丁奉
若いころから驍勇で知られて小将となり、甘寧・陸遜・潘璋らに属した。しばしば征伐に従軍して、戦闘ぶりはいつも全軍筆頭、戦うたびに敵将を斬ったり軍旗を奪ったりして、我が身に傷を負っていた。順当に昇進して偏将軍となり、孫亮が即位すると冠軍将軍となり、都亭侯に封ぜられた。 魏が諸葛誕・胡遵らに東興を攻撃させたので、諸葛恪が軍勢を率いて防いだ。諸将はみな「敵は太傅(諸葛恪)が直々に来られたと聞き、岸辺に上がれば逃げだすに違いありません」と言ったが、丁奉は「いえ、彼らが国内を動揺させてまで許・洛の軍勢を大挙して来たからには、必ずや勝利の見込みがあるのです。どうして手ぶらで引き返したりいたしましょう。敵の来ないことを当てにするのではなく、我らの優位を当てにすべきです」と主張した。 諸葛恪が岸辺に上がると、丁奉は将軍唐咨・呂拠・留賛らとともに山沿いに(船に乗って)西上したが、「いま諸軍の行軍速度は遅く、もし敵に有利な地点を押さえられたら矛を交えるのは難しくなってしまう」と言い、諸軍を分けて街道まで戻らせ、自分は麾下の三千人を率いて最短距離を直進した。北風が吹いていたので、丁奉が帆を上げると二日で到着し、徐塘を占拠することができた。 雪の降るような寒い日で、敵将たちは集まって盛大な酒宴を開いている。丁奉は彼らの先鋒部隊が少ないのを見て「封侯・恩賞を賜るのは今日こそがその日だぞ」と言い聞かせ、そこで兵士たちに鎧を脱がせて兜を被らせ、短刀を持たせた。敵兵はそれを見ても暢気に笑うばかりで警戒しようともしない。丁奉は軍兵を放って斬り込むと、敵の先鋒部隊を大破した。ちょうど呂拠らも到着し、魏軍はついに潰走した。滅寇将軍に昇進、封爵を都亭侯(都郷侯の誤り)に進められた。 魏将文欽が投降してきたので、丁奉は虎威将軍となり、孫峻に付いて寿春まで迎えに行くことになった。高亭において敵の追っ手と戦闘になり、丁奉は馬に跨って矛を持ち、敵陣に突入、首級数百を挙げて武器などを奪取した。封爵を安豊侯に進められた。 太平二年(二五七)、魏の大将軍諸葛誕が寿春を占拠して帰服を申し入れてきたが、魏の人々は彼を包囲した。朱異・唐咨らが救援に遣され、さらに丁奉・黎斐も包囲を解くよう命じられた。丁奉が先登に立って黎漿に布陣し、奮戦のすえ武功を立てたので左将軍を拝命した。 孫休は即位してから、張布と相談して孫綝を誅殺しようとした。張布が「丁奉は事務処理は苦手ですが、人並み以上の計略を持ち、大仕事を遂行できます」と言うので、孫休は丁奉を召し寄せて告げた。「孫綝は国家の威光を嵩にかけ、叛逆をなそうとしておる。将軍とともに奴めを誅殺したいものじゃが。」丁奉は答えた。「丞相(孫綝)は兄弟や仲間が非常に多く、人々の心が一致しない限り、すぐには片付かない恐れがございます。臘祭の会合を利用し、陛下の手兵で誅殺なさいませ。」孫休はその計略を聞き入れ、孫綝を会合に招き、丁奉と張布が左右の者に目くばせして彼を斬らせた。大将軍に昇進し、左右都護の職を加えられた。 永安三年(二六〇)、仮節・領徐州牧となった。六年、魏が蜀に攻め込んだとき、丁奉は諸軍を率いて寿春に向かい、蜀を支援する構えを見せたが、蜀が滅亡してしまったので軍勢を引き揚げた。 孫休が薨去したのち、丁奉は丞相濮陽興らとともに、万彧の言葉に従って孫晧を擁立し、右大司馬・左軍師に昇進した。宝鼎三年(二六八)、孫晧は丁奉・諸葛靚に命じて合肥を攻撃させた。丁奉は晋の大将石苞に手紙を送り、彼らの離間を計ったので、石苞は中央に徴し返された。建衡元年(二六九)、丁奉はまた軍勢を率いて徐塘を修築し、そこから晋の穀陽に攻め込んだ。穀陽の領民はそれを予測して退去していたので、丁奉は何も得られず、孫晧は腹を立てて丁奉の道案内役を斬った。 三年、丁奉は卒去した。丁奉は尊貴の身であるうえ功績も立てており、次第に傲慢になっていった。(丁奉の死後)ある人が彼の悪口を言ったので、孫晧は過去の軍事行動にまでさかのぼって取りあげ、丁奉の家族を臨川に流したのであった。 【参照】甘寧 / 胡遵 / 朱異 / 諸葛恪 / 諸葛靚 / 諸葛誕 / 石苞 / 孫休 / 孫晧 / 孫峻 / 孫綝 / 孫亮 / 張布 / 唐咨 / 潘璋 / 万彧 / 文欽 / 濮陽興 / 陸遜 / 留賛 / 呂拠 / 黎斐 / 安豊県 / 合肥侯国 / 魏 / 許県 / 高亭 / 穀陽県 / 寿春県 / 徐州 / 徐塘 / 蜀 / 晋 / 東興 / 洛陽県(洛) / 臨川郡 / 黎漿 / 廬江郡 / 右大司馬 / 右都護 / 仮節 / 冠軍将軍 / 郷侯 / 虎威将軍 / 侯 / 左軍師 / 左将軍 / 左都護 / 丞相 / 大将軍 / 太傅 / 亭侯 / 都郷侯 / 都亭侯 / 偏将軍 / 牧 / 滅寇将軍 / 小将 / 短兵(短刀) / 導軍(道案内役) / 臘(臘祭) |
丁奉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/15 01:30 UTC 版)
丁奉 | |
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清代の書物に描かれた丁奉 | |
呉 右大司馬・左軍師・大将軍 | |
出生 | 生年不明 揚州廬江郡安豊県 |
死去 | 建衡3年(271年) |
拼音 | Dīng Fèng |
字 | 承淵 |
主君 | 孫権→孫亮→孫休→孫晧 |
丁 奉(てい ほう)は、中国三国時代の武将。揚州廬江郡安豊県の人。字は承淵。弟は丁封。子は丁温。『三国志』呉志に伝がある。
生涯
孫権の時代から仕えた。勇猛で名を馳せ年若い将軍となり、甘寧・陸遜・潘璋らの指揮下で頻繁に敵将を討ち取り軍旗を奪うなど、大いに武功を挙げた。よく負傷もしたといわれる。偏将軍に昇進した。
建興元年(252年)、魏が併呑するため攻勢をかけてきた時、魏の胡遵・諸葛誕が指揮を執る7万の軍を、諸葛恪の指揮下で東興において迎え撃った。他の部将達が諸葛恪自ら出陣した以上、魏軍は恐れをなして引き揚げていくだろうと楽観したが、丁奉はただ一人その見方に異議を唱え、戦う覚悟を持つよう主張した。諸葛恪が軍を上陸させると、丁奉は唐咨・呂拠・留賛らと共に山岳地帯を通って西方に向かい、上流に出ようとした。丁奉はそれぞれの軍団の動きが遅いことを見て、敵に先手を取られないよう迅速に行軍するため、味方には別行動をとらせ、1人で3000人を率い敵陣に急行した。北風が吹いていたため目的地に辿り着くまで二日を要した。陣は徐塘に張った。
丁度降雪しており、魏軍は酒宴を開いていた。丁奉は魏軍の前衛が薄いのを見て取り、兵士を鼓舞しつつ鎧を脱がせて冑に短兵器だけを持たせ、奇襲をかけた。魏軍は油断し備えを怠っていたため、丁奉に前衛陣地を散々に撃破された。その時、呂拠らが遅れて戦場に到着し、ともに攻撃して大破させた。戦いは呉軍の大勝となり、功績によって滅寇将軍に任じられ、都郷侯に封じられた(東興の戦い)。
五鳳2年(255年)、魏の寿春において毌丘倹と文欽が反乱(毌丘倹・文欽の乱)を起こし、呉への降伏を申し入れてきた。丁奉は虎威将軍に任命され、実権を握っていた孫峻に従い、文欽の救援に赴いた。途中で敗走してきた文欽を収容する途中、呂拠と共に高亭で魏の曹珍と戦い、自ら敵陣に突入し、数百の首級を挙げ、敵の軍器を奪った。安豊侯に封じられた。
太平元年(256年)、孫峻の死後に孫綝と呂拠達が対立すると、孫綝の命令を受け、孫綝の従兄の孫憲や施寛と共に、呂拠の討伐に赴き、江都に軍を進めた(「三嗣主伝」)。
太平2年(257年)、魏で諸葛誕が反乱を起こし、呉への帰服を申し入れてきた(諸葛誕の乱)。諸葛誕が魏の大軍に包囲されていたため、呉は朱異や唐咨を援軍として派遣し、さらに丁奉と黎斐にも救援に赴くよう命令を下した。丁奉は突撃隊長として黎漿に布陣し、戦って功績を挙げ左将軍となった。
孫休は即位すると、専横の振る舞いが甚だしかった孫綝を打倒するため、腹心の張布と策を練った。張布は「丁奉は事務的な能力はないが、巧みに計略を巡らすことや、実行力に優れている」として、丁奉を計画に加えるよう推挙した。孫休は丁奉を呼び寄せ、孫綝打倒の意向を打ち明けた。丁奉は孫綝一族の力を警戒し、祭りの日に群臣達が集まる機会を利用し、孫綝を捕らえて誅殺するよう進言した。孫休はこの計画を容れ、孫綝を誘き出し、張布と丁奉にその場で左右の者へ目配せをさせ、孫綝を斬らせた。その功績によって大将軍に任命され、左右都護を加えられた。
永安6年(263年)5月、魏が蜀漢に侵攻したときには、蜀の援護のため寿春を攻撃し魏を牽制したが、蜀が滅亡したため引き揚げた。また、蜀への援軍として派遣された将軍の一人として、名が挙がっている(「三嗣主伝」)。
孫休が崩御すると、万彧の勧めで孫晧の擁立が持ち上がり、丁奉も濮陽興と図ってこれに同意した。孫晧の即位後に右大司馬・左軍師に任じられた。
宝鼎元年(266年)12月、陸凱が孫晧の廃位を計画すると、丁奉も丁固と共に加担した。孫晧が廟に詣でるときを狙っていたが、警護役を務める留平の協力が得られなかったため、実行することができなかった(「陸凱伝」)。孫晧の警戒心が強かったことの他、丁奉と留平が不仲であったことが一因だったという(「陸凱伝」が引く『呉録』)。
宝鼎3年(268年)9月、孫晧は東関に軍を進めた(「三嗣主伝」)。丁奉は孫晧に合肥攻撃を命じられ、諸葛靚と共に軍を進めた。このとき、丁奉は晋の石苞に偽りの手紙を送り、司馬炎(武帝)に疑惑を抱かせた。そのため石苞は召し返され、免職にされた。
宝鼎4年(269年)、丁奉は徐塘を修復し、晋の穀陽を攻撃した。しかし、この攻撃は穀陽の住民に予め察知されていたため、丁奉は何の戦果も挙げることはできなかった。孫晧は怒って丁奉配下の導軍役を斬った。
建衡3年(271年)、万彧が丁奉と留平に対し、孫晧を見限るような発言をした。これを知った孫晧は、万彧と留平に毒酒を送るなど迫害し死に追い込んだが、丁奉に対しては何の咎めもなかったという(「三嗣主伝」が引く『江表伝』)。同年死去した。官位が昇進するにつれて傲慢な態度が目立つようになったため、死の翌年には孫晧に対して讒言する者が出た。そのため生前の軍事行動での失敗を理由に、息子の丁温は殺害され(『晋書』五行下)遺族は臨川郡に強制移住となった。
弟は後将軍となったが、丁奉より先に亡くなった(「三嗣主伝」)。
墓
丁奉とその家族の墓は南京市鼓楼区幕府山南麓五佰村にあり、2019年以降南京市考古研究院による発掘調査が行われたが保存状態が良好で当時の文化を現代に伝える発見とされている[1]。2025年の1月に行われた第4回目の発掘調査では16点の高さ20㎝程度の騎馬俑が発見され、それらにはあぶみがあることが確認された。これは中国におけるあぶみの最古の記録である。それまでの最古の鐙は中国南部の湖南省長沙市金盆嶺にある西晋時代の墓地から出土した陶俑が付けていた302年ものであり、丁奉墓のものは丁奉の没した271年までさかのぼることができる[2]。
三国志演義など
小説『三国志演義』では、孫権が呉の国主となったときに集まった将軍の一人として名が挙がる。赤壁の戦いの時には、周瑜の部将として徐盛と共に登場し、東南の風を吹かせることに成功した諸葛亮の殺害や、孫夫人との婚姻のため呉を訪問した劉備の捕縛を命じられるが、いずれも失敗している。魏が侵攻してきたときには、徐盛の副将としてこれを迎え撃ち、張遼を射殺するという武功を挙げている。孫権の死後は、呉を代表する将軍の一人として活躍する。
民間伝説ではつぶての名手とされる。諸葛亮が丁奉らの元から逃げる際、腰に提げていた袋の中から鉄のつぶてを取り出して、諸葛亮の船の帆柱に照準を合わせて腕を振り上げると、空気を引き裂くような音がして、黒い塊が帆柱の先目掛けて飛んでいき、帆を引っ張る滑車に命中し、帆が落ちて諸葛亮の部屋の上に覆い被さった。趙雲は慌てて槍先でその帆を除けて諸葛亮を救い出し、船を捨て岸に上がると東南の方向に逃げていった、という話がある。今でも廟に祭られている丁奉の像には、ふたつの鉄のつぶてが握られている。
参考文献
- 『三国志』
- 『三国志演義』
丁奉
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