来日後
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「ヘンリイ・パイク・ブイ」の記事における「来日後」の解説
1893年に妻のアグネスが60歳で亡くなるが、ヘンリーがカトリックだったため、前夫らの墓に埋葬できずヘンリーと子供たちで別の教会に豪華な霊廟を建てて弔った。ヘンリーはアグネスからの遺産として、邸宅のあるヒルズボロの土地やサンマテオ郊外のコヨーテ・ポイントの地所など、アグネスが元夫から相続した広大な地所の5分の1を得た。同年初来日し、日本の美術品を収集。以後、来日すること数回、常に和服を着用した。巖谷一六から武威という雅号を受ける。京都に住んだ時には主に西川桃嶺(幸野楳嶺門人)や久保田米僊に、東京では島田雪湖・墨仙ら日本画家たちに師事し、ブイが描いた日本画も残っている。また、歌人の福羽美静とも交流した。51歳だった1899年に、明治天皇に仕えていたとされる24歳年下の平野駒と東京で結婚し(仲人は柳原愛子)、1900年に長男の平野威馬雄が生まれた。1907年に再来日して2年間滞在し、1908年には次男の平野武雄をもうけた(威馬雄がヘンリーと会ったのはこの7歳のときの2年間と、ヘンリーが亡くなる直前の18歳のときのみとなった)。 母国アメリカでは、西海岸での日系移民への排斥運動が高まりを見せており、威馬雄によると「迫害された日系移民たちをカリフォルニア州サンマテオの自邸に招き、励ましと共に職を与えた」という。日本通として大学などで日本美術についての講演会を開き、1905年にはサンフランシスコ日米協会(The Japan Society of San Francisco; The Japan Society of Northern Californiaの前身)を創立、初代会長に就任。副会長にはスタンフォード大学学長だったデイビッド・スター・ジョーダンを迎えた。威馬雄によると、「ポーツマス講和会議ではルーズヴェルト大統領に随行し、帝政ロシアによる東洋侵略政策を批判した」とされる。1912年頃に英語とフランス語で『日本大和言葉の研究』『日本画の描法』(雪湖が一部挿絵を担当)を米仏の出版社から刊行した。この時期は、1906年にサンフランシスコ市が日本人学童隔離政策を実施、1908年には日本人の入国制限、1913年には日系人閉め出しを目的としたカリフォルニア州外国人土地法が施行されるなど、排日運動の激しさが増していたさなかであり(排日移民法#日本人移民への排斥活動とその対応参照)、とくにヘンリーが暮らすサンフランシスコ一帯は「排日の本場」と言われるほどの激しさにあった。 ヘンリーは元弁護士といっても一度訴訟に関わっただけで実績はほとんどなく、地元サンマテオでは、もっぱら庭園愛好家、美術支援者として知られていた。建築家となったアグネスの三男ジョージ・ホワードの設計で1880年代にヒルズボロの領地内にアグネスとの新居「Severn Lodge」を建てているが、日本から帰国した1900年代初期には、ヴェルサイユ風の庭園を持つその邸宅に、日本風味を加えはじめた。日本から大工を呼び寄せ、自邸に日本庭園を造り、茶室や柿葺の冠木門などを建て、当時日露戦争の勝利に沸いていた日本のためにこれを凱旋門と命名。この門は島田雪湖が下絵を描き、サンフランシスコ在住の日本人建築家ヤギ・スイキチが設計した(1906年に友人のユージーン・デ・サブラが購入し庭園は改築されたが現存する。デ・サブラ日本庭園の項参照)。また、アグネスから相続したコヨーテ・ポイントなど海岸沿いの町を一大観光地にするべく鉄道を延長するプロジェクトも始動した。
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来日後
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1995年に来日。以後全日本GT選手権(JGTC)→SUPER GTを中心に活躍している。全日本GT選手権では通算6勝を挙げ、1998年、1999年に2年連続でシリーズチャンピオンを獲得した。 またドライバー活動の傍ら、2001年には「コマス・レーシング・マネジメント株式会社」を設立。ステファン・サラザンやジェレミー・デュフォア、ロニー・クインタレッリなど多くの若手ドライバーのマネジメントも手がけているほか、欧州におけるJGTC・SUPER GTのテレビ放映権も獲得し、ユーロスポーツ・Motors TVといった欧州のスポーツ専門TVチャンネル向けに放映権を再販したりしている。 2006年もSUPER GTに参戦したものの、急性腰痛症により第5戦を欠場し、第6戦は参戦したものの、コマスの体調は改善できず、残りの3戦を断念。コマスの代役は荒聖治が務めた。
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来日後
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1987年に来日。この年は全日本F3にフル参戦、小河等とチャンピオン争いを繰り広げることとなった。最終的には4勝を挙げ、10ポイント差でチャンピオンに輝いている。同年、全日本F3000にスポット、エイエ・エリジュとともにワコール・トヨタ・童夢87Cをドライブして全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権など、多数のレースに参戦した。 1988年より、全日本F3000に本格ステップアップ。この年は最高位は5位であり、ランキング9位に終わったものの、予選でF3000では初となるポール・ポジション(以下:PP)を獲得している。翌1989年には第2戦(富士スピードウェイ)で初優勝。これを含め最終戦時で計2勝、小河等と3ポイント差のランキング2位につけていた。最終戦は小河がトップ独走中にトラブルでリタイヤ、ロスが逆転王座を手中に収めたかに思われたが、最終ラップで前車のトラブルに巻き込まれ、ノーポイント。王座を逃している。 1990年はPP・勝利共に無し、ランキング8位の苦しいシーズンとなり、1991年も前半戦はノーポイントと不調だった。しかし後半戦に巻き返し、ポイントで片山右京を猛追。第9戦(鈴鹿)ではPPの右京をスタートで抜き、そのままトップを守ってシーズン3勝目を挙げた。右京は逆に後半戦になって調子を落としており、流れはロスにあるとの見解もあったが、最終戦(富士)では星野一義と接触しリタイヤ。ランキング2位に終わった。 1992年も開幕戦(鈴鹿)で優勝。その後は勝ち星を挙げられないながらも着実に成績を残し、ランキングトップだったフォルカー・ヴァイドラーの離脱もあって、最終戦(鈴鹿)の時点でチャンピオン争いに踏み留まっていた。既に自力のみでの獲得が無くなり優勝が絶対条件の中、予選でPPを獲得し逆転に望みを繋げたが、決勝では4位に終わりランキングは3位となった。 1993年は鈴鹿で2勝を挙げ、星野・エディ・アーバインとチャンピオン争いを展開、前年同様、優勝が絶対条件ながらチャンピオンの可能性を残し最終戦(鈴鹿)を迎えた。しかし予選でPPを獲得したものの、決勝はトーマス・ダニエルソンに次ぐ2位となり、同ポイントで並んだ星野・アーバインと1ポイント差のランキング3位に終わった(優勝回数の差で星野がチャンピオン)。 1994年にも鈴鹿で2勝を挙げ、特に開幕戦の鈴鹿は3年連続での優勝となった。この年もマルコ・アピチェラ、アンドリュー・ギルバート=スコットらとチャンピオン争いを展開するが、ラスト3戦で全てノーポイントに終わり、ランキングは3位となった。結局全日本F3000ではチャンピオンを獲得出来ず、この年をもって帰国、日本でのキャリアを終えた。
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来日後
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1873年(明治6年)9月23日にラロックはマルセイユを出発し、11月15日に横浜に到着した。ここで住友の広瀬宰平とリリエンタール商会のガイセンハイメル、ラロックの三者により改めて雇用契約に関する話し合いが持たれ、日本坑法との整合を取るためにも住友と直接契約を結ぶこととなった。この際に病欠時の補償などが減らされたため契約交渉は1874年(明治7年)1月26日までかかり、同年1月1日から1875年(明治7年)10月31日までが雇用期間とされた。 佐賀の乱の影響を受けて赴任は遅れたが、3月5日に神戸から汽船で新居浜に行き調査を始めた。しかしラロックが「雨とラップランドのような寒さ」と評した別子銅山の厳しい気候もあってうつ病を発し、3月25日には神戸に戻っている。京都で内国博覧会を見るなどして回復し、5月9日に再び神戸から新居浜に向かい、以降は現地で調査を続けた。「アルプスよりも厳しい」と語った寒さのために1875年(明治7年)1月はふもとの新居浜などで過ごしたが、同年7月30日に調査を完了させ、有馬温泉で眼病の治療などをした後、11月2日に今後の指針となる『別子鉱山目論見書』を完成させた。広瀬はこの目論見書を「10万円の価値がある」と評している。
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来日後
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元徳2年(1330年)、鎌倉幕府に招かれて関東へ下向する途中、京都で後醍醐天皇に拝謁して法問を受け、仏日燄慧禅師の号を賜る。同年2月、得宗北条高時の要請で建長寺住持となり、竺仙が前堂首座としてこれを支えた。この頃、元弘の変で流謫した後醍醐天皇の復位を予言したという。変後、はたして復位した後醍醐天皇に招かれて元弘3年(1333年)上京、南禅寺第十三世として迎えられる。翌建武元年(1334年)には南禅寺は京都五山の第一とされた。同年、建仁寺に移り、第二十四世となる。また摂津に広厳寺を開山。建武3年(1336年)、建仁寺の方丈にて入寂。享年75。遺偈に「七十五年 一條生鐵 大地粉碎 虚空迸裂」。著書に『明極和尚語録』があり、法嗣に懶牛希融・草堂得芳らがおり、明極派もしくは燄慧派と称される。
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来日後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:21 UTC 版)
日本初参戦は1975年9月。まだ一介の若手であったが、シリーズ最終戦は蔵前国技館でのダブル・メインを控えたセミファイナル・マッチであった(対戦相手は当時全日本のNo.3だったザ・デストロイヤー)。ジャイアント馬場はギャラを手渡す際「いい試合をしてくれた」と声を掛けたが、実際の評価は「馬力だけの不器用なレスラー」だったという。 サンマルチノ戦後の1977年1月、WWWFとの提携ルートで新日本プロレスに初参戦。同年秋の再来日からはシリーズの外国人エースを務め、9月2日に愛知県体育館にてアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に初挑戦。9月29日には大阪府立体育館にてザ・ハングマンをパートナーに、坂口征二&ストロング小林の北米タッグ王座にも挑戦した。 以降、新日本プロレスの主力外国人選手となり、1979年の「第2回MSGシリーズ」ではアンドレ・ザ・ジャイアントを抑えて猪木と優勝戦を闘い、1980年2月にはウィリー・ウィリアムスが観戦する面前で猪木からNWFヘビー級王座を奪取した。以後も猪木のライバルとして成長し、NWF王座をめぐる名勝負を展開した。 「0.X秒差の逆ラリアート」などのドラマを生み、それまでのメイン・イベンターであったタイガー・ジェット・シンを抜いて新日本プロレスのトップ外国人レスラーとなった。1981年9月には田園コロシアムにおいて、アンドレと伝説として語り継がれる名勝負を産んだ。この一戦を見ていた7、8人の観客がハチに刺されたが、観客はそのまま医務室に行かず試合を見届けたという逸話がある。またハルク・ホーガンとの強力タッグも話題を集めた。 その圧倒的な強さは、当時のテレビ朝日実況アナウンサー古舘伊知郎により、「不沈艦」「ブレーキの壊れたダンプカー」などと形容された。当時のアメリカではジョージア州を主戦場に活躍する一方、1981年には再びニューヨークのWWFに参戦。MSG定期戦において旧友ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に3か月連続で挑戦している(3度目の挑戦となる同年4月6日の定期戦では、スチール・ケージ・マッチによる決着戦が行われた)。
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