内田 修平
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内田修平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/03 07:54 UTC 版)
内田 修平(うちだ しゅうへい、1989年9月8日 - )は、日本の囲碁棋士。山梨県甲府市出身、大淵盛人九段門下。日本棋院東京本院所属。2005年、15歳で入段。2008年、新人王を獲得。
経歴
1994年、5歳より囲碁を始める。1998年、甲府市立北新小学校3年で、少年少女囲碁大会に出場し、優勝する井山裕太に敗れる[1]。同小4年で、少年少女囲碁大会に出場し、初戦の下坂美織に敗れる[2]。大淵盛人の通い弟子となる。同小5年で、少年少女囲碁大会に出場し、後に院生となる準優勝者に敗れる[3]。同小6年で、少年少女囲碁大会全国大会優勝[4](準優勝は兆乾)。日本棋院院生となる。
2002年、棋士採用試験では予選通過できず[5]。2003年、冬季棋士採用試験では14位に終わる[6]。
2004年、大淵盛人の内弟子となり、神奈川県津久井郡相模湖町へ転居。夏季棋士採用試験では、10位に終わる[7]。冬季採用試験では、5位となる[8]。
2005年、中野杯U20選手権で4位入賞。院生リーグ戦で3か月連続1位という圧倒的な成績を収め、6月30日付で入段を果たす[9]。2007年8月17日、二段(公式棋戦30勝)に昇段[10]。
2008年、新人王戦で河英一を2-0で降し、優勝。同棋戦はこの年から優勝経験者は「卒業」となるようシステムが変わったとはいえ、二段での優勝はそれまでの記録を大きく破るもので話題を呼んだ。(新人王戦では依田紀基と高尾紳路の五段時、他のタイトルでは井山裕太が四段時に阿含桐山杯を制したのが、最低段記録)
2009年、賞金ランキングにより、三段へ昇段[11]。若鯉戦(非公式戦)で優勝。2010年、賞金ランキングにより、四段に昇段[12]。2011年、賞金ランキングにより、五段に昇段。10月、第37期名人戦リーグ入り。規定により、七段に飛び付け昇段。11月20日、公式戦となった若鯉戦で志田達哉を降し優勝する。若鯉戦は抽選時六段以下が参加資格のため、ラストチャンスをものにしたこととなる。棋道賞新人賞を受賞。
2015年、第41期名人戦リーグ入り。
2020年、第45期棋聖戦ではファーストトーナメント突破しーCリーグに在籍[13]。
脚注
- ^ 第19回少年少女囲碁大会
- ^ 第20回少年少女囲碁大会
- ^ 第21回少年少女囲碁大会
- ^ 第22回少年少女囲碁大会
- ^ 平成15年度棋士採用試験東京予選
- ^ 平成16年度冬季棋士採用試験本戦
- ^ 平成17年度夏季棋士採用試験本戦
- ^ 平成17年度冬季棋士採用試験本戦
- ^ 平成18年度棋士採用試験
- ^ 棋士新着情報
- ^ 棋士新着情報
- ^ 棋士新着情報
- ^ “第45期棋聖戦”. 2020年5月2日閲覧。
外部リンク
「内田 修平」の例文・使い方・用例・文例
- 内田夫人は少しも騒がなかった.
- 内田百閒は夏目漱石門下だ.
- 和歌山県の内田恵介さんが文部科学大臣奨励賞を受賞した。
- 大杉漣(れん)さんがヒロインの父親役となり,内田朝(あさ)陽(ひ)さんがヒロインの婚約者になる。
- 同水族館の内田至(いたる)館長はベルーガの自然の生息地を見るためにグリーンランドへ行った。
- 内田さんはクリーブランド管弦楽団と共演したモーツァルトのピアノ協奏曲の演奏で最優秀器楽ソリスト演奏(オーケストラとの共演)賞を受賞した。
- シャルケのディフェンダー,内田篤(あつ)人(と)選手とインテルのディフェンダー,長(なが)友(とも)佑(ゆう)都(と)選手はともに自身のチームで先発し,フル出場した。
- 内田選手はイングランドのマンチェスター・ユナイテッドとの準決勝に出場すれば,チャンピオンズリーグの準決勝でプレーする最初の日本人となる。
- シャルケのラルフ・ラングニック監督は,内田選手について「彼を知ってまだ数週間だが,とても強烈な印象を受けている。若いのにプレースタイルが成熟している。」と語った。
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