した。慶応4年(1868年)2月、正静は白河藩に復帰したが、同じ年の明治元年12月、再び棚倉藩に転封となり白河藩は廃藩となった。以後天領(天皇御料地)となり、明治2年(1869年)8月に白河県が設置された。明治4年(1871年)7月の廃藩置県をはさんで同年11月に二本松県となり、その後に福島県へ編入された。
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藩史
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阿部正勝は、徳川家康が織田家や今川家で人質となっていた頃から仕えていた譜代の家臣で、家康が関東に入部すると武蔵国足立郡鳩ヶ谷などで5000石を与えられた。鳩ヶ谷は鎌倉街道の要衝であった町で、江戸時代には日光御成道の鳩ヶ谷宿となる。 慶長5年(1600年)4月7日、正勝は大坂で死去し、跡を子の阿部正次が継いだ。正次は徳川秀忠のもとで御書院番頭を務め、会津征伐にも供奉して宇都宮に至っているが(なお、会津征伐に赴く家康・秀忠父子は鳩ヶ谷で1泊している)、関ヶ原の戦いでは家康に従っている。戦後に相模国高座郡一宮(現在の神奈川県高座郡寒川町一之宮付近)に5000石を与えられ、1万石を領して大名に列した。『寛政重修諸家譜』によれば居所は鳩ヶ谷とされており、ここに鳩ヶ谷藩が立藩する。なお、鳩ヶ谷の陣屋の所在地ははっきりしておらず、一説に法性寺の境内(現在の埼玉県川口市桜町)であるという。 慶長15年(1610年)、下野国都賀郡鹿沼領内で5000石を加増された。その後、正次は大番頭、伏見城番などを歴任し、大坂の陣に従軍して戦功を挙げた。元和2年(1616年)、大坂の陣での功績を理由として、下野鹿沼郡内で7000石を加増(合計2万2000石)。元和3年(1617年)9月、8000石を加増の上で上総国大多喜藩へ移された。 鳩ヶ谷藩は廃藩となり、その所領は幕府領となって代官・伊奈氏の支配地となった。なお、阿部正次はその後数度の加増・転封を経て、最終的に岩槻藩8万6000石の藩主となった。
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藩史
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藩祖は土方雄久の長男・土方雄氏である。雄氏は織田信雄、豊臣家に仕えて伊勢菰野に1万石を領していたが、慶長4年(1599年)に徳川家康と本多正信の主従が画策した「幻の家康暗殺事件」の嫌疑をかけられて所領を没収され、常陸国太田に追放となった。しかし関ヶ原の戦い直前に赦免され、雄氏は伊勢・近江国内に1万2000石の所領を与えられて菰野陣屋を構え、菰野藩を立藩した。第2代藩主・土方雄高は陣屋と城下町を建設し、商工業者を招いて新たに東町・河原町を新設する。また、藩の体制を整備して藩政の基礎を固めた。 しかし以後の藩主が財政において放漫だった結果、菰野藩の財政は逼迫する。このような状況を見た第7代藩主・土方雄年は保守的な家臣団を処罰して緩んだ綱紀の引き締めを図ったが、大坂や駿府の加番勤務、藩内における凶作などの天災から、藩財政は悪化の一途をたどった。第9代藩主・土方義苗は「臨時準備積立法」を制定して年間225俵の米を1割2分の利で13年間も積み立てた。さらに質素倹約や経費節減、灌漑工事などを積極的に行なって財政再建を成し遂げ、文化的には藩校・麗沢館を創設するなどした菰野藩中興の名君であった。第10代藩主・土方雄興のとき、佐々木惣吉が稲の品質改良に務め、種関取米の栽培に見事成功した。また、紅屋善左衛門が現れて菰野茶として売出しをはじめ、嘉永年間には大谷九左衛門が第11代藩主・土方雄嘉の許可を得て、茶園を建設した。 明治4年(1871年)、廃藩置県により廃藩となって菰野県、安濃津県となり、翌年に三重県に編入された。 年貢の取立てが比較的緩やかだったため、明治維新まで一揆がなかった珍しい藩である。
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藩史
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織田信長の弟で茶人として有名な織田有楽(長益)は、関ヶ原の戦いでは東軍に与して戦功を挙げたが、その後は豊臣秀頼の大叔父に当たるということから豊臣氏の家臣となっていた。ただし、これには徳川氏の間諜として豊臣氏に潜り込んでいたという説もある。しかし大坂冬の陣では豊臣氏に与していたため、豊臣氏滅亡後に徳川氏に釈明する意思を表すために、有楽は3万石の所領のうち、1万石を自分の隠居料(味舌藩)に、残りの1万石ずつをそれぞれ四男の長政と五男の尚長に分与して相続させた。この四男・長政の系統が芝村藩、五男・尚長の系統が柳本藩としてそれぞれ存続することとなる。 藩政の基礎は初代藩主・長政の頃に固められた。第4代藩主・織田長清の頃には長清自身が優れた文化人であったことも影響して藩校・遷喬館が設立され、藩士に文武が奨励され、さらに長清によって織田氏や信長の記録である『織田真記』15巻が編纂されるなど、芝村藩は全盛期を迎えた。長清は陣屋を戒重から岩田に移そうと願い出て宝永元年(1704年)4月11日に認められたが、しかし長清の治世末期頃から財政悪化が表面化し、実現しなかった。正徳3年(1713年)9月27日に岩田村を芝村に改めたのち、芝村陣屋(桜井市織田・現在の市立織田小学校)に移転したのは、第7代藩主・織田輔宜の代である延享2年(1745年)閏12月12日のことである。ちなみに長清以来の歴代藩主が陣屋の移転にこだわったのは、戒重が年貢収納に不便な土地だったのに対し、芝村(岩田村)が藩領の中心地で何かと便利だったためである。 ちなみに第7代藩主・輔宜の頃から幕命によって幕府領の預かりを任されるようになった。延享3年(1746年)には預かり地が9万石近くに達し、第8代藩主・織田長教の代になると9万3430石を任されるようになった。つまり、大半は預かり地であるが芝村藩領は10万石以上になったのである。さらに預かり地の統治を任されていた杉浦弥左衛門や吉田千左衛門らの預かり地における統治もある程度成功を収めたため、幕府から厚く賞賛されるに至った。しかし宝暦3年(1753年)末、杉浦や吉田らが行なった年貢増徴政策に対して預かり地における百姓一揆が頻発し、遂には百姓たちが芝村藩を批判して預かり地の所替えを要求するに至った。これを芝村騒動という。幕府はこの騒動を鎮圧したが、寛政6年(1794年)に預かり地における芝村藩の役人による不正が発覚し、幕命により藩主・長教をはじめとする要人が処罰され、預かり地も全て召し上げられるに至った。 藩内においても長教の時代から藩財政の窮乏化が深刻化し、明和5年(1768年)末には年貢減免を求める強訴が発生する。これに対して藩では藩札の発行や家臣の知行借り上げ、御用金の調達などによる藩政改革が試みられたが、あまり効果はなく、安政6年(1859年)には藩の借金は銀2693貫という莫大なものになったと言われている。 幕末期、最後の藩主である織田長易は天誅組追捕の功績を挙げている。しかし明治維新頃から幕府より離れて新政府側に与し、維新後は高取藩と共に大和国内における御料の取締りを命じられた。明治2年(1869年)の版籍奉還で長易は藩知事となり、同4年(1871年)の廃藩置県で芝村藩は廃藩となった。藩領のうち、摂津国島下郡における領地は大阪府、大和山辺郡と式上郡は奈良県にそれぞれ編入された。 代々の墓所は桜井市内にある慶田寺であり、有楽の分骨の墓標もある。なお、織田氏の諸藩では他に、織田信雄の系統で天童藩、柏原藩が、有楽の系統では上述の柳本藩が、明治維新まで存続した。有楽の系統は他に野村藩が存在したが、江戸時代初期に除封、無嗣断絶している。
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藩史
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戦国時代に蒲生氏が本拠として蒲生氏郷を輩出した日野城(中野城)は、関ヶ原の戦いで領主の長束正家の没落と共に廃城となる。 元和6年(1620年)、市橋長政が近江国蒲生、野洲両郡と河内国内に合わせて2万石を与えられたことから、かつての日野城跡に仁正寺陣屋を設置、仁正寺藩が立藩した。長政は元和8年(1622年)1月、幕命により市橋長吉(三四郎)に2000石を分与したため、所領は1万8000石となった。長政は徳川家光の下で奉行として功を挙げている。慶安元年(1648年)に長政が死去すると、跡を長男の市橋政信が継ぐ。このとき、弟の市橋政直に1000石を分与したため、1万7000石となった。政信は徳川家綱、徳川綱吉の下で功を挙げている。その後の藩主は第5代藩主・市橋直挙が第8代将軍・徳川吉宗に認められた教養人であるということくらいで、特筆すべき事柄はない。 最後の藩主であった市橋長和は、幕末の動乱の中で国防のために火薬の製造、武芸奨励などに尽力した。文久2年4月28日(1862年5月26日)には仁正寺を西大路と改名したため、以後は西大路藩と称された。長和は当初は佐幕派であったが、次第に新政府側に傾いてゆき、明治天皇が東京へ行幸するときには天皇の奉送や京都守衛などで功績を挙げている。明治2年(1869年)の版籍奉還で長和は藩知事となり、2年後の廃藩置県で西大路藩は廃藩となった。その後、西大路県、大津県を経て、滋賀県に編入された。
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藩史
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七日市藩の藩祖は、加賀藩祖前田利家の五男の利孝である。利孝は利家の死後、異母兄の利長が徳川家康と本多正信の主従の画策で「幻の家康暗殺事件」の疑惑をかけられた際、利長の生母の芳春院(まつ)と共に人質として江戸で幼年期を過ごした。大坂の陣で利孝は徳川方として参戦して武功を挙げたことから、元和2年(1616年)12月26日、七日市に1万石(寛文4年の調査では12036石、貞享元年の調査では13135石)の所領を与えた。これが七日市藩の立藩である。小藩であったため、また天保の大飢饉などの天災も相次いだため、本家である加賀藩の財政的援助を受けてようやく存続するというような状況であった。歴代藩主の多くは駿府城・大坂城の守備役を務めている。 第11代藩主・利豁の代である天保13年(1842年)、藩校・成器館が創設された。しかしこの頃には七日市藩邸が焼失するなど、治世は多難を極めた。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府側に与し、会津藩の討伐に参加した。翌年の版籍奉還で最後の藩主の利昭は知藩事となる。利昭は成器館を文武学校と改称し、さらに軍務局をはじめとする藩政改革を行なった。明治4年(1871年)の廃藩置県で七日市藩は廃藩となる。その後、七日市県を経て、群馬県に編入された。
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藩史
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[全画面表示] 関連地図(千葉県北部) 高岡周辺は、中世には大須賀荘の一部で、高岡にある天台宗の寺院・眞城院は寺伝によれば応永3年(1396年)に創建されている。高岡村は江戸時代初期には佐倉藩領となっていた。なお、近世に近隣の滑河(なめがわ)(滑川)村には「滑河河岸」、猿山村には「源太(源田)河岸」があり、利根川水運の要衝として栄えた地域である。 藩祖である井上政重(井上正就の弟)は徳川秀忠・家光の2代に仕えて大坂の陣などで功績を挙げ、御書院番士・大目付(当時は惣目付という名称)などを歴任して次第に加増を受け、島原の乱でも戦後処理などで功を挙げた。こうした功績によって寛永17年(1640年)6月12日、政重は6000石を加増されて1万石を領する大名となった。ただし、当時は高岡に陣屋は築かれず、江戸に定府していた。政重はその後もキリシタンの取締りのために宗門改役を設置し、長崎出島における交易制限を行なうなど、鎖国体制の確立に尽力した。この功により寛永20年(1643年)5月23日、3000石を加増された。政重は万治3年(1660年)7月9日に、加齢を理由として家督を井上政清に譲って隠居する。 第2代藩主・政清のとき、弟の井上政則に1000石、井上政明に500石を分与したため、高岡藩領は1万1500石となる。第3代藩主・井上政蔽のとき、高岡に陣屋が築かれた(高岡陣屋)。また、弟の井上政式に1500石を分与したため、高岡藩領は1万石となった。高岡藩の領地は上総・下総に分散しており、早い時期から財政難に陥っていたという。元禄年間、政蔽は財政家として知られる松波勘十郎(良利)を招聘して財政再建を委ね、成功したとされる。 高岡藩は尾張藩とつながりが深く、第6代藩主・井上正国は徳川宗勝の十男、第7代藩主・井上正紀は尾張藩の付家老家である竹腰勝起の次男である。第10代藩主・井上正和は文久2年(1862年)に江戸藩邸内に藩校・学習館を創設した。儒学者朝川善庵門人の随朝欽哉などが教授し、藩士だけではなく庶民の入学を許可した開放的な藩校であった。 譜代井上家は他に常陸下妻藩主家もあり、みな明治維新を迎えている。 最後の藩主・井上正順は明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となる。2年後の廃藩置県で高岡藩は廃藩となり、高岡県となる。のちに高岡県は新治県を経て千葉県に編入された。
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藩史
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鍋島家は龍造寺の家臣であったが、龍造寺隆信の戦死後、鍋島直茂が領地を継承して成立した。藩の成立後もしばしば残存する龍造寺分家との対立がおきた(鍋島騒動)。この対立の構図から生まれたのが「佐賀化け猫騒動」という話である。
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藩史
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明暦3年(1657年)7月21日、宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗の五男・宗純が本家より3万石を分知されて立藩した。三河国の吉田藩と区別するため伊予吉田藩と呼ばれた。藩庁として、現在の愛媛県宇和島市吉田町立間尻御殿内(旧北宇和郡吉田町)に伊予吉田陣屋が置かれた。この3万石分知の経緯については諸説ある。秀宗は宗純を寵愛しており、父・政宗が死去するまで支出していた隠居料3万石を宗純のために分知した、と一般に言われている。一方で、2人の兄が相次いで早逝するなかで世継となった三男・宗利を妬んだ宗純が、仙台藩の伊達宗勝(政宗の十男で秀宗の異母弟)と共謀し、秀宗の遺言書を偽造した、とも言われている。当時の秀宗の病状は悪く、筆を取るのもままならない状態であったとして、宗利は不審の念を呈する書簡を仙台藩第2代藩主・伊達忠宗に送っている。なお、宗勝は後の伊達騒動の首謀者として断罪されていることも一考に価する。結局、彦根藩主・井伊直孝の仲裁により3万石分知は果たされたが、吉田伊達家と宇和島宗家は領地の帰属を巡って激しく対立した。 両藩の確執は、元土佐藩浪人の身から吉田藩の家臣となり専横を奮った山田仲左衛門を巡る一件(山田騒動)に仙台伊達家の指示で宇和島藩が介入するまで続いた。以後、吉田藩に対する宇和島藩の発言権は大きくなった。第7代藩主・宗翰は宇和島藩主・村寿の子、第8代藩主・宗孝も宇和島藩主・宗城の実弟で、いずれも養子として藩主となっていることから、この事件を機に宇和島藩に従属し、支藩的扱いを受けていたと考えてよい。 三代村豊(当時は宗春)は元禄14年(1701年)2月、霊元上皇の院使として江戸に下向する清閑寺熈定の饗応役に任じられ、一方で播磨国赤穂藩主・浅野長矩が勅使の柳原資廉と高野保春の饗応役に任じられた。2人の指南役は高家肝煎の吉良義央であった。3月14日、浅野長矩の吉良義央への刃傷の際にも現場に居合わせ、梶川頼照らと共に浅野の取り押さえに加わっている。浅野の凶事の後も宗春の方は、無事役目を勤め上げ賞賛された。 享保の大飢饉では大被害を受け、2万7000石の損失があった。さらに幕府の公役負担などにより財政は苦しくなる。このため、吉田藩は重税を強いて、さらに製紙を専売化するなどしたが、このために寛政5年(1793年)2月に吉田藩最大の一揆である武左衛門一揆が起こり、藩は百姓の要求を受け入れて製紙の専売を取りやめた。寛政6年(1794年)11月13日には藩校・時観堂を創設し、森退堂を登用した。 幕末は第8代藩主・宗孝が実兄・宗城と不仲だったことから佐幕派として行動し、兄の仲介で新政府より許されている。 明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県の断行により、旧伊予吉田藩領を管下とする吉田県を設置(草高3万石、現石1万4730石。同年11月15日、第1次府県統合により吉田県を廃止、同時に旧宇和島県、旧大洲県、旧新谷県と合併し、新たに宇和島県を設置(本庁・宇和島、支庁・大洲)。その後、神山県を経て愛媛県に編入された。
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藩史
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慶長7年(1602年)、出羽秋田より秋田実季が5万石で入ったことにより立藩した。寛永7年(1630年)9月、実季は罪を得て幕命により伊勢国朝熊に流され、家督は子の俊季が継いだ。正保2年(1645年)7月、俊季は陸奥国三春藩に転封となり、その後の宍戸は幕府領、水戸藩領となった。 天和2年(1682年)2月、水戸藩主徳川光圀は、弟の松平頼雄に1万石を分与して新たに立藩させた。6代藩主頼敬の頃から財政の窮乏化、天災による農村の荒廃が相次ぎ、藩は北陸などから逃散した百姓の入植を奨励したが、不徹底だったため改革は失敗し、天保年間には窮した百姓が水戸藩に対して救援を求める越訴を起こした。 8代藩主頼位は水戸藩主徳川斉昭に同調して、軍事改革など藩政改革を行なっている。天狗党の乱では、9代藩主頼徳は幕命により鎮圧に当たったが失敗した。その後、天狗党に同情的であったことを幕府から追及され、元治元年(1864年)10月、頼徳は切腹を命じられて宍戸藩は改易された。 その後、宍戸は幕府の関東取締出役5名が支配する幕府領となったが、慶応4年(1868年)2月、朝廷の計らいにより先代頼位(頼徳の父)の再襲が認められて再び立藩した。明治2年(1869年)、版籍奉還で頼位は知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県によって廃藩、宍戸県となった。 松平氏は参勤交代せず江戸に定住する定府制であったため、宍戸において際立った治績は見られない。宍戸における政務としては陣屋を構えて年貢を取り立てるのみで、実質的な藩政は本藩である水戸藩によって執り行なわれていた。
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藩史
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藩祖は豊臣秀吉に仕えて、賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた福島正則である。正則は秀吉より尾張清洲に20万石を与えられていたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川家康に味方したため、戦後に安芸広島藩49万8200石に加増移封された。 しかし元和5年(1619年)、広島城の無断修築を武家諸法度違反として改易され、改めて信濃国高井郡2万石、越後国魚沼郡2万5000石の捨て扶持計4万5000石を与えられることとなった。このとき正則は嫡男の福島忠勝に家督を譲っているが、その忠勝が翌年に死去したことから、正則は魚沼2万5000石を幕府に返上している。なお、高井郡は北信地方全体を指す川中島四郡の一部であったため、正則の改易転封後の封地を信濃川中島とする史料が多い。 寛永元年(1624年)に正則も64歳で死去する。このとき、家臣団が正則の遺体を幕府の検使である堀田正吉(正利)が到着する前に火葬してしまったことから、またも法度違反であるとして、残りの2万石も没収された。ただし、正則の功績を考えて、幕府は正則の末子である福島正利に3112石の所領を与え、旗本として存続を許している。 寛永14年(1637年)、正利は嗣子無く死去した。これにより福島家は断絶したが、天和元年(1681年)に正利の甥・福島正長(福島忠勝の子)の長男の福島正勝が2000石の旗本として取り立てられ、福島家は再興された。
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藩史
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松倉重信は筒井順慶のもとで、島清興と共に筒井氏の片腕と呼ばれた名将であった。重信の死後、松倉氏は子の松倉重政が継ぐ。順慶の死後、重政は筒井氏を離れ浪人となる。 関ヶ原の戦いで重政は徳川家康に味方して軍功を挙げたことから、戦後に五條1万石を与えられ、ここに五條藩が立藩した。重政は城下町づくりや諸役免除など、藩政の確立に尽力して商業町としての五條藩を作りだした。 重政は大坂の陣においても徳川家康に味方して軍功を挙げたため、元和2年(1616年)に肥前島原藩4万3000石に加増移封され、五条藩は廃藩となった。
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延宝7年(1679年)、松平信之は大和郡山藩主となり、8万石の所領を領した。貞享2年(1685年)に信之は老中に栄進したことから1万石加増の上で下総国古河藩へ移されたが、翌年に死去した。信之死後の貞享3年(1686年)8月、家督と所領9万石の内の8万石は長男の松平忠之が継ぎ、残りの1万石は次男の松平信通が継いだ。信通は大和国興留に陣屋を構えたことから、ここに興留藩が立藩した。 しかし元禄6年(1693年)11月に本家の家督と古河藩を継いでいた兄の忠之が発狂したために改易されると、信通は藤井松平家の家督を継ぐこととなり、2万石加増の上で備中国庭瀬藩に移封され、興留藩は廃藩となったのである。その後、陣屋も翌年7月に破却された。
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「鬼義重」で有名な戦国大名・佐竹義重の三男で、佐竹義宣の弟に当たる岩城貞隆は、岩城常隆の養子として岩城氏の家督を継ぎ、磐城国平12万石の所領を安堵された。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、兄の義宣と共に東西どちらにもつかないという曖昧な態度を見せたため、慶長7年(1602年)に徳川家康によって所領を没収されてしまった。 慶長19年(1614年)からの大坂の陣で、貞隆は本多正信に属して功績を挙げたことから、元和2年(1616年)7月に松平忠輝が改易された後、その旧領1万石を与えられて信濃中村藩を立藩したのである。 元和6年(1620年)10月に貞隆は死去し、後を長男の岩城吉隆が継いだ。吉隆は元和8年(1622年)に出羽由利郡内において1万石を加増されて2万石の大名となる。そして翌年、吉隆は出羽亀田藩に藩庁を移し、信濃中村の采地も出羽に替地されたため、信濃中村藩は廃藩となり、以後、岩城氏は亀田藩2万石として明治維新まで存続した。 なお、吉隆は後に佐竹義隆として義宣の養子となり、久保田藩第2代藩主となった。
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生駒氏は大和国生駒荘に出自を持つ。戦国時代に尾張国へ移り、生駒親正が織田信長・豊臣秀吉に仕えた。豊臣政権下では讃岐高松17万1800石の大名に立身した。関ヶ原の戦いで親正は西軍に味方したものの、嫡男の一正を東軍に参加させたため、戦後は所領を安堵された。 しかし、一正の孫である高俊は酒色に耽って民政を顧みなかったため、家中に激しい派閥抗争が発生した(生駒騒動)。やがて内紛は幕府の知るところとなり、寛永17年(1640年)に改易された。堪忍料として矢島1万石を与えられた高俊は、八森陣屋にて約20年の軟禁生活を送った。高俊の跡を継いだ高清は弟の俊明に伊勢居地2000石を分知したため(生駒伊勢居地家)、以後、生駒家は8000石の江戸詰交代寄合表御礼衆となった。 歴代当主は江戸定府であったため、領地統治は郡奉行の三浦伊右衛門ら山本一党に委ねられた。しかし山本一党は暴政の限りを尽くしたため、1677年に農民代表が江戸へ上り、高俊から数えて3代目の当主である親興に直訴した。親興は山本一党に切腹を命じ、年貢もかつての基準に戻すよう命令した。しかし、城代家老の市橋彦兵衛は山本一党と変わらない基準で徴収しようとしたため、農民たちは逃亡し、佐藤仁左衛門が再び直訴する事態となった。親興は従来の徴収基準に戻す旨の朱印状を仁左衛門に渡すが、仁左衛門は国許で朱印状を奪われ、仁左衛門やその家族、協力者たちは処刑された。しかし逃亡した農民たちは帰郷しなかったため、やむなく年貢を従来の基準に戻すことを約束するに至った。これを「延宝騒動」または「仁左衛門騒動」という。 1780年、7代当主の親睦が将軍徳川家治より国入りを許され、以後は参勤交代を行った(交代寄合)。領内の実情把握が可能となったため、それ以降の歴代当主は藩政に力を入れた。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争において、新政府に抗する奥羽越列藩同盟が結成される。12代当主の親敬は、当初同盟に加盟したが、のちに家中を勤王論に統一して新政府に与した。これによって庄内藩から攻撃を受け、親敬は陣屋を自焼して撤退する。以後、新政府軍とともに東北地方の鎮撫につとめた。戦後の高直しの結果、生駒氏は1万5200石の諸侯(大名)に列し(領地の加増はなし)、約250年ぶりに讃岐守を称することが許された。翌年、軍功により賞典禄1000石を下賜される。しかし明治4年7月21日(1871年8月29日)の廃藩置県で矢島県となり、同年11月2日(1871年12月13日)に秋田県へ統合された。 明治17年7月8日、親承に男爵が授けられる。
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天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した後、関東に国替された徳川家康は、麾下の東三河国衆の一人である牧野康成を2万石で大胡城主に入れ、大胡藩を立藩させた。康成は、徳川氏における武断派ともいうべき武将であり、武田氏との戦いや小田原征伐でも戦功を挙げている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍に属して信濃上田城にて真田昌幸と戦ったが、康成は血気に逸り、軍監本多正信の制止を無視して上田城に攻めかかり、逆に昌幸の知略の前に大敗を喫した。このため、軍法違反として康成は吾妻城に蟄居処分とされたが、この処分について康成は数か月で許されて大胡城に戻れたことから、処罰は形式的なものだったとする説が存在する。しかし、康成はなお公事を遠慮して大胡城に蟄居し、軍務・藩政は嫡子である牧野忠成が代理した。 慶長14年(1609年)12月、康成は死去して子の忠成が跡を継いだ。忠成は元和2年(1616年)7月、越後国長峰藩に5万石で移された。元和4年(1618年)3月21日、越後長岡藩6万石(のちに7万4000石)に加増・移封された。もっとも、長峰城が未完成だったために直接大胡から長岡へ移ったという伝承もある。これによって大胡藩は廃藩となり、その所領は前橋藩領として併合された。
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小田原征伐後に関東に入った徳川家康は、深谷に譜代の家臣・松平康直(長沢松平家)を封じ1万石を与えた。しかし康直は文禄2年(1593年)に24歳で死去した。康直には嗣子がなく、家康の子・松千代(生母は側室・茶阿局)が長沢松平家の家系を継いだ。松千代は慶長4年(1599年)、5歳で早世し、同母兄である忠輝が家督を継いだ。忠輝は慶長7年(1602年)、下総国佐倉藩4万石へ加増移封となったため、深谷藩は廃藩となった。 慶長15年(1610年)7月から元和8年(1622年)10月までは松平忠重が8000石で同地を治めているが、万石以下の、大身ではあっても旗本であるため大名(藩)とはされない。 その後、元和8年(1622年)に酒井忠勝が1万石で入り、深谷藩が再び立藩する。忠勝は寛永元年(1624年)8月、上総国・武蔵・下総国内に2万石を加増され、老中に任じられる。その後も2万石を加増され、合計5万石の大名となった。忠勝は小農民を保護し、藩政の確立に努めたが、寛永4年(1627年)に父で川越藩主であった酒井忠利が死去したため、その跡を継ぎ川越藩主となったため、深谷藩は廃藩となり、深谷城も寛永11年(1634年)に破却された。
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元和3年(1617年)に姫路藩に入った本多忠政(本多忠勝の嫡子)は、その所領は15万石ほどであった。しかし、このときに忠政の子・本多忠刻に父とは別に10万石を与えられた。忠刻の妻が徳川秀忠の娘・千姫(もとは豊臣秀頼の正室で、秀頼死後に嫁いだ)だったからである。しかし忠刻は父に先立って寛永3年(1626年)に早世する。このため忠刻の遺所は、忠刻の弟で部屋住みであった本多政朝が5万石、同じく部屋住みで弟の本多忠義に4万石、残る1万石は播磨龍野藩主であった小笠原長次の所領として組み込まれるなど、分割して相続された。 寛永8年(1631年)に忠政が死去して政朝が姫路藩主となると、その所領5万石のうち4万石は忠政の弟・本多忠朝の次男・本多政勝(忠朝が大坂の陣で戦死したため、政朝の養子となる)に与えられ、残る1万石は忠義に与えられた。寛永15年(1638年)に政朝が死去すると、政勝が跡を継いだが、幼少のために大和郡山藩に移される。このとき、政勝が姫路新田藩領として領していた4万石は大和に移され、また忠義の5万石も忠義自身が遠州掛川藩に移封されたため、廃藩となった。 本多家の後に姫路に入った奥平松平家では、正保元年(1644年)6月、姫路18万石の藩主・松平忠明の跡を継いだ松平忠弘が、18万石のうち3万石を弟の松平清道に分与し、再び姫路新田藩が立藩する。しかし清道は同年12月に死去した上に嗣子がなかったため、1年足らずで廃藩となった。 その後、最後の姫路藩主家として入った酒井家では、酒井忠恭の子・酒井忠交が明和7年(1770年)閏6月23日、父から1万石を分与されて姫路新田藩を立藩する。帝鑑間詰の定府大名であったが、第3代藩主・酒井忠全が文化14年(1817年)11月に3歳で死去した。嗣子がいるはずもなく、姫路新田藩は完全に廃藩となった。
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藩史
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長谷川宗仁の子・長谷川守知は織田信長、豊臣秀吉に仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して石田三成の居城である佐和山城に籠もっていたが、9月15日の本戦で西軍が壊滅し、東軍の小早川秀秋を主力とした軍勢が佐和山城に迫ると、守知は秀秋に内応して小早川軍を城内に招きいれ、石田一族を滅亡に追い込んだ。 大坂の陣でも徳川方として活躍した守知は、元和3年(1617年)に美濃国内や摂津・伊勢国内などにおいて1万石の所領を与えられたことにより、諸侯に列した。 守知の死後、家督は子の正尚が継いだ。しかし正尚は弟の長谷川守勝に3110石ほどを分与したため、長谷川家は2家の旗本家に、美濃長谷川藩は消滅して旗本領になった。ちなみに長谷川家は正尚の死後に跡を継いだ守俊(守知の四男)の早世により断絶した。
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藩祖は細川藤孝(幽斎)の二男で、細川忠興の弟である細川興元である。慶長15年(1610年)の茂木氏の秋田転封の後をうけ、27か村1万54石で入部した。元和2年(1616年)、興元は大坂夏の陣における軍功により常陸国筑波郡谷田部6200石を加増され、藩庁(陣屋)を谷田部に移す。以後、谷田部藩として存続した。 なお、藩庁を谷田部に移転して以降も茂木に藩主および藩主一族が住したことがあり、『寛政重修諸家譜』の細川興徳の記載に「茂木あるいは谷田部に住し」とある。 明治4年(1871年)2月、谷田部藩主細川興貫は藩庁を茂木に移したが、同年7月には廃藩置県で廃藩となった。この時の茂木藩は、熊本藩の支藩という位置付けであった。
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元禄16年(1703年)8月、武蔵国赤沼藩(武蔵国・上野国・常陸国・上総国・下総国など各地で1万5000石)から転じて内藤正友が佐久郡のうち27か村で1万6000石を与えられ、岩村田陣屋が置かれたことに始まる。その後、1万石分が摂津国・河内国(現在の大阪府)内の地へ一時移封されたが、その次男である第2代藩主・内藤正敬の代に再度佐久郡内の地へ移封された。また三男の内藤正直に1000石が分知された。このように所領の場所が頻繁に入れ替わることが多かったが、藩政で特に見るべきところはなく、そのまま代替わりした。財政はあまり良くなかったとみられる。 第6代藩主・内藤正縄は老中・水野忠邦の実弟であった関係で、伏見奉行となってその功績により城主格に昇進された。最後の藩主・内藤正誠は日光祭礼奉行・奏者番・寺社奉行などを歴任する。戊辰戦争では新政府軍に与して宇都宮城の戦いや北越戦争に出兵した。この頃、岩村田では築城計画がなされていたが、明治2年(1869年)に版籍奉還が行なわれ、さらに廃藩置県が行なわれて藩が廃されたため、城は未完成のまま廃城となった。そして岩村田県は長野県に吸収された。 なお、建物として蔵が陣屋跡近くの中嶋公園に移築現存していたが現在は解体撤去され痕跡を留めていない。
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1590年(天正18年)以降、棚倉を支配していた石川昭光は、常陸佐竹氏の支配下にあった。拠点は、標高345mに山城(やまじろ)の赤館。 1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで石田三成と懇意だった佐竹義宣は西軍につくも東西中立の態度を示したため、戦後に出羽国秋田藩へ減移。棚倉一帯は天領となる。 1603年(慶長8年) 立花宗茂が棚倉に1万石で入部、棚倉藩が立藩した。宗茂は関ヶ原で西軍に与して大津城攻撃などで活躍したが、9月15日の関ヶ原本戦に間に合わず、大坂城に撤退、徳川家康との徹底抗戦を主張したが、西軍総大将の毛利輝元に聞き入られず、本国である筑後国柳河に戻ってなおも抵抗姿勢を示したが、東軍の黒田孝高(如水)、加藤清正、鍋島直茂に攻められ降伏したあとは所領を没収され、浪人の身となっていた。宗茂はその人となりから、その武勇が本多忠勝に劣らぬと言われたほどの武将で、浪人となったあとも清正や前田利長をはじめ、多くの大名から仕官に誘われている。家康もそのうちの一人で、宗茂を再び大名として取り立てたといわれる。宗茂は江戸で将軍に近侍したため、家臣の由布惟信が代わって藩内の行政を担当した。 1604年(慶長10年)宗茂、1万石から2万5500石に加増。 1610年(慶長15年)宗茂、2万5500石から3万5000石に加増。 1614年-1615年(慶長19-20年)宗茂、大坂の陣に従軍。 1620年(元和6年) 宗茂は旧領の筑後柳河藩へ国替えとなる。 1622年(元和8年) 丹羽長重が常陸古渡藩から5万石で入部。 1625年(寛永2年) 長重は、平地をえらび棚倉城の築城を開始。上方から商人を招き入れ、城下町の建設に尽力。また、輸送業などに力を注いで藩財政の基盤を敷く。 1627年(寛永4年) 平城の棚倉城が完成。長重の移封(陸奥国白河藩へ加増移封)と同じ年である。長重の後には、譜代大名である内藤信照が5万石で入り、藩領の検地をおこない支配体制を固めた。その後を継いだ内藤信良も検地をおこなった。また、弟の内藤信全に常陸多賀郡の内で5000石を分与。内藤弌信の頃から、藩財政は窮乏化が始まる。弌信は松波勘十郎を登用して藩政改革を目指したが、あまりに領民から搾りあげる改革を行なったため、領民から松波の解任を求める声があがり、改革は挫折。 1705年(宝永2年)内藤弌信、駿河国田中藩へ移封。太田資晴が5万石で入る。資晴は若年寄にまで栄進。 1728年(享保13年) 太田資晴、上野国館林藩へ移封。代わって松平武元が5万石で入る。 1746年(延享3年)小笠原長恭、遠江国掛川藩から6万石で入る。 1817年(文化14年) 第3代藩主小笠原長昌、肥前国唐津藩へ移封となる。井上正甫、 遠江国浜松藩から5万石で入るが、その子・井上正春の代に館林へ移封。 1836年(天保7年)松平康爵が石見国浜田藩から6万石で入る。松平氏は康爵の後、松平康圭・松平康泰・松平康英と続き、康英が老中に昇進して2万石加増。 1865年(慶応元年)戸田忠恕が下野国宇都宮藩より5万石で入ることが決まる。しかし、戸田家の山陵修繕の功労による朝廷のとりなしによって実施の延期(事実上の中止)となる。 1866年(慶応2年)阿部正静が陸奥白河藩より10万石で入る。松平康英は武蔵国川越藩に移封。 戊辰戦争では、正静が藩兵を率い奥羽越列藩同盟に参加、白河口において新政府軍と対峙。 1868年(慶応4年)6月24日 棚倉城落城、正静は降伏した。維新後は4万石減封。 1871年(明治4年)阿部正功の代のときの廃藩置県により廃藩となる。城趾には現在、公園と町の公民館がある。水堀のまわりには桜の木が立ち並び、毎年春には町民の花見場所となっている。 棚倉藩はしばしば、中級、下級の譜代大名の懲罰的な目的での転封の対象地になり、また藩主家の長期の定着がなく、藩の支配体制は不完全なまま経てきた。石高は、表高より内高(実際に藩の収入になる石高)が少ない藩であった。
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江戸時代中期の明和元年(1764年)、譜代大名の三浦明次が三河国西尾藩より転封してきた。真島郡内の96村と大庭郡内の1村を与えられ2万3千石で立藩した。真島郡高田村の高田城を藩庁としたため、当初は高田藩などとも称されるが、しばらくして、高田城を勝山城に改称し、これを受けて勝山藩と称されるようになる。 2代矩次は真島郡新庄村(現・真庭郡新庄村)にある鉄鉱山経営を奨励し財源確保に努めた。幕末には鉄鉱山は藩営となった。 明治2年(1869年)真島藩(ましまはん)と改称。明治4年(1871年)廃藩置県により真島県となる。北条県を経て岡山県に編入された。 戦後、岡山県により勝山町並み保存地区に指定された。
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藩史
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天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後、播磨宍粟山崎から黒田孝高(如水)が入部し、12万3000石(一説には16万石)を領有した。その後、関ヶ原の戦いで戦功のあった子の長政が慶長5年(1600年)、筑前福岡藩に52万3100石で加増移封された。 代わって同年、同じく関ヶ原の戦いで東軍方に付いた細川忠興が丹後宮津より39万9000石で入封し、江戸期の中津藩が成立した。忠興は慶長7年(1602年)、藩庁を小倉城に移して小倉藩となる。中津城は支城となり城代が置かれた。寛永9年(1632年)、第2代藩主・忠利は肥後熊本藩に移封となった。 同年、播磨明石藩より小笠原忠真が小倉藩主として小倉城に入り、豊前北部15万石を領した。支城であった豊前中津城には忠真の甥・長次が播磨龍野藩より8万石で入封し、再び中津城が藩庁となった。元禄11年(1698年)、第3代藩主・長胤は失政・日常の不行跡を咎められ藩領没収、本家の小倉藩・小笠原家へ預かりとなった。しかし「祖先の勤労」(『徳川実紀』)により弟の長円が半減の4万石をもって跡を継いだ。享保元年(1716年)、第5代藩主・長邕が7歳で夭逝したため、その弟・長興が播磨安志藩(1万石)に移封立藩となった。 享保2年(1717年)、奥平昌成が丹後宮津藩より10万石で入封した。以後、明治4年(1871年)の廃藩置県まで9代・155年間支配するところとなった。廃藩置県の後、中津県・小倉県・福岡県を経て大分県に編入された。1844年(弘化元年)、藩校『進脩館』に小幡篤次郎が入門、明治4年に福沢諭吉の弟子となり、校長に就任。のちに『中津市学校』に改組され9代藩主・奥平昌邁と共に藩士らは江戸藩邸の慶應義塾へ移った。 奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『解体新書』を著した前野良沢、下級藩士出身の福澤諭吉がいる。また、福沢とは親戚にあたる増田宋太郎の2名をして、郷土の英雄として位置付けられている。西南戦争の時には旧中津藩士によって中津隊が結成され、西郷軍に参加した。
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関ヶ原の戦いの功績により福島高晴が3万石余で伊勢国長島から加増転封されて立藩した。高晴は1615年の大坂夏の陣で豊臣氏に内通した嫌疑をかけられて改易され、織田信雄が大和国と上野国両国内に合わせて5万石を与えられて入封した。その際、天下人であった織田信長の子であるという所以から国主格も与えられた。 信雄は上野の所領を四男の信良に与え、自身は隠居領として大和2万8000石を領した。1630年に信雄が死去すると、大和の所領は五男の高長が継いだ。その後、長頼・信武と続くが、藩内に混乱が起こり信武は自殺した(宇陀崩れ)。信長の血統であるということを重んじられて、信武の子・信休への家督相続こそ認められたが、所領を2万石に減らされた上で丹波柏原藩へ減移封。国主格として扱われていた待遇も、このときに剥奪されてしまった。宇陀松山藩はこれをもって廃藩となった。
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藩史
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天和2年(1682年)4月21日、上総・安房・近江・丹波などに所領を持っていた植村忠朝は、新たに2000石を加増されて1万1000石を領する大名となり、勝浦藩が立藩した。植村氏は本多忠勝の寄子で、里見氏の牽制などで功績を挙げた譜代大名である。元禄10年(1697年)2月、忠朝の跡を植村正朝が継ぐ。このとき、正朝は弟の植村忠元に1000石を分与している。正朝の跡は植村恒朝が継いだ。しかし寛延4年(1751年)8月24日、分家の植村千吉が朝比奈義豊に殺害されるという事件が起こった。この事件の連座により、恒朝は所領を没収されて改易となり、本家の大和国高取藩主植村家道預かりとなった。ただし、名跡のみは養嗣子の植村寿朝が継ぐことを許された。 勝浦藩領は幕府代官吉田助達(源之助)による支配を経て、宝暦元年(1751年)12月、徳川家重の側近として活躍した大岡忠光が5000石加増で1万石の大名として入った。忠光は宝暦4年(1754年)3月に若年寄に栄進したことから5000石を加増された。宝暦6年(1756年)5月にも側用人に栄進したことから5000石加増で合計2万石となり、大岡家は本拠を武蔵国岩槻藩に置いた。勝浦領は房総分領として飛地となり陣屋や番所を拠点に郡奉行が常駐し、代官支配を及ぼした。 夷隅郡筒森村南方(大多喜町)には奥山御林が存在し、奥山番所において管轄し材木などの林産物を産出した。
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藩史
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1602年(慶長7年)、出羽国の豪族であった六郷政乗は、関ヶ原の戦いで東軍に与して武功を挙げたため、常陸国府中に1万石を与えられて府中藩を立藩した。1623年(元和9年)、政乗は出羽本荘藩へ移され、その後に皆川広照が入る。広照は松平忠輝の後見人を務めていたことで有名であるが、広照は忠輝の家臣・花井吉成と対立し、さらに忠輝の不行状による責任なども取らされて、浪人となっていた。しかし幕府からやがて赦免され、再び所領を1万石与えられたのである。広照の後は、その子皆川隆庸が自分がすでに領していた5000石と父の遺領を併せて1万5000石を領する。ただし、弟の皆川宗富に1070石を分与したため、1万3930石を領することとなった。1633年(寛永10年)、隆庸は近江国浅井郡に4000石を加増され、約1万8000石を領する大名となる。隆庸の後は子の皆川成郷が継ぐ。このとき、成郷は弟の皆川秀隆に5000石を分与している。しかし成郷は1645年(正保2年)6月に死去。嗣子が無かったため、皆川氏は断絶し、改易となる。そしてしばらくの間、府中藩は廃藩となった。 1700年(元禄13年)、徳川頼房の五男・松平頼隆(保内藩主)が幕府から新たに常陸・陸奥国内において2万石を加増されたため、府中に陣屋を置いて府中藩を立藩する。この時、保内2万石は水戸藩に返還した。ただし藩の所領の大半は陸奥国のほうにあったため、陸奥長沼にも陣屋を置いていた。しかし所領が分散していたこと、所領の生産力が低かったことから財政難が起こり、藩財政を早くから逼迫した。 1869年(明治2年)の版籍奉還で石岡藩と改称する。1871年(明治4年)の廃藩置県で石岡藩は廃されて、石岡県となった。
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藩史
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織田信長の弟・信包は慶長3年(1598年)6月、伊勢国安濃津から柏原3万6000石に移封された。これが柏原藩の立藩である。信包は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与したが、戦後は改易されずに済み、大坂城で豊臣秀頼に仕えた。慶長19年(1614年)、信包は大坂冬の陣直前に死去した。その後、信包の孫で第3代藩主・織田信勝の時代に治水工事や新田開発などが行なわれて藩政の基礎が固められたが、信勝は慶安3年(1650年)5月17日に嗣子無くして死去してしまい、ここに柏原藩は廃藩となり、その所領は幕府領となった。 元禄8年(1695年)4月14日、信長の次男・織田信雄の五男・織田高長から始まる大和宇陀藩の織田信休が、2万石で柏原に入部したことにより、柏原藩が立藩された。これは大和宇陀藩2万9000石の藩主であった信休の父・織田信武が元禄7年(1694年)に発狂して家臣の田中五郎兵衛らを殺して自らも自害するという「宇陀崩れ」を起こしたため、処罰としてその子である信休が減移封されることとなったのである。信休は藩財政窮乏の中で藩政の基盤固めに努めたが、大洪水や旱魃などが相次ぎ、元禄9年(1696年)には年貢軽減を求める愁訴が起こった。その後も柏原藩では藩財政の窮乏化が進み、藩内では要人をはじめとする61人の解雇、藩士の俸禄削減、藩札の発行などの諸改革を断行したが効果はなく、文政7年(1824年)には物価高騰に反対する百姓一揆が起こった。 第5代藩主・織田信守はこのような中で奢侈に走って藩政に関心を示さなかった上、その快楽のために百姓に重税を強いたため、領民は信守を恨んだ。しかも信守が愛妾の保野を寵愛して政務にまで関与させた結果、藩主の地位をめぐっての争い(秘命騒動)や保野騒動が起こり、藩政は大いに乱れることとなった。第6代藩主・織田信古の代には先代の信守のツケに加えて藩札の発行により藩経済が大混乱し、天保4年(1833年)には遂に百姓の怒りが爆発して、打ち壊し騒動が発生した。このような中で第8代藩主となった織田信敬は、小島省斎と協力して倹約を主とする藩政改革を断行する。そして藩内で文武を奨励し、藩校として又新館を設立した。第9代藩主・織田信民は信敬の遺志を受け継いで新たに藩校・崇広館を設立し、小島省斎と共に藩政改革に臨んだ。 幕末期、信民とその跡を継いだ織田信親は、尊王攘夷運動を目指して行動する。このため早くから官軍側に与し、明治2年(1869年)の版籍奉還で信親は知藩事となる。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により柏原藩は廃藩となり、柏原県となった。 なお、織田氏の諸藩では、信雄の系統は柏原藩の他に天童藩が、織田長益(有楽斎)の系統は柳本藩、芝村藩(戒重藩)が、明治維新まで存続した。有楽斎の系統は他に味舌藩、野村藩が存在したが、これらは江戸時代初期に除封、無嗣断絶している。
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藩史
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徳川家康に古くから仕えた老臣・成瀬正成が小田原征伐後に下総国葛飾郡に4000石を与えられ、栗原郷に入ったことに由来する。栗原郷の中心部であったと推定されている本郷村(現在の西船6丁目から本郷町付近)は元禄期の石高は466石、同じく小栗原村(現在の本中山)が289石、二子村(現在の東中山及び二子町)が360石であったことから、栗原郷の中心部から周辺に広がった現在の船橋市・市川市にまたがるより広い地域を所領としていたと考えられている。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの戦功により甲斐国内に2万石、三河国加茂郡内に1万石を加増されて3万4000石の大名となった。後に老中にも任じられている。慶長16年(1611年)、甲斐国内の2万石は尾張国内に移された。元和2年(1616年)、正成は尾張藩主となった家康の九男・徳川義直の付家老となったため陪臣扱いとされ、所領も尾張国犬山へ移された。その際に、正成の次男・成瀬之成が父の領知のうち下総・三河国内1万4000石を分与され、自身の持つ武蔵国幡羅郡1000石と合わせて栗原藩1万5000石の第2代藩主となる。之成は 徳川秀忠の小姓として大坂の役に参戦しており、藩主就任後も秀忠の命で根来足軽を率いるなど信任が厚かった。元和9年(1623年)にそれまでの功績によって近江国内に1000石の加増を受けて1万6000石の藩主となった。 ところが、寛永11年(1634年)に徳川家光の上洛に従った之成が急逝し、跡を継いだ成瀬之虎が寛永15年(1638年)に早世したため、栗原藩の成瀬氏は無嗣断絶で改易となった。 成瀬氏の菩提寺である宝成寺には、初代正成を含めて3代の藩主の墓がある(ただし、正成の墓の場所は現在では不明となっている)。また、之成の墓には殉死した3名の家臣の遺骨もともに納められている。
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慶長3年(1598年)、堀秀治が上杉氏に代わって越後に入部したとき、堀直寄(堀直政の子)が坂戸2万石に入った。直寄は慶長11年(1606年)の堀鶴千代の死去により蔵王堂藩3万石を加増され、5万石を領すようになった。しかし、慶長13年(1608年)に父・直政が死去すると直寄は幼主・堀忠俊のもとでの主導権をめぐって兄直清と争う。これに勝利はしたが、忠俊は内紛の責任を問われ改易とされ、直寄も坂戸5万石から信濃国飯山藩4万石に減移封された。坂戸藩は廃藩となった。
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藩史
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慶長19年(1614年)、槍奉行であった近藤秀用は、相模内において新たに1万石を与えられ、従来の上野邑楽郡青柳5,000石と合わせて1万5,000石の大名として諸侯に列し、ここに青柳藩が立藩した。翌年、秀用は次男の用可に5,000石を分与した。元和5年(1619年)、領地を遠江引佐・豊田・長上などの五郡に移されたため、青柳藩は廃藩となり、以後、近藤氏は井伊谷藩として存続した。
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藩史
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戦国時代、足利将軍家の故地足利荘は関東管領上杉氏の代官として足利長尾氏が治め、上杉氏が後北条氏に追われた後には後北条氏の支配下に入っていたが、後北条氏に仕えていた長尾顕長は小田原征伐で没落した。 江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院の異父弟にあたる本庄宗資(はじめは公家の家臣だった)が徳川将軍家との特別な関係のために加増が繰り返され、元禄元年(1688年)には足利1万石を領するようになり、足利藩を立藩した。宗資にはその後も贔屓の加増が繰り返され、元禄5年(1692年)、本庄邸への2度目の“将軍お成り”の際に4万石に加増されて常陸笠間藩へ移封された。 その後の宝永2年(1705年)1月、将軍世子である徳川家宣の御側役を務めていた戸田忠時が甲斐国内8000石から3000石加増の上で下野国足利郡・河内郡・都賀郡1万1000石を領することとなったため、大名に列して再び足利藩を立藩した。歴代藩主は藩政改革を行ない、何人かが大坂定番や奏者番などを務めた。 明治2年(1869年)6月の版籍奉還で最後の藩主・戸田忠行は藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で足利藩は廃藩となって足利県となった。そして同年11月14日、栃木県に編入された。
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藩史
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慶長3年(1598年)、堀秀治が越後に入部したとき、三条にはその重臣・堀直政が入った。しかし慶長15年(1610年)、直政嫡男の堀直清の代、僧侶を殺害したとして改易になる。その後、慶長17年(1612年)に松平忠輝の家老として松平重勝が2万石で入る。しかし元和2年(1616年)7月に忠輝が改易されたため、重勝は関宿藩に移り、外様の市橋長勝が4万1300石で三条に入部した。長勝は三条城の築城や城下町の建設、新田開発や伝馬制度の設立などに尽力したが、元和6年(1620年)3月17日に死去した。長勝には嗣子がなく、甥の市橋長政が2万石に減知されることで跡目相続を許された。長政は同年5月に近江国仁正寺藩に移封となり、代わって越後国藤井藩より譜代の稲垣重綱が2万3000石で入った。重綱は検地などを行なって藩政を固めようとしたが、元和9年(1623年)に大坂城番となって転出し、さらに1651年には三河国刈谷藩へ移されたため、三条藩は廃されて幕府領となった。
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藩史
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小田原征伐後、沼田領2万7000石は真田昌幸に返還されるが、昌幸は信濃上田城を居城として、地理的に離れた沼田領は嫡男の真田信之に任せる。この時期の信之は真田家当主(昌幸)の後継者であり、公的には沼田領も昌幸領の一部でしかなかったが、実質的には半独立的な体制を築いており、これが後の沼田藩の基となる。 信之は領内の検地を早くから実施して領内の支配体制を固める。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、信之は徳川家康の養女(本多忠勝の娘)を妻にしていたことから東軍に与して徳川秀忠の指揮下に入る。上田城の昌幸と次男信繁(幸村)は西軍に与して、信之が属する徳川軍相手に上田城にて善戦したが、関ヶ原本戦で西軍が敗れたため、戦後は紀州九度山に蟄居となった。代わって信之に、沼田領を含む昌幸の旧領に加え3万石が加増され、9万5000石を領する大名となった(上田藩の成立)。 元和2年(1616年)、信之は上田に移り、沼田領は信之の長男真田信吉に継がれることとなった(この時点でも正式な立藩ではない)。信之は元和8年(1622年)に信濃松代藩10万石に移された。このとき沼田領は分地されるが、まだ幕府に公認された藩とはなっていない。 信吉は寛永11年(1634年)11月28日、父に先立って死去した。跡を信吉の子の熊之助が継いだが、これも寛永15年(1638年)11月6日、7歳で夭折した。翌年7月25日、沼田領の大半を信之の次男で信吉の弟の信政が継ぎ、信吉の次男の信利に5000石が分知された。信政は領内の検地などを実施して基盤を固めようとしたが、明暦2年(1656年)に信之が隠居したため、松代の真田宗家の家督を継ぐこととなり、代わって沼田領の全てを信利が継ぐこととなった。 明暦4年(1658年)2月に本家を継いだ信政が死去すると、信直(信利)と信政の六男で2歳の信房(後の幸道)のどちらを立てるかで後継者争いが勃発する。結局、信房が真田宗家の家督を継ぐことになったが、この騒動により沼田領(沼田藩)は正式に松代藩から独立することになった。 ところが信直は、寛文2年(1662年)に沼田領の検地を実施し、実高3万石(一説によると6万石)の所領を14万4000石と幕府に過大申告した。このため領民は増税に苦しめられることになる。この暴挙ともいえる所業に関しては、真田宗家の家督を継げなかったことが影響していると言われている。延宝8年(1680年)、信直は幕命により江戸両国橋の架け直しのために用材を沼田藩から差し出すことを請け負ったが、すでに疲弊しきっていた領民の協力が得られず、翌年11月、信直は用材の納期に間に合わなかった責任を問われて改易となった。 沼田は廃藩・幕府領となったが、元禄16年(1703年)1月11日、下総舟戸藩から2万石で本多正永が入り、再び沼田藩が立藩する。正永はさらに2万石を加増されて4万石の大名となる。その後、第3代藩主本多正矩の代の享保15年(1730年)、駿河田中藩へ移封される。享保17年(1732年)3月1日、常陸下館藩から黒田直邦が3万石で入る。しかし第2代藩主黒田直純の代の寛保2年(1742年)7月28日、上総久留里藩へ移封となった。代わって老中であった土岐頼稔が駿河田中藩から3万5000石で入部する。第3代藩主土岐定経の代の天明元年(1781年)12月、年貢増徴に反対した領民によって見取騒動が発生し、定経は領民の要求を受け入れることで解決した。 第11代藩主となった土岐頼之は、寛政の改革で有名な松平定信の孫であったが、幕府とはあまり関係を持たず、慶応3年(1867年)4月16日に家督を土岐頼知に譲って隠居し、翌年の戊辰戦争では桑名藩や会津藩と姻戚関係にありながら、新政府軍の沼田進駐を許して新政府に恭順し、三国峠の戦いで会津軍と戦った。明治2年(1869年)6月20日、頼知は版籍奉還して藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で沼田藩は廃藩となり、沼田県、次いで群馬県となった。そして、土岐氏は明治17年(1884年)の華族令により、子爵に列せられた。
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現在の長岡市域は、戦国時代には越後守護代長尾氏(のち上杉氏)の一族古志長尾家が古志郡蔵王の蔵王堂城に拠って治めていた。その古志長尾家の景信が御館の乱により戦死した後は、上杉家の直接支配を受けることとなる。 その後、慶長3年(1598年)に上杉氏が陸奥会津に移封すると、かわって越後に入封した堀秀治の弟堀親良が4万石を与えられて蔵王堂城主となった。堀氏は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に所属し旧領を安堵された。ここに蔵王堂藩が成立した。 慶長7年(1602年)親良は病気のため甥の鶴千代に藩主の座を譲った(ただし、実際は家中の内紛によるもので、親良は後に出奔して下野国真岡藩主に取り立てられる)。しかし、慶長11年(1606年)鶴千代は早世したため、鶴千代の後見を行っていた堀直寄が治める坂戸藩へ吸収編入され、蔵王堂藩は2代で一旦は断絶する。 その後、慶長15年(1610年)宗家の堀忠俊が家老堀直寄兄弟の内紛を収められなかった罪で除封された。豊臣氏恩顧の大名の取り潰しに、騒動が利用されたともいえる。かわって徳川家康の六男松平忠輝が高田藩に入封すると、蔵王堂城もその属領となった。 元和2年(1616年)今度は忠輝が大坂の陣における不始末から除封されると、6年前の騒動の一方の元凶であった堀直寄が8万石をもって蔵王堂に入封した。しかしながら、直寄は蔵王堂城が信濃川に面して洪水に弱いことから、その南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に長岡城を築城、城下町を移して越後長岡藩を立藩し、蔵王堂藩は2度目の廃藩(事実上、長岡藩への移行)となった。
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豊臣秀吉の命により蒲生氏郷の寄騎となっていた佐久間勝之は、氏郷の没後、信濃国長沼城を賜った。秀吉の没後、近江国山路で3000石を与えられ、慶長12年(1607年)、江戸城内に移転した際に常陸国北条に3000石を加増された。これにより知行高が都合1万石となり、大名に列して常陸北条藩が成立した。ただし封地には下らず江戸城に常駐する定府大名だった。その後大坂の陣で武功を挙げて信濃国長沼藩1万8000石に移封となり、常陸北条藩はいったん廃された。 下総国佐倉藩主・堀田正盛の四男・堀田正英は、父が殉死した後その遺領から5000石を分与された。その後は徳川家綱に仕えて御小姓組番頭、書院番頭、大番頭と累進して3000石を加増された。そして天和元年(1681年)には若年寄となり、翌年5000石を加増されたことで都合1万3000石の大名となり、常陸北条藩が再立藩した。正英はその後も奏者番になり幕府の役職を歴任、元禄元年(1688年)に死去した。 正英には嫡男・正親、次男・正矩、三男・正章がいたが、正英が生前に幕府に提出していた家督相続願いには、正矩と正章については記されていたにもかかわらず、肝心の正親についてはなぜか言及がなかったために世子として認められず、届出不備をもって改易とされてしまった。ここに常陸北条藩は再び廃藩となったのである。旧領1万3000石のうち、8000石は収公されて公儀御料となったが、正矩が3000石、正章が2000石の遺領相続を認められ、それぞれ旗本として家名存続が許された。一方正親は一族の陸奥福島藩主・堀田正仲の元にお預けの憂き目に遭っている。 公儀御料となった旧領は元禄11年(1698年)土浦藩領となった。
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岩槻は戦国時代には後北条氏の領国で、本拠である相模国小田原城に次ぐ重要拠点のひとつと見なされていた。岩槻城は長禄元年(1457年)に扇谷上杉氏に仕えていた太田道真・太田道灌父子が敵対関係にあった古河公方・足利成氏に備えて築城したのが始まりと考えられてきたが、近年では古河公方方の成田正等による築城と見るのが主流となっている。 その後、北条氏の台頭で扇谷上杉氏は滅び、その旧臣である太田資正は北条氏に対して抵抗を続けたものの、結局岩槻城は北条氏の支城となる。北条氏がこの岩槻を重要な城と見なしていたことが窺える史料に『北条氏岩槻城諸奉行詰番並掟書』がある。それによると、天正5年(1577年)岩槻城には、小旗120余本、槍600余本、鉄砲50余挺、弓40余張、歩兵250余人、馬上500余騎などの1,580余名に、足軽を含めておよそ5,000人の軍勢が常駐していたことがわかる。 豊臣政権の時代となり、天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が降伏、関東に新たに入部した徳川家康も岩槻を関東支配拠点のひとつと見なし、譜代中の譜代の家臣で家康三河時代の三奉行の一人である高力清長に2万石を与えて入部させている。これが岩槻藩の立藩である。清長の嫡男・高力正長は父親に先立って死去し、清長は慶長3年(1608年)に死去した。その跡を嫡孫の高力忠房が継いだが、忠房は元和5年(1619年)9月に遠江浜松藩へ移され、岩槻藩は廃藩となり幕府直轄領となった。 翌年10月20日、下野国内から老中の青山忠俊が4万5,000石で入ったが、元和9年(1623年)10月19日、忠俊は第3代将軍・徳川家光の勘気を蒙って上総大多喜藩へ2万石に減知の上で転封となった。その後に相模小田原藩から阿部正次が5万5,000石で入る。正次は寛永3年(1626年)4月6日、大坂定番に転出して知行を8万6,000石に加増される。正次が大坂に出た後、岩槻の統治は嫡男の阿部政澄が3万石で担当した。しかし政澄が寛永5年(1628年)8月に早世したため、正次の次男で三浦家を継いでいた阿部重次が復姓し、寛永15年(1638年)11月7日、岩槻に5万9,000石で入った(重次は同年に老中になっている)。正保4年(1647年)11月14日に父の正次が大坂で死去すると、重次は正式に家督を相続し、父の遺領に加えさらに1万石を加増されて都合9万9,000石の藩主となった。 慶安4年(1651年)に徳川家光が薨じると、4月20日に重次は殉死し、跡を子の阿部定高が継いだ。しかし定高は万治2年(1659年)1月23日に25歳で早世した。定高には一子阿部正邦がいたがまだ幼少だったため、代つなぎとして三浦家を継いでいた定高の弟・阿部正春が復姓して家督を継いだ。正春は父・重次の遺領のうち1万6,000石(上総大多喜新田藩)を相続していたので、これに兄の遺領を併せて11万5,000石を知行することとなった。しかし藩内では正春の後継に不満を持つ者も少なくなく、寛文3年(1663年)12月に汀騒動と呼ばれる家臣殺害事件が起こった。このようなこともあって寛文11年(1671年)12月19日、正春は兄の遺領9万9,000石と家督を正邦に譲って自身は上総大多喜藩へ移った。天和元年(1681年)、正邦は丹後宮津藩へ移封された。 代わって同年2月、下野烏山藩から板倉重種が6万石で入り、間もなく老中に就任したが、3か月後には失脚して翌年には信濃坂木藩へ移封された。その後には常陸下館藩から老中の戸田忠昌が5万1,000石で入る。忠昌は貞享元年(1684年)に領内の笹山村に幅七尺の山城堀を建造したのち、貞享3年(1686年)1月に1万石加増の上で下総佐倉藩へ移封となった。続いて丹波亀山藩から松平忠周が4万8,000石で入る。忠周は元禄10年(1697年)に但馬出石藩へ移封となったが、その理由には生類憐れみの令との関係が取りざたされた。すなわち、この前年に領内で狼が子供を噛み殺すという事件が発生、忠周は事前に幕閣から許可を得てこの狼を撃ち殺したが、それでもこれで第5代将軍・徳川綱吉の心証を損ない、これが辺鄙な出石への転封につながったというものであるが、真偽のほどは定かではない。 その次には三河吉田藩から老中の小笠原長重が5万石で入る。長重は安永2年(1705年)に埼玉郡内で1万石を加増され、翌年には検地を実施して藩政基盤を固めようとしたが、病を得て安永7年(1710年)5月18日に隠居、跡を次男の小笠原長煕が継いだ。翌年小笠原家は遠江掛川藩へ移され、代わって信濃飯山藩から若年寄の永井直敬が3万3,000石で入る。しかし直敬は同年6月3日に死去し、跡を子の永井尚平が継いだが、その尚平も正徳4年(1714年)8月29日に18歳で夭折した。嗣子が無かったため、尚平の弟の永井直陳が家督を継いだ。直陳は宝暦6年(1756年)に、美濃加納藩へ移された。 このように、藩主家がめまぐるしく変わって藩の支配が定着しなかったが、その後に旗本から若年寄に出世した大岡忠光が藩主として入る。忠光は9代将軍・徳川家重の御側御用人として幕政に影響力を持ち、宝暦元年(1751年)4月には代官支配で旧植村家領の上総勝浦藩を与えられていたが、宝暦6年(1756年)には2万石に加増され、本拠を岩槻城に移した。 これに伴い勝浦領は房総分領として岩槻藩の飛地となり、勝浦陣屋をはじめとする役所や番所を置くとともに、郡奉行が常駐して代官支配を行い、重要検案は江戸藩邸の指示を仰いだ。夷隅郡南方には奥山御林があり、山林資源を産出した。 岩槻藩は大岡家の時代にやっと藩政が安定したものの、3代藩主・大岡忠要の時代に起きた天明の大飢饉で藩内は甚大な被害を受け、その後も天災が相次いで藩政は多難を極め、財政窮乏化が進んだ。このため忠要は有能な人材登用、厳しい倹約を柱とした藩政改革を実施する。5代藩主・大岡忠正の時代には藩校・勤学所と武芸稽古所が設置された。6代藩主・大岡忠固は奏者番・若年寄に栄進したが、この頃に起きた米価昂騰から領内で大規模な百姓一揆が起こった。 アヘン戦争で清が敗れたとの報が幕閣を震撼させると、その余波で海防強化を命じられた岩槻藩は大砲鋳造などで財政が逼迫した。弘化2年(1845年)4月1日には前年炎上した江戸城本丸の普請奉行を務めた功により3,000石が加増されたが、それも文字どおりの焼け石に水だった。忠固は嘉永5年(1852年)7月4日に死去、跡を子の大岡忠恕が継いだ。忠恕の時代には幕末の動乱に天災が重なり、さらには岩槻城の本丸焼失などの不幸が相次いで、財政は破綻寸前となった。このような中で忠恕は慶応2年(1866年)3月29日に隠居して家督を長男の大岡忠貫に譲った。慶応3年12月(1868年1月)の江戸薩摩藩邸の焼討に庄内藩、上山藩、鯖江藩と共に加わる。しかし翌慶応4年に始まった戊辰戦争では一転して新政府に帰順し、幕府軍追討に功を挙げた。翌年の版籍奉還で忠貫は知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で岩槻藩は廃藩となる。大岡家はその後、子爵に叙せられた。
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藩史
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[全画面表示] 関連地図(香取市周辺) 天正18年(1590年)、徳川家康が関東入封に際して、青山成重は下総国香取郡で3000石を領した。その後、慶長6年(1601年)に下総国内で2000石、慶長8年(1603年)12月25日に下総国内で5000石を加増されて1万石の大名に列し、これにより飯田藩が立藩した。陣屋は下飯田の西音寺付近に置かれていたとされる。 成重は慶長13年(1608年)に老中となったが、大久保長安の三男(青山成国)を養子として迎えていたことから、慶長18年(1613年)8月、大久保長安事件に連座して加恩の地7000石を没収され、下総国香取郡に閉居となった。これにより、飯田藩は廃藩となった。元和元年(1615年)9月7日、青山成重は赦免を受けないまま、采地の飯田で没した。 なお、下飯田村(852石)は幕末まで青山家の所領であった。
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藩史
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天正18年(1590年)8月、徳川家康が関東に移封されると、家康の家臣である三浦重成は上総国山辺郡、下総国印旛郡などに1万石の所領を与えられ大名となった。当初の本拠は佐倉(本佐倉)であるという。 文禄4年(1595年)に重成は豊臣姓を下賜された。慶長7年(1602年)には家康から3千石の加増を受けている(この際に佐倉から近江国に移封されたという)。 重成は男児に恵まれず、阿部正次の子・重次を娘婿に迎えて後継者にしようとした。重次は大坂の陣では、重成の代理として参加している。 しかし老齢になって、重成に実子の重勝が生まれたため、重次は後継者の地位を辞退する。そのため重成は、重次に近江国浅井郡3千石の所領を分与し、分家を立てさせた。 重成の没年は不詳であるが、元和元年(1615年)の大坂の陣の際には病気にかかっていたとされる。慶長末年ないしは元和年間に重勝が後を継いだと見られ、寛永元年(1624年)12月に父の遺領を継いだ重勝が従五位下に叙せられた記録がある。寛永4年(1627年)には、大網にあった方墳寺が、禁教とされた日蓮宗不受不施派の教義を布教したとして重勝に焼き払われている。 しかし寛永8年(1631年)8月、重勝が継嗣のないまま死去し、三浦家は無嗣改易となった。 大網の蓮照寺には三浦監物家に関連する二基の供養塔がある。一基は三浦監物重勝の供養塔で、もう一基は「三浦監物」(重勝あるいは重成)が一族の日寛上人を供養したものである。『千葉県教育振興財団研究紀要 第28号 房総における近世陣屋』は、大網を城地と示唆している。
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藩史
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小田原征伐後に関東に入部した徳川家康は、尾張国出身の譜代の家臣・西尾吉次に5000石を与えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで戦功を挙げた吉次は、慶長7年(1602年)に美濃国内に7000石を加増され、合計1万2000石を領する大名となり、原市藩が立藩した。菩提寺となる妙厳寺や地蔵堂を再興する。吉次は慶長11年(1606年)に死去し、跡を子の西尾忠永が継いだ。忠永は元和2年(1616年)に上野国白井藩へ移封となったため、原市藩は廃藩となり、その所領は幕府領となった。現在でも、藩の陣屋を構えた上尾市上尾下の字名が陣屋として残っている。また、同時に上村(上尾市上)にも陣屋を設けたという。
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藩史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/20 04:20 UTC 版)
西尾光教は斎藤家、織田家、豊臣家に仕えて曽根に2万石を領していた。関ヶ原の戦いで光教は西軍の大谷吉継の制止を振り切って徳川家康に与したため、怒った吉継によって曽根は焼き払われた。その後、光教は岐阜城・大垣城攻撃などで戦功を挙げたため、1万石を加増されて曽根城から揖斐に移って3万石を領する大名となり、揖斐藩が成立した。元和元年(1615年)の大坂夏の陣においても徳川方に与して戦功を挙げたが、同年11月19日、駿府にて73歳で死去した。光教には嗣子がなく、甥の西尾嘉教が跡を継いだ。このとき、嘉教は織田信長から拝領していた「唐絵茄子」の掛軸を家康に献上して、家督相続を認めてもらったとも言われている。なお、光教の養子である西尾氏教は大野・加茂両郡において5000石を分与された。 しかし元和9年(1623年)4月2日、嘉教は嗣子なくして34歳で死去した。揖斐藩は無嗣断絶となり、廃藩となった。
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藩史
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藩祖は徳川家譜代の家臣・安部信盛である。信盛の祖父・元真は元々今川家の重臣であったが、武田信玄が今川家を滅ぼした際に多くの重臣が武田家に従う中で、元真は徳川家康に従って武田家と戦い続けた武将として知られている。信盛は慶長5年(1600年)に父・信勝が死去したために家督を継ぎ、同年の関ヶ原の戦い、慶長19年(1614年)からの大坂の陣などに軍功を挙げ、大番頭・大坂定番などに出世し、慶安2年(1649年)に1万9250石の所領を領して諸侯に列し、岡部藩を立藩した。信盛は寛文2年(1662年)3月6日に隠居して家督を安部信之に譲った。このとき、信之は2人の弟に1000石ずつを分与している。寛文8年(1668年)、信之は大坂定番に転身したため、3000石を三河国宝飯郡に加増され、2万250石を領することとなる。信之の跡を継いだ安部信友は天和2年(1682年)4月には大番頭に任じられ、2000石を加増された。元禄14年(1701年)3月8日に信友は死去し、跡を子の信峯が継ぐはずであったが、同年に忠臣蔵で有名な浅野長矩による刃傷事件が起こると、信峯は長矩の従兄に当たったことから連座で出仕を止められ、家督相続も保留となった。しかし、同年6月29日に家督を継ぐことを許され、第4代藩主となった。 安部家の歴代藩主の多くは、大坂定番・加番などを務めている。第7代藩主・安部信允もやはり大坂定番を務め、藩校・就将館を設置している。幕末期である第12代藩主・安部信宝は罪人とされた兵学者の高島秋帆の身柄を預かった。ただし秋帆は藩内で比較的自由であり、藩士らに洋式の砲術や歩兵術を教授し、これが岡部藩兵の近代化に貢献した。 信宝もまた、幕末の動乱で激動する大坂・京二条の定番を務め上げたが、心労が祟ったのか文久3年(1863年)7月6日に死去した。その跡を継いだ最後の藩主・安部信発であったが、翌年、水戸藩の武田耕雲斎らによる天狗党の乱に際し、岡部領周辺を通過しようとした天狗党と大砲2門を備えた岡部藩兵が交戦し、天狗党を敗退させる武功を挙げている。信発は慶応4年(1868年)3月、勅命により上洛し、新政府に恭順を誓った。この時、信発は新政府に対して本拠を三河半原藩に移すことを嘆願し、同年4月3日に許された。このため、以後の安部家中は半原藩として存続する。 安部家は武蔵国岡部を本拠としていたが、三河半原や摂津桜井谷・瓜生にも所領が分散していた。2万石余りのうち、本国武蔵と隣国上野には合わせても5千石程度の所領しかなく、飛地であるはずの摂津に約8千石、三河に約7千石といういびつな所領形態を有していた。 関東における岡部藩領の豪農からは、幕末に渋沢栄一、渋沢成一郎、尾高惇忠などが輩出している。渋沢家や尾高家は苗字帯刀を許されてはいたものの、彼らは藩内では名主やその子弟の身分であったが、渋沢栄一と成一郎は一橋家時代の徳川慶喜の下で士分に取り立てられ、慶喜の将軍就任後は直参旗本となっている。
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新庄直頼は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、西軍に属したため、戦後に摂津国高槻の所領を没収されていたが、後に許されて徳川家康に召し出され、1604年、常陸国行方、河内、新治、真壁、那珂、下野国芳賀、都賀、河内8郡内に3万石300石余の所領を賜った。ここに常陸国行方郡麻生を居所に麻生藩が立藩された。 第2代藩主・新庄直定は父の遺領2万7300石余を継ぎ、弟の新庄直房に3000石を分与している。直定は元和2年から没するまで幕府の奏者番をつとめた。第3代藩主・新庄直好の時、元和8年に下野国内の領地1万石を常陸国新治郡に移された。直好は継嗣が無く、養子の新庄直時を嗣子としていたが、万治3年(1660年)に62歳という高齢になってから実子の新庄直矩が生まれた。しかし直好は寛文2年(1662年)に死去してしまい、3歳の幼児に跡を継がせるわけにもいかず、直時がそのまま跡を嗣いだ。延宝2年(1674年)、直矩が15歳に成長すると、直時から直矩に家督が譲られた。このとき、隠居した直時に藩領から鹿島郡内7000石が分与され、麻生藩は2万石余となる。ところが2年後の延宝4年(1676年)、17歳で急死した上に直矩には継嗣が無く、新庄家は江戸幕府に無断で後継者を擁立しようとしたこともあって改易された。 しかし幕府は、7000石の旗本となっていた前藩主の直時に、その旗本領に3000石を加増して常陸国行方、新治郡内1万石の所領を与えて再勤を認め、麻生藩の再興を許した。 以後、新庄家の支配で明治時代にまで至った。
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堀秀政の弟・堀利重は、関ヶ原の戦いでは徳川家とへ人質として差し出されていた。しかし徳川家臣として召しだされて8000石を与えられ、関ヶ原でも武功を挙げている。慶長19年(1614年)、大久保忠隣が失脚すると、利重は忠隣の縁者であることから奥平家昌預かりの身となって下野宇都宮藩に蟄居となった。しかし大坂の陣で武功を挙げたことから罪を許され、1622年、新たに常陸新治郡に1万石を与えられて玉取藩を立藩した。 利重はその後、書院番頭、大番頭、寺社奉行など要職を歴任したため4000石の加増を受け、寛永15年(1638年)に死去した。死後、家督は長男の堀利長が継いだ。このとき、弟の堀利直に2000石を分与している。しかし利長には男児がなかったため、養嗣子として堀通周を迎えて、万治元年(1658年)閏12月に家督を継がせた。 しかし通周は延宝7年(1679年)12月に発狂して家臣を殺害したため、幕命により改易され、玉取藩は廃藩となった。その後、玉取堀家は堀利雄(通周の実弟・養子)が3000石の交代寄合となって名跡存続を許された。
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天和2年(1682年)2月、郡山藩で起こった九・六騒動の張本人の一人・本多政利は幕府からその責を問われ、6万石のうち3万石を返還した上で新たに3万石が加えられるという形で播磨明石藩に移封されたが、その地で過酷な政治を行い、また巡検視への対応も粗雑だったことを咎められ、6万石から大久保1万石に減移封されて立藩することとなった。政利はここで藩政の再建を図ったが、年貢割付状によればその年貢率は幕領だった時代よりも高く、賦課は倍に、その上夫金が新たに取り立てられていた。 元禄6年(1693年)6月に改易され、政利は庄内藩の酒井忠真預かりの身となった。改易の理由は『徳川実紀』によれば「平常の言行不良なれば、さきにもいましめられしに、こたび罪なき婢を殺したるにより、所領一万石収公せられ」とあり、統治能力と性向の不備を咎められてのものだった。本多政長の毒殺と転封の経緯、何よりその統治により政利を嫌う者は大久保藩領にあり、庄内藩に預かりの身となった正利が須賀川市の日に通りかかったが、「誠に迷惑なる事どもと、皆々申され候」という声があがったと言われている。こうして大久保藩は廃藩となり、その所領は幕府直轄となった。
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慶長6年(1601年)姫路藩主池田輝政の甥・由之が2万2千石を領内平福に分与された。中世の城郭・利神城を5年を要して近代城郭へと大改修した。由之は慶長14年(1609年)に3万2千石に加増され、備前国下津井城の城番に転出した。 元和元年(1615年)に輝政の次男の忠継が死去し、三男の忠雄が岡山藩主を継ぐと、六男池田輝興は母・良正院の遺領分のうち佐用郡など2万5千石を分与されて、平福藩が立藩した。しかし、わずか5歳での藩主就任であったため、藩政は家臣団によって取り仕切られた。寛永3年(1626年)、輝興が元服し従五位下を叙任してからは、藩主を中心とした政治が行われ、民政に力が入れられた。寛永8年(1631年)、赤穂藩主だった輝政の五男の政綱が継嗣なく死去したため赤穂藩を嗣ぐこととなり、平福藩は廃藩となった。 その後、平福には旗本松平康朗が5千石で入り、明治までこの地を治めた。
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天明7年(1787年)10月、老中田沼意次が失脚して隠居謹慎処分となった後、田沼家の家督は意次の孫(暗殺された田沼意知の子)の田沼意明が継いだ。意次は遠州相良藩5万7000石を領していたが、処罰により1万石に減移封された上で、下村藩を立藩することとなった。田沼家はその後、意明から弟の意壱と意信、意次の弟の孫(別家の旗本家として続いていた)の意定へと継がれ、第5代藩主には意知の弟の田沼意正が就く。意正はかつては水野忠徳と名乗り、老中水野忠友の養子となっていたが、父の失脚に伴ってその養子縁組を解消されていた。しかし、文政元年(1818年)に忠友の跡を継いだ水野忠成が老中になると、意正も若年寄に抜擢され、幕政に参与した。 文政6年(1823年)、忠成や将軍徳川家斉の計らいもあって、意正は意次時代の旧領の相良へ再び移されることとなり、下村藩は廃藩となった。田沼家が再び相良へ戻ることには幕閣の多くが反対したが、家斉はかつて意次が自身の将軍就任に協力したこと、意正自身に見所があったこと、さらに意次の名誉回復の意味もあって、反対を押し切ったと言われている。
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小田原征伐後、徳川家康が関東に入り、江戸城主となると、家康は松平家清を1万石で児玉郡八幡山に配領し、立藩させた。こうして家清は父・清宗を伴って八幡山城に居住した。藩政は父清宗が専任し、家清は天正19年(1591年)、九戸一揆(九戸政実の乱)の鎮圧や関ヶ原の戦いに従軍し、尾張国清洲城の城番を担当した(父に藩事を任せた形になる)。その後、家清は慶長6年(1601年)に加恩3万石を得て、三河国吉田に転封し、八幡山藩は江戸時代を迎える前に廃藩となり、約11年という短い藩史に幕をとじた。
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太田重正の次男・資宗は、徳川家光に仕えて5600石の大身旗本となった。さらに松平信綱や阿部重次、三浦正次、阿部忠秋、堀田正盛と並んで家光側近六人衆の一人にまで栄進したため、寛永12年(1635年)、下野国山川に1万石の加増を受けて1万5600石で大名に列した。しかし3年後の寛永15年(1638年)、資宗は三河国西尾藩に移封となったため、山川藩は廃藩となった。
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慶長18年(1613年)、北条氏勝の養嗣子の氏重が下総岩富藩から1万石で下野富田に入ったことにより、富田藩が立藩した。大坂の陣で戦功を挙げ、さらに江戸城の普請役や日光東照宮の普請役、さらに伏見城の城番などを務めた功績を賞されて、元和5年(1619年)、氏重は富田から遠江久野藩に移封され、富田藩は廃藩となった。
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戦国時代、臼井は千葉氏の家臣・原氏が治めていた。小田原征伐で原氏が滅亡した後、徳川家康の関東入部で三河国吉田を領していた酒井家次が3万石で臼井に入り、臼井藩を立藩した。家次は徳川四天王の筆頭・酒井忠次の嫡子である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで家次は徳川秀忠軍に属して上田城の真田昌幸攻めに参加した。 家次は慶長9年(1604年)12月、上野国高崎藩に加増移封となった。臼井藩は廃藩となり、その所領は幕府領となった。元禄14年(1701年)からは佐倉藩領として組み込まれている。
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藩史
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戦国時代に宇都宮家が支配していた真岡は、江戸時代の慶長6年(1601年)、豊臣家で五奉行を務めていた浅野長政の三男・長重が2万石で入ることで真岡藩が立藩した。長重は町割りや城下町の整備などに尽力した。慶長16年(1611年)、父が死去した時、父の隠居料であった常陸真壁藩5万石の所領を継ぐこととなった長重は真壁に移った。 代わって堀親良が1万2000石で入った。親良は大坂の陣で戦功を挙げたため、元和4年(1618年)に5000石を加増された。親良も城下町建設に尽力した。寛永4年(1627年)、親良が下野烏山藩に加増移封された後、稲葉正成が2万石で入った。 正成は小早川秀秋の家老だったが、秀秋没後は徳川家の家臣となって福井藩主・松平忠昌付家老を経て大名となった。しかし翌年に正成は58歳で死去し、跡を正成の子・正勝が自分が領していた柿岡2万石と父の遺領である2万石の合わせて4万石を継いで藩主となった。正勝はその後、徳川家光のもとで老中となり、加藤忠広改易のときの事後処理などを担当した功績から、寛永9年(1632年)に相模小田原藩に加増移封された。これにより真岡藩は廃藩となり、その所領は小田原藩の飛び地領を経て、天明3年(1783年)からは幕府直轄となった。
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[全画面表示] 関連地図(千葉県富津市付近) 慶応4年/明治元年(1868年)5月、徳川宗家当主徳川家達は新政府から駿府藩主として認められ、70万石の領主として駿河・遠江に入ることとなった。これに伴って同年9月、遠州相良藩主・田沼意尊(1万石)が周准郡・天羽郡内に移封されたことにより立藩した。 意尊は、第10代将軍・徳川家治のもとで老中を務めた田沼意次の曾孫である。翌明治2年6月、版籍奉還により意尊は小久保藩知事となるが、同年12月に病死した。養嗣子の田沼意斉(実父は大岡忠恕)が家督を相続した。 明治2年、意斉は弁天山古墳の南西麓に小久保陣屋の建設に着手したが、完成したかどうかは不明である。藩庁・県知事邸・役所用地などからなる小久保陣屋は現在の富津市中央公民館周辺に位置しており、記念碑が建つ。藩校「盈進館」は明治3年(1870年)に開設され、英語教育も行われていた。 明治4年(1871年)の廃藩置県により廃藩となった。小久保藩の存続期間は4年間であり、小久保も陣屋町として大きく発展したわけではなく、明治の町村制施行に伴って大貫村に含まれることとなった。
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藩史
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徳川家康が関東入国すると、天正18年(1590年)に松平家広が松山城と1万石を与えられて立藩した。のちに3万石に加増された。しかし、家広は慶長6年(1601年)、25歳で病死する。異父弟の忠頼が継ぐが、加増されて遠江国浜松城に5万石にて移封し、松山藩は廃藩となった。
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藩史
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小田原征伐後、関東に入った徳川家康は、松井松平家の松平康重を2万石で入れ、騎西藩(私市藩)が成立した。慶長6年(1601年)11月、康重は常陸国笠間藩へ3万石で加増移封となり、その後に大久保忠隣の嫡男・大久保忠常が2万石で入ったが、忠常は慶長16年(1611年)10月、父の忠隣に先立って早世する。死後、家督は子の大久保忠職が継いだ。慶長19年(1614年)、祖父・忠隣が改易されたとき、忠職は幼少であるということから改易を免れたが、騎西城での蟄居を余儀なくされた。寛永2年(1625年)に忠職は罪を許され、寛永9年(1632年)に3万石加増の上で美濃加納藩へ加増移封となった。騎西城は廃城、騎西藩は廃藩となった。その後、騎西は川越藩領となる。
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藩史
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戦国時代、皆川は松平忠輝の後見人になったことで知られる皆川広照が治めていた。広照は小田原征伐のとき、北条家に与したが徳川家康に降伏し、所領1万3000石を安堵された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで広照は常陸国の佐竹義宣を牽制した功績を賞されて、3万5000石に加増された。慶長8年(1603年)、広照は忠輝が川中島藩に移ったのに伴って、信濃飯山藩7万5000石に加増移封となり、皆川藩は廃藩となった。 寛永17年(1640年)、上総百首藩から松平重則が1万500石で入り、皆川藩が再立藩する。重則の跡は重正が継いだが、重正は寛文2年(1662年)9月2日に死去した。跡を重利が継いだが、重利は寛文5年(1665年)3月24日に7歳で夭折した。当然、嗣子がいるはずも無く、能見松平家は無嗣改易となり、皆川藩は廃藩となった。 元禄12年(1699年)、上野・武蔵・相模などに1万石を領していた若年寄の米倉昌尹が5000石加増の1万5000石で入る。昌尹は同年7月12日に死去し、その跡を継いだ第2代藩主・昌明のとき、弟の昌仲に3000石を分与したため、1万2000石となった。昌明は元禄15年(1702年)4月25日に死去し、その跡を昌照が継いだ。昌照は正徳2年(1712年)5月23日に死去し、跡を忠仰が継いだが、忠仰の代である享保7年(1722年)、居館を武蔵六浦藩に移したため、皆川藩は廃藩となった。
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上総苅谷藩主であった譜代大名の堀直良は、寛文8年(1668年)12月に陣屋を苅谷から市原郡八幡に移し、上総八幡藩が立藩した。直良は元禄4年(1691年)2月に49歳で死去し、跡を子の堀直宥が継いだ。直宥は元禄11年(1698年)3月に越後椎谷藩に移され、八幡藩は廃藩となった。
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堀直景は500石を領していたが、寛永19年(1642年)閏9月に父・堀直之の遺領である9500石を継いで合計1万石を領し、譜代大名として上総苅谷藩を立藩した。ちなみに直景は書院番を務めたことから2000石を領していたため、本来なら父の遺領と併せて1万1500石の大名となるはずであるが、相続と同時に1500石を弟の堀直氏に分与したことから1万石となった。直景は寛文8年(1668年)8月に家督を嫡男の堀直良に譲って隠居、まもなく出家して宗三と号した。直良は同年12月に陣屋を苅谷から上総国市原郡八幡に移したため、上総苅谷藩は廃藩となり、以後の堀家は上総八幡藩として存続した。
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元和2年(1616年)7月、下総国相馬郡に加増を受けた本多正重は1万石で大名に列し、舟戸藩が立藩した。しかし翌元和3年(1617年)、正重の跡を継いだ養子の正貫は所領を減らされて8000石で相続することになり、1年足らずで舟戸藩は姿を消した。 元禄元年(1688年)、正貫の孫の正永が寺社奉行にまでなったことから1万石に加増され、再び舟戸藩が立藩した。正永は元禄14年(1701年)に上総・下総国内において5000石を加増され、翌年には上野沼田藩に移封となり、舟戸は沼田藩の飛び地となった。その後、本多家は享保15年(1730年)に駿河田中藩に移されたが、舟戸は田中藩の飛び地領として廃藩置県まで続いた。
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徳川家康の家臣として甲斐国巨摩郡切石1万石を領していた菅沼定政は、小田原征伐後に家康が関東に移されると、北条軍に加わって改易された下総相馬氏の旧領である相馬郡に移されることとなった。これが守谷藩の起源である。文禄2年(1593年)、立藩と同時に母方の菅沼姓から本来の土岐への復姓が認められた。慶長2年(1597年)3月に定政は死去し、跡を次男の土岐定義が継いだ。定義は元和3年(1617年)に摂津国高槻藩に加増移封となったため、守谷藩は一時幕府直轄領となり、岡登甚右衛門と浅井八右衛門が代官となった。土岐定義は高槻で没し、その子土岐頼行が継いだが、12歳であったため減封となり、3年後に再び守谷城に戻った。やがて土岐頼行は元和4年(1618年)に山城守の受領名を受け、2万5千石に加増されて寛永4年(1627年)、出羽上山に移された。再び守谷は幕府直轄となり伊丹播磨守の代官支配の後、寛永19年(1642年)に堀田正盛が信州松本から13万石で佐倉城に入った時に佐倉藩領になった。正盛の三男正俊は1万3000石給与で守谷領を継いだが、守谷城には入城しなかった。天和元年(1681年)、最後の城主酒井忠挙が転封になるまでの91年間、城下町としての繁栄をみたが、その後に関宿藩久世家の領地になり、城下町でなくなってからは衰微して、周辺の農村と全く同じような環境となった。
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藩史
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船形陣屋 関連地図 藩主となる平岡道弘は、旗本大番席藤沢次和の子であるが、文政3年(1820年)に西丸小納戸頭平岡道忠の養子となり、文政5年(1822年)に初めて書院番になった。12代将軍徳川家慶、13代将軍徳川家定時代の側衆で南紀派であり、信濃上田藩主松平忠固に与して井伊直弼の大老就任を実現させるなど、多くの役職を務めた。 元治元年(1864年)10月、道弘は加増を受けて1万石の大名に列し、船形藩が立藩した。翌慶応元年(1865年)には船形村で陣屋建設を開始している。 慶応4年/明治元年(1868年)2月、道弘は江戸城を退去する徳川慶喜に随身した。7月には領地を安房上総監察兼知県事柴山文平へと引き渡し、版籍奉還に先立って自ら廃藩とした。その後、道弘は徳川将軍家に従い、静岡藩大参事(家老)となっている。
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譜代大名の米津政武は武蔵をはじめ、下総国・河内国・摂津国・上総国などに1万2000石の所領を領していた。だが、貞享元年(1684年)に武蔵埼玉郡・多摩郡・下総国印旛郡をはじめとする領地替えを行なわれて、久喜に陣屋を置いたことから、久喜藩が立藩された。政武は貞享4年(1687年)5月18日に寺社奉行となり、元禄11年(1698年)11月11日に隠居して家督を長男の米津政矩に譲った。しかし政矩は元禄16年(1703年)1月15日に父に先立って早世する。このため、弟の米津政容が第3代藩主となった。政容は大坂定番にまでなっている。第4代藩主・米津政崇も大番頭・大坂定番を務めている。第5代藩主・米津通政の代である寛政10年(1798年)7月6日、武蔵国内の所領6400石を出羽国村山郡内に移されたとき、久喜陣屋も廃して長瀞陣屋を置いたため、以後、米津家は長瀞藩主として存続した。
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幕末期の長瀞藩は、出羽国村山郡長瀞(現在の山形県東根市大字長瀞)に陣屋を構える1万1000石の小大名であったが、所領は出羽国・上総国・下総国に分散していた。米津政敏は慶応元年(1865年)に藩主となるが、定府の大名であり、藩士の多くも江戸に詰めていた。慶応4年/明治元年(1868年)の戊辰戦争において、長瀞周辺は庄内藩軍と新政府軍の戦場となり長瀞陣屋を焼失(天童の戦い参照)、また関東の飛び地領には旧幕府脱走兵が入り込み金品や食糧を要求するなど、藩政は混乱状態に陥った。 明治2年(1869年)春、長瀞藩士は東京を引き払い「一藩残らず」大網村に移転した。大網村は米津氏の所領として長い歴史と大きな規模(1000石余)を持つ村で、大網が移転地とされたのもこうした事情による。 同年6月に版籍奉還を経て知藩事に任命された政敏は、8月に太政官の事務局でもある弁官に、政敏が大網に「暫時」移住し、長瀞へは執政の者を派遣することの願いを出して許可された。次いで10月22日付で藩の本拠を大網に移転して「大網藩知事」とするよう願いを出し、11月2日付で許可された。これにより大網藩が立藩する(立藩の日付について千葉県ウェブサイトでは明治2年(1869年)11月11日とする)。この際、長瀞村を含む羽前国内の旧領4村は酒田県(第1次)に編入され、代地が武蔵国内に与えられた。大網藩は仮藩庁を大網村の日蓮宗寺院蓮照寺に置き、中世の大網城の南麓(現在の大網白里市立大網小学校敷地付近)で陣屋の建設に着手した。 明治4年(1871年)2月15日、政敏は常陸国河内郡龍ヶ崎村(現在の茨城県龍ケ崎市)に藩庁を移した(以後、龍ヶ崎藩と称する)。これにより「大網藩」は1年3か月で消滅した。大網をはじめとする下総国・上総国所在の旧領は宮谷県・若森県・葛飾県に移管された。
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[全画面表示] 関連地図(千葉県山武市付近) 明治元年(1868年)5月、駿河国・遠江国・三河国に徳川家達が入ったため、遠江国掛川藩主であった太田資美が上総国武射・山辺郡内に移封となった。資美は同年7月に武射郡柴山村の観音教寺に仮藩庁を設置し、これにより「柴山藩」が立藩した。所領は5万3350石である。 翌明治2年(1869年)6月、版籍奉還をうけて知藩事に任命されると、それまで寺に間借りをしていた仮藩庁の地であった柴山から、新たに新藩庁の地として武射郡大堤、田越、猿尾、八田などの入会地の山林原野を同年9月より開拓して町割りと縄張りを行い「松尾城」の築城を開始した。この城は西洋風の稜堡式要塞(多角形要塞)の形状を取り入れた城である。「松尾」とは資美の旧領であった遠江国掛川の掛川城の別称であり、これにちなんで開拓地も松尾と命名した。翌明治3年(1870年)11月に藩庁と知事邸、および城下町が一応は完成。明治4年(1871年)1月に正式に松尾へと移り、「松尾藩」と改称した。 上総移転から廃藩まで、わずか4年足らずの存続期間であったが、資美は藩の基礎を固めるため、藩校である「教養館」や病院「好生所」などの創設に尽力した。特にこの病院は、貧乏人には無料で回診し、70歳から80歳以上の者には扶持を与えるなど、資美は福祉政策に力を注いだ(柴山時代には「仮好生所」として柴山村大善寺内に開設していた)。さらに資美は財政政策のため、物産会所を設置し、養蚕を奨励した。 明治4年(1871年)7月の廃藩置県で、城すら未完成のまま、松尾藩は廃藩となって松尾県となった。その後しばらく松尾城に県庁を置くが、同年11月木更津県に合併された。
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明治4年(1871年)2月17日(新暦4月6日)、上総国大網藩知事であった米津政敏が藩庁を常陸国河内郡龍ヶ崎村に移したことから、龍ヶ崎藩が立藩した。こうして成立した龍ヶ崎藩だが、長瀞藩時代からの財政難は引き継がれて財政は破綻寸前となり、新政府に5000両を嘆願したものの望みが叶うことはなかった。同年7月15日(新暦8月30日)の廃藩置県により政敏は藩知事を免官、龍ヶ崎藩は廃藩となり、龍ヶ崎県に代わった。
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寛政10年(1798年)7月6日、譜代大名の米津通政が武蔵国久喜藩より長瀞に入ったことから立藩した。通政は武蔵国・下総国・上総国・常陸国にそれぞれ所領を持つ大名であった(所領合計は1万1000石)が、武蔵の所領6400石を出羽村山郡に移されたことから、長瀞藩が立藩することとなったのである。しかし1万石少々がやっとの小藩だった上、所領が5ヶ国にも散在していたため、城持大名にはなれず、長瀞に陣屋を置くだけであった。 初代藩主となった通政は治績に見るべきところもなく、寛政11年(1799年)12月に家督を子の米津政懿に譲って隠居し、文政2年(1819年)6月13日に死去した。第2代藩主・政懿は日光山の祭祀奉行や大坂定番を歴任し、嘉永6年(1853年)12月に死去した。その後、家督は養嗣子の米津政易(酒井忠器の十男)が継いだが、政易には嗣子が無く、弟の米津政明(忠器の十一男)を養嗣子として迎えて万延元年(1860年)5月9日に隠居した。 跡を継いだ政明のとき、藩内で攘夷討幕を叫ぶ声が高まり始める。政明は農民30余名を兵として取り立てて農兵を組織し、軍事改革を進めるなど、それなりの手腕を見せていたが、藩内をまとめるだけの力が無く、慶応元年(1865年)12月11日に子の米津政敏に家督を譲って隠居してしまった。 政敏が跡を継いだ翌年、東根山内で兵蔵騒動(村山世直し騒動)と呼ばれる事件が起こり、藩は混乱した。戊辰戦争後、政敏は版籍奉還を行なって長瀞藩知事となる。版籍奉還後、政敏は陣屋を長瀞から上総大網村に移したため、大網藩と改称され、政敏は翌1871年2月2日に大網藩知事となった(更に同藩は常陸国龍ヶ崎村に移って龍ヶ崎藩となる)。そして同年5月9日、長瀞領は山形県に編入されることとなった。
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天正18年(1590年)の小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人・本多忠勝に上総国に10万石を与えた。忠勝は当初は万喜城に入城したが、遅くとも天正19年(1591年)までに居城を大多喜城に移した。これが大多喜藩の起源である。忠勝は武田信玄や織田信長にもその武勇を認められ、「家康に過ぎたる者」とまで言われた武将である。忠勝は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本隊に属して本戦に出陣し、武功を挙げたため、戦後に伊勢国桑名藩に移された。忠勝の本家は長男の忠政が継ぐ予定だったため、大多喜には5万石で次男の忠朝が残った。忠朝は領内の検地を実施して藩政の固めに専念したが、大坂夏の陣で戦死した。家督は甥の政朝が継いだが、元和3年(1617年)9月、播磨国龍野藩に移され、代わって武蔵国鳩ヶ谷藩から阿部正次が3万石で入った。元和5年(1619年)9月、正次は相模国小田原藩に移されたため、大多喜藩は一時的に廃藩となった。 元和9年(1623年)10月、青山忠俊が徳川家光の勘気を被って老中を罷免され、武蔵国岩槻藩から減移封となって2万石で大多喜に入る。寛永2年(1625年)、忠俊は改易され下総国網戸に蟄居となったため、大多喜藩は廃藩となった。 一方、阿部正次は小田原を経て武蔵国岩槻藩へ転封する間も上総夷隅郡の所領は保持していたが、寛永15年(1638年)4月に孫の阿部正令(正能)が1万石を分与され、大多喜藩を再立藩した。正次の死後、岩槻はその子の重次が継いでいたが、重次は慶安4年(1651年)に将軍徳川家光の死に際して殉死した。重次の死後、正能は6千石を分与されて1万6千石を領する大名となる。翌年、正能は武蔵国忍藩主阿部忠秋の養子となったため、6千石を阿部定高に返還している。そして正能は寛文11年(1671年)5月25日、武蔵忍藩を継ぐこととなり、代わって大多喜には同年12月、岩槻藩主であった阿部正春が1万6千石で入った。正春は元禄15年(1702年)9月7日、三河国刈谷藩に移される。なお、阿部家時代の大多喜藩は岩槻藩の支藩的存在であったが、正春に代わって岩槻藩主を継いだ阿部正邦が天和元年(1681年)に丹後国宮津藩へ移封されたことで分離している。 入れ替わりで、徳川綱吉政権下で若年寄を務めていた稲垣重富が2万5千石で入る。ところがわずか21日間で、城地が狭すぎるという理由から下野国烏山藩に移った。代わって相模国玉縄藩から大河内長沢松平家の松平正久が2万石で入ったことにより、ようやく藩主家が安定した。最後の藩主松平正質は、幕末期に老中格・若年寄・奏者番などを歴任した。明治元年(1868年)の戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いでも幕府軍の指揮を任されたが、大敗を喫して江戸へ逃れた。その後、正質は戦犯として新政府から官位と所領の没収を宣告され、佐倉藩に幽閉された。大多喜城と領地は当初は佐倉藩、後に三河吉田藩の管理下に置かれていたが、請西藩や旧幕府部隊(撤兵隊・遊撃隊)などの誘いに応じなかったことが評価されて、同年8月に宥免されて正質の所領・官位は共に旧に復した。翌年の版籍奉還で正質は知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で大多喜藩は廃藩となって大多喜県となった。その後、木更津県を経て千葉県に編入された。
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戦国時代、江戸崎は土岐氏が支配していたが、天正18年(1590年)の小田原征伐によって滅ぼされた。その後江戸崎には、常陸国一国を支配していた佐竹義宣の弟である蘆名盛重が4万5,000石で入った。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで義宣は東西どちらにも付かずの行動をしてしまい、盛重も兄の行動に追従したため、戦後に徳川家康によって佐竹氏は出羽秋田藩に減移封処分となり、蘆名氏もそれに追従して出羽角館1万6,000石に減移封となった。 慶長8年(1603年)、本多正信や内藤清成らと並んで関東総奉行を務めた徳川氏譜代の家臣・青山忠成が1万石で入ったことにより江戸崎藩が立藩する。なお、忠成の嫡子・青山忠俊は父と別に5,000石を領していたが、徳川家光の後見人となったため、慶長15年(1610年)に下野国都賀郡鹿沼において5,000石を加増され、独立した1万石の大名となっている。慶長18年(1613年)、忠成が死去したため、忠俊がその遺領を相続して3万5000石を領することとなった。元和2年(1616年)には老中に栄進し、元和6年(1620年)には1万石を加増の上で武蔵岩槻藩に加増移封となった。 その後、常陸古渡藩より丹羽長重が2万石で入るが、元和8年(1622年)に3万石加増の上で陸奥棚倉藩へ加増移封となり、江戸崎藩は廃藩となった。
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上有知は、豊臣政権時代に佐藤秀方が2万5,000石をもってこの地に封じられていたが、その子方政は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に加担して岐阜城の戦いにおいて戦線離脱したため、戦後になって改易された。 一方、方政の叔父で飛騨一国を支配する金森長近は東軍に与して戦功を挙げたため、戦後に所領として上有知1万8000石を加増された。これを機に家督を養子の可重に継がせて自身は鉈尾山城に入った。後に小倉山に新城を築いて移り住み、上有知の殖産興業化を目指し、牧谷地域の製紙業を発展させ、城下町の建設にも尽力した。 慶長13年(1608年)8月、長近が死去すると、可重が高山城を居城として飛騨高山藩を統治し3万8000石、上有知藩は次男の長光が2万石で統治した。だが、慶長16年(1611年)10月、長光は6歳で夭折したため、上有知藩は廃藩となった。
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「本堂氏」も参照 本堂氏は源頼朝の末裔を自称し、戦国時代後期には出羽国本堂城(秋田県美郷町)を中心に勢力を有した小領主であった。関ヶ原の戦いの際、本堂茂親は出羽国の抑えを務め、小野寺義道と戦って功績を挙げた。 関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)に常陸国主佐竹家が出羽国秋田に減転封された。これと入れ替わる形で本堂茂親が常陸国新治郡に8500石の知行地を与えられて移って来た。『寛政重修諸家譜』によれば茂親は志筑に住したとあるが、当初は笠松城(かすみがうら市中佐谷)に拠点を置いたともいう。寛永2年(1625年)に領知朱印状が茂親に与えられている。 正保2年(1645年)、茂親の子・本堂栄親が家督を継承。弟の本堂親澄に500石を分知したため、知行高は8000石となる。志筑陣屋(かすみがうら市中志筑)が築かれたのも正保2年(1645年)とされる。寛文8年(1668年)、本堂玄親のときに初めて知行地に赴く暇が与えられ(参勤交代の開始)、交代寄合となる。 7代本堂親房は板倉勝清(宝暦2年当時若年寄、のち老中)の四男から本堂家の養子となり、宝暦2年(1752年)に養父の死により19歳で家督を継いだ。親房は幕府の大番頭、西の丸(徳川家基付)御側といった役職を務めた。親房が領主であった安永7年(1778年)には、助郷の負担に耐えかねた志筑領25ヵ村の村民が強訴を行い、翌年首謀者として下佐谷村助六が打ち首に処せられる事件が発生している(助六一揆)。 10代親久のとき明治維新を迎え、その直後の石直しで新田2110石分が認められ、都合1万110石で大名に列した。明治4年(1871年)、廃藩置県により志筑県となり、同年中に新治県に再編された。
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豊臣政権下の天正18年(1590年)徳川家康の関東入封に伴い家臣の平岩親吉が厩橋に3万3000石をもって封ぜられた。 江戸幕府開府の翌年、慶長6年(1601年)に平岩家は甲府藩に転封となり、同じく譜代大名重鎮であり徳川家と同祖と伝えられる酒井家が武蔵川越藩より3万3000石をもって入封した。4代藩主・忠清は4代将軍・徳川家綱期に大老として幕政において影響力を持っており、忠清は国元で藩政に携わることはなかったが、このころに藩の政治経済は確立され、特に絹取引で栄えた。しかし元禄12年(1699年)の風水害に見舞われて以来、前橋領内や前橋城までもが利根川の浸食によって年々損害を受け、これが藩財政を圧迫した。宝永3年(1706年)には利根川氾濫により本丸の三層の櫓が倒壊した。寛延2年(1749年)、9代藩主・忠恭は老中首座となったのちに転封を画策、同石高でも実入りが多いと考えられた播磨姫路藩に転封となった。 入れ替わりに姫路より越前松平家の松平朝矩が15万石をもって入封した。しかし城の損害は続き、明和4年(1767年)、前橋城の本丸城地が完全に川に浸食されるに至った。積年の財政難で城の修築もままならないことから、藩主・朝矩は前橋城の放棄を決定、前橋藩の飛び地であった武蔵川越城に居城を移転することにしたため、以降は川越藩と呼ばれる。これにより前橋城は川越藩の飛び地となった。城は全壊したあと長く廃城の状態が続き、川越藩の分領として前橋陣屋が置かれ、その支配をおよそ1世紀の間受けることになった。 幕末になって時の川越藩主・松平直克に念願の前橋帰城が許された。足掛け4年におよぶ大規模な築城を経て、慶応3年(1867年)に新・前橋城が成り、川越藩の石高17万石はそのままで居城を前橋城に移転した(この際に領国が再編され、川越城には松平康英が8万4,000石で入封する)。これによって以降は前橋藩と呼ばれるが、間もなく大政奉還・王政復古の大号令となる。戊辰戦争が始まり、徳川慶喜が謹慎すると、前橋藩はいち早く新政府へ恭順の意を示したが、飛び地領の上総富津では逆に富津陣屋が旧幕府軍に囲まれて家老が自刃した挙句、後になって新政府からは内通を疑われるという事件が起きている(詳細は「小河原左宮」の項を参照)。 明治4年(1871年)廃藩置県により前橋県となり、その後、群馬県に編入された。
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[全画面表示] 関連地図(千葉県市原市付近) 天和3年(1683年)、信濃坂木藩5万石の藩主板倉重種の甥である板倉重宣が、重種から2万石を分与されたことから高滝藩が立藩した(3万石は従弟の板倉重寛が相続した)。所領は上総市原郡のほか、信濃伊那郡・佐久郡の3郡にあった。重宣は貞享元年(1684年)に21歳で死去し、跡を養嗣子の板倉重高(小出英知の三男)が継いだ。重高は元禄12年(1699年)、備中庭瀬藩に移封されたため、高滝藩は板倉家の支配を最後に廃藩となった。 『寛政重修諸家譜』によれば、板倉重宣は市原郡高滝に住したとされる。大和田には「高滝陣屋跡」とされる場所があり、発掘調査も行われたが、当該時期の遺構は発見されていない。藩主の入国は重高が2回行ったのみで、その際には大和田村の光巌寺を宿陣としている。陣屋として新たな建物は建設されず、光巌寺や集落の建物が使用されたとする説がある。
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那須氏は弓の名手・那須与一で有名な名族であったが、戦国時代も終焉の天正18年(1590年)、当主の那須資晴は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、那須氏は改易となった。しかし那須氏の重臣であった大田原晴清は主家の断絶を惜しみ、秀吉に陳謝したため、特別な計らいで資晴の子・資景に5000石が与えられた。資晴もその後、秀吉から罪を許されて5000石を与えられた。福原館の詰の城であった要害城の一角に、陣屋を構えた、とされている。これは地理的に、のちの交代寄合の那須家が構えた福原陣屋とは別の場所である。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、資景は家康に対して人質を差し出すことで東軍に与し、結城秀康と共に上杉景勝の南下に備え、江戸城も守備した功績から、慶長7年(1602年)までに3000石余りを加増され約8000石になり、一方で資晴も慶長7年(1602年)に家康の御伽衆に取り立てられ1000石を加増され6000石を領した。資晴は慶長15年(1610年)に死去し、跡を資景が継いだ。資景は父の遺領と併せて1万4000石を領することとなり、大名に列し那須藩を立藩した。資景は大坂の陣や日光祭礼奉行として功績を挙げ、寛永元年(1624年)に子・資重に家督を譲って隠居した。ところが、資重は寛永19年(1642年)、父に先立って死去、しかも嗣子がなかったため、那須氏の所領1万4000石は幕府に没収となり那須藩は廃藩となった。しかし、那須の家名が絶えることを惜しんだ幕府によって、隠居していた資景に5000石が与えられて旗本として存続した。 慶安元年(1648年)、信濃国小諸藩4万5000石の松平憲良は無嗣断絶とされたが、弟康尚が名跡の継承を許されて1万石で入り、那須藩が再立藩された。翌慶安2年(1649年)、康尚は伊勢国長島藩へ移封となり、那須藩は再び廃藩となった。 旗本となった那須氏の家中では、資景の跡目をめぐって50人組と20人組が争った結果、50人組が擁する資祗(増山正利の弟)が跡を継ぐこととなった。寛文4年(1664年)、資祗は1万2000石で大名に列し、那須藩を再び立藩した。第4代将軍・徳川家綱の母・宝樹院は資祗の姉であったこともあり、天和元年(1681年)に8000石も加増された上で烏山藩への復帰を許され、那須藩は廃藩となった。
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藩史
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1590年(天正18年)の小田原征伐で小田原の後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、徳川家康が関東に入部し、東国の押さえとして譜代の大久保忠世を小田原城主とした。領国は足柄上郡、下郡147か村4万石であった。1594年(文禄3年)、忠世が没すると、嫡子忠隣が後継となり、武蔵羽生に2万石を加増された。忠隣はさらに老中として幕閣に入ったが、1614年(慶長19年)に改易となり、小田原城は破却され、以後5年間は番城となった。 1619年(元和5年)、上総大多喜城主・阿部正次が5万石で小田原へ入封したが、4年後には岩槻藩に転封となった。小田原城は再び番城となる。 1632年(寛永9年)、下野真岡藩から稲葉正勝が8万5千石で入封した。正勝は第3代将軍・徳川家光の乳母・春日局の子で、正勝ののちは正則、正往と続いた。いずれも幕府の老中に就任している。この稲葉家の時代に藩の治世が確立した。稲葉氏は1685年(貞享2年)に越後高田藩へ転封する。 1686年(貞享3年)に、下総佐倉藩主・大久保忠朝が10万3千石で入封した。忠朝は小田原藩最初の藩主・大久保忠世から5代目にあたり、当時は幕府の老中であった。以後は幕末・明治初頭まで大久保家の支配が10代続いた。なお、大久保家の歴代藩主の多くが幕閣として活躍したが、そのために出費も重なり、財政難にあっている。 1707年(宝永4年)に富士山の宝永噴火で領内の広い範囲で農業が困難になる。翌年、藩領のうち被害が甚大な駿河国駿東郡や相模国足柄上郡、足柄下郡、淘綾郡、高座郡の約5万6384石・197か村が幕府直轄領となり、村々は復興するにしたがって小田原藩に戻された。小田原藩はその間、別の地域を領地として与えられた。
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[全画面表示] 関連地図(千葉県千葉市付近) 「生実」は元々「小弓」と書かれ、戦国時代初期に古河公方の後継者争いに敗れた足利義明が千葉氏の重臣原氏の居城だった小弓城を奪って居城とし、「小弓公方」を名乗って房総一帯を制圧したが、第一次国府台合戦で北条氏綱に討ち取られて滅亡している。後に原氏が旧領に復帰して地名を「生実」と改めたが、小田原の役で没落した。 元和9年(1623年)、将軍徳川家光の寵臣であった酒井重澄が生実に2万5000石を与えられて生実藩を立藩した。病気療養と称しながら、その間に子を儲けたことで家光の勘気を蒙り、寛永10年(1633年)に勤務怠慢との理由で改易され、酒井家の生実藩は廃藩となった。 寛永4年(1627年)2月、上総・相模・下総国内においてそれぞれ1万石を与えられて大名となった森川重俊は、酒井家とは別に生実藩を立藩した。重俊は慶長19年(1614年)の大久保忠隣失脚に連座して改易されていたが、その後赦免されて大名となった。領地は下総国葛飾・匝瑳郡、上総国武射郡・長柄郡、相模国大住郡・鎌倉郡内(現鎌倉市二階堂)にそれぞれあった。重俊はその後、老中(西の丸老中)にまで栄進したが、寛永9年(1632年)1月25日、徳川秀忠の死後に殉死した。代わって森川重政が跡を継ぐが、年貢負担をめぐっての争論が起きるなど藩が混乱した。寛文3年(1663年)1月23日に死去し、跡を森川重信が継ぐ。重信は元禄5年(1692年)6月27日に隠居して家督は森川俊胤が継いだ。俊胤は大番頭・奏者番・寺社奉行を歴任し、幕閣において活躍した人物である。第8代藩主・森川俊知は西の丸若年寄に栄進し、藩政においては財政再建のために家臣団俸禄の減少などを行なったが効果は無く、逆に百姓の利八に直訴される有様であった。第9代藩主・森川俊民は天保9年(1838年)8月9日に俊知が死去した後、家督を継いだ。そして大番頭・奏者番・若年寄を歴任している。 最後の藩主となった森川俊方は、戊辰戦争では新政府側に与した。翌年の版籍奉還で俊方は知藩事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で生実藩は廃藩となる。その後は生実県を経て、同年11月に印旛県に編入され、のちに千葉県となった。
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元和5年(1619年)、武蔵国や近江国内に5000石を領していた永井尚政は、上総国市原郡潤井戸において1万石を加増されて合計1万5000石を領する大名として諸侯に列したことから、潤井戸藩が立藩した。尚政は元和8年(1622年)に老中に栄進したことから翌年、遠州山名郡において5000石を加増された。さらに新墾田による所領を合わせて2万4100石を領することとなる。 寛永3年(1626年)、尚政の父である下総国古河藩主永井直勝が死去した。直勝の遺領7万2000石の所領のうち、1万石が尚政の弟たちに分与され(3500石が尚政の弟・永井直清(3500石)、永井直貞(3300石)、永井直重(3200石))、尚政自身は残りの6万2000石と、もともとの所領である2万4100石、そして新墾田の所領である1400石の合わせて8万9100石を領する大名として、父の跡を継いで下総国古河藩に移ったため、潤井戸藩は廃藩となった。
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戦国時代、山川は結城氏の一族である山川氏が治めていた。山川氏は後に結城秀康の家臣となり越前国に転封し、その所領は徳川直轄領となった。慶長9年(1604年)に松平定勝の三男・松平定綱は山川に5000石を与えられる。慶長14年(1609年)には1万石を加増され、1万5000石で大名に列したことから、山川藩が立藩した。定綱は元和2年(1616年)、常陸国下妻藩に移され、代わって水野忠元が3万石で入った。忠元は翌年、近江国蒲生郡に5000石を加増された。忠元は城下町の建設に尽力して藩政の基礎を固め、元和6年(1620年)に45歳で死去した。跡を嫡男の水野忠善が継いだ。忠善は代官制度の確立や検地などを行なって藩政の安定化に努めたが、寛永12年(1635年)に1万石加増の上で駿河国田中藩に加増移封され、山川藩は廃藩となり、その所領は幕府領、旗本領となった。 なお、水野家(唐津・浜松藩)では、初代忠元が大名になったことを記念して、領地ではないが許可を得て、11代忠邦までの墓所が同地につくられている。
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山名氏は応仁の乱以降、急速に衰退し、戦国末期には但馬国と因幡国を2系統に分かれて領有するのみとなっていた。豊国の兄・豊数はかろうじて因幡国を領有していたが、鳥取城主の武田高信の攻撃によって拠点の布勢天神山城から退却を余儀なくされて以降、因幡守護家は急速に衰退していった。豊国は尼子氏残党の力を借りて因幡の支配権回復を目論み、武田高信を鳥取城から追放し、自ら城主となった。しかし、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が山陰地方に侵攻してくると、豊国は真っ先に降伏したために家臣に見限られて城を追放された。 以後、豊国は秀吉に仕えて御伽衆となり、秀吉の死後は徳川家康に接近する。関ヶ原の戦いでは東軍に参加し戦功があり家康からの「但馬国で一郡を領し給え」の言葉により但馬国七美郡6700石を与えられると、兎束村に陣屋を築いて地名を福岡と改めた。知行は1万石に達しなかったが、新田家の分家という、徳川将軍家の親戚にあたる出自により旗本でも別格とされ、後に交代寄合表御礼衆の一つとされた。 豊国は連歌の名手で教養人、かつ名門の出身ということで家康から厚遇され、零落した但馬山名氏の旗本への取り立てを願うなど山名氏再興に尽力した。また、自らを追放したかつての家臣たちが流浪しているのを聞き、改めて召抱えたという。ただ、変わり身が早かったせいか、豊国に関する後世の評価は芳しくない。 1642年(寛永19年)、第3代矩豊が黒野村に陣屋を移して地名を村岡と改めた。ただし、武鑑では寛延年間頃までは在所が「但州志津見」と表記されている。 第5代山名豊就は寺社奉行となる。1806年(文化3年)、第8代義方が陣屋を尾白山に移し、家格にふさわしい体裁を整えた。 村岡は山がちで耕地が少ない土地だったため、歴代領主は鉱山の開発や子牛市の開催など産業の振興につとめた。特に、第10代義問は新田の開発や教育の振興に力を尽くした名君といわれる。 第11代山名義済は家老の池田勣一郎の進言により尊王となる。1868年、新政府により1万1000石への高直しが認められ、山名氏は諸侯に列して村岡藩が成立した。翌年の版籍奉還で村岡県となり、1871年の廃藩置県で豊岡県に編入された。 最後の知藩事・義路は1871年に12歳で家督を相続し、後に陸軍少佐となった。1884年、華族制度の発足に伴って男爵に叙せられ、後に貴族院議員にも選出されている。
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慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、池田恒興の三男長吉(輝政の弟)が6万石で入封し立藩した。その跡を継いだ子の長幸は元和元年(1615年)に備中松山藩へ転封し、代わって池田宗家の光政(輝政の子利隆の嫡男)が幼少を理由に播磨姫路42万石から因幡・伯耆32万石に国替となった。光政は在封16年の間に鳥取城下町の基盤を整備した。 寛永9年(1632年)、備前岡山藩主池田忠雄(光政の叔父)が死去すると、家督を継いだ嫡男光仲の幼少を理由に鳥取の光政と封地を取り替え(この忠雄死去と国替の前後に鍵屋の辻の決闘に関わり大きな注目を集めた。)、宗家の光政が備前31万5,000石、分家筋の光仲が因幡・伯耆32万5,000石を治めることとなった。いわゆる岡山との「お国替え」である。以降の鳥取藩池田家は分家筋ではあるが、輝政と徳川家康の二女督姫の間に生まれた忠雄の家系であるため、宗家の岡山藩池田家から独立した国持大名とされ、松平姓を称する上、外様大名ながら葵紋を下賜されて親藩に準ずる家格を与えられた。また、通常ならば大名が江戸城に登城する際は刀を玄関前で家来に預けなくてはならなかったが、鳥取池田家は玄関の式台まで刀を持ち込むことが許された。これは鳥取池田家の他には御連枝や会津松平家、越前松平家の一門といった徳川一門の親藩と加賀前田家のみに許された特権であった。 因幡・伯耆のうち因幡国内に藩庁が置かれ、伯耆国内では米子に城が置かれて荒尾家が城代家老として委任統治(自分手政治)を行った。この他に倉吉、八橋、松崎、浦富といった藩内の重要な町にも陣屋がおかれ家老職にある家が代々統治を行った。これらの町は他の在郷村とは違い、城下の鳥取と同じ扱いを受け町年寄などの役職が置かれていた。 天保の大飢饉は、鳥取藩でも猛威を振るった。その被害は、「申年がしん」と称されている。 幕末の12代藩主慶徳は、15代将軍となる徳川慶喜の同年の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとった。藩内でも、尊王派と親幕派の対立が激しく、文久3年(1863年)には京都本圀寺で尊王派藩士による親幕派重臣の暗殺事件(本圀寺事件)が発生した。翌年の禁門の変で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになるが明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争では官軍方につき、志願農兵隊山国隊などを率いて転戦した。戦功賞典(永世禄)においては薩長土に次ぐ3万石を賞されている。明治政府に登用された鳥取藩士は、河田左久馬、北垣晋太郎、原六郎、松田道之らがいる。
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加藤清正や福島正則と並ぶ賤ヶ岳の七本槍の一人として知られる脇坂安治の三男・脇坂安信は徳川氏に仕えて大坂の陣では、酒井忠世と協力して武功を挙げた。このことから美濃国内に1万石を与えられ、諸侯に列した。 安信は娘を鳥取藩主の池田長幸の次男・池田長純に嫁がせていた。寛永9年(1632年)4月、長幸が病に倒れた。このとき長幸は遺言として、長男の池田長常と次男の長純にそれぞれ領地を半分ずつ相続させようとした。ところが安信はそれに不満を持って弟の脇坂安経とともに長幸の元に赴いて抗議した。しかし長幸の弟・池田長頼と口論から刃傷事件に及んで安経は殺され、自身も重傷を負った。そしてこの不始末が幕府にも聞こえて、安信は改易処分となった。
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慶長14年(1609年)に中村一忠が死去して中村家が改易されると、伯耆国には諸大名が分散されて配置されることとなる。その中で翌年、伊勢亀山藩から関一政が2万石加増の上の5万石で入り、黒坂藩が立藩された。 一政は築城や城下町建設で尽力し、藩政の確立に努め、大坂の陣においても戦功を挙げたが、元和4年(1618年)7月、家中における内紛を理由に幕命により改易され、黒坂藩は廃藩となった。その後、その所領は池田家の属領となった。
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藩史
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寺沢広高は豊臣秀吉に仕え、1592年の文禄の役では肥前名護屋城の普請役、後方兵站の責任者を務めて功績を挙げたことにより、1593年に秀吉から名護屋を含む上松浦郡一帯およそ8万3000石を与えられ、長崎奉行に任じられた。慶長の役には朝鮮に渡海して活躍している。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与して功績を挙げたことから、戦後に肥後国天草一郡およそ4万石を加増され、都合12万3000石を領する大名となって栄華を極めた。しかし広高の死後、その跡を継いだ寺沢堅高のとき、島原の乱が起こるとその乱が天草にも飛び火し(堅高は松倉勝家ほどではないが、やはり領民に厳しい政治を敷いていた)、戦後にそれを幕府から咎められて天草4万石を没収される。堅高はほどなくして心労により自殺し、堅高には嗣子がなかったため寺沢家は改易となった。 その後、播磨国明石藩より大久保忠隣の孫の大久保忠職が8万3000石で入る。その跡を継いだ大久保忠朝は、1674年に庄屋が領内を転勤する「転村庄屋制度」を創設、以後この制度は幕末まで続けられた。忠朝は下総国佐倉藩へ移封となった。 入れ替わりで松平乗久が7万石で入り、孫の松平乗邑のとき、志摩国鳥羽藩へ移封となる。入れ替わりで土井利益が7万石で入り、利益から4代目の土井利里のとき、下総国古河藩へ移封となる。代わって水野忠任が三河国岡崎藩より移されて6万石で入った。1771年、水野忠任が科した農民への増税を契機に、虹の松原一揆が起こり、農民は無血で、増税を撤回させるに至った。忠任から4代目の水野忠邦のとき、遠江国浜松藩へ移封される。忠邦は、天保の改革を行なったことで有名である。 代わって陸奥国棚倉藩より小笠原長昌が6万石で入り、以後は小笠原家の支配で明治時代を迎えることになる。唐津藩最後の藩主となった小笠原長行は幕末期に老中・外国事務総裁を兼任して幕政を担った。しかも1868年の戊辰戦争では旧幕府軍に与して箱館まで転戦するなど、最後まで幕府に忠義を尽くした人物である。ただし、その養父である小笠原長国をもって最後の藩主とし、長行はその世子にとどまったとして歴代藩主に数えない史料も多い。 唐津藩は表向きの石高は6万石から12万石であったが、実高は20万石前後だったと言われている。その一方で長崎港を警護する長崎見廻役という役目を任されており、見廻役に専念するために唐津藩主は老中に就任できないことになっていた。幕閣就任を希望していた水野忠邦が実高の低い他所への移封を願い出たのも(これに憤った重臣二本松義廉が自害する騒動も起きている)、小笠原長行の唐津藩継承が幕府に承認されなかったのも(藩主に就任すると、老中から更迭しなければならないため)、長崎見廻役と関連していると言われている。 また、藩主家が中途半端に変わることが多く、長期間による藩主家の一大支配がなかった土地柄であった。
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藩史
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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、小出吉政は父の小出秀政と共に西軍に与して丹後国田辺城を攻撃したが、吉政の弟・小出秀家が東軍に属して関ヶ原本戦にて活躍した功績により戦後、徳川家康から6万石の所領を安堵された。 慶長9年(1604年)の秀政の死後、小出吉政は和泉国岸和田藩に移封され、代わって出石領は吉政の嫡男・吉英が領した。その後、吉英は吉政の跡を継いで岸和田領を継ぐことになり、出石は吉英の弟・吉親が継ぐこととなる。いわばこのとき、小出家は岸和田と出石の両家に分かれたと見るべきである。 しかし元和5年(1619年)、岸和田領を継いでいた吉英が、5万石にて出石に移されることとなり、これに伴い弟の吉親は丹波国園部へ移封され、園部藩を立藩する。結果、吉英は再び出石藩主になった。 その後、但馬出石の小出家は藩主の早世が相次ぎ、第9代藩主・英及が元禄9年(1696年)に3歳で死去すると無嗣断絶となった。 その後を受けて松平忠周が4万8000石で入ったが、宝永3年(1706年)に信濃国上田藩へ移封された。 入れ替わりに信濃国上田藩より仙石政明が入り、仙石氏の支配で明治時代にまで至った。明治4年(1871年)、廃藩置県により出石県となる。その後、豊岡県を経て兵庫県に編入された。
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藩史
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徳川四天王の一人・井伊直政が慶長7年(1602年)に死去した後、家督は長男の直継が継いでいた。ところが直継は生来から病弱なため将器に欠ける人物で、どちらかというと弟の直孝のほうが父の才能を濃く受け継いでいた良将であった。大坂の陣においても直継は病弱で出陣できず、直孝が井伊軍を率いて出陣し武功を挙げたため、元和元年(1615年)2月、直継は直勝と名を改め、幕命により彦根藩主の座を廃されて分知された安中藩3万石の藩主に任じられた。そして代わりに直孝が彦根藩の家督を継ぐこととなった。これが安中藩の立藩である。なお、直勝は彦根藩2代藩主であった履歴も抹消された。 直勝は城下町建設に尽力した。寛永9年(1632年)12月15日、直勝は家督を子の直好に譲って隠居した。直好は正保2年(1645年)6月、三河西尾藩に移され、代わって三河新城藩から水野元綱が2万石で入った。元綱は寛文3年(1663年)3月、領内に検地を実施して藩政の基礎を固めた。翌年10月26日、元綱は家督を子の元知に譲って隠居した。しかし元知はその妻(岡崎藩主水野忠善の娘)への傷害事件を起したため、寛文7年(1667年)5月28日に領地を没収されて信濃松本藩預かりの身となった。 同年6月8日、相模国内から堀田正俊が2万石で入る。正俊は延宝7年(1679年)7月、老中に昇進したため2万石の加増を受けて4万石の大名となる。その後、徳川綱吉の将軍擁立に貢献した功績から、天和元年(1681年)2月、正俊は下総古河藩13万石に加増移封となった。 同年5月21日、下野内から板倉重形が1万5000石で入った。重形は貞享3年(1686年)7月26日に死去し、跡を重同が同年9月25日に継いだ。重同は元禄15年(1702年)7月に陸奥泉藩に移され、入れ替わりで内藤政森が2万石で入った。この政森の代である享保12年(1727年)4月、潮藤左衛門による年貢減免運動が起こった。第3代藩主・政苗の代である寛延2年(1749年)2月、三河挙母藩に移され、代わって遠江相良藩から板倉重同の子の勝清が2万石で入った。 勝清は明和4年(1767年)7月、西の丸老中となったため、1万石を加増された(明和6年(1769年)には老中)。板倉家の歴代藩主には学問に秀でた人物が多く、第4代藩主・勝尚の代である文化5年(1808年)3月、藩校・造士館が創設された。第5代藩主・勝明は学者藩主と称され、「西征起行」や「東還紀行」など多くの著作を残し、藩内の学問奨励にも尽力した。しかし安中藩では天明の大飢饉などから次第に財政難と領内荒廃が深刻化した。幕末期には和宮降嫁のために中山道の守備を務めた。「偽官軍事件」として有名な赤報隊事件はこの安中で起こっている。 明治4年(1871年)の廃藩置県で、安中藩は廃藩となって安中県、同年10月に群馬県に編入され、藩主板倉家は子爵を授かった。ただし廃藩後の板倉家では、最後の藩主であった板倉勝殷が明治5年(1872年)に一旦隠居するも翌明治6年(1873年)に当主を再襲、しかしわずか2週間足らずで死去し、その後も10年以上にわたって当主の交代が相次いだ。華族令が施行された明治17年(1884年)当時の板倉家は女戸主(勝殷の娘・花子)であったため叙爵を受けず、最後の川越藩主であった松平康載(先代の実子に家督を譲って旧川越藩主家を離れていた)が花子の婿となって板倉勝観と名乗り板倉家を継ぐことで明治19年(1886年)に叙爵を受けた。 専門家の検証がなされていないが、遺構として城の東に位置する熊野神社1箇所、および市内某家に都合2箇所に城門が移築され、また市内某家に武器庫が払い下げられている。 安中藩出身の有名人としては、京都市に同志社英学校(現在の同志社大学)を創設した新島襄がいる。
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新宮は戦国時代、豊臣家の家臣・堀内氏善が領していたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したために没落する。 その後、紀伊国に封じられた浅野幸長のもとでは浅野忠長が領していたが、浅野本家が安芸広島藩へ移封されると忠長も随伴した。その後、安藤家と共に、徳川頼宣の附家老として入った水野重央が、新宮に3万5000石を領した。 水野家の入部をもって紀伊新宮藩の始まりともされるが、幕藩体制のもとでは、身分はあくまで紀州徳川家の家臣であり、大名としては扱われなかった。水野家は代々家老として藩政に重きを成した。第9代・水野忠央は、後に紀州藩主から第14代将軍となった徳川家茂(慶福)を補佐し、幕末の大老で有名な井伊直弼と協力して、家茂を第14代将軍にしようと奔走した。 徳川御三家の紀州藩直轄から新宮城主・水野藩に知行替えが交付された際、現三重県熊野市木本町周辺の住民が猛反対し、当時の藩士吉田庄太夫が奔走して知行替えを中止させている。故人を偲んで木本神社に祀った。
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[全画面表示] 関連地図(千葉県市原市付近) 明治元年(1868年)5月、徳川家達が駿府藩に移ったことにより、それまで沼津藩主であった水野忠敬の所領5万石のうち2万3700石が上知となったため、その代わりとして上総国市原郡菊間において2万3700石が与えられたことから菊間藩が立藩した。忠敬は新たな藩庁の建設や藩校の創設に尽力している。明治4年(1871年)の廃藩置県で廃藩となった。
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藩史
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寛永9年(1632年)6月、幕命により肥後熊本藩主・加藤忠広は改易となり、庄内藩主・酒井忠勝預かりの身となったが、このとき忠広には1万石が与えられ、丸岡藩が成立した。しかし藩としての支配機構や支配権はほとんどなく、実質は庄内藩が藩政を支配していた。しかし忠勝は忠広を哀れに想い、毎年米100俵を支給していたと言われている。正保3年(1646年)2月、忠広の居所および家臣の屋敷全てが全焼する火災があったが、京より建物を取り寄せ再建されている。 忠広は承応2年(1653年)閏6月8日に死去し、丸岡藩は廃藩となった。その後、丸岡領は幕府領および庄内藩領となった。 廃藩時の家臣は、加藤頼母、加藤主水(僧となり主君の墓守となるがのちに乱心)、谷崎采女、杉村文太夫、永原久左衛門、永原清大夫、神戸小平太、萱野正三郎、加藤左平太、永原半左衛門、松下庄兵衛、平野右衛門九郎、天野九十郎、水野長兵衛、村尾松之助、生熊九郎助の16名。翌年正月に丸岡を引き払い、鶴岡に半年滞在、庄内藩の通行手形を携帯し出羽国を後にした。また、加藤頼母、谷崎、萱野、杉村、永原久左衛門、永原半左衛門の6名は庄内藩に召抱えられた。谷崎は暇請をし、寛文11年(1671年)に肥後に戻っているが、他の者の子孫は幕末まで存続している。
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朽木氏は朽木谷城を本拠として代々室町幕府奉公衆を務めた。朽木元綱も足利義輝・義昭に仕え、外祖父に公卿飛鳥井雅綱を持つなど名門の血を継いだ。 織田信長が浅井長政の裏切りで危機に陥ったときに京都への脱出を助け、その後、織田信長・豊臣秀吉に仕えて2万石を有した。 元綱は関ヶ原の戦いでは当初は西軍につくが、主戦場で小早川秀秋に同調して東軍に寝返る。だが、徳川家康はその挙動に不信感を抱き本領の近江朽木は安堵したものの、その総石高は9550石と減封され、大名の家格ではなくなった。その後、朽木氏は交代寄合として遇されて、独自の陣屋を持つことを認められて大名に準じる扱いを受けた。元綱没後、長男宣綱が6470石を与えられ、残りは弟2人に分知された。 なお、交代寄合としての宗家(朽木宣綱の子孫)のほかに、宣綱の末弟の稙綱の子孫が治めた土浦藩や福知山藩などを指して「朽木藩」と呼ぶ例もある。
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丸岡は戦国時代、織田信長配下の勇将・柴田勝家の養子・柴田勝豊が治めていた。勝豊が賤ヶ岳の戦い後に病死すると、青山宗勝・青山忠元父子が入った。青山氏は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に改易された。代わって越前福井藩に入った結城秀康の重臣・今村盛次が2万5000石で入ったが、慶長16年(1611年)の福井藩重臣による内紛に巻き込まれて流罪とされた。その後の慶長18年(1613年)5月、徳川家康のもとで仕えて「鬼作左」の異名をとったことで有名な本多重次の子・本多成重が4万石を与えられて入り、秀康の後を継いだ松平忠直を本多富正と共に補佐した。大坂の陣でも活躍し、武功を挙げている。寛永元年(1624年)、忠直が豊後国に流罪とされると、成重は4万6300石に加増され、福井藩から独立した大名として取り立てられた。成重とその子・本多重能、そして孫の本多重昭の3代は検地・城下町の整備・新江用水の新設など、藩政の確立に尽力したが、重昭の子・本多重益は酒色に溺れては無能の上、家臣の本多織部と太田又八の間で内紛が起こり、元禄8年(1695年)に幕命により改易された。 代わって戦国時代のキリシタン大名で有名な有馬晴信の曾孫・有馬清純が越後糸魚川藩から5万石で入部する。第2代藩主・有馬一準の時代である正徳元年(1711年)に外様大名から譜代格へ格上げされた。第5代藩主・有馬誉純は若年寄、第8代藩主・有馬道純は老中という幕府の要職に就任した。特に誉純の代は安永元年(1772年)から約50年間という長期にわたって藩主を務め、藩政改革を行なって藩政を安定させた上、藩校である平章館の設立や藩史・地誌の編纂に力を注ぐなど、文化面でも大いに貢献した。明治2年(1869年)6月、道純は版籍奉還により丸岡藩知事となり、明治4年(1871年)9月の廃藩置県により、道純は東京に移住して丸岡藩は廃藩となったのである。
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[全画面表示] 関連地図 「黒田城 (尾張国)」および「一柳直盛」も参照 小田原征伐後の天正18年(1590年)、戦死した一柳直末の跡を継いだ弟の一柳直盛は、豊臣秀吉から3万石を与えられ、黒田城主となった。中世の黒田には鎌倉街道の宿駅があって「黒田宿」と呼ばれ、同時に交通の要衝としてしばしば合戦場にもなった。 天正18年(1590年)には織田信雄に代わって豊臣秀次が清洲城に入っているが、『一柳家記』によれば直盛は豊臣秀次からも5000石を賜ったという。『寛政重修諸家譜』では5000石加増の時期を文禄元年(1593年)とするが、加増した主体は記していない。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、一柳直盛は徳川家康に与した。8月22日、河田の渡し付近での木曽川渡河(河田木曽川渡河の戦い)の際には、先陣を主張して池田輝政と争った。『一柳家記』によれば、「居城よりわずか1,2里にある領知の川」を渡るのであるから先陣を譲ることはできないと激怒し、輝政に詰め寄ったという。『寛政重修諸家譜』では、この辺が所領に近かったために川の状況を知っており、前夜のうちに士卒に川の浅深を測らせていたために、木曽川を先陣を切って渡ることができたという。 木曽川渡河後も、岐阜城攻めや長松城守備で功績を挙げた。翌慶長6年(1601年)、直盛は1万5000石の加増を受け、伊勢国神戸藩に5万石で移された。この加増は、関ヶ原の戦いの論功行賞と見なされている。 黒田は、62万石の領主となって清洲城に入った徳川家康の四男松平忠吉の所領(清洲藩・尾張藩も参照)として組み込まれた。以後、黒田を中心とする藩は置かれていない。 黒田城主としての直盛は、黒田の町割を改め、荒廃していた白山神社を再建して祭礼を復興させたという。黒田の人々は江戸時代になっても廃城となった黒田城跡を「一柳様御館跡」「一柳様御城跡」と呼び、白山神社の祭礼では直盛の鎧を中心に練り歩いたという。現代においても白山神社は「一柳監物直盛公ゆかりの宮」を掲げている。
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慶安4年(1651年)に岩槻藩主阿部重次が殉死した後、その遺領9万9千石と家督は長男の阿部定高が継いだ。このとき、次男の三浦正春にも新田分1万6千石が分与され、大多喜新田藩が立藩された。重次の父阿部正次は元和3年から同5年まで(1617年 - 1619年)大多喜藩主であったが、相模小田原藩を経て岩槻へと転封する間も上総夷隅郡の領地はそのまま保持し(その間に青山忠俊が大多喜藩主となったが改易された)、生前の寛政15年(1638年)に次男の重次と長男政澄の遺児正令(正能)に領地を分与していた(正令はこれにより岩槻藩支藩として大多喜藩を再立藩した)。正令はまた、従弟にあたる定高の家督相続時にも6千石を分与されたが、翌慶安5年(1652年)に武蔵忍藩主阿部忠秋の養嗣子となり、この6千石は定高に返還した。 『寛政重修諸家譜』の記録では、正春は「新墾田1万6千石をわかち賜ひ、大多喜に居所をいとなむ」とされるが、正令の居城であった大多喜城に仮住まいを設けられたのか、別途大多喜に陣屋を設けたのかは明確でない。 定高は万治2年(1659年)に死去したが、実子の作十郎(正邦)はまだ幼少であったため、作十郎が成人するまでの繋ぎとして正春に家督を譲った。このため正春は阿部姓に復し、元の1万6千石に加えて9万9千石、合わせて11万5千石を領することになり、岩槻に入封して大多喜新田藩は廃藩となった。のちの寛文11年(1671年)、正春は岩槻藩主を正邦に譲り、自身は忍藩主を継いだ正能の後を受け、大多喜新田藩主時代からの旧領1万6千石のみをもって大多喜藩主となった(正能は自身の大多喜藩主時代の領地は保持し続けた)。
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宝永7年(1710年)、本多忠晴が三河国伊保藩より1万5000石で入部したことから立藩した。延享3年(1746年)、第3代藩主・本多忠如のときに陸奥国泉藩へ移封となったため、入れ替わりで板倉勝清が1万5000石で入る。寛延元年(1748年)11月、勝清は2万石に加増されて城主格となる。しかしその翌年、勝清は上野国安中藩へ移された。代わって三河挙母藩より本多忠央が1万石で入る。ところが宝暦8年(1758年)、美濃国郡上藩の金森氏が騒動や苛酷な統治を理由に改易となると、その縁戚関係にあった忠央も連座として改易された。 代わって第9代将軍・徳川家重のもとで頭角を現わし始めていた田沼意次が1万石で入った。意次は第10代将軍・徳川家治のもとで宝暦12年(1762年)2月15日に5000石、明和4年(1767年)7月1日には側用人に栄進して5000石を加増されて2万石の大名となり、さらに城主格に任じられて相良城の築城を許された。相良城は安永7年(1778年)に完成した。ちなみに田沼は安永元年(1772年)1月に老中に出世し、「田沼時代」を現出し、権勢並ぶ者なしの栄華を極め、所領は最終的に5万7000石にまで加増された。順次加増されたため、5万7000石の内訳は遠江国相良だけでなく駿河国、下総国、相模国、三河国、和泉国、河内国の7か国14郡に跨った分散知行となった。 藩政において、築城とともに城下町の改造を行なって手腕を見せた。意次は郡上一揆の調査と裁定を行った経歴から、年貢増徴政策だけでは家を滅ぼすことを知っていたので、家訓で年貢増徴を戒めており、領内の年貢が軽いことから百姓が喜んだ逸話が残されている。江戸定府であった意次は国元の町方と村方の統治を明確化し、城代・国家老などの藩政担当家臣を国元に配置した。殖産興業政策にも取り組み、農業では養蚕や櫨の栽培を奨励、製塩業の助成、相良港の整備、瓦焼きにも助成金を出して火事対策を進め、食糧の備蓄制度も整備した。また、東海道藤枝宿から相良に至る分岐路を整備し、これは後に田沼街道(相良街道)と呼ばれることとなった。 しかし天明6年(1786年)、家治が死去すると松平定信の粛清にあって意次は失脚して強制的に隠居させられ、意次の孫・田沼意明が家督を継いだが、陸奥下村藩に1万石で移封された。定信はさらに、和泉国岸和田藩主の岡部長備をして相良城を破却せしめ、相良藩は廃藩となる。 その後、文政6年(1823年)7月8日、徳川家斉の尽力もあって意次の四男・田沼意正は旧領相良に1万石で復帰を許された。第3代藩主・田沼意尊の代である明治元年(1868年)、上総国小久保藩へ移されたため、再度廃藩となった。
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豊臣政権時代は木下重堅が若桜城主であったが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗戦とともに自害した。 慶長6年(1601年)、摂津国三田藩より山崎家盛が3万石で入封して立藩した。2代・家治は元和3年(1617年)備中国成羽藩に転封となった。以後鳥取藩領となる。 元禄13年(1700年)に鳥取藩の支藩として同じ地に鳥取西館新田藩が立藩した。以後は鳥取藩の項目を参照。 明治元年(1868年)、第10代藩主の池田徳定は若桜陣屋を置いたため、鳥取西館新田藩は若桜藩と呼ばれるようになった。 明治3年(1870年)、若桜藩は鳥取藩に合併されて廃藩となった。
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豊後府内は大友氏の居城であったが、大友吉統は文禄の役で卑怯なる振る舞いをしたとされ、豊臣秀吉の怒りを買って改易された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、豊後高田領主の竹中重利ははじめ西軍に与して田辺城の戦いに参加したが、後に東軍に寝返ったため、戦後に徳川家康から賞されて高田1万石から府内2万石に加増移封され、府内藩の藩祖となった。重利の跡は子の重義が継いで徳川秀忠の寵を得たが、罪を得て改易された。 代わって下野国壬生藩より日根野吉明が2万石で入るが、明暦2年(1656年)に無嗣改易された。その後、吉明の義理の甥(正妻の兄弟の子)にあたる大給松平家の豊後高松藩主松平忠昭が2万2200石と徳川幕府天領の管理を受け明暦4年(1658年)2月24日に入封。以後は大給松平家が10代にわたって支配し、明治維新を迎えた。 明治4年(1871年)、廃藩置県により府内県となり、後に大分県に編入された。
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藩史
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慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍主力となった宇喜多秀家の家臣であった戸川達安は、内紛により東軍方についた。その功により、達安は2万9200石を領し立藩、庭瀬城を居所とした。続く2代から4代の藩主はそれぞれの兄弟に領地を分与したため、4代安風の代には2万石となった。延宝7年(1679年)に無嗣断絶し、庭瀬は一時幕府領となった。 4年後の天和3年(1683年)、下総国関宿藩より久世重之が5万石で入部し、再び庭瀬に陣屋を構えた。貞享3年(1686年)、重之は丹波国亀山藩に移封となった。 7年の後、元禄6年(1693年)に大和国興留藩より松平信通が3万石で入部したが、元禄10年(1697年)に信通は出羽国上山藩に移封となった。 元禄12年(1699年)、上総国高滝藩より板倉重高が2万石で入部し、廃藩置県まで板倉氏が11代172年間在封した。江戸後期の文政元年(1818年)、7代勝資は藩校誠意館を開いている。 明治4年(1871年)、廃藩置県により庭瀬県となった。後、深津県・小田県を経て岡山県に編入された。板倉家は明治17年(1884年)の華族令により子爵となった。 内閣総理大臣となり五・一五事件で凶弾に倒れた犬養毅は、庭瀬藩領地の出身である。
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藩史
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戦国時代、壬生氏の支配下にあった壬生は、小田原征伐で壬生氏が滅亡した後は結城秀康の結城藩の支配下に置かれた。関ヶ原の戦い後、秀康が越前国福井藩に加増移封された後の慶長7年(1602年)、信濃国高島藩から日根野吉明が1万900石で入ることにより、壬生藩が立藩された。吉明は日光東照宮造営の奉行として功績を挙げた後の寛永11年(1634年)7月、豊後国府内藩に移封となる。 翌年6月20日、阿部忠秋が2万5000石で入部する。忠秋はまもなく徳川家光のもとで老中に栄進したため、武蔵国忍藩へ移封され、代わって寛永16年(1639年)1月、忠秋と同じく家光の「六人衆」である三浦正次が2万5000石で入る。三浦氏は検地などを行って藩政の基礎を固めた。第3代藩主・三浦明敬は奏者番・若年寄を歴任している。元禄5年(1692年)2月23日、明敬は日向国延岡藩に移封となった。 代わって徳川綱吉政権のもとで柳沢吉保と共に権勢を振るった松平輝貞が3万2000石で入った。輝貞は元禄7年(1694年)8月27日、1万石を加増された。藩政においては城下の大改修に尽力している。元禄8年(1695年)5月、輝貞は上野国高崎藩に移封され、代わって若年寄であり近江国水口藩主である加藤明英が2万5000石で入った。明英は文武両道に優れた名君で、特に水口では善政を敷いたが、なぜかこの壬生では年貢増徴を特に厳しくし悪政を敷いた。このため「七色の掛物」と称される税に反対する百姓一揆が発生し、刑死者が出る騒ぎとなった(結果として「七色の掛物」の賦課は撤回された)。明英は正徳2年(1712年)1月2日に死去。後を加藤嘉矩が継いだが、同年2月26日、加藤氏は水口に戻された。入れ替わりで若年寄の鳥居忠英が3万石で入る。 忠英は名君で、殖産興業政策を奨励し近江から干瓢の栽培を伝え、今日の干瓢国内生産8割を誇る栃木県の礎を築き、藩校である学習館を創設するなどして藩政の基礎を固めた。 幕末に壬生藩鳥居家は尊王攘夷をめぐって藩論が二分して混乱に陥ったが、戊辰戦争では新政府側についた。 明治4年(1871年)の廃藩置県で壬生藩は廃藩となる。その後壬生県を経て栃木県に編入された。
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