慶応の軍制改革
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第二次長州征討の敗戦後、慶応2年(1866年)8月以降、15代将軍徳川慶喜によるいわゆる「慶応の改革」の下で再び大規模な軍制改革が行われた。幕府中枢への総裁制度導入により陸軍局が設置され、従来の陸軍組織の上に乗る形で老中格の陸軍総裁が置かれた。そして、幕府直轄の軍事組織の一元化が進められ、大番などの旧来型組織は解体ないし縮小されて、余剰人員のうち優秀な者が親衛隊的な性格の奥詰銃隊や遊撃隊(奥詰の後身)などとして陸軍へと編入された。講武所も陸軍に編入され、研究機関である陸軍所となった。すでに一定の洋式化が進んでいた八王子千人同心も編入され、八王子千人隊と改称されている。組織の拡大にあわせて、陸軍奉行の若年寄格への昇格、歩兵奉行並や撒兵奉行並の設置など指揮系統も整備された。 築造兵と称した工兵隊、天領の農民で組織した御料兵の編成もされた。また、シャルル・シャノワーヌ大尉らフランス軍事顧問団による直接指導も導入され、その訓練を受ける伝習隊が新規に編成されることとなった。 兵員調達の方法も改正され、従来の兵賦による歩兵隊のほか、旗本に禄高ごとに銃隊を整備させて、数家分を組み合わせて小隊や大隊級の銃隊を編成する組合銃隊の制度も施行された。組合銃隊用の兵員は、歩兵隊とは異なり、平時は各旗本の屋敷に待機することとされていた。しかし、翌慶応3年(1867年)1月に、兵賦については金納をもって替え、その資金で幕府が直接に雇用する形態となった(幕府歩兵隊の傭兵化)。この様にして次第に陣容が整い慶応3年9月初めの段階で、合計48大隊、総員24000人の規模を誇るまでになった。 さらに9月に組合銃隊についても、幕府の財政事情や、銃卒の給金が雇い主の旗本によってまちまちであり、構成人員が旗本の譜代の家臣、旗本知行地出身者、口入屋を通じ雇ったなど奉公人が入り雑じり、著しく部隊の均一性を欠く等の事から金納による歩兵隊へと変更され、旗本の軍役は金納のみとなり、各旗本は貢租の半額を拠出することとされた結果、組合銃隊は廃止された。各旗本が銃卒を解雇したため、歩兵隊へ雇用された一部を除く5千人もの解雇者が発生、解雇された銃卒が集団で屯ろするなど、大きな社会問題になった。しかしその後、王政復古など社会情勢の変化により、増員に迫られ相当数の人員が再雇用されたものと推定される。 最終時点で、幕府陸軍は歩兵隊8個連隊(一橋徳川家の播磨領で第16連隊が編成されて、計9個連隊であるとも言われる。)と伝習歩兵隊4個大隊を中核に、日本最大の西洋式軍事組織となっていた。
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