天明年間
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委寧乃中路(イナノナカミチ) - 1783年(天明3年)3月中旬、信州飯田から天龍川右岸に沿って北行し、中仙道洗馬宿から5月24日本洗馬に到着し、長興寺近くの釜井庵(かまいあん)を拠点として近辺を遊覧した12月半までの日記。信濃以前の日記は盗賊に盗まれた。釜井庵は現存し本洗馬歴史の里資料館として当時のままの姿で残されている。 わがこゝろ - 1783年(天明3年)8月13日から数日間に姥捨山で月を見て、善光寺に参拝した記録。歌が主になっている。 洲輪の海(スワノウミ) - 1784年(天明4年)1月15日の諏訪神社「御頭祭」を記録している。『ふてのまゝ』の中に収められている断篇で、写本の「秀雄北越記本」と「熊谷本」が現存する。 いほの春秋(イオノハルアキ) - 1784年(天明4年)春に本洗馬の可摩永(釜井)という家で、信濃国に来てから経験した一年間を四季折々の自然の推移と人生の諸相を織りまぜて随筆風に描いた作品。本洗馬の民俗が記録されている。 來目路乃橋(クメジノハシ) - 1784年(天明4年)6月末に本洗馬を発って、松本を経て、筑摩の湯を見て、穂高神社に参詣し、有明山の麓を通り、登波離橋を訪れ、曲橋を渡り、仁科神明宮に参詣し、姨捨山を越えて善光寺に参拝して戸隠山に登り野尻湖を見て関川を越えて、7月30日に越後国新井まで出た紀行文。曲橋を久米路の橋ともいうところからこの書を名付けたとある。 齶田濃假寝(アキタノカリネ) - 1784年(天明4年)9月初に鼠ヶ関から鶴岡に入り、羽黒山に参拝し最上川を下り、酒田、吹浦村、象潟、本荘、矢島町、西馬音内を経て雄勝郡柳田村に達し草薙家に逗留、雪の中で新年を迎えるまでの日記。 小野の古里 - 1785年(天明5年)春に雄勝郡に滞在中、湯沢院内銀山等を見学し、小野小町の生地との伝説がある上関村を訪問した日記。土地の風俗が詳細に記録されている。(その後横手、角館、阿仁鉱山、萩形、久保田、追分、男鹿、能代、岩館と移動したと思われるが、その間の日記は発見されていない。) 楚頭賀濱風(ソトガハマカゼ) - 1785年(天明5年)8月中の紀行文。秋田と津軽の境である木蓮寺から筆を起こし、深浦を過ぎ、奥入瀬から山中に入り見入山観音堂に参拝、鰺ヶ沢、五所川原、弘前に入って土地の文人と交わり、黒石から浪岡では盗賊狩りの話を聞き、青森に出て北海道に渡ろうとするも善知鳥神社の占いの結果や、天明の飢饉により松前藩から逃げてきた物貰いの集団を見て断念する。大鰐温泉から矢立峠を越え秋田藩長走で宿を取り、扇田村に宿泊し、十二所を越え鹿角との境の沢尻村で滞留した日記。津軽藩の床前では、天明の飢饉で餓死した人の骨が積み上がっているのを見て、長走村の近くでは津軽から秋田に逃げてきた乞食の一家に、なにがしかの銭を与えた。 けふの狭布(ケフノセバヌノ) - 1785年(天明5年)前の日記に続いて盛岡藩に入り、鹿角郡の錦木塚を見て村長から狭布のいわれを聞き、花輪では紫根染めの話を聞き、大里では「錦木山観音由来記」を手に入れている。さらに、小豆沢の大日霊貴神社に参拝しだんぶり長者の由来を聞く。湯瀬に宿泊し、田山村では盲暦を記録し、浄法寺村の観音堂や末の松山等を見学し沼宮内に入り、さらに巻堀村で金勢明神を見て、盛岡を経て花巻では宿泊した医師の家の火事に遭い、黒沢尻町で和賀神社に参拝し、仙台藩(旧江刺市)片岡まで移動した紀行文。 霞む駒形 - 1786年(天明6年)正月からの日記、前沢駒形の庄、村上良知の家にいて、この地方の正月行事や中尊寺の祭りの様子が詳細に記録されている。1月20日には毛越寺の祭典があった。真澄はまず中尊寺の金色堂を参拝した後に、夕暮れになって毛越寺に参拝し祭典の様子を詳細に記録した。鶴形の風習、弁慶の墓の印を見る。26日達谷村の山王の岩屋(達谷窟)を見る。27日毛越寺の旧蹟を見に出かける。28日に毛越寺の僧が比叡山に登るので、真澄は故郷への手紙を依頼した。2月7日中尊寺に出かける。 はしわの若葉 - 1786年(天明6年)4月から6月の日記。大原(一関市大東町)の芳賀慶明邸に宿をとりながら付近の桜を見物し、正方寺や黒石寺に詣で、(一関市)山の目の配志和神社に詣でた。4月27日に植田義方からの手紙が届いている。6月前沢の鈴木家で家系の由来を聞き、大原に戻り室根山に登る。 はしわの若葉続 - 1786年(天明6年)7月大船渡に出て気仙沼につき、五十鈴神社の管弦窟を見て、大島に渡り、8月には山の目に戻る様子が記録されている。8月11日からは山の目を出て、石巻を通り松島に着いた。渡月橋を通って、雄島で月を見る。瑞巌寺に参拝し、舟で塩竃に上陸、塩竃神社や多賀城跡を見学し、「宮城野」や「末の松山」「十府」などの歌枕の地を見学し、9月18日に山の目に戻る。この一巻は仮題である。 雪の膽澤邊(ユキノイザハベ) - 1786年(天明6年)10月から12月までの日記。陸中山目の大槻氏に滞在し、前沢や水沢辺の知友の家を往来している。この年は、藤原秀衡の600回忌が中尊寺で行われたため、数々の儀式があった。 (この書の後の天明7年から天明8年5月までの行動は明らかになっていない。ただ、松島をさらに2度訪れて、福島の安積沼や安達ヶ原、都都古別神社を訪れたとも考えられる) 委波底迺夜麼(イワテノヤマ) - 1788年(天明8年)6月北海道旅行を決心し、前沢の旧知と分れ北に向かった紀行文。水沢では塩釜神社の神主の家に泊まり、鎮守八幡神社に参拝し、船に乗って北上川を北上した。岩谷堂では3年ぶりに知り合いの家に泊まり、子安観音の祭りを見る。国見山極楽寺に参拝し、山頂から周囲を展望する。南部藩に入り、赤石明神に参拝しさらし首になった罪人の様子を記録する。盛岡では、小舟を連ねて橋にした橋船を見て、そこで盲人夫婦のいたこを見る。雲のため岩手山は見えなかったが、急に晴れて山頂が見えた。盛岡で浪速の芸人の鬼吉と同行することになった。渋民村から沼宮内を過ぎ、御堂村で宿を取る。小鳥谷村を過ぎ一戸で宿を取る。浪打峠を通り二戸を過ぎ、金田一村を過ぎ朝水村のいわれを記録する。五戸では三湖伝説を記録し、荒涼とした三本木平野を過ぎ、千曳神社に参拝して「千曳の石物語」を記録する。野辺地で宿を取り歌枕の「尾駮の牧」場所を確認する。盛岡藩と弘前藩との境である野辺地狩場沢で筆を止めている。 率土が濱傅ひ(ソトガハマヅタヒ) - 1788年(天明8年)前の日記に続いて、青森湾の南西部に沿って、小湊、津軽半島の三厩村までの日記。沿道の写生画が多い。途中善知鳥神社に3年ぶりに参拝している。三厩からは8月13日の暮れに小舟に乗り、翌日早朝副山につく。
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天明年間(1781年 - 1789年)
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場所番付四股名成績備考1781年(天明元年)10月 西関脇 谷風 9勝0敗1休 59連勝。 1782年(天明2年)2月 東関脇 虹ヶ嶽 6勝0敗1分1預2休 7日目に谷風の63連勝止まる。 1782年(天明2年)10月 西大関 谷風 7勝0敗1無勝負1休 1783年(天明3年)3月 西大関 谷風 5勝0敗1無勝負4休 1783年(天明3年)11月 西大関 谷風 8勝0敗1分1休 1784年(天明4年)3月 西大関 谷風 6勝0敗2預2休 1784年(天明4年)11月 東関脇 小野川 9勝0敗1無勝負 1785年(天明5年) - - - 不景気のため本場所開催なし。 1786年(天明6年)3月 西大関 谷風 10戦全勝 1786年(天明6年)11月 東関脇 小野川 7勝0敗3休 1787年(天明7年)5月 - - - 番付発表のみして中止。 1787年(天明7年)11月 東大関 鷲ヶ濱 7勝0敗1分2休 1788年(天明8年)4月 西関脇 谷風 7勝0敗1分1預1休 1788年(天明8年)11月 西小結 柏戸 8勝0敗1分1無勝負
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