古田広計とは? わかりやすく解説

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古田広計

読み方ふるた ひろかず

豊後岡藩老職。号渕黙。字は弘卿。藩の名族なり。夙に学を好み山鹿流兵学能くす。最も国学精通し和歌国文長ずる江戸の邸にある村田春海加藤千蔭に業を問い、又肥後長瀬真幸と交を結ぶ。文化14年1817)歿、43才。

古田広計

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 14:36 UTC 版)

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古田 広計(ふるた ひろかず、宝暦7年(1757年) - 天保3年閏11月8日1832年12月29日))は、江戸時代武士国学者茶人豊後(現・大分県岡藩老職。通称は壱岐、勘解由、中務など。は弘卿。号は不染斎、淵黙、温故堂。母は公家竹屋光兼(正三位)の娘。

生涯

古田織部の娘の子孫で、別家(覚左衛門重宗系)古田広在の次男として生まれ、従兄弟の古田重著(400石)の養子となる[1]岡藩主・中川久貞久持久貴の三代に仕える。安永5年(1776年)創設の藩校・由学館の副学正を務める。文化6年(1809年)には永年の功績が認められて1000石取りの老職となる。

文化8年(1811年)、広計が取り立てた横山甚助の藩政改革が失敗し、岡藩領内で大規模な百姓一揆が勃発。藩主・久貴は農民の要求を受け入れ、翌文化9年(1812年)に横山甚助は罷免、広計は隠居させられ一揆は鎮まった。広計の晩年は豊後三木村(豊後大野市大野町杉園三ツ木)において閑居し、天保3年(1832年)閏11月8日に76歳で没した。

人物

国学を江戸にいた村田春海加藤千蔭に学んで精通し、肥後の国学者長瀬真幸と交わった。また和歌、国文に長じた。山鹿流兵学もよくし、茶の湯にもすぐれ、不白流のあと血縁を意識して織部流を学んだ。

著作に「不染斎歌集」「不染斎随筆」などがある。

脚注

  1. ^ 「豊後古田家譜」


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