甘露の変と会昌の廃仏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:10 UTC 版)
牛党・李党、双方が相手を追い落とすために宦官を利用したこともあり、この時期には宦官の勢力はますます増大していた。李訓と鄭注は大和9年(835年)に仇士良を初めとする宦官勢力を一気に滅ぼしてしまおうと画策するがこれに失敗、両名は殺される(甘露の変)。以後、皇帝は完全に宦官に掌握されるようになり、文宗は「朕は家奴(宦官)に制されている」と嘆いた。 李訓・鄭注の死後、朝廷では牛李双方の宰相が並立し、争いを繰り返していた。開成5年(840年)に文宗が崩御、文宗は陳王李成美を後継としていたが、甘露の変の際に仇士良により文宗の弟である李瀍が擁立され、武宗となる。これと共に陳王擁立にかかわっていた牛派の李玨・楊嗣復は宰相を追われ、代わりに李徳裕が宰相となる。 更に年号が改まった会昌元年(841年)には李玨・楊嗣復を、会昌3年(843年)には牛僧孺を、会昌4年(844年)には李宗閔をそれぞれ地方へと追いやる。また会昌6年(846年)には李宗閔を封州へと流し、李宗閔はその2年後の大中2年(848年)に死去する。 専権を振るう李徳裕は内政・外征に積極策を打ち出す。会昌2年(842年)に廃仏を上奏し、会昌5年(845年)より本格的な廃仏が始まる(会昌の廃仏)。また進士派が党を作る温床となっていると考えられた「呈榜・曲江宴」を廃止した。外征に於いては会昌2年(842年)から会昌3年(843年)にかけて回鶻を討伐し、これに成功を収めた。
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