中国遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/02 07:00 UTC 版)
「ラファエル・ペレストレーリョ」の記事における「中国遠征」の解説
1516年、ラファエル・ペレストレーリョはインド総督アフォンソ・デ・アルケブルケの命を受けて、ポルトガル領マラッカを出発して中国南岸の広州に至った。当時の中国は明の正徳帝の時代であり、アルケブルケは中国との貿易関係を構築しようとしていた。ラファエル・ペレストレーリョのジャンク船艦隊は、価値ある交易品と中国市場の持つ大きな可能性を記した報告書とともに帰還した。明当局から港への入港と貿易は認められたものの、それ以上深入りすることはできなかった。彼は1517年にももう一度広州を訪れている。ラファエル・ペレストレーリョの報告を受けて、フェルナン・ピレス・デ・アンドラーデがベンガル遠征を取りやめ、1517年に本格的な対明交渉に動き出すことになる。
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中国遠征
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「ジョルジ・アルヴァレス」の記事における「中国遠征」の解説
1513年5月、アルヴァレスはポルトガル領マラッカの提督ルイ・デ・ブリート・パタリンに従い、ジャンク船に乗ってバゴーから中国へ向け出発した。この艦隊は計6隻のジャンク船からなり、アルヴァレス自身も2人のポルトガル人水夫を従えていた。 1513年5月、アルヴァレスは中国南岸の広州に近い島に上陸した。この島はポルトガル側からタマンと呼ばれたが、その正確な位置は珠江デルタ内にあったということしかわかっておらず、ランタオ島や内伶仃島などに比定する説がある。ここでアルヴァレスは、ポルトガル王から与えられたモニュメントを建てた。彼らは中国人との貿易を望んだが、この時はうまくいかなかった。その後、インド総督アフォンソ・デ・アルケブルケがラファエル・ペレストレーリョ(クリストファー・コロンブスの従弟)を中国に送り、明との通商関係構築を図った。ペレストレーリョは1516年に広州に上陸した。 アルヴァレスは1513年から1514年にかけてタマンを貿易拠点として整備するのに力を注いだ。彼は1521年7月8日、タマオにおいて親友ドゥアルテ・コエーリョに看取られながら死去した。
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