本多忠義とは? わかりやすく解説

本多忠義

読み方ほんだ ただよし

江戸前期白河藩主。伊勢生。本多美濃守忠政の三男。名は忠光、幼名は幸千代14才大阪夏の陣初陣陸奥白河城居た致仕し削髪して鈍斎と号した延宝4年(1676)歿、75才。

本多忠義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/08 05:49 UTC 版)

 
本多忠義
時代 江戸時代前期
生誕 慶長7年(1602年
死没 延宝4年9月26日1676年11月2日
改名 忠光(初名)、忠義、鈍斎(号)
別名 右兵衛(通称
戒名 大信院本誓忠義大居士
墓所 奈良県大和郡山市城町の久松寺
奈良県奈良市二名の王竜寺
官位 従五位下能登守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱
播磨姫路新田藩主→遠江掛川藩主→越後村上藩主→陸奥白河藩
氏族 本多氏(平八郎家)
父母 父:本多忠政、母:妙高院
兄弟 栄寿院忠刻円照院政朝忠義
森忠政の娘・法光院
忠平忠利忠以忠晴忠周忠常忠寄、清性院、井上正任正室、金森頼直正室、心涼院、清殊院、石川総良側室、勢幾、松平忠倫正室
テンプレートを表示

本多 忠義(ほんだ ただよし)は、江戸時代前期の武将大名播磨国姫路新田藩の第3代藩主、遠江国掛川藩主、越後国村上藩主、陸奥国白河藩の初代藩主。官位従五位下能登守

生涯

慶長7年(1602年)、本多忠政の3男として誕生。元和元年(1615年)閏6月19日、従五位下・能登守に叙位・任官する。[1]

寛永8年(1631年)、父・忠政が死去すると、播磨姫路藩の所領のうち4万石を分与された。寛永8年(1631年)に兄・政朝から1万石を分与され都合5万石となり、寛永16年(1639年)3月3日には遠江掛川藩7万石に加増移封された。正保元年(1644年)3月8日、越後村上藩10万石に加増移封され、慶安2年(1649年)6月9日に陸奥白河藩12万石へ加増移封された。

寛文2年(1662年)11月25日、隠居して鈍斎と号した。延宝4年(1676年)9月26日に死去。享年75。家督は長男の忠平が継いだ。

系譜

脚注

出典

  1. ^ 村川浩平 2013, pp. 119–120.

参考文献

  • 村川浩平「「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」」『駒澤史学』第80号、駒澤大学、2013年、112-129頁、NAID 120006617084 



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「本多忠義」の関連用語

本多忠義のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



本多忠義のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの本多忠義 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS