どうくつ‐いせき〔‐ヰセキ〕【洞窟遺跡】
洞窟遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/06 11:26 UTC 版)
洞窟遺跡(どうくついせき)または洞穴遺跡(どうけついせき)とは、自然の洞窟を人類が利用した遺跡のことである。
概要
洞窟遺跡の利用目的は様々であり一時的な居住地、作業場、倉庫、墓地などに用いられることが多い。
ヨーロッパの旧石器時代の洞窟遺跡は墓として発見されることが多い。
アジアでは北京原人を出した中国の周口店洞窟などが著名であり、日本でも長野県上田市の鳥羽山洞窟(国の史跡)や[2]、神奈川県三浦半島沿岸(毘沙門洞窟や間口洞窟など)~千葉県房総半島南部沿岸(大寺山洞穴遺跡など)の海蝕洞窟群など、各地で洞窟遺跡が発見されている[1][3]。
神奈川県三浦市の毘沙門洞窟や間口洞窟では、それまで実例が乏しかった祭祀系遺物である卜骨・卜甲がまとまって出土し、これら遺物の本格的な研究開始の端緒となっており[4][5]、貴重な考古学的発見に繋がった洞窟遺跡は数多く存在する。
ギャラリー
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神奈川県三浦市大浦山洞窟遺跡からの眺め
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神奈川県三浦市間口洞窟遺跡の近景
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長崎県佐世保市泉福寺洞窟の近景
脚注
参考文献
- 神澤, 勇一『間口洞窟遺跡 本文編』 7巻〈神奈川県立博物館発掘調査報告書〉、1973年3月25日。doi:10.24484/sitereports.22857。 NCID BN1480867X 。
- 神澤, 勇一「弥生時代・古墳時代および奈良時代の卜骨・卜甲について」『駿台史学』第38巻、1976年3月、1-25頁、ISSN 05625955、NAID 40002010199。
- 関, 孝一、永峯, 光一 著、鳥羽山洞窟調査団 編『鳥羽山洞窟-古墳時代葬所の素描と研究-』信毎書籍出版センター、2000年10月25日。ISBN 4884110048。 NCID BA51017820。
- 神奈川県立歴史博物館『特別展 洞窟遺跡を掘る-海蝕洞窟の考古学-』神奈川県立歴史博物館、2022年4月29日。 NCID BC15059901。
外部リンク
洞窟遺跡
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あづち茶屋の裏手には「安房神社洞窟遺跡」として、昭和7年(1932年)の井戸掘削工事の際に地下約1メートルで見つかった海食洞窟の遺跡がある。洞窟の大きさは推定全長22メートル以上、幅3.5メートル。発掘調査により人骨22体、貝製の腕輪193個、石製の丸玉3個、縄文土器などが出土した。この洞窟は昭和42年(1967年)に千葉県指定史跡に指定されたが、現在は埋め戻されている。 出土した人骨22体のうちでは、15体に抜歯の習俗が見られることが注目される。洞窟からは弥生土器が発見されたというが、その土器の存在が明らかでなく詳細が不明であるため、従来弥生時代とした人骨の年代については再検討が必要とされる。これらの人骨を安房神社祭祀に関係する一族に比定して、安房神社の創祀を弥生時代に遡ると推定する説もある。人骨の一部は近くの宮ノ谷に埋葬されたうえで忌部氏に仮託して「忌部塚」として祀られており、毎年7月10日には神事として「忌部塚祭」が行われる。この忌部塚は、二の鳥居前の階段の手前を東に道なりに行った場所に位置する。 洞窟遺跡の位置(現在は埋め戻し)
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