王宏
字は長文《後漢書王允伝》。太原郡祁の人で、司徒王允の兄である《後漢書王允伝集解》。王淩の父であろうか。また「王宏は河東太守・緜竹侯だったが、叔父王允が遭難すると官を捨てて北方の新興に逃れた」とする説もある《王淩伝集解》。 若いころから気力があり、些細な行いにはこだわらなかった。はじめ弘農太守となり、冀州刺史に転任した。酷薄な性質だったので、私信を出して豪族たちと交わろうとはしなかった。そこで賓客たちは「王(宏)はひとり坐っている」と言っていた。のちに弟の司徒王允によって右扶風太守に任じられた。このとき同郡の宋翼も左馮翊太守となっており、李傕らは長安に入ったとき、王允を殺そうと望んだものの二つの郡を恐れて手を下せなかった《後漢書王允伝・同集解校補》。 そこで李傕らは勅命によって王宏・宋翼を召し寄せた。王宏は宋翼に使者を出して「郭汜・李傕は我ら二人が外にいるから王公(王允)に危害を加えないのだ。今日お召しに応じれば明日にも一族皆殺しにされよう。出ていくわけにはいくまい」と言ったところ、宋翼は「禍福は予測しがたいとはいえ、王命に背くわけにはいかぬ」と答えた。王宏はまた「董卓に対する義兵が鼎のごとく沸き立っている。ましてや董卓の手下に過ぎないのだ。もし兵を挙げて君側の悪人を討伐すれば、山東も必ず呼応するだろう。これこそ禍を転じて福となすの計略だ」と説得したが、宋翼は従わなかった。王宏は独立することもできず、宋翼とともにお召しに応じた《後漢書王允伝》。 王宏は廷尉に下され、李傕は王允を王宏・宋翼とともに収監した。もともと王宏は司隷校尉胡种と仲が悪く、王宏が獄に下されたとき、胡种は(担当役人に)彼を殺すよう脅迫した。王宏は死刑の命が下されると罵って言った。「宋翼は豎儒に過ぎず大計を議するには不足だった。胡种は他人の禍を望みとしているが、やがて禍は我が身にふりかかるであろう」。王宏は王允・宋翼とともに殺害された。そののち胡种は眠るたび、いつも王宏が現れて杖で彼を叩いた。そのため病気となって数日で死んでしまった《後漢書王允伝》。 【参照】王允 / 王淩 / 郭汜 / 胡种 / 宋翼 / 董卓 / 李傕 / 河東郡 / 祁県 / 冀州 / 弘農郡 / 山東 / 司隷 / 新興郡 / 太原郡 / 長安県 / 馮翊郡(左馮翊郡) / 扶風郡(右扶風郡) / 緜竹県 / 県侯 / 刺史 / 司徒 / 司隷校尉 / 太守 / 廷尉 / 族(一族皆殺し) |
王宏
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王 宏(おう こう、1925年 - )は、中国の日本語学者。元の名は王康緒。
略歴
1925年台湾に生まれる。1932年夏、家族で満洲国新京に移り、1939年北京日本中学校に入学し、1943年卒業。1944年10月、東亜同文書院大学予科に進学するが翌年中退し、北京を経て新四軍の勢力圏に入る。戦後は北平の華北学院商学院経済系に学び、1948年卒業すると華北軍政大学台湾隊で学んだ。1949年10月1日の中華人民共和国開国大典には華北軍政大学台湾隊として参列している。朝鮮戦争では中国人民志願軍に志願し従軍した。1960年上海外貿学院、上海外語学院の日本語教員となり、1972年には上海外国語大学の日本語教員、同大の日本語学部の初代主任、中国日語教学研究会会長を歴任した。
参考文献
- 許雪姫「論東亜同文書院台湾学生的人數—兼論陳新座、彭盛木、王康緒三人不同的際遇」『同文書院記念報』第25号別冊(2017年1月)
外部リンク
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