薄葬令
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薄葬令(はくそうれい)とは、大化2年(646年)に発布された、身分に応じて墳墓の規模などを制限した勅令。
大化の改新の一環とされ、「大化の薄葬令」とも呼ばれる。墳陵は小型簡素化され、前方後円墳の造営がなくなり、古墳時代は事実上終わりを告げる。
概要
『日本書紀』大化2年(646年)3月22日条にある一連の詔を「薄葬令」と呼ぶ。
中国の故事に習い、民衆の犠牲を軽減するため、王臣と庶民の身分に応じて作ってよい陵墓を制限し、人馬の殉死殉葬を禁止し、天皇の陵にかける時間を7日以内に制限するという趣旨の詔が発せられた。
解説
初期の大和政権は、権力の象徴としての巨大な古墳を必要としたため、大王から地方豪族まで盛んに巨大古墳を築造したが、継体天皇の時代以降に徐々に大王を中心とする中央集権制が進んでいくと、権力の象徴としての古墳を作る意味が次第に無くなって行き、古墳は姿を消し始める[1]。特に593年に推古天皇の摂政に就任した聖徳太子が、冠位十二階や十七条憲法などの法を整備したことがきっかけで、畿内では7世紀始めまでには巨大古墳の築造は終了する。
その後もまだ東国においては大和朝廷の権力の象徴としての巨大な前方後円墳が必要とされたようで、巨大古墳を通じて東国の基盤を強化するためにも、畿内を凌駕する規模の巨大古墳の築造が続くが、これも7世紀初めには築造を終了する。
巨大な前方後円墳の築造終了後は、より小規模な方墳・円墳が主流となり、大王もそれに従うことになる。7世紀中ごろには中国の思想が導入され、大王は天下八方の支配者にふさわしい形である八角墳に葬られるようになるが、7世紀末には仏教の思想による火葬が導入され、 707年に崩御した文武天皇が火葬の後に八角墓に葬られたのを最後に、古墳の築造は終了する。
さまざまな解釈
薄葬令が発布されたとされる646年に完全に古墳の築造がストップしたわけではなく、その後もしばらく古墳が築造されている。これに関していくつか解釈が存在する。基本的に、日本書紀における「大化の改新」の記述には後世の潤色があると考えられており、「薄葬令」の詔も日本書紀が編纂された時点での「後付け」であるとの説が主流である。
中央集権化の一環であるとする解釈:大化の改新などにより大和朝廷は地方豪族を押さえ中央集権国家へと変貌していった。 薄葬令は、地方豪族の権力の象徴と言える古墳の造営を制限するものであり、全ての土地と人民は天皇に帰属するとした公地公民制の推進と関係がある。よって、一部の支配者層は、古墳の造営を続けることが出来た。
後付けであるとする解釈:簡易な葬送について、「以前から出されていた薄葬令に従うもので問題はない」との説明が付くように、後世の支配者が日本書紀に盛り込んだルールである。例えば、持統天皇は703年に崩御し薄葬だった。彼女は天皇で初めて火葬され、自身の墳陵を持たず夫の天武天皇の墓に合葬された。しかしそれ以前の、654年に崩御した孝徳天皇は薄葬ではない。
中国大陸
中国大陸では後漢末期(三国時代)の建安10年(205年)、曹操が薄葬令を発布している[2]。
脚注
薄葬令
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詳細は「薄葬令」を参照 飛鳥時代中期にあたる大化2年(ユリウス暦換算:646年)の3月に発せられた詔は、研究者が4部構成と解釈する長文であるが、その第一に述べられているのが、『日本書紀』巻第25の孝徳天皇紀に大化2年3月条として所収されている「薄葬の詔」、いわゆる「薄葬令」である。 [大化二年]三月癸亥朔(...略...)甲申、詔日、朕聞、西土之君、戒其民日、古之葬者、因高爲墓。不封不樹。棺槨足以朽骨、衣衿足以朽宍而己。故吾營此丘墟、不食之地 欲使屠代之後、不知其所。無藏金銀銅鐵。一以瓦器、合古塗車・蒭靈之義。棺漆際會三過。飯含無以珠玉。無施珠襦玉柙。諸愚俗所爲也。叉日、夫葬者藏也。欲人之不得見也。廼者、我民貧絶、專由營墓。爰陳其制、尊卑使別。夫王以上之墓者、其内長九尺、濶五尺。其外域、方九尋、高五尋。役一千人、七日使訖。其葬時帷帳等、用白布。有轜車。上臣之墓者、其内長濶及高、皆准於上。其外域、方七尋、高三尋。役五百人、五日使訖。其葬時帷帳等、用白布。擔而行之。(蓋此以肩擔輿而送之乎)。下臣之墓者、其内長濶及高、皆准於上。其外域、方五尋、高二尋半。役二百五十人、三日使訖。其葬時帷帳等、用白布、亦准於上。大仁・小仁之墓者、其内長九尺、高濶各四尺。不封使平。役一百人、一日使訖。大禮以下、小智以上之墓者、皆准大仁。役五十人、一日使訖。凡王以下、小智以上之墓者、宜用小石。其帷帳等、宜用白布。庶民亡時、牧埋於地。其帷帳等、可用麁布。一日莫停。凡王以下、及至庶民、不得營殯。凡自畿内、及諸國等、宜定一所、而使収埋、不得汚穢散埋慮々。凡人死亡之時、若經自殉、或絞人殉、及強殉亡人之馬、或爲亡人。藏賓於墓、或爲亡人、断髪刺股而誅。如此奮俗。一皆悉斷。或本云、無藏金銀錦綾五綵。又曰、凡自諸臣及至于民、不得用金銀。縦有違詔、犯所禁者、必罪其族。 ──『日本書紀』卷第廿五 天萬豐日天皇 孝德天皇 「朕が聞いたところによれば」と孝徳天皇が語り始め、「西土の君(もろこしのきみ ※ここでは、中国の君主)が民に戒めて言うことには」と話を進め、前段で制定の意義を説き、後段で葬制の内容を事細かに述べている。引用元は明らかに『魏志』の巻1「武帝紀」と巻2「文帝紀」であり、よって、ここでの「西土の君」とは曹操(魏の武帝)と曹丕(魏の文帝)のことと分かる。内容を見るに、従来の墓の規模に比して遙かに縮小しており、簡素化している。つまり、厚葬の時代は過去となり、世は薄葬の時代へと移行していた。これらの知見から判断して、現代の研究者は大化2年に敷かれた係る葬制を「薄葬制」と呼ぶようになった。この詔が発せられた社会的背景として公地公民制との関わりを指摘する@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}研究者[誰?]もいる。
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