武将としての時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 06:00 UTC 版)
マケドニア王国の貴族アンティオコスの息子で、アレクサンドロス大王の家臣として仕え、大王の東方遠征にも参加して活躍する。しかし他の大王の後継者(ディアドコイ)たちに比べれば当時は影が薄い存在で、アレクサンドロスの生涯に関する史料として最も重要視されるアッリアノスの『アレクサンドロス大王東征記』でも、セレウコスが最初に登場するのは、紀元前326年のヒュダスペス河畔の戦いの場面である。当時、彼は重騎兵(ヘタイロイ)の一員で、王の近衛歩兵部隊の指揮官であった。 紀元前324年にスーサで行なわれたギリシア人と東方人の集団結婚式では、アレクサンドロスに敗れたソグディアナの実力者スピタメネスの娘アパメーを娶る。このとき王に強いられて東方人の妻を迎えた者たちのほとんどは、やがて相手と離別したが、セレウコスだけは生涯アパメーと連れ添った。ソグディアナ人のアパメーを妻としたことは、後に彼の東方支配に大いに利したとされる。 アッリアノスによれば、アレクサンドロスがバビロンに帰還してから、彼の死の予兆となる不吉な事件が次々に起こったというが、そのなかのひとつにセレウコスが登場する。それによればアレクサンドロスが船団を率いてバビロン南方の沼沢地を進んでいたときに、彼のかぶっていた帽子とディアデマが風にさらわれて沼の芦に引っかかった。同時代人アリストブロスの記録では、一人の水夫がこのディアデマを王のもとに届けたとされるが、別伝によるとディアデマを王に手渡したのはセレウコスであり、彼が王の権威の象徴を手にしたことは、のちに彼が王位を獲得する前兆であったという。 その後、アレクサンドロスの死の直前に、王の治癒祈願のためセラピス神殿に参篭した者たちの中にも、セレウコスの名が見える。 アレクサンドロス3世の存命中にセレウコスの行動として記録されているものはこの程度である。
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