三公とは? わかりやすく解説

さん‐こう【三公】

読み方:さんこう

律令制における太政大臣左大臣右大臣。のちに、左大臣右大臣内大臣の称。三槐

中国官名。最高の地位にあって天子補佐する三人内容時代によって変わり周代では太師太傅(たいふ)・太保前漢では大司徒大司馬大司空、または丞相太尉御史大夫後漢・唐では太尉司徒司空、宋・元・明・清周代に倣う。三槐


三公

読み方:サンコウ(sankou)

太政官の最高職。


三公

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/27 23:53 UTC 版)

三公(さんこう)は、中国およびその影響を受けた東アジア諸国の前近代の官制において、最高位に位置する3つの官職をいう。 太師太傅太保の三公と、司徒司空司馬大司徒大司空大司馬)の三公がある。もと、三公は、西周東周時代に実際にあった官職をもとに、後世の儒学者が整理・敷衍し、あるいは偽作に託して述べたものである。学説をもとに前漢紀元前1年に制定されてから、改廃を受けつつ長く続いた。

学説上の三公

官職ではない三公

書経』の一篇である「湯誥」は、の時代に功績があった皋陶后稷の三人を「三公」と呼んだ。この三公は後世にあまり参照されなかった。彼らは伝説上の人物なので、史実ではない。

太保・太傅・太師

後世に影響を残した三公は二つあり、一つは今文尚書に由来する太師太傅太保からなる三公である[1]。周の成王が幼いとき、召公召公奭)が太保周公周公旦)が太傅太公(太公望呂尚)が太師となったとし、これを三公の職だという。それぞれ少保・少傅・少師が補佐についた。『大戴礼記』の「保傅」がこのような三公を記す[2]。『漢書』百官公卿表も基本的にこの説を紹介する[3]

書経 (尚書))』「周官」では、少師・少傅・少保をまとめて三孤といい、さらに実務を分担する冢宰・司徒・宗伯・司馬・司寇・司空という六卿があった、と詳しくなる[4]。三孤と六官は同格なので、まとめて九卿といい、三公とあわせて三公九卿と呼ぶ。

「周官」が書く三公の務めは、道を論じ、邦(国)を経し、陰陽を変理することである[4]。『漢書』百官公卿表によれば、天子のそばにあって政治の全体を統べる[3]。常設の官ではなく、ふさわしい人がいる時にだけ任命される[4][3]

周では宮廷の庭にえんじゅの木が植えられ、三公は政務の際に槐に向かって座す定めであったため、三槐とも雅称される。または、三台星にちなんで三台ともいう。

司徒・司馬・司空

もう一つは古文尚書に由来すると言われる司徒司馬司空からなる三公である[1]。これらは西周時代に実際にあった官職だが、実務を分担する官で、最高の官ではなかった。それを天子を補佐する最高の官職とする説である。

古文尚書は失われたが、『漢書』百官公卿表が太保・太傅・太師の三公と並べてこの説も紹介する。『漢書』は大司徒大司馬大司空からなる前漢末の三公が成立した後の著作だが、その成立以前から司徒・司馬・司空の三公説が流布していたようである。そのため三公を三司ともいうが一般には用いられず、儀同三司の語などにおいて用いる(当該項目参照)。

制度上の三公

前漢

漢の初めには、丞相または相国が官の全般を統率する最高の官職で、監察・政策立案を司る御史大夫、軍事を司る太尉がそれに次いだ。これを三公というのは、後の儒学者が学説上の三公になぞらえたまででである。このうち兵権を握る太尉は、任命されなかったり、大司馬大将軍など改称・改編が多かった。

前漢の終わりごろになると、儒教の影響力が強まり、周の時代にならって制度を改めようとする機運が高まった。成帝綏和元年(紀元前8年)、御史大夫に任命されたばかりの何武が、いにしえの制度にならって三公を置くべきだと建言した[5]。職務分担がはっきりせず行政上無益だという反対論もあったが[6]、成帝は4月に御史大夫を大司空と改称し、丞相・大司空・大司馬の俸禄を等しくした[7]。大司空の官名はいにしえのものではないが、既存の獄司空という地方官との混同を避けるため大司空としたという。丞相の改称にも抵抗があったようで、三つの官職の字面はそろっていない[8]

御史大夫から大司空への改称は、建平2年(紀元前5年)3月に哀帝が元に戻した[9]。しかし、元寿2年(紀元前1年)5月に、哀帝は丞相を大司徒と改め、御史大夫をまた大司空として、ここに大司徒大司空大司馬の三公が完成した[10]

今文学の太傅太師太保では、太傅だけが短期間断続的に置かれることがあったが、一人なので三公とは言われなかった。王莽が権力を握った元始元年(西暦1年)に太師、太保、そして少傅を任命し[11]、既にあった太傅とあわせて四輔と呼んだ[12]。地位の高さは太師、太傅、太保、少傅の順である[11]

王莽は大司徒・大司空・大司馬の三公を引き継ぎ、他の官職の名を改めて三公九卿の形を整えた。作られた制度は、周ではなく、伝説上の帝の制度にならっている[13]。王莽が舜の後裔を自任したことと関係しているとみられる[14]

後漢

後漢を建てた光武帝は、前漢の制度を継承して大司徒・大司馬・大司空を置いたが、建武27年(51年)4月に、儒教の経典にあわせて大司徒と大司空から大の字を除いた[15]。同時に大司馬を太尉と改称した[15]。これにより、司徒太尉司空が三公になった。

和帝は三公が承天安民の策を行っていないと叱咤している例[16]桓帝の太尉である楊秉が三公は故事によれば「統べざる所無き官」であると帝に説明している例[17]から、当時の三公は国政に関する政策全般を統括する官であった。

後漢末に実権を握った曹操が208年に丞相と御史大夫を復活させて自らが丞相に就任した際に三公を廃止してしまった[18]

それ以後

の成立後には三公が復活していたものの、実権を尚書などに奪われ長老の名誉職と化していたらしく、『魏志高柔伝には「三公を月二回参内させるほか天下の事件について意見を聴取するよう改めるべき」という上書が引用されている。高柔本人ものちに三公になったが、そのとき73歳であった。やがて三省六部の制が整えられるに及んで三公は完全に名誉職となり、時代によっては再び太師・太傅・太保の3官職が三公とされることもあった。

日本

日本では、律令制における太政官の長である太政大臣左大臣右大臣のことを指す。のちに右大臣の下に内大臣が置かれると、常任の官ではない太政大臣を外して、左大臣・右大臣・内大臣のことを指す例もあらわれたが、江戸時代禁中並公家諸法度が制定されると内大臣を含まず太政大臣を含むものと定義付けられた。源実朝の歌集が『金槐和歌集』と称されるのは、彼が三公(三槐)のひとつである右大臣であったことにちなむものである。

ほか、朝鮮半島では、高麗のときに「大衛」「大司徒」「大司空」が設置され、李氏朝鮮では領議政左議政右議政議政府を構成した「三政丞」が三公に該当する。

脚注

  1. ^ a b 古文尚書、今文尚書については、書経の項目を参照されたい。
  2. ^ 新釈漢文大系『大戴礼記』「保傅」、145 - 146頁。
  3. ^ a b c 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上。『『漢書』百官公卿表訳注』2 - 3頁。
  4. ^ a b c 『書経』「周官」。新釈漢文大系『書経』下、497 - 498頁。
  5. ^ 『漢書』巻83、薛宣朱博伝第53。同書の巻86、何武王嘉師丹伝第86。ちくま学芸文庫『漢書』7の127頁、230 - 231頁。
  6. ^ 『漢書』巻83、薛宣朱博伝第53。ちくま学芸文庫『漢書』7の127頁、
  7. ^ 『漢書』巻10、成帝紀第10、綏和元年4月。ちくま学芸文庫『漢書』1の321頁。
  8. ^ 山田勝芳「前漢末三公制の形成と新出漢簡」、4頁。
  9. ^ 『漢書』巻11、哀帝紀第11、建平2年3月。ちくま学芸文庫『漢書』1の336頁。
  10. ^ 『漢書』巻11、哀帝紀第11、元寿2年5月。ちくま学芸文庫『漢書』1の341頁。
  11. ^ a b 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上、『『漢書』百官公卿表訳注』32頁。
  12. ^ 『漢書』巻99上、王莽伝第69上。ちくま学芸文庫『漢書』8の283 - 284頁。
  13. ^ 吉野賢一「前漢末における三公制の形成について」、47頁。
  14. ^ 吉野賢一「前漢末における三公制の形成について」。
  15. ^ a b 『後漢書』巻1下、光武帝紀第1下、建武27年条。早稲田文庫『後漢書』1の142頁。
  16. ^ 『後漢書』巻4和帝紀・永元12年条
  17. ^ 『後漢紀』巻22桓帝紀・延熹7年条
  18. ^ 渡邉将智『後漢政治制度の研究』(早稲田大学出版部、2014年) ISBN 978-4-657-14701-1 第三章「〈三公形骸化説〉の再検討」

参考文献

関連項目


三公(さんこう)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 01:31 UTC 版)

十二国」の記事における「三公(さんこう)」の解説

宰輔唯一の臣下。三公は位としては冢宰諸侯同等だが、政治介入力は持たず、王の相談役教師となり、助言をする存在次の3つの官職である。

※この「三公(さんこう)」の解説は、「十二国」の解説の一部です。
「三公(さんこう)」を含む「十二国」の記事については、「十二国」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「三公」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「三公」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三公」の関連用語

1
100% |||||


3
92% |||||

4
92% |||||

5
92% |||||

6
三公九卿 デジタル大辞泉
92% |||||

7
公相 デジタル大辞泉
92% |||||


9
亜槐 デジタル大辞泉
76% |||||

10
台輔 デジタル大辞泉
76% |||||

三公のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三公のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの三公 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの十二国 (改訂履歴)、明朝の官職 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS