厨子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/04 06:48 UTC 版)
厨子(ずし)は、収納具の一種。おもに仏像や経典などを納めておく戸棚で、前面が両開きの戸になっている[1]。次のような用途で用いられるものである。龕(がん)ともいう。
- もとは厨房用から始まった[2]。厨房で調理道具や食材等を納めるために使った収納具(「厨」は「厨房」を指す)。
- (派生して)身の回りの品を納めるために使った収納具。室内装飾の役割も果たした。
- (派生して)仏像・仏舎利・教典・位牌などを中に安置するための収納具。仏龕(ぶつがん)とも。仏具の一種と位置づけられる。仏壇も厨子の一種と分類することもできる。
概要
- 現代のもの
正面に観音開きの扉が付く。漆塗りのものや、唐木、プラスチック製がある。 また手動で開くものに加え、最近では電動で扉が開閉するものが登場している。
歴史
もともと厨房で使用する道具類の収納具が、厨房の外でも使われるようになり、転じて仏具を納める両扉の収納具としても用いられるようになったといわれている。
もともと中国大陸にあったもので[3]、日本には奈良時代に渡来した。
仏像、経巻、舎利、仏画などを納める仏具としての厨子は仏龕ともいう。略して「豆子」とも書く。観音開きの扉をつけて漆や箔などを塗り装飾したものであり、ほとんどは木製で、屋形や筒形などがある。こうした形式はインドの石窟寺院の「龕(がん)」に基づくものともいわれるが、中国の『広弘明集』第十六には「或は十尊五聖は共に一厨に処し、或は大士如来は倶(とも)に一櫃(ひつ)に蔵す」という一文があるので、すでに梁時代には中国で尊像類を厨子や櫃に安置することが行われていたとうかがえる[3]。
- 日本での歴史
食事道具の一種としての厨子の例としては奈良時代のものがあり、たとえば正倉院には「棚厨子」の実物が遺されており、これは天板と棚を2段渡しただけの簡単な形のものであった[3]。またこうした形の厨子は『信貴山縁起』『粉河寺縁起』『石山寺縁起』『慕帰絵詞(ぼきえことば)』といった絵巻物の台所の場面に登場しており、食品や食器などが載せられている[3]。
正倉院にはまた、伝来品の「柿厨子」「黒柿両面厨子」が納められており、それらは両開き扉付き、牙象の基台といった基本的な構造からなる[3]。
身の回りの品々を整理し収納する厨子は、天武天皇より聖武天皇に至る代々の天皇が、室内装飾を兼ねた調度品として愛好した[3]。 正倉院には孝謙天皇が大仏に献じた「赤漆文欟木厨子」も納められており、これはケヤキの板に朱を塗りその上に透明な漆を塗っており、両開き扉に鏁子をつけ、下部に牙象の基台を据え、内部には2段の棚がある。『東大寺献物帳』によると、この厨子には書物や、刀子、尺、笏、尺八、犀角盃、双六などといった様々な品々が収納されている[3]。
平安時代にはすでに一般庶民のあいだでも棚厨子が使用されていたことが様々な証拠で知られている[3]。たとえば『絵師草紙』の居間の場面に登場している厨子は3段のもので、上段には巻子・巻紙・書状・刷毛、中段には黒塗りの箱・白木の箱、下段には木鉢・曲物・水瓶が置かれているのが描かれている[3]。また『春日権現霊験記』の居間の場面に登場する厨子は2段で、上段に巻子・冊子・黒箱、下段には蒔絵の手箱が描かれている[3]。庶民の厨子は、実生活で使用されるものを置くのに使われ、実用的な「白木造り」のものであったようである[3]。
歴史的な品としては特に法隆寺の玉虫厨子や正倉院の赤漆文欟木御厨子が有名である。
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伝・橘夫人念持仏厨子(法隆寺・国宝)
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竹厨子(法隆寺献納宝物・国宝)
脚注
関連項目
- en:Cupboard(カップボード) - 英語版記事。英語圏でも、もともとカップ類(食器類)を置くための収納具だったcupboardが、やがて台所以外の場所で様々なものを入れるための棚として使われるようになり、現在では箱状の棚全般を指す。
厨子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 06:27 UTC 版)
高さ263.2センチ。厨子は台脚付きの須弥座部と、その上に載る宮殿部(くうでんぶ、仏龕)の、大きく2つの部分に分かれる。須弥座部は格狭間(ごうざま)入りの台脚上の四隅に柱を立て、柱間に羽目板を入れ、上下に請花と反花を設ける。宮殿部は四隅に厚板2枚をL字形に組み合わせて立ててこれを柱とし、柱間は4面とも観音開きの扉2枚ずつを設ける。宮殿部の上には天蓋が載る。この天蓋は金堂内陣の天蓋を模したものと思われ、構成やデザインが金堂のものと一致している。天蓋上部は寄棟屋根形の上と下に吹返板が斜めに張り出し、その下部は金堂天蓋と同様、鱗形と逆三角形の垂飾りを描いている。厨子は、現状では須弥座部の大きさに比して宮殿部が過大で、安定感を欠いている。このアンバランスな外観は当初からのものではなく、後の改造によって宮殿部が拡張されたことによる。奈良県教育委員会による厨子の修理(1967年)の際の所見によれば、当初の宮殿部は、須弥座の上框の上に4本の八角柱を立て、柱間は扉を入れず吹放しとした開放的な構えであった。柱も現状より短く、現状のような須弥座部と宮殿部の大きさがアンバランスなものではなかった。須弥座と天蓋は白土地に彩色、宮殿部の扉は黒漆塗で、装飾方法を異にしているのも、宮殿部の改造に起因している。須弥座の四面の羽目板には白土地に彩色の絵画があるが、剥落が著しい。正面の羽目板は宝瓶形の供物台を挟んで、両側に合掌する菩薩を描く。背面は蓮池上に3本の蓮茎が立ち上がり、その上に各1体の蓮華化生(れんげけしょう)を描く。両側面はそれぞれ連山と僧形1体を描く。これらの絵画は濃い隈取で立体感を表しており、初唐様式の影響がうかがわれる。正面の画像は厨子内の銅造阿弥陀三尊像を供養するように描かれている。宮殿部の扉の表裏には黒漆塗の地の上に金線で仏画を描く。扉は計8枚あるが、正面左扉は後補、背面右扉は表裏とも黒漆で塗りつぶされており、図柄は不明である(説明の便宜上、厨子の外面から見て向かって左の扉を「左扉」とする)。したがって、当初の仏画があるのは残り6面の扉である。正面右扉は表面に金剛力士、裏面に如来像(釈迦説法図)を表す。左右側面の計4面の扉は、表面に各1体の天部像を描き、計4体で四天王を構成する。これら4面の扉の裏面には各1体の菩薩像を描くが、これらは左側面、右側面ともに観音菩薩・勢至菩薩の一対をなす。背面左扉は一時期寺から流出して大阪の藤田家(藤田美術館創設者)の所蔵になっていたが、後に返却されたもので、表面に帝釈天を描く。この扉の裏面は描き直されており、当初如来像だったものが、上半身のみ菩薩像になっている。以上のうち四天王像は長安年間(701年 - 705年)作の西安慈恩寺大雁塔門框の四天王像との様式的類似が指摘されている。美術史家の秋山光和は、この厨子及び阿弥陀三尊像が県犬養宿禰三千代と関係する遺品であることを肯定したうえで、厨子は三千代の生前の製作であり、前述の宮殿部の改造は天平5年(733年)の三千代の没後に、娘の光明皇后によって行われたものと推定した。
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