特務艦
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1939-1941年 1939年(昭和14年)11月に海軍による買い上げが決まる。12月、海軍は227万5000円を購入費として計上した。12月20日、地領丸は東京石川島造船所深川第一工場のドックに回航し、乗組員は下船した。1940年(昭和15年)2月20日、「宗谷」と命名され、同日付で特務艦に編入、雑用運送艦(砕氷型)に類別された。雑用運送艦とは石炭、兵器等、積荷を限定せず、その時に応じて兵員や包装した食糧、ドラム缶入りの燃料等、何でも運び、測量、砕氷等の業務をおこなう艦のことである。なお、この日を正式購入日とする説がある。海軍が民間から購入した特務艦として唯一の事例となる。 石川島造船所にて、8cm単装高角砲1門、25mm連装機銃、測探儀室、測量作業室増設などの改装を行う。6月4日、特務艦としての改装工事が完了し、横須賀鎮守府籍となる。類別では運送艦だったが、海軍は老朽化した砕氷艦「大泊」の不足を補う役目を本艦に期待し、新鋭砕氷艦ができるまでの繋ぎとして千島・樺太など北洋水域の後方補給・物資輸送および同海域での強行測量艦として運用するつもりであった。初代特務艦長は山田雄二中佐。当時の艦体色は灰色だった。 12月20日、ソ連通商部は東京民事裁判所に提訴し、前払い建造費の返還と違約金の支払いを求めた。本船の購入問題は、ソ連政府がモスクワ駐在大使東郷茂徳に解決をせまるほどの大問題に発展する。裁判中にノモンハン事件が発生している。結局、裁判は1941年1月にソ連政府と建川美次大使との交渉で政治決着した。 6月4日、宗谷は長浦港のドックを出て横須賀に向かった。所属は横須賀鎮守府部隊付属となる。最初の任務は北樺太の調査だった。10月11日、紀元二千六百年特別観艦式に拝観艦の一隻として参加した(番外列13隻のうち9番目)。10月22日、松本亀太郎中佐が艦長に着任する。11月12日、測量、気象、海象観測任務のためサイパン島に赴く。12月16日、測量を終え横須賀に向けて出航した。 1941年(昭和16年)2月8日、再びサイパンに赴き、3月末まで調査を続けて横須賀に帰還した。5月7日、ポナペに向けて出港した。5月24日、コロニアに基地を置き、ポナペとトラック島の間を測量をおこない。7月30日トラック島へ戻った。トラック泊地は第四艦隊(司令長官井上成美中将、旗艦鹿島)の根拠地であり、宗谷も測量の傍ら輸送任務に従事した。当時の宗谷は海洋測量艦としての機能を発揮するため、水路部より測量技師、技生と測量艇が常時二隻配置に付いており、遠洋漁船を徴用した測量隊の陣容は大所帯だった。多数の測量技術者、最新の測量機材器具を搭載し、フル回転させた技術は、艦の型の悪さに反して随一といわれていた。空にはラジオゾンデを何千個も揚げ、昼夜を問わず高層気象の観測に取り組み、九〇式測探儀、九一式探信儀、英式音響測探儀等、また電動手動のあらゆる機器を駆使して当時の軍機海図を作り上げた。8月26日、サイパンにて久保田智中佐が艦長に着任する。その後、東カロリン諸島、トラック諸島、ポナペ島の測量をおこない、11月1日、サイパンを出港。11月13日、横須賀に帰港し入渠した。 1941年12月8日、横須賀で日米開戦の報を受ける。 1942年 1942年(昭和17年)1月7日、宗谷は横須賀を出発、南洋にむかう。1月20日付で第四艦隊(司令長官井上成美中将)に編入された。その後、幾度かトラック泊地と横須賀を往復した。この頃、南洋部隊(第四艦隊)は南雲機動部隊の支援を得て、ビスマルク諸島(ニューブリテン島、ニューアイルランド島)を占領した(ラバウルの戦い)。宗谷はビスマルク諸島やソロモン諸島の測量を命じられ、3月8日ラバウルに到着した。宗谷はラバウルを拠点に、ニューイアルランド島やブーゲンビル島の測量をおこなう。 3月22日、ラバウル周辺のマッサバ掃蕩作戦に参加する。この時、第八特別根拠地隊司令官金沢正夫中将が乗艦したため、宗谷に初めて将旗が掲げられた。3月23日、宗谷は浅瀬を通る水船のための泊地と水路調査を、測量艇による調査と音響測探を実施して、出入り水船の安全を確保した。これによりラバウル港に出入りする艦船に、真水を安心して供給できるようになった。3月下旬、北部ソロモン諸島の攻略をおこなう。八特根陸上警備隊を乗せた宗谷は、睦月型駆逐艦3隻(睦月、弥生、卯月)とともにショートランド島へ向かった。3月30日午前4時、ショートランド泊地に到着。陸戦隊を上陸させ通信機器を揚陸して通信所を仮設した後、水路測量に取り掛かる。この直後、米軍の双発飛行艇に襲撃されるが随伴の駆逐艦隊が応戦し撃退に成功する。同日午後4時、キエタに向かった。3月31日午前1時、ブーゲンビル島東側キエタ港に進入、艦内からも陸戦部隊を編制し、部隊はキエタ街に突入した、街はもぬけの殻だったので無血上陸に成功する。作戦を完了した宗谷はラバウルに戻った。 4月6日、13ミリ機銃2基増設。4月7日、陸戦隊と大発を搭載しラバウルを出港する。翌日早朝、タラシー湾に進入し、陸戦隊を揚陸させ無血上陸に成功した。同日にダンピール海峡の水路調査に向かった。4月15日、デュークオブヨーク島(英語版)に向けてラバウルを出港する。4月23日、測量中に敵双発機に襲撃されるも被害なし。4月下旬、第八根拠地隊はMO作戦の準備に入る(珊瑚海海戦)。宗谷の任務はニューギニア島東部の水路調査であった。 5月6日、13ミリ機銃1基増設、5月17日、13ミリ機銃1基を陸揚した。同17日、ミッドウェー作戦参加のため、第四艦隊の指揮下を離れラバウルを出発する。5月25日までに、ミッドウェー島占領隊と護衛部隊(第二水雷戦隊、第七戦隊)はサイパン島もしくはグアム島に集結した。5月26日、連合艦隊の下令により宗谷は南洋部隊(第四艦隊)から除かれ、第二期・第三期作戦中は攻略部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官、旗艦愛宕)に編入されることになった。占領地における測量が、宗谷の任務であった。同26日、護衛隊指揮官田中頼三少将(第二水雷戦隊司令官、旗艦神通)は、低速の輸送船2隻(明陽丸、山福丸)を第21駆潜隊護衛下で先発させる。また宗谷も9ノットしかでないので、船団本隊の航路を単艦で先行させた。宗谷は単艦でミッドウェー島に向かった。6月3日、第八戦隊の利根型重巡洋艦2隻(利根、筑摩)に信号を送る。ただし第八戦隊は南雲機動部隊直衛のため、宗谷以下船団部隊より遙か北方を航行中だった。攻略船団や宗谷の付近で行動していた巡洋艦部隊は、第七戦隊司令官栗田健男中将が指揮する最上型重巡洋艦4隻と朝潮型駆逐艦2隻である。6月4日、ミッドウェー島北西500海里でB-17九機と交戦も被害なし。同日12時15分、宗谷はミッドウェー島約600浬地点で、敵味方不明の中型陸上機一機発見を報告した。 6月5日0900頃、南雲機動部隊の空母3隻炎上の速報が入る。1000、攻略部隊指揮官近藤信竹中将は、船団部隊の避退を下令した。これを受けて船団は撤退を開始した。同時刻、護衛部隊指揮官田中頼三少将は、低速の宗谷などにに対し、直ちにウェーク島への転針を命じた。船団部隊は特に被害なく退避に成功する。6月8日2030、近藤中将は『 二水戦司令官ハ九日補給終了後特令ニ依リ 第十六駆逐隊ヲ率ヒ護衛隊、占領隊ニ会合シ 二聨特、一木支隊ヲ大宮島及「サイパン」方面へ 第十一、第十二設営隊、慶洋丸、五洲丸ヲ「トラック」ヘ護衛シ 第一号、第二号、第三十四号哨戒艇ヲ原隊ニ復帰セシメタル上 内海西部ニ回航スベシ 第十六掃海隊、宗谷(第四測量隊)ハ右護衛任務終了後第四艦隊司令長官ノ指揮下ニ復帰ノコトトス 』と指示した。ウェーク島からポナペに撤収し、宗谷のMI作戦は終了した。 第四艦隊に復帰命令を受けたあと、ふたたびラバウル方面防備部隊に所属する。ポナペからトラック島を経由してラバウルに進出、ビスマルク諸島に戻ってきた。7月になると、ニューアイルランド島のカビエン周辺で行動する。カビエンとニューハノーバー島の間に散在する小島とステファン、バイロン両海峡の測量と航路浮標の設置の任務に就いた。8月4日、ラバウルに帰投した。第八艦隊(司令長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将、先任参謀神重徳大佐)の指揮下に入る。8月7日、海兵隊第1海兵師団がガダルカナル島に上陸し、ガダルカナル島攻防戦が始まった。第八艦隊は、佐世保第五特別陸戦隊と第81警備隊の兵士519名を敷設艦津軽、宗谷、明陽丸(5,628 t)に分乗させ、第二十一号掃海艇の護衛をつける。3隻(津軽、宗谷、明陽丸)は海軍陸戦隊を乗せ、フロリダ諸島の戦いでアメリカ海兵隊に占領されたツラギ島奪還に向かった。8月8日、セント・ジョージ岬沖合において、アメリカ潜水艦S-38 (SS-143) の雷撃で明陽丸が大破、沈没する。奪回作戦中止命令により、宗谷はラバウルに戻った。同日、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官(旗艦鳥海)率いる“三川艦隊”がガ島の鉄底海峡に突入して第一次ソロモン海戦が発生した。だが宗谷や津軽が撤退していたので、第八艦隊は早期のツラギやヘンダーソン飛行場奪回に失敗した。 8月9日、ラバウルをB-17爆撃機少数が襲い、宗谷に至近弾となった。横須賀帰還命令を受け、トラック泊地を経由し、8月28日横須賀に到着した。 9月14日、横須賀からラバウルへむけて出港、9月下旬に到着した。10月5日、ラバウルからブインに移動する。ソロモン諸島北部の港湾測量、掃海、錘量浮標の設置を行った。ブカ島に向けて航行中の10月16日、B-17重爆2機から爆撃されたが、すべて至近弾となり難を逃れた。11月20日、ラバウルに帰投した。ラバウルも頻繁に空襲を受けるようになり、宗谷も危うい場面が幾度かあったという。 ふたたびブーゲンビル島に出動し、ブイン周辺の測量をおこなう。12月27日、ブインを出る。翌12月28日、ブカ島クイーンカロライン港に到着。翌年1月1-31日にかけて港付近の測量、掃海、錘量浮標の設置、海図の設計、ブカ島の滑走路に航空隊を導入のための下地作りをおこなった。 1943年 1943年(昭和18年)1月28日、ブカ島クイーンカロライン沖で測量海図の仕上げの最中の午前6時55分、敵潜水艦から発射された魚雷4本のうち1本が右舷後方に命中するも、不発であったため難を逃れた。護衛の第二十八号駆潜艇は爆雷を投下し、この潜水艦を撃破した。ただし、米軍の記録では該当する潜水艦の喪失記録はない。アメリカ潜水艦グリーンリング (USS Greenling, SS-213) の記録では1月18日、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯02度04分 東経150度37分 / 南緯2.067度 東経150.617度 / -2.067; 150.617の地点で宗谷撃破となっているが、この時期宗谷はブカ島クイーンカロライン近辺で測量などをおこなっていた。 4月26日、艦長が天谷嘉重大佐に交代した。4月28日、ラバウルを出発し水路測量のためサンタイサベル島に赴く。4月30日、イサベル泊地に到着。測量任務を開始した直後、翼を休めていた敵飛行艇と遭遇、撃ち合った後、敵飛行艇は飛び去った。5月5日、B-24と交戦。12分間の戦闘の間に、高角砲19発、20ミリ機銃120発、13ミリ機銃480発、7.7ミリ機銃138発の弾丸を撃ったが撃墜には至らなかった。機銃掃射と至近弾により測距儀を故障し、2名の負傷者がでた。同日夜カビエンに向けてイサベル泊地をあとにした。 5月23日、午前2時24分カビエンの港にて敵機の襲撃をうけた。至近弾の爆発の震動によって「九〇式一型改一転輪羅針儀(ジャイロコンパス)」と「音響測探儀」が故障し横須賀に修理に戻ることになった。6月3日、カビエンを出港し、トラック島に6泊したあとサイパンに寄港し、6月24日に横須賀に帰港した。 7月19日、横須賀を出港。7月29日にトラック泊地に到着。8月6日、駆逐艦夕月と第二十八号駆潜艇を護衛艦に、朝風丸、山霧丸、北開丸を率いてラバウルへ出発した。9月27日、輸送船団を率いてラバウルを出港、10月2日にトラック島に到着。10月8日、数隻の大発を搭載し上陸部隊を乗せマーシャル諸島クェゼリンに向かった。10月13日早朝、クェゼリンを目前にアメリカ潜水艦シードラゴン (USS Seadragon, SS-194) から雷撃をうけるも被害なし。午前9時クェゼリンに到着した宗谷は陸軍部隊が移乗した大発を見送ると、夕方にルオットへ移動した。 1944年 1月初旬、ブラウン島から燃料や食料の補給のためクェゼリンに向けて出港の用意をしていると前艦長の久保田智大佐(第24駆逐隊司令)が来訪「クェゼリンは食料が不足してる」と忠告され、トラック島に針路をかえた。 1月14日、久保田司令率いる駆逐艦海風などの護衛を受けてブラウン島を出航する。1月18日、海風や涼風および潮(第7駆逐隊)などがトラック島に到着した。 2月1日、第八艦隊から連合艦隊付属に編入された。 2月17日、第58任務部隊 (Task Force 58) によるトラック島空襲に遭遇し、トラック泊地の夏島周辺で対空戦闘をおこなう。同17日午後、回避行動中に座礁した。アメリカ軍は、空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) の艦上攻撃機TBFアヴェンジャーにより、レーダーのみを用いた夜間航空攻撃を実施しようとしていた。翌2月18日午前1時すぎ、夜間空襲によりに宗谷は損傷する。米軍機1機を撃墜するも、測探儀と20mm機銃が大破、副艦長を含む9名が戦死し、天谷艦長も重傷を負った。弾薬も使い果たす。福島大尉が指揮官を代行し機密書類を焼却した後、総員退艦命令を出した。2月19日、満潮により宗谷は自然離礁して漂流する。夏島に避難していた乗組員は、再び宗谷に乗り込んで応急修理を実施した。至近弾の衝撃で機関部に若干の損傷を受けていたが、他に大きな被害はなかったという。こうして宗谷は脱出に成功したが、天谷嘉重大佐は艦放棄の責任とエニウェトクの戦いに巻き込まれた第四測量隊全滅の責任をとわれ、2月28日付で更迭された。 3月17日、トラック泊地を出港、サイパンに移動した。3月24日、宗谷は第十一水雷戦隊司令官高間完少将の指揮下、東松第二船団(陽炎型駆逐艦野分、神風型駆逐艦朝風、海防艦満珠、敷設艇巨済、駆潜艇4隻、宗谷含め加入船舶14隻)に所属してサイパンを出発、横須賀へ向かう。3月26日、ボイラーの故障により護衛艦2隻と共に船団部隊からの離脱を余儀なくされる。3月28日、小笠原諸島父島の二見港に到着、応急修理を実施する。4月4日、二見港を出港。4月7日、横須賀に帰港する。4月9日、日本鋼管浅野ドックに入り、測量艦から輸送艦に改装される。測探儀や観測機器を撤去し、25mm機銃を4機増設、円管から海軍制式の水管缶の交換をおこなう。4月22日に出渠する。 5月7日、戦車第十一連隊第四梯団を乗せた天領丸と大湊で合流し、駆逐艦とともに護衛する。5月15日、幌筵島に到着。25日、横須賀に帰着、これ以降ボイラーの不調になやまされ、修理と試運転を翌年の2月まで繰りかえす。なお、姉妹船である天領丸とは最初で最後の行動となった。5月30日、志和彪大佐が艦長就任。8月20日、志和彪大佐横須賀にて退艦。8月28日、三式一号電波探信儀三型を搭載する。 1945年 1945年(昭和20年)1月20日、横須賀鎮守府付属の雑用艦に配置換えがあり、宗谷は2月に輸送任務に復帰する。2月27日、「特攻輸送艦」として軍事物資を積み横須賀を出港。3月2日、室蘭に到着。3月4日、山内正規大佐が艦長に就任する。このあと物資を荷揚げして石炭などを搭載。青森県八戸に石炭を運んで室蘭に戻る。3月23日、横須賀に帰港する。これをもって第一次輸送任務を完了する。3月25日、第二次輸送任についた。5月29日、姉妹船「天領丸」がアメリカ潜水艦スターレット (USS Sterlet, SS-392) に撃沈された。天領丸が海に消えた日、宗谷は第四次輸送任務を終えて横須賀軍港にいた。6月19日、第五次輸送任務を完了する。6月24日、物資を積載し、満州にむけて神津丸、永観丸を連れて横須賀を出港。同日午後、海防艦四坂、第五十一号駆潜艇と横須賀沖で合流し、護衛についた。6月25日、第三十三号掃海艇が護衛に加わる、6月26日、宗谷は第一六二四船団(神津丸、永観丸、海防艦四坂、第五十一号駆潜艇、第三十三号掃海艇)と大湊警備府第九〇三海軍航空隊の九〇三空の水上機隊の航空支援を受けて船越湾大釜崎沖を航行中、アメリカ潜水艦からの雷撃をうける。この攻撃で神津丸が轟沈、永観丸が被雷擱座、魚雷1発が宗谷の下を通過した。宗谷と護衛艦は爆雷で反撃し、潜水艦を撃退した。 7月27日、横須賀に帰港し第六次輸送任務を完了する。同日ドック入りする。8月2日、横須賀でドック入りしている時、戦艦長門、病院船氷川丸と共に空襲を受ける。被弾した敵機が補助燃料タンク(増槽)を投下して逃避したが、このタンクが宗谷の機関室真上の天窓に命中、ガラスを破損しガソリンが機関室内で蒸発する。室内に気化したガソリンが充満してしまったが、幸い入渠中のため火気がなく爆発を免れる。空襲が終わった後、宗谷乗組員は長門に派遣された。翌8月3日、横須賀鎮守府の避退指令を受けた宗谷は、標的艦大浜を伴い女川に向かった。8月4日、女川に到着し、大浜は同地に残る。8月6日夕方、宗谷は第七次輸送任務のため室蘭に向けて単独で出港した。 8月7日早朝、第37任務部隊 (Task Force 37) に接近されるが霧が濃くなり、その霧に包まれた宗谷は八戸港に逃げきることに成功する。この霧は乗組員に神の衣と呼ばれた。8月8日早朝、八戸を出港、同日午後室蘭に到着する。8月15日、室蘭港で防空訓練中に、終戦をむかえた。 8月17日、石炭を積んで室蘭を出港する。八戸港を経由して8月21日、横浜湾に到着する。台風の影響により横須賀港に入ったのは8月24日の午後4時だった。同日、第七次輸送任務を終了する。8月29日、軍艦旗を降ろす。8月30日、引き渡しを終了。山内艦長以下全員退艦。9月5日に海軍籍から除籍された。
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