レインボー_(バンド)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > レインボー_(バンド)の意味・解説 

レインボー (バンド)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/31 09:34 UTC 版)

レインボー

英ロンドン公演(2017年)
基本情報
原語名 Rainbow
別名
  • リッチー・ブラックモアズ・レインボー
  • ブラックモアズ・レインボー
出身地 イングランド ハートフォード[1]
ジャンル
活動期間
レーベル
メンバー
旧メンバー 後述

レインボー英語: Rainbow)は、イングランド出身のハードロックバンド

ディープ・パープルのギタリストだったリッチー・ブラックモアが1975年に脱退して結成した。HR/HMサウンドのバンドの代表格として後発のバンドに多大な影響を与えた。1984年にディープ・パープルが再結成されたことによって活動を停止したが、ブラックモアが1993年にディープ・パープルを再び脱退して再始動。2024年現在に至るまで断続的に活動を行っている。

概要

ディープ・パープルギタリストとして既に音楽的にも商業的にも世界的な成功を収めていたブラックモアが、在籍中に水面下で開始したソロ活動を発展させる為に1975年にディープ・パープルを脱退してリッチー・ブラックモアズ・レインボー(Ritchie Blackmore's Rainbow)を結成して、同名のデビュー・アルバムを発表したのが始まりだった。彼はメンバーを一新してバンドとしての体裁を強め、セカンド・アルバムではブラックモアズ・レインボー(Blackmore's Rainbow)、サード・アルバム以降はレインボー(Rainbow)の名を用いた。1995年に再結成された時はリッチー・ブラックモアズ・レインボーに回帰したが、2015年にはレインボーとして再結成された[2]

レインボーの音楽の主な特徴は、ブラックモアがディープ・パープル在籍中に培った『ブルースを基調としたハードロック』にバロック音楽の構成を融合させた様式美的スタイルである。彼等は1980年代以降にみられるリフやメロディを主軸としたHR/HMサウンドの基礎を築き上げたとされている。初代ボーカリストで在籍中のオリジナル曲の殆ど全てをブラックモアと共作したロニー・ジェイムス・ディオは、後年「(レインボーは)ゴシックメタルの先駆者だった」と述べている。

リーダーのブラックモアがイングランド出身であるので、一般にはブリティッシュ・ロック・バンドと見なされてきた。しかしリッチー・ブラックモアズ・レインボーはアメリカのハード・ロック・バンドのエルフを母体にして結成され、ブラックモア以外のメンバーはディオを含めて全員がアメリカ北東部出身だった。メンバーはブラックモアの方針に合わせてアルバム毎に代わっていったが、歴代メンバーはイギリス人、アメリカ人、カナダ人、オーストラリア人と多岐に渡る。

結成の経緯

創設者リッチー・ブラックモア(G) 2016年

結成のきっかけは、1974年7月に録音が開始された第3期ディープ・パープルの2作目のアルバム『嵐の使者』の制作中に、ブラックモアと他のメンバーとの音楽的な対立が表面化したことであるとされている。彼は第3期からメンバーになったデイヴィッド・カヴァデールグレン・ヒューズが前作『紫の炎』にも増して、ソウル・ミュージックやファンキー・ミュージックの要素を持ち込むことに不満を抱いた。そして旧友のミック・アンダーウッド[注 1]が結成したクォーターマスが取り上げた「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」(Black Sheep Of The Family)[3][注 2]という曲を録音することを提案したが、オリジナル曲に執着するメンバーにカバー曲だからなどの理由で反対された[4][5]

『嵐の使者』の録音後に予定されていたアメリカ・ツアーが中止となって時間的な余裕が生じたため、ブラックモアは、アメリカのバンドであるエルフ[注 3][6]のボーカリストで、かねてより気に入っていたロニー・ジェイムス・ディオを起用して「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」を録音して、ソロ・シングルとして発表することにした[7]。彼はディオと「16世紀のグリーンスリーヴス」(Sixteenth Century Greensleeves)を共作し、エルフのクレイグ・グルーバー(ベース)、ミッキー・リー・ソウル(キーボード)、ゲイリー・ドリスコール(ドラム)を招聘して2曲を録音した[8][注 4]。彼は出来の良さに大変満足して、ソロ・シングルを発表するのではなく、ディオらと新しいバンドを結成することを企図した[9]

ブラックモアは1975年2月20日から3月14日まで、ミュンヘンミュージックランド・スタジオにディープ・パープルのプロデューサーのマーティン・バーチを迎えて、ディオらとデビュー・アルバムを制作した[10]。そして彼は4月7日のパリ公演を最後にディープ・パープルを脱退した[注 5]

歴史

リッチー・ブラックモア(G) 1982年

RAINBOW#1(1975年5月 - 1975年9月)

1975年8月10日、オイスター・レコードよりリッチー・ブラックモアズ・レインボー(Ritchie Blackmore's Rainbow)の名義で同名のデビュー・アルバム(『銀嶺の覇者』)[注 6][注 7]を発表[11]
その直後、ブラックモアはディオ以外のメンバーを一新することを決めてグルーバー、ソウル、ドリスコールを次々に解雇した[12]

RAINBOW#2(1975年9月 - 1977年2月)

オーディションにより9月末までに元ジェフ・ベック・グループコージー・パウエル(ドラム)、無名の新人ジミー・ベイン(ベース)、アメリカ人プレイヤーのトニー・カレイ(キーボード)の3名を新メンバーに迎えた。
新体制になった彼等は1975年11月10日にモントリオールで初舞台を踏んだ[13]あと、12月上旬までアメリカ・ツアーを行なった[14]。そして1976年2月14日から10日間にわたって、前作と同じくミュンヘンミュージックランド・スタジオでセカンド・アルバム『虹を翔る覇者』を録音して[15]、同年5月15日に発表した[16]
6月からアメリカ[17]、イギリス[18]、ヨーロッパ[19]、オーストラリア[20]でツアーを行なった後、初来日して12月2日から16日まで計10回のコンサートを行なった。9月25日から29日までのドイツ公演と12月の日本公演の音源は『レインボー・オン・ステージ』(1977年)と"Live in Germany 1976"(1990年)にて発表された。
1977年2月13日、ベインとカレイ[21][注 8]が解雇された。

RAINBOW#3(1977年5月 - 1977年7月)

コロシアムユーライア・ヒープテンペストマーク・クラーク(ベース)を起用して[22]、フランスのシャトー・ド・エルヴィルで新作の製作を開始したが、意に合わずクラークを解雇[23]。この時点まで帯同していたカレイも離脱。

RAINBOW#4(1977年7月 - 1978年11月)

オーストラリア出身のボブ・デイズリー(ベース)とカナダのシンフォニック・スラムというバンドで活動していたデヴィッド・ストーン(キーボード)がセッション・ミュージシャンとして加入。9月よりツアー開始。ウィーン公演でブラックモアが暴行罪容疑をかけられて逮捕され、2日間拘留。釈放直後のミュンヘン公演がビデオ収録され、後年、DVDソフト『Live in Munich 1977』として発表。1978年1月、2度目の来日。札幌公演でファンが圧死する事件(レインボー 札幌事件)[独自研究?]が発生。
5月、アルバム『バビロンの城門』発表。プロモーション・ツアーの後に、元ディープ・パープルのロジャー・グローヴァーをプロデューサーに迎えて新作の製作を開始したが、ディオはデモ・テープを聴いて「自分が唄いたいタイプの音楽ではない」という理由で脱退。結成以来のメンバーはブラックモアだけになった。ストーンも脱退したので1978年末にジャック・グリーンを加入させたが意に合わず。暫くベーシスト不在になった。

RAINBOW#5(1979年4月 - 1980年8月)

1979年早々、元コロシアムIIドン・エイリー(キーボード)がパウエルの推薦により加入。グローヴァーがブラックモアに懇願されベーシストとして加入。ブラックモアが演奏する予定だったベース・パートにも、グローヴァーがデモ用に録音した演奏が使用された。
出来上がったテープをもとに、フランスで新作を制作。同時にヴォーカリストのオーディションが行なわれてマーク・ストラーチェが選ばれたが、結局1960年代にマーブルズで有名になりその後ソロ活動で異才を放っていたグラハム・ボネットが加入[注 9]。同年7月、アルバム『ダウン・トゥ・アース』を発表。日本では9月に発売。
9月からワールド・ツアーを催行し、1980年5月に日本公演を行なった。8月16日にロンドン郊外のドニントン・パークで開かれたモンスターズ・オブ・ロックMonsters of Rock)で、ニュー・ミュージカル・エクスプレス(NME)誌で脱退を表明したパウエルの最後のコンサートが行なわれた。当日の音源は「スターゲイザー」がポリドール・レコード編集のオムニバス『Monsters of Rock』(1980年)[24]、全編がライヴ・アルバム『モンスターズ・オブ・ロック〜ライヴ・アット・ドニントン1980』(2016年)[25][26]に収録された。

RAINBOW#6(1980年8月 - 1980年11月)

ボブ・ロンディネリ(ドラム)加入。9月よりコペンハーゲンのスウィート・サイレンス・スタジオで次作の録音が開始されたが、一向に進まない事に不満を抱いたボネット脱退。

RAINBOW#7(1980年11月 - 1981年11月)

アメリカのバンドであるファンダンゴのメンバーで新しいヴォーカリストに推薦されたジョー・リン・ターナーを迎えてレコーディングを敢行。1981年1月(日本では3月)、アルバム『アイ・サレンダー』を発表。アメリカ、ヨーロッパ・ツアーを経て8月に来日。ツアー終了後、エイリーが脱退。

RAINBOW#8(1981年11月 - 1983年6月)

10月末、オーディションで選ばれたデイブ・ローゼンタル(キーボード)が加入。11月にカナダのスタジオで初のデジタル録音。1982年『闇からの一撃』を発表。5月からアメリカ・ツアー。8月のテキサス州サン・アントニオ公演を収録した初のドキュメント・フイルム『Live Between The Eyes』(VHS)発表。10月に来日。1983年5月から再びスウィート・サイレンス・スタジオにて次作のリハーサルを開始。

RAINBOW#9(1983年6月 - 1984年3月)

ターナーと旧知の仲だった、元ブランドXのチャック・バーギ(ドラム)が加入。8月に『ストリート・オブ・ドリームス』を発表。直後にイギリス及びアメリカ・ツアーを催行。ツアーの後、ディープ・パープルの再結成が進んで、レインボーは1984年3月の日本公演の終了後に活動を停止する事を発表。3月14日に武道館で行なわれた最終公演で新日本フィルハーモニー交響楽団と共演した模様は、WOWOWによってヴィデオ収録されてプログラム放映された[注 10]

RAINBOW#10-#12(1994年4月- 1997年5月)

1993年にディープ・パープルを再度脱退をしたブラックモアによって再結成。彼以外のメンバーはドゥギー・ホワイト(ヴォーカル)をはじめ新顔。8月にリッチー・ブラックモアズ・レインボー名義のアルバム『孤高のストレンジャー』を発表したが、日本では媒体がほとんど伝えず。1997年に解散。ブラックモアはキャンディス・ナイトブラックモアズ・ナイトを結成。

RAINBOW#13(2016年6月- )

2015年7月、ブラックモアが原点に回帰するライブ公演開催を公表し再々結成。彼以外のメンバーは新顔。新しい顔ぶれは当公演のみに限定され[27]、翌年6月、全3回のヨーロッパ公演を実施[28]。終了後、ツアーの継続を発表し、2017年2018年と断続的に公演を行なった。2019年は、フィンランドドイツスペインで公演を4回行なう予定だった。

展開

ブラックモアはディープ・パープルを脱退してディオらエルフのメンバー4名とバンドを結成した時、音楽誌のインタビューなどで度々「自分はバンドの1/5に過ぎない」と強調していた。だがリッチー・ブラックモアズ・レインボーというバンド名とアルバム名から、周囲やファンの多くは、このバンドの活動を彼のソロ・プロジェクトの延長と捉えた。

しかしバンド名をブラックモアズ・レインボーとしたセカンド・アルバムでは、ディオのヴォーカルに加えてパウエルのパワフルなドラミングを得て、彼の当初の理想だった「中世様式美系ハードロック」がある程度完成したとされ、その結果レインボーは、彼のワンマンバンドではなく3人の強力なメンバーを擁したバンドと見なされるようになった。この『三頭時代』に発表された2作のスタジオ・アルバム、1作のライヴ・アルバム、後年に発表されたビデオ『Live in Munich 1977』は、いずれも高品質の作品として評価され、日本ヨーロッパでは高い人気を博した。

しかし最大の市場であるアメリカでの売上は、それなりの成果はあったものの、ブラックモア自身が思い描いていた事とは程遠かった。そこでブラックモアはアメリカ人の嗜好に合った、より現代的でストレートなハードロック路線への転換を主張。同意できなかったディオは脱退した。新たなヴォーカリストにはキャラクターも音楽性も異なるボネット[注 11]が加入。プロデュースと曲作りに招いたグローヴァーをベーシストとしてメンバーに迎えて入れ、ポップセンスを効かせた佳曲揃いのアルバム『ダウン・トゥ・アース』を発表。ヒット曲も生まれてアメリカでの人気がいくぶん盛り上がった。が、パウエルが音楽性の変質に不満を抱いて脱退。友人の脱退に触発されてボネットも後に脱退した。

ボネットの後任にアメリカ人のターナーを迎え、よりアメリカ市場を意識してポップセンスをさらに先鋭化させた『アイ・サレンダー』を発表。音楽性の変化には賛否両論があり、肝腎のアメリカでの売上も期待された程には伸びなかったが、日本では発売から約半年後の来日時に発売元のポリドールによってゴールドディスクに認定され、従来の高い人気を保っていた。アルバムツアー終了後、エイリーが方向性の相違から脱退。

1984年、ブラックモアはグローヴァーと共にディープ・パープルの再結成に参加。レインボーは7作目のアルバム『ストリート・オブ・ドリームス』と同年3月の日本公演[注 12]を最後に活動を停止、解散する。

ブラックモアはその後約10年にわたりディープ・パープルで活動するが1993年に脱退し、ホワイトなど新たなメンバーでバンドを結成。グループ名を「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」と名乗った。しかしアメリカでは全く話題にすらならなかったアルバムを1作発表しただけで再び自然消滅的な形で解散した。

2015年7月、ブラックモアズ・ナイトで活動中だったブラックモアは、翌年6月にレインボー名義でツアーを開催すると明言[29]。同11月、オフィシャル・ラインナップを公表[30]

2016年6月、ドイツと本国イングランドで全3回のライブを実施[31]。ブラックモアは「反応次第では継続する可能性がある」と含みを残した[32]。そして実際に継続が実現し、2017年7月に英国ツアー[33]2018年には東欧ツアーを開催[34]。20数年ぶりのオリジナル曲も発表した[35]

メンバー

ギタリストは全時期を通じてリッチー・ブラックモア。それ以外のメンバーは以下の様に変遷している。

時期 ボーカル ベース キーボード ドラムス
#1 1975/5-1975/9 ロニー・ジェイムス・ディオ クレイグ・グルーバー ミッキー・リー・ソウル ゲイリー・ドリスコール
#2 1975/9-1977/2 ジミー・ベイン トニー・カレイ コージー・パウエル
#3 1977/5-1977/7 マーク・クラーク
#4 1977/7-1978/11 ボブ・デイズリー デヴィッド・ストーン
#5 1979/4-1980/8 グラハム・ボネット ロジャー・グローヴァー ドン・エイリー
#6 1980/8-1980/11 ボビー・ロンディネリ
#7 1980/11-1981/11 ジョー・リン・ターナー
#8 1981/11-1983/6 デイヴ・ローゼンタール
#9 1983/6-1984/3 チャック・バーギ
解散 1984/4-1994/3
#10 1994/4-1995/9 ドゥギー・ホワイト グレッグ・スミス ポール・モリス ジョン・オライリィ
#11 1995/9-1997/2 チャック・バーギ
#12 1997/2-1997/5 ジョン・ミセリ
#13 2016/6- ロニー・ロメロ ボブ・ヌーボー イェンス・ヨハンソン デヴィッド・キース

主なメンバーの脱退後の活動

  • リッチー・ブラックモアは、レインボーの活動を停止して、アコースティック主体のブラックモアズ・ナイトキャンディス・ナイトと結成した。
  • ロニー・ジェイムス・ディオは、ブラック・サバスに加入して更なる様式美を追求し、さらにディオを結成。ジミー・ベインがメンバーとして在籍。全米アリーナツアーを行うなど、アメリカではレインボー以上の商業的成功を収めた。2010年5月16日、胃癌により他界。
  • ミッキー・リー・ソウルは、イアン・ギラン・バンドに加入。
  • コージー・パウエルはソロやマイケル・シェンカー・グループエマーソン・レイク・アンド・パウエルホワイトスネイク、ブラック・サバス、イングヴェイ・マルムスティーンなどで活動したが、1998年に交通事故で他界。
  • グラハム・ボネットは秀逸なソロ・アルバムを残し、マイケル・シェンカー・グループでの活動を経て、アルカトラスを結成し、イングヴェイ・マルムスティーンスティーヴ・ヴァイといった著名なギタリストが世の注目を集めるのに一役買った。
  • ドン・エイリーはオジー・オズボーンのバンドやホワイトスネイクに参加した後、ディープ・パープルに加入。
  • ロジャー・グローヴァーは2024年現在もディープ・パープルに在籍。
  • ジョー・リン・ターナーはソロ主体で活動。チャック・バーギとも行動を共にし、一時期ディープ・パープルにも在籍。
  • デイヴ・ローゼンタールはセッションを主体として活動。1980年代後半には全盛期のシンディ・ローパーのバックミュージシャンとしてワールドツアーに同行し来日。2006年のビリー・ジョエルの来日公演ではチャック・バーギとともにバック・ミュージシャンを務めている。またプログレッシブ・バンドのハッピー・ザ・マンの再結成の主要メンバーとして録音に参加したり、ブラックモアズ・ナイトにアレンジャーとして参加したり、現在でも幅広く活動している。
  • トニー・カレイは、ソロ・シンガーやプラネットPプロジェクトとして活動。
  • 2008年11月、カレイ、ボビー・ロンディネリ、グレッグ・スミス、ターナーが、ブラックモアの長男でギタリストのユルゲン・ブラックモアとオーヴァー・ザ・レインボー(Over The Rainbow)を結成[36]

音楽性の変遷

1st.銀嶺の覇者 - RITCHIE BLACKMORE'S RAINBOW

実質、ブラックモアがディオらエルフのメンバーをスタジオ・ミュージシャンとして使って制作したソロ・アルバム。彼は2曲のカバー曲を除いた全曲を作り、全てのパートを各メンバーに教えてその通りに演奏することを要求したとされる。実力と音楽志向の面で彼が求めていたのはディオだけで、アルバムの完成直後に他のメンバーを解雇した。
彼が当時演奏したかった音楽を具現化したアルバムで、ディープ・パープル時代からのファンの人気曲「マン・オン・ザ・シルバー・マウンテン」、クラシカルな楽曲「虹をつかもう」や「王様の神殿」が収録されている。アメリカでもビルボード誌アルバム・チャートで30位にランク・イン、まずまずの出だしとなった。

2nd.虹を翔る覇者 - RAINBOW RISING

既に高い評価を得ていたパウエルが加入。ブラックモア、ディオ、パウエルの所謂『三頭時代』が始まる。ハードロック史上に残る傑作となり、レインボーの人気を確立させた。またビルボード誌のアルバム・チャートにおいて48位を記録、それなりの成果を挙げた。
内容的に組曲をなす「スターゲイザー」と「ア・ライト・イン・ザ・ブラック」という夫々8分以上の2曲がレコードの片面を占める大作であり、それに代表される長い演奏時間、音楽嗜好を「クラシカルなメロディとヘヴィなサウンドからなる様式美的ハードロック」に先鋭化した作品作りが特徴。ラジオの音楽番組で放送される事を前提にしていないことが伺われる。

3rd.バビロンの城門 - LONG LIVE ROCK'N'ROLL

基本的な路線には変化が無いが、それまでの大作主義からシンプルなハードロックへの移行が伺われる。明らかにアメリカ市場への乱入を狙った、ラジオの音楽番組を意識した内容となっている。だが、意に反してビルボード・アルバムチャート89位とセールス的に失敗してしまった。
スピーディなアルペジオが連続する「キル・ザ・キング」は、レインボーの全楽曲の中でも重要な曲である。ボネットとターナーに歌い継がれた「ロング・リヴ・ロックン・ロール」や前作を踏襲した大作「バビロンの城門」などを収録。

4th.ダウン・トゥ・アース - DOWN TO EARTH

アメリカ市場での売上低迷という状況を打開するために、ポップさを前面に押し出し、ストレートで現代的なハードロック路線に大きく舵を切った。グローヴァーを作曲とプロデュースに起用し、さらにベーシストとしてメンバーに迎え、脱退したディオの後任にストレートでハイテンションな声質を持つボネットを選んで音楽性を一新した。ラス・バラード作のシングル曲「シンス・ユー・ビーン・ゴーン」を巡ってはメンバー間でも収録の可否を巡って激論があった。

5th.アイ・サレンダー - DIFFICULT TO CURE

6th.闇からの一撃 - STRAIGHT BETWEEN THE EYES

7th.ストリート・オブ・ドリームス - BENT OUT OF SHAPE

ヴォーカリストがターナーに代わってアメリカ市場向け路線が一層明確になった。ターナーは大学で文学を学んだ教養溢れる人物で、彼が書く格調高くも分かり易い歌詞は楽曲のポップ化を促してアメリカのラジオで放送される回数を増やした。1984年には「メイビー・ネクスト・タイム」がグラミー賞ベスト・インストゥルメンタル部門にノミネートされた。
レインボーで最大の魅力とされてきたブラックモアのギター・プレイはアルバムを追って控えめになり、かつてアマチュア・ギタリストを虜にしたような速弾きや特徴的なクラシカルなリフなどはあまり聴かれなくなっていった[注 13]。「デス・アリー・ドライバー」のようにディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」にも負けないハイスピード・プレイや「メイビー・ネクスト・タイム」のようなギター・インストゥルメンタルもあるが、シングル・ヒットした「アイ・サレンダー」や「ストリート・オブ・ドリームス」などの楽曲においては、ギター・サウンドもギター・ソロもあまり前面に出ていない。
ここでレインボーは活動を停止。制作したスタジオ・アルバムの数は、偶然にも虹の色の数と同じ7だった。

1995年 孤高のストレンジャー - STRANGER IN US ALL

ブラックモアはソロ・アルバムのつもりであったが、市場に出すに当たってリッチー・ブラックモアズ・レインボー名義を冠せられた。ホワイトが器用に声色を使い分けて歌っていることもあり、荒削りなギター・プレイ、ギターの音色、練り込まれたアレンジ等において、ブラックモアのロック経歴の集大成的な楽曲が並ぶアルバムになっている。プロデュースはパット・リーガンとブラックモア。しかし、アメリカでは不発だった。
音楽雑誌「BURRN!」の読者人気投票で、1995年度のベスト・グループとベスト・アルバムに選ばれている。

特記

照明

デビュー当時の彼等の呼び物の一つに、虹をかたどった照明システム(以後、『虹』と記す)があった。ブラックモアはディープ・パープルに在籍していた時から、このような照明のアイデアを持っていたと言われ、電飾こそ施されていないが似た装飾が1974年カリフォルニア・ジャムでのコンサートで使われたのが映像で確認できる[注 14]

約10万ドルの費用で制作された『虹』は、高さ29ft(約9m)、幅40ft(約12m)という巨大なもので、約3,000個の電球を使用し、4分割して輸送できるようになっていた。コンピュータによって光の流れ、色合いを制御し、ステージ演出に大きな効果を生んだ。

一方、輸送費やコンピュータ制御の技術者(オペレーター)の人件費など、『虹』の必要経費の総額は膨大で、1976年のRISINGツアーの以前のアメリカを中心に行われたツアーは赤字続きだったという。また『虹』を点滅させると楽器の音にノイズが発生し易くなるといった悪影響があり、特にその影響を受けるメロトロンが使用される曲では、カレイらキーボーディストの抗議に応じて『虹』への電力が抑えられていた。

『虹』はボネットが加入した後の1979年9月に行なわれたアメリカ・ツアーから引退。理由は観客の多くがステージ上のメンバーではなく『虹』を観ていることにブラックモアが気付いて『虹』に対して脅威を感じたから[37]。1982年頃のライヴからは、『闇からの一撃』のジャケットアートをイメージした、闇に浮かぶ巨大な電光の眼が使われるようになった。

コンサートの開演と終演

コンサートの開演ではBGMとしてエドワード・エルガー威風堂々第1番が流された後、映画『オズの魔法使い』の台詞"We must be over the rainbow..."が流れてブラックモアが主題歌「虹の彼方に」の一節のフレーズを弾き出すのが定番となっていた[注 15]。終演ではジュディ・ガーランドの歌う「虹の彼方に」が流された。

その他

1979年1月27日にNHK総合テレビジョンで放送されたドラマ『阿修羅のごとく』(原作・脚本向田邦子)の第4話で、「バビロンの城門」が挿入曲として使用された。

1978年の札幌公演での事故

1978年1月27日、彼等の2度目の日本公演の際、札幌市の中島スポーツセンターで行われたコンサートで観客が死亡する事故が発生した。約5,000人の聴衆が詰め掛けていた同会場で、前座の四人囃子の演奏が終わった約1時間後にレインボーが登場すると、開演時間の遅れに痺れを切らしていた聴衆がステージ前方に殺到。将棋倒しが起こり、下敷きとなった当時19歳の女子大生が胸部圧迫のため死亡した。現場は大混乱となったが、警察からバンド側への演奏一時中止の要請は届かなかったという。

後日、ブラックモアは遺族に500万円の見舞金を送った。

当時の日本のロック・コンサートでは、指定席の観客でもステージに向かって駆け出したり前の方に詰めかけたりすることが許されていた[注 16]。この事故は当時大きくニュースで取り上げられ、警備体制を大きく変更する契機になった。

ディスコグラフィ

スタジオ・アルバム

ライブ・アルバム

  • オン・ステージ』 - On Stage(1977年)※7位(UK) / 65位(US)
  • ファイナル・ヴァイナル』 - Finyl Vinyl(1986年) ※31位(UK) / 87位(US)
  • 『虹色魔宴 (ライヴ・イン・ジャーマニー 1976)』 - Live in Germany 1976(1990年)
  • 『ライヴ・イン・ミュンヘン 1977』 - Live in Munich 1977(2006年)※2005年に発売されたDVDのリマスター盤
  • 『ライブ・イン・ジャーマニー 1976 30周年記念BOX』- Live in Germany 1976 (30th Anniversary Ed. Box)(2006年)
  • 『ブラック・マスカレード〜ロックパラスト 1995』(2013年)
  • 『レインボー ライヴ・イン・ジャパン 1984』(2015年)
  • 『モンスターズ・オブ・ロック〜ライヴ・アット・ドニントン 1980』(2016年)
  • 『メモリーズ・イン・ロック ライヴ・アット・モンスターズ・オブ・ロック 2016』(2016年)
  • 『ライヴ・イン・バーミンガム 2016』(2017年)
  • 『メモリーズ・イン・ロックII 〜ライヴ・イン・イングラン 2017』(2018年)

コンピレーション・アルバム

  • 『レインボー・ベスト』 - The Best of Rainbow(1981年)※14位(UK)
  • 『虹をつかもう 〜レインボー・アンソロジー〜』 - Catch the Rainbow: The Anthology(2003年)
  • 『ア・ライト・イン・ザ・ブラック 1975-1984』(2015年)

シングル

※日本盤シングルのみ

  • 「銀嶺の覇者」 - "Man of The Silver Mountain" (1976年)
  • 「スターストラック」 - "Starstruck"(1978年)
  • 「ロング・リヴ・ロックン・ロール」 - "Long Live Rock 'n' Roll"(1979年)
  • 「オール・ナイト・ロング」 - "All Night Long"(1980年)
  • 「アイ・サレンダー」 - "I Surrender"(1981年)
  • 「キャント・ハプン・ヒア」 - "Can't Happen Here"(1981年)
  • 「マジック」 - "Magic"(1981年)
  • 「ストーン・コールド」 - "Stone Cold"(1982年)
  • 「デス・アリー・ドライバー」 - "Death Alley Driver"(1982年)
  • 「ストリート・オブ・ドリームズ」 - "Street of Dreams"(1983年)

映像作品

  • 『レインボー・ライヴ'82』 - Live Between The Eyes(1982年)※1982年8月18日 アメリカ、サンアントニオ公演
  • 『レインボー・ジャパン・ツアー'84』 - Japan Tour '84(1984年)※1984年3月14日 日本、東京公演
  • 『ファイナル・カット』 - The Final Cut(1986年)※PV集。ジャパン・ツアー'84の一部も収録
  • 『ライヴ・イン・ミュンヘン』 - Live in Munich 1977(2005年)※1977年10月20日 ドイツ、ミュンヘン公演
  • 『ブラック・マスカレード 〜ロックパラスト 1995〜』 - Black Masquerade(2013年)※1995年10月9日 ドイツ、デュッセルドルフ公演
  • 『レインボー ライヴ・イン・ジャパン 1984 』(2015年)※1984年3月14日 東京、日本武道館公演
  • 『モンスターズ・オブ・ロック〜ライヴ・アット・ドニントン 1980』(2016年)※1980年8月16日 イングランド、ドニントン公演 ※CD盤と同梱
  • 『メモリーズ・イン・ロック ライヴ・アット・モンスターズ・オブ・ロック 2016』(2016年)※2016年6月17日・18日 ドイツ、ローレライ(17日)、同ビーティッヒハイム=ビッシンゲン(18日)※CD盤と同梱

来日公演

脚注

注釈

  1. ^ ブラックモアが1962年10月から1964年4月まで在籍していたジ・アウトローズのドラマーだったミック・アンダーウッドが結成したバンド。
  2. ^ 原曲はスティーヴ・ハモンド(Steve Hammond)作。クオーターマスは1970年5月に発表したデビュー・アルバムでカバーした。
  3. ^ ブラックモアと同じくディープ・パープルのオリジナル・メンバーであるドラマーのイアン・ペイスと、第2期ディープ・パープルのメンバーで後にレインボーに加入することになるベーシストのロジャー・グローヴァーのプロデュースで、1972年にデビューアルバムを発表。それ以後、ディープ・パープルのツアーの前座を頻繁に務めてきた。
  4. ^ ディープ・パープルはエルフを前座に、1974年11月中旬から約一か月間、アメリカ・ツアーを行なった。このツアー間に、ブラックモアとディオは「16世紀のグリーンスリーブス」を共作し、グルーバー達と録音した。
  5. ^ 公式発表は同年6月。
  6. ^ 「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」と「16世紀のグリーンスリーヴス」も収録された。
  7. ^ ディープ・パープル時代にリフ作りの名手と呼ばれたブラックモアの面目躍如ともいえる「銀嶺の覇者」は、レインボーの代表曲になった。
  8. ^ カレイは新作の製作が始まった1977年6月頃までは、バンドに帯同していた。
  9. ^ ストラーチェは、この後直ちにクロークスに加入した。
  10. ^ 一部はプロモーション・ヴィデオを編集した『The Final Cut』に収録。
  11. ^ ブラックモアは最後までボネットのショート・カットの髪とスーツ姿が気に入らず、彼の頭をギターで殴ったなどという伝説も残っている。
  12. ^ 14日の最終公演を収録したビデオが発売された。
  13. ^ ライヴにおいてはその限りではない。
  14. ^ この装飾はヘッドライナーエマーソン・レイク・アンド・パーマーのステージにも設置されている(DVD"Beyond The Beginning")。詳細は不明。
  15. ^ ボネット在籍時(1979年4月 - 1980年8月)では、「虹の彼方に」のイントロダクションは演奏されなかった。
  16. ^ この事故の6年前の1972年7月24日、甲子園球場で行なわれたエマーソン・レイク・アンド・パーマーのコンサートで、アンコールでカール・パーマーがドラム・ソロが披露している時に、観客の一人が客席の前のフェンスを乗り越えてステージに向かって走り出した。それを見た多くの観客が連鎖反応を起こして同様にステージの前になだれこんで収拾がつかなくなり、会場側が強制的に電源を切ってコンサートを中止させるという事態が起こった。この時には死者も負傷者も出なかったためか、警備体制の見直しには至らなかった。
  17. ^ 開演直後に観客席で将棋倒しが発生して大学生1人が死亡した[38]

出典

  1. ^ a b c Rivadavia, Eduardo. Rainbow | Biography & History - オールミュージック. 2020年11月14日閲覧。
  2. ^ Blackmore’s touring lineup revealed”. ClassicRock. TeamRock. 6 November 2015閲覧。
  3. ^ Popoff (2016), p. 71.
  4. ^ Popoff (2016), p. 172.
  5. ^ ブラックナイト リッチー・ブラックモア伝 第8章ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー P202
  6. ^ Popoff (2016), pp. 113, 117, 118.
  7. ^ Popoff (2016), pp. 172, 173.
  8. ^ Popoff (2016), pp. 174, 175.
  9. ^ ブラックナイト リッチー・ブラックモア伝 第8章ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー P205
  10. ^ Popoff (2016), p. 170.
  11. ^ ブラックナイト リッチー・ブラックモア伝 第8章ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー P210
  12. ^ Popoff (2016), pp. 180, 182, 184.
  13. ^ Popoff (2016), pp. 188, 189.
  14. ^ Popoff (2016), p. 191.
  15. ^ Popoff (2016), p. 194.
  16. ^ Popoff (2016), pp. 197, 198, 200, 201.
  17. ^ Popoff (2016), pp. 201, 202.
  18. ^ Popoff (2016), p. 207.
  19. ^ Popoff (2016), p. 208.
  20. ^ Popoff (2016), p. 211.
  21. ^ Popoff (2016), pp. 214, 223.
  22. ^ Popoff (2016), p. 214.
  23. ^ Popoff (2016), pp. 214, 223, 224.
  24. ^ Discogs”. 2024年1月6日閲覧。
  25. ^ レインボー、1980年<モンスターズ・オブ・ロック>ついに登場 - BARKS
  26. ^ Discogs”. 2024年1月6日閲覧。
  27. ^ リッチー・ブラックモアのハードロック回帰は限定的、新生レインボーでワールドツアーやアルバムはないと発言 - amass
  28. ^ リッチー・ブラックモアズ・レインボー、いよいよ初ライブ - BARKS
  29. ^ リッチー・ブラックモア、ついにレインボー&ディープ・パープル公演 - BARKS
  30. ^ リッチー・ブラックモア、ロック公演のラインナップを発表 - BARKS、新生リッチー・ブラックモアズ・レインボーが初のオフィシャル・バンド写真を公開 - amass
  31. ^ 夢にまで見た、これが新生レインボー - BARKS
  32. ^ リッチー・ブラックモアズ・レインボー、「Burn」をプレイ - BARKS
  33. ^ 予想と期待を裏切るリッチー・ブラックモア”. BARKS (2018年4月20日). 2018年5月19日閲覧。
  34. ^ レインボー、昨年を上回る好パフォーマンス”. BARKS (2017年6月19日). 2018年5月19日閲覧。
  35. ^ リッチー・ブラックモアズ・レインボー、新曲を配信”. BARKS (2018年3月11日). 2018年5月19日閲覧。
  36. ^ 元RAINBOWのメンバーと、RITCHIE BLACKMOREの愛息・JURGENが新バンド〈OVER THE RAINBOW〉を結成 Bounse.com 2008年11月19日閲覧
  37. ^ エルフの元ローディーだったレイモンド・ダダリオの証言 シンコー・ミュージック・エンタテイメント:ブラック・ナイト/ リッチー・ブラックモア伝 Chap11 P257
  38. ^ ロック狂乱、女子大生死ぬ 将棋倒し八人ケガ 満員の聴衆舞台に殺到『朝日新聞』1978年(昭和53年)1月28日朝刊、13版、21面

引用文献

  • Popoff, Martin (2016). The Deep Purple Family Year By Year Volume One (to 1979). Bedford, England: Wymer Publishing. ISBN 978-1-908724-42-7 

参考文献

  • シンコー・ミュージック刊(リッチー・ブラックモア・レインボー編 ISBN 4-401-61202-7
  • シンコー・ミュージック・エンタテイメント / ジェリー・ブルーム著 [ブラック・ナイト] リッチー・ブラックモア伝 ISBN 978-4-401-63159-9
  • Davies, Roy (2002). Rainbow Rising: The Story of Ritchie Blackmore's Rainbow. Helter Skelter. ISBN 978-1900924313 
  • Popoff, Martin (2005). Rainbow: English Castle Magic. Metal Blade 
  • Bloom, Jerry (2006). Black Knight: Ritchie Blackmore. Omnibus Press. ISBN 978-1846097577 
  • Bloom, Jerry (2009). Long Live Rock 'n' Roll Story. Wymer Publishing. ISBN 978-0-9557542-2-7 

関連項目


「レインボー (バンド)」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「レインボー_(バンド)」の関連用語

レインボー_(バンド)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



レインボー_(バンド)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのレインボー (バンド) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS     

iiq_pixel