建築家として
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「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」の記事における「建築家として」の解説
失意に沈むウィトゲンシュタインを救う出来事がいくつかあった。ひとつはこのころ、姉のマルガレーテ・ストーンボローの新しい家の設計をしたことである。 かつて、ウィトゲンシュタインから財政支援を受けていた建築家アドルフ・ロースの紹介によりヴィトゲンシュタイン家と親しくなっていたロースの弟子パウル・エンゲルマンはすでにウィトゲンシュタインの兄パウルの陶磁器コレクションの展示室などを手がけており、次いでマルガレーテの私宅の建築依頼を引き受けたさいに、大まかな設計図が完成したところでウィトゲンシュタインに細部の仕上げに関して協力をもちかけたのである。 細部も含めて設計図が完成したのは1926年のことであるが、家の落成までには実に2年を要することとなった。というのも、彼がドアノブや暖房の位置や部品のような細部にまで偏執的にこだわり、1ミリの誤差も技師に許さなかったためである。ほとんど完成に近づいたところで「天井をあと3センチ上にずらしてほしい」と言い出すなど、建築業者泣かせの無理な注文もしばしば出したと伝えられている。 ようやく完成した家は、外装がほとんどない上にカーペットやカーテンすら一切使用しないという、極端に簡潔ながら均整のとれたものとなった。当時のウィーンの優美な建築の中にあっては極めて異色なこの家は、モダニズム建築としてある程度の賞賛を得た。この知的な仕事への献身がウィトゲンシュタインにとっては精神を回復させるのに役立った。 同時期にはこの建築の仕事のほかにも、第一次世界大戦末期にイタリアの捕虜収容所で知り合った彫刻家ミヒャエル・ドロービルのアトリエで少女の胸像を製作するなどして、もっぱら教師生活の挫折による精神的疲労を回復するための日々を送った。この胸像のモデルになったのはマルガレーテの紹介で知り合ったマルガリート・レスピンガーというスイス人女性であり、やがて二人はいずれ結婚することになるのだろうと周囲からみなされるほど親密になった。ウィトゲンシュタインがその生涯においてこうした関係をもったことが知られている女性はこのマルガリートただ一人であるが、この交際も1931年には破綻した。
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建築家として
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「コジャテペ・モスク」および「ファイサル・モスク」も参照 1954年、トルコに帰国した彼はアンカラに建築事務所を設立した。また、1956年にはトルコ建築協会の設立者の一人となった。 1957年、コジャテペ・モスクのコンペティションに、ダロカイは当時最新だったシェル構造を用いた独創的なデザインを提出した。彼のデザインは一等を獲得して建設も始められていた。また、1964年にはアンカラの建築家協会の会長に就任した。このとき政権交代が起こって中道右派の公正党政権が誕生し、これに呼応して保守層がアヤソフィアをモスクにすることを公然と主張していた。それに対して彼は1966年1月17日、建築家協会の総会において以下のように述べた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}アヤソフィア博物館をモスクにするということは、国際世論にとっては由々しき問題で、それはトルコ人にしてみるとセリミイェ・モスクに鐘をつけるくらい大変な事である。アタテュルクが作り上げたステイタスを守ろうではないか。アヤソフィアはトルコ人のものではない、全世界のものなのだ。 —ヴェダト・ダロカイ この発言は、アヤソフィアのモスク化のオピニオンリーダーだった『テルジュマン (トルコの新聞)(トルコ語版)』をはじめとする保守系の新聞に取り上げられて批判にさらされた。1月19日付の『テルジュマン』では一面から二面に渡ってダロカイへの批判が掲載され、また、公正党のイズミル県連代表は以下のようにダロカイを批判した。 アヤソフィアはモスクにされるべきです。その建築家についてですが、おそらくこの男はトルコ人ではないはずです。トルコ人であり、かつムスリムである人物でこのような発言をする人はいません。この人物をムスリムとみなすことは出来ないと、私は思います。 —メフメト・カラオウル 建築家協会はダロカイの発言を失言とし、彼のアヤソフィアに関する考えにも賛同しない旨を発表した。建築家協会への批判はしだいに収束したがダロカイへの攻撃は続いた。彼は3月17日付の『テルジュマン』に同紙のコラムニストが書いた「ダロカイはモスクを建設するための金をポケットに入れた」という批判に対する抗議文を投稿したが、ちょうどこのときトルコはキプロスとの小競り合いが続いており、民衆には、ダロカイはキリスト教徒の言い分を代弁し、ギリシャを擁護しているとされた。5月3日付の『テルジュマン』にはダロカイの解任が検討される予定であると報道され、同時にコジャテペ・モスクの建設を取り仕切っている協会の会長と副会長がダロカイを批判した文が掲載された。その1か月後にはモスクの建設契約は破棄され、コジャテペ・モスクの建設は中止された。 1969年、ダロカイは国際建築家連合を通じて行われたコンペティションで43組の中から選ばれてパキスタンの首都であるイスラマバードに、コジャテペ・モスクのデザインを現地に合わせて微調整したうえでファイサル・モスクを建築した。 彼は父が生業としていた新聞にも興味を示しており、1970年にはコンペティションの賞金で『アクサム(トルコ語版)』を買収しようとしたが、高額な買収金額のために断念した。この失敗に彼は失望したが、1972年には共和人民党が手放した『ウルス (新聞)(トルコ語版)』を複数人で所有し、『バリス』と改名して地方新聞として刊行したが、ダロカイはこれに満足せず彼の権利を他の所有者に売却した。
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建築家として
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「ギュンター・ベーニッシュ」の記事における「建築家として」の解説
ボンに位置する西ドイツ連邦議会本会議場 ベーニッシュは生涯を通して、ドイツ各地の学校や大学の建築デザインに関わった。また、西ドイツの首都であったボンの新議事堂 (Plenarsaal des Deutschen Bundestags in Bonn プレナールザール・デス・ドイチェン・ブンデスタークス・イン・ボン ) は、彼の有名な作品の一つである。彼の設計案がコンペティションで選ばれたのは1973年のことであったが、着工は1987年、さらに竣工は1992年に入ってからであった。 1952年よりベーニッシュは自身の事務所を設立、1956年までブルーノ・ランバートと共同運営を行った。また1966年に建築設計事務所 “ベーニッシュ&パートナー(ドイツ語版)” (Behnisch & Partner) を設立した (– 2005年) 。 彼の息子であるシュテファン・ベーニッシュ(ドイツ語版) (Stefan Behnisch) もまた同分野で活躍し “ベーニッシュ・アルヒテクテン(英語版)” (Behnisch Architekten) を1989年に立ち上げ、世界的に事業を展開している。 1967年よりダルムシュタット工科大学 (Universität Darmstadt ウニヴェルジテート・ダルムシュタット ) にて産業建築及び建築デザインの分野で教鞭を執り (– 1987年) 、建築規格協会の責任者を務める。 1982年にベルリン芸術アカデミー (Akademie der Künste in Berlin アカデミー・デア・キュンステ・イン・ベルリーン) の教員となり、1984年にシュトゥットガルト大学 (Universität Stuttgart) の名誉博士号を授与された。 1996年にザクセン芸術アカデミー会員(英語版) (Sächsische Akademie der Künste ゼクシシェ・アカデミー・デア・キュンステ) の創立メンバーに選任、2000年まで建築のクラスを受け持った。
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